オヤジギャグの華

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その10 ゾルゲは二度死ぬ

オヤジギャグの華

「大変だ」私はうめく。「原宿駅が取り壊される!」
「え、そんな!」ガールフレンドのコジマが言う。
「オリンピックの直後に壊すんだって」。気分が悪くなってくる。「東京はどうなってるんだ、都市の遺産と歴史を破壊して?」
 消滅の危機に瀕した建造物に、私たちは敬意を表しに出かけていく。小ぶりの優美な姿、一九二〇年代「田舎風」幻想。白色と、木の味わい深い茶色の……バイエルン風チューダー様式とでも言おうか? 実に東京らしく(かつての東京らしく?)、場違いな温かみが周りのガラス、コンクリート、ネオンと対照を成している。
 そして駅前の橋には、かつて私たちが初めて東京に来たとき、人目を惹くコスプレ・ガールたちがたむろし、ポーズを取っていたものだ。「覚えてるかい、僕がさ、モコモコの黄色いコート着て怖い顔した青い髪の女の子と一緒に写真撮ったこと?」私はコジマに向かってため息をつく。
「原宿のコスプレ・ガールなんてもういないのよ、おじさん」コジマがからかう。「もうずーっと前から、みんなユニクロで服買ってるのよ」
 だがノスタルジアに駆られたのは二人とも同じ。私たちはふたたび、ホテル・ニューオータニ裏の歴史的庭園をそぞろ歩く。ホテル自体も、いささか改装されたとはいえ、六〇年代モダニズム東京の愛すべき名残りである。十年前に来たときはここに泊まったのだ。そしていま、高い木々や趣向を凝らした丸石や瞑想的な茂みのあいだをくねくね上下する小径を私たちはさまよう。やがて年配の、だが精悍な紳士の銅像の前で立ちどまる。ホテルの創立者、大谷米太郎。
「覚えてるかい、大谷さんは相撲とりだったんですよって言われたこと?」私は微笑む。「その発音がモウじゃなくて、日本式にスウだったものだから、何のことだかわからなかったよね」
「そうよね、おじさん」コジマがまたからかう。「ほらほら、そんなセンチメンタルな間抜け面しないで!」
 こっちが涙もろくなると、コジマはいつも思わぬやり方で突いてくる。私はうなり声を漏らし、仕返しに彼女の手をぎゅっと握る。彼女はギャッと叫んで私の腕を叩く。
 やがて私たちは静かになり、庭園の滝のそばの、紅色の木の橋を渡る。頭上には長方形のタワーがそびえ、レストランがてっぺんで円を描き、あとから建った別館タワーの、官能的なカーブを描くファサードが見える。
「ニューオータニが『007は二度死ぬ』に出てくるのは知ってるよね。あの中身カラッポの六〇年代ボンド映画の悪の権化、大里おおさと化学工業の本部がここにあるんだ」。私たちはもうホテルの中に入っていて、はてしない中央通路をのんびり歩いている。どこもいい感じに古びたカーペットが敷かれ、柱は幅広く、模様は抽象的な日本風。巨大なダイニングエリアの前を私たちは通る。席は静かに半分埋まっていて、磨き込まれた床や壁が、影や観葉植物に囲まれてほのかに光る。大きな窓は外に広がる庭園の緑に満ちている。
「トイレ行きたい」コジマが言う。
「僕も」
 探してみるが、これがなかなか見つからない。やっと洗面所の標識が見えて、薄暗い狭い廊下を私たちは下っていく。
 男子トイレから出てくると、廊下はさっき通ってきたところと、何だか違って見える。
「あれ? コジマ?」私は呼んでみる。
 どこかのドアから彼女が出てくる。「ねえちょっと、この廊下でいいの?」
 ためしに少し進んでみると、ふたたび中央通路に出る。
 だよね?
 この通路も何となく違って見えるのだ。さっきより暗くないか? ふたたび広いダイニングエリアが見えて、さっきのと一応同じに見える――ただしこっちは人けもなく、一人ぽつんとディナーを食べている人物がいるのみ。
「ありゃりゃ」私はごくんと唾を呑む。「あの人、ちらちらしてる」
「えー何、また幽霊じゃないでしょうね!」コジマが不満げに言う。
 私は彼女の言葉を無視する。私の目はソーサーみたいに大きくなっている。
大変だあれイアンフレミングだ……!」
「まっさかぁ」
ほんとだよ! 僕、あの人の見かけ知ってるんだ、あの蝶ネクタイ。ミスター……ミスターフレミングですよね?」私は近づいていきながら呼びかける。
 幽霊は皿から顔を上げる。手には日本酒のガラス徳利。「そうだ」彼はため息をつく。「サインはお断りだ」こわばった口調で釘を刺す。
「ええもちろん、失礼失礼」私は媚びるように言う。「いや、いまちょうど話してたんですよ、あの素晴らしい映画のこと、あなたのご本『007は二度死ぬ』が原作の!」
「あの中身空っぽのクズのことか?」フレミングは鼻を鳴らす。「こんなふざけた代物があるかって脚本を、ロアルド・ダールが書きやがったんだ! あれが世に出たときに生きていなくてよかったよ!」
 そう言って彼は顔をそむける。
「正直な話、まさかこのホテルでお目にかかれるとは思いませんでした」冷ややかなあしらいにもめげず私はなおも言う。「六〇年代前半にいらしたときは、オークラにお泊まりじゃありませんでしたっけ?」
 相手はこっちを向き直る。「そうだ。だがオークラは最近、あの素晴らしいモダニズムをぶち壊してしまった。トレードマークのロビーはほぼ全面的に再現したと聞いた。だがそうは言っても
「そうは言っても……」私はオウム返しに言う。
 かくも苦々しい、憂鬱な喪失を想って、私たちは二人とも首を横に振る。
「それって広島のカキですか?」コジマが突然、私の肩のうしろからフレミングの皿を覗き込みながら甲高い声を上げる。
「いかにも!」フレミングは答える。さも勿体ぶった様子は、どうやら我こそは食通なりと思っている様子。「少し大ぶりすぎるが、汁は実にたっぷりある」
 ひとつもらっていいですか、とコジマは恥じらいもなく訊く。しーっ、と私は止めるが、フレミングは好きに食べろと手ぶりで伝える。彼女はひとつを手にとり、ズルズル音を立てて吸う。
「ここへは観光で?」フレミングは私に訊く。スパイらしいすばやい、値踏みするような目で私たちを頭から爪先まで見る。
 コジマはフードライターなんです、僕もライターですが食べ物については書きません、と私は説明する。「今回はご休暇ですか?」とこちらも訊いてみる。
 下らん紀行文を書いてるのさ、筆が鈍ってもいかんから、と彼は答える。「日本床屋協会の妙な機関誌に頼まれたんだ」フレミングは嘲って言う。「昔書いたのを、適当に焼き直すさ」
 私は息を呑む。「『オヤジギャグの華』ですか? 僕もあの雑誌に頼まれて書いてるところなんですよ!」
「いいや、こっちは『Adventures in Barberism(床屋の冒険)』だ。馬鹿馬鹿しいタイトルだ」〔barberism(床屋であること)とbarbarism(野蛮な生き方)とを掛けた駄洒落〕
「幽霊かもしれない床屋にお会いになりませんでしたか、東京タワーの近くで?」
「いいや、交渉はタイガーがやってくれたから。お、タイガー!」
 昔の四角ばったスーツを着た、がっしりした日本人の男が観葉植物の陰からちらちら明滅しながら出てくる。
「私の親友、タイガー斎藤だ」フレミングが言う。「朝日新聞の一流記者、何もかも知っている東京ガイド、『007は二度死ぬ』日本人スパイの親玉タイガー田中のモデルだ。気をつけろよ、柔道の大家だから!」

その10 ゾルゲは二度死ぬ

「『オヤジギャグの華』?」お辞儀を済ませたあとに斎藤が言う。「聞いたことないですねえ。誰かにからかわれたのでは?」。ニタッと笑う。「でも東京のことをお書きになるんでしたら、二〇二〇年のオリンピックもあるし、我々の特別プロジェクトのこと、ぜひ知っていただかないと。奇跡のテーマパークなんです、これ」言葉に熱がこもる。「この街が六四年のオリンピックに向けて遂げた驚異的な変容を体験できるんです! このホテルも、オークラも、巨大なプリンスホテルも、かつてのヒルトンも、みんなオリンピックの訪問客を受け容れるために建設中だったんです」。彼は声を上げて笑う。「訪問客の予想は三万人――いまとは違うでしょう? 地下鉄も新たに二つ路線が建設中でした! そこらじゅうで高速道路が出現していた! 新しい住宅も! 私たちのテーマパークにはですね、短期間で禁止されてしまった屋台まで揃ってるんです。みんな屋外に並んでます。ちょっと覗いてみますか?」
「わぁ、すごい!」コジマが叫ぶ。「行きましょうよ!」
 カキを堪能しているフレミングを置いて私たちはその場を去る。タイガーの手際よい先導でラウンジを抜け、凹凸おうとつガラスの扉が並んだ前に出る。
「さ、いいですか?」そう言ってタイガーはニヤッと笑う。「強烈な体験になりますよ!」
 私たちは外に出る――人がひしめきあう、建築と交通の混沌に満ちたストリートシーンへ。たちまち杭打ち機の轟きやクラクションの響きが私たちを呑み込む。「タクシーをつかまえないと!」タイガーが叫ぶ。と、すさまじい悪臭が襲ってくる。濡れたセメントと、下水の汚物のおぞましい混合。
「げぇ!」コジマが奇声を上げる。そして自分の喉を掴む。顔が歪んでいる。においには至って敏感なのだ。「くさいぃ――」彼女は口から泡を吹き、身をよじらせ、いまにも吐きそうだ。「あたし、中に戻る!」喘ぎあえぎ言う。
 コジマはよたよたとガラス扉を通っていく。私もよたよたとあとについて行く。
 テーマパーク内覧もこれでおしまい。
「当時の東京はですね、水洗便所の数も限られ、下水道も完備していませんでした」タイガーの講釈を聞きながら私たちはラウンジでゼイゼイ喘いでいる。「それにあれだけの建築工事です、もう街じゅうが臭ってましたよ!」
 タイガーはあははと笑う。
 と、野太いうなり声が聞こえて、大柄でがっしりした年配の日本人男性が、のっしのっしと、抽象的なラウンジ彫刻の陰からゆらめく体で出てくる。
 男は相撲とりのまわししか着けていない。
「下がって!」タイガーが私たちに叫ぶ。
 乱入者がタイガーに襲いかかる。タイガーをがっちり抱え込んで持ち上げ、くるっと身を翻し、タイガーをジャガイモ袋みたいに投げ上げる。タイガーはどさっと、革と金属のモダニズム風カウチに墜落する。コジマと私は縮み上がって壁に貼りつく。タイガーがよろよろと起き上がる。敵に突撃し、まわしを掴んで、技を駆使して腰投げを決め、相手は重々しく側転し――ドスン!――床に倒れ込む。乱入者は懸命に立ち上がり、ふたたびタイガーに襲いかかって、彼をモダニズム風コーヒーテーブルに突き飛ばす。テーブルが宙に舞う。相手はいま一度、タイガーにとどめを刺そうと迫っていくがタイガーも必死に床を転がり、パッと跳ね上がって、別の抽象彫刻を掴んで相手の頭に叩きつける。大柄の襲撃者はよたよたとガニ股で座り込み、朦朧としている様子。
「わぉ、これって『007は二度死ぬ』のあの格闘シーンみたいですね」私は賛嘆して言う。
「あのお爺さん、どっかで見たわよね」コジマが言う。
 タイガーが手を貸して襲撃者を立たせてやる。二人はたがいに一礼し、相手の背中をぽんと叩く。それから大柄の年配男性は、どこから出してきたのか浴衣を羽織り、ぱたぱたと立ち去る。
「そうなんです、かの大谷さんと私とで、体をなまらせないために、ちょくちょく『007は二度死ぬ』の格闘シーンを再現してみるんです」タイガーがまだ息も荒く言う。「ときどきは向こうにも勝たせてあげないといけません、まあやっぱり――」
 外で突然オートバイの爆音が響きわたり、タイガーの声はかき消される。轟音が止んで、ガラスの扉がパッと開く。長身に革ジャン姿の、幽霊のような人物が入ってくる。男は足を引きずって歩く。日本人ではなく、ドイツ人のようにも、スラブ系のようにも見える。
 タイガーが男に挨拶する。日本語の流れのなかで「リヒャルトさん」という名が聞こえる。
 コジマが口をあんぐり開け、目を丸くする。
「リヒャルト・ゾルゲだ!」彼女がキーキー声で言う。「ソ連のスーパースパイ! 史上最高のスパイ! 第二次世界大戦前にこの国で活動していて、日本軍に捕まって、四四年に絞首刑になったのよ、スターリンがこんな人間は知らないって見捨てたからよ――この人の諜報活動がロシアと世界を救ったのに!」。コジマはモスクワで、ブレジネフ政権時代に生まれたのだ。“Мистер Зорге-товарищ! Какая честь!”彼女はゾルゲに向かってまくし立てる(「ミスター・ゾルゲ――同志! 光栄です! 私の祖父はソビエト軍所属の歴史家で、フルシチョフがあなたの名誉を回復したあと、モスクワにあったあなたの文書を管理したんです!」)。
 ゾルゲの幽霊がくるっとふり向く。その顔は野蛮にハンサムで、放蕩感が漂う。“Ну, Хрущев сделал 《олимпийский》 жест,”彼は嘲笑って鼻を鳴らし、アルコール臭の息が飛び出してくる。“Признать меня за месяц до 64-х Олимпийских игр, через 20 лет после того, как я болтался на веревке.”(「ま、たしかにフルシチョフは堂々たる対応オリンピアン・ジェスチャーをしてくれたよ。首を吊られてから二十年後の、六四年オリンピックの一か月前に、私の名誉は回復されたんだから」)
「で、お気の毒な出来事ではありましたが、東京はお好きでしたか?」私は訊いてみる。ひょっとしたらお門違いな問いかもしれない――何しろこっちは二人のロシア語が一言もわからないのだから。
「何て質問だ!」ゾルゲが英語で言い、ふんと鼻を鳴らす。「君何者だ、ジャーナリストか?」
 連載中の物語を私は説明する。
「いや実は、この街が大好きだったよ。あのころ」ゾルゲは声を押し殺して言う。「年が明けたばかりのあの日々、素晴らしい色彩、日本人たちのいじらしく幸せそうな様子、銀座の騒々しさ――みんなドイツ人ジャーナリストの隠れ蓑を使って『フランクフルター・ツァイトゥング』で書いたとおりだ。そうそう、『あの日々』と言えば、なあタイガー」今度は斎藤に英語で話しかける。「あんたのテーマパークの臭い、ちょっとばかし強すぎないか? あんたが新しく作った日比谷線、下水道のトンネルに食い込んでるのが見えたぞ。さ、もう行かないと、スパイ同士のお喋りがしたくてうずうずしてるフレミング坊やを待たせちゃいかんから」
 そっけなく手を振り、足を引きひきゾルゲは立ち去る。
 タイガーがにこやかに笑う。「じゃあ私も失礼しますよ。ゾルゲさんの『諜報』に対処しないと」。彼は私たちにお辞儀する。そしてガラス扉を半分出たところで、セメントと泥と思しきものをたっぷり浴びる。悪態をつき、厳めしい顔で私たちの方を向いてニッコリ笑い、今度こそ立ち去る。
 本物のホテルの通路にやっと戻っていく途中、酒を飲みながら親密に話し込んでいる二人のスパイ幽霊の前を私たちは通りかかる。私たちは手を振る。彼らは私たちを無視する。
 オータニのメインロビーで、私は雷に打たれたように立ちどまる。日本人の女の子二人がセルフィーを撮っている。一人は歯を剥いて、青い髪、明るい黄色のユニクロのパーカを着ている。
「僕の原宿ガールだ!」
「何言ってんの、違うわよ」鼻息も荒く言い捨てるコジマは、歩みを緩めすらしない。

つづく
FLOWERS OF OYAJI GYAGU by Barry Yourgrau
Copyright(C)2020 by Barry Yourgrau
波 2020年2月号より

著者紹介

バリー・ユアグローBarry Yourgrau

南アフリカ生まれ。10歳のときアメリカへ移住。シュールな設定ながら、思いつきのおかしさだけで終わるのではなく、妙にリアルで、時に切なく、笑えて、深みのある超短篇で人気を博す。敬愛する作家・アーティストはロアルド・ダール、北野武ほか、また「ヒッチコック劇場」「トワイライトゾーン」などのTV番組にも大きな影響を受けたという。著書に『一人の男が飛行機から飛び降りる』『セックスの哀しみ』『憑かれた旅人』『ケータイ・ストーリーズ』(以上、柴田元幸訳)『ぼくの不思議なダドリーおじさん』(坂野由紀子訳)などがある。

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