オヤジギャグの華

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その16 寅さんミニミニマラソン

オヤジギャグの華

 真夏の東京。
「暑くて蒸しむしする!」ガールフレンドのコジマがうめく。ロシア人なので、このうだるような天気はひどく堪えるのだ。
「これでオリンピックに最適の気候って言ってたんだぜ!」私はニヤッと笑う。皮肉を吐いても思いは苦い。私はため息をつく。「オリンピックも延期になって、気の毒に! いろいろ困った影響はあっても、みんなすごく楽しみにしてたのに。それでいまは、あの一九六四年の東京オリンピックをやたらと懐かしがってるよね。まああのときは十月だったけど」
 真夏はお盆の季節でもある。というわけでは今夜は、いろんなノスタルジーを絡めたお盆の催しに私たちは出かける。私のエージェントで友人のジュンゾーから、かの渥美清の幽霊が、寅さんの故郷柴又に「オリンピック特別出現」すると聞かされたのだ。
 いつもは幽霊にさして興味のないコジマだが、最近は少し変わってきた。それにいまはお盆の季節、ここは幽霊しかない。
 まだ暑い夕暮れどき、私たちは地下鉄の駅に向かう。
「もう耐えらんない!」コジマがマスクのなかからぼやく。早くも額に汗が浮かんでいる。「あたし、新しいクーリング・アプリ試してみる!」
「何だよ、クーリング・アプリって?」
 と、彼女のスマホから、泡みたいな霧がブクブク出てくる。霧は身の毛もよだつ女の幽霊に変容する――長い白い着物、紐みたいなのびすぎた黒髪、そしておぞましく損なわれた顔。女はぞっとする叫び声を発する。
 私は怯えて悲鳴を上げながらあたふたと後ずさる。コジマはスマホを握りしめて身をすくめる。恐ろしい幽霊はゆらゆら揺れて、金切り声を上げる。
めろ、止めろ!」私は叫ぶ。
 見るも恐ろしい霊は、やっと消えていく。
「新しいアプリなのよ、クール・ウィズ・オイワっていうの」コジマが喘ぎながら言う。「有名な怪談の主人公が出てきて、ゾッとするから涼しくなるはずなのよ。まさかこんな――」
「そんなもの、削除しろよ!」私は口から泡を吹く。「まったく、心臓が破裂しそうだよ!」
「わかった、わかったわよ!」
 ジュンゾーは柴又駅の寅さん像の前で待っている。おなじみの中折れ帽、野暮ったいダブルの上着、草履姿の柴又のアイドル。草履の片方はみんなが幸運を祈ってさするものだから、すっかりてかてかだ。手にはボロボロの小さな行商用トランク。
 郷愁を誘う古めかしい木造の小売店が並び、自転車が行き交う街並をジュンゾーに連れられて歩き出しながら、私たちはさっそくかき氷を買う。寅さんの親戚がここで団子屋をやっていたのだ。もちろんいまでは観光地化してしまったが、どこか温かい感じも残っている。前方には寅さんが産湯に浸かった帝釈天がそびえている。昔ながらの迎え火の代わりに、帰ってきた幽霊たちを提灯ちょうちんが迎える。
「寅さんは日本中を回っていたんです。ちょっとしたマラソンですよね」ジュンゾーが説明してくれる。「それで渥美さんの霊がお盆にここに帰ってきて、ミニミニマラソンを走るわけです。まあ気のいいジョークですね、日本が銅メダルをとったあの一九六四年オリンピックのマラソンを懐かしんで。こののぼり、どれも『ようこそ、寅さんのミニミニマラソンに! 一九六四年に乾杯』って書いてあるんですよ」
 幟にはどれも、帽子の下でニタニタ笑う渥美清の四角い顔。
 熱心で元気一杯の、だが用心を忘れないマスクに浴衣姿が並ぶ人波のなかを、私たちは寅さんの「実家」の団子屋へ向かう。名物の草団子と、ベトベトのみたらし団子が待っている。
「うーん、日が暮れてきましたね」しばらくしてジュンゾーが言う。「寅さん、今年は遅いなあ」
 店の外で人々はあちこちをきょろきょろ見て、肩をすくめる。
「じゃあ何か別の団子試してみましょうよ!」フードライターのコジマが言う。ジュンゾーがカウンターにいる、寅さんの耐え忍ぶ妹さくらにそっくりの女の子にスケジュールを問い合わせている。
「えー、もう一ダースは食ったぜ」と私。
「あたしのフードリサーチ、邪魔しないでよ!」コジマが鼻を鳴らす。そして私を睨む。「誰もあんたに無理に――」
 と、彼女のスマホから霧がもうもうと舞い上がる。幽霊お岩がふたたび現われる。身も凍る叫び声。
 人々は悲鳴を上げ、逃げまどい、カウンターの女の子もあわてて身を隠す。
「いやあ、怖かったですねえ」やっと幽霊が消えていくとジュンゾーが言う。「僕の心臓、ガンガン鳴ってますよ!」
「アプリ、削除したんじゃなかったのかよ!」私はコジマを叱る。
「したわよ!」彼女もわめく。
 私のスマホが鳴る。友人の、ポップカルチャー、ローブラウカルチャー通の都築響一だ。「浅草に来いよ渥美清いるぞ!」
「浅草?」ジュンゾーが戸惑って言う。

 新宿と渋谷に主役の座を奪われるまで、一九五〇年代、六〇年代は伝統的娯楽のメッカだった浅草。
「このへん、ストリップ劇場や演芸場がたくさんあったんですよね」とジュンゾーが言う。私たちは消毒薬が撒かれたエレベータに乗って、今日では東洋館と呼ばれる演芸場ビルの上方の階へ向かう。
 Tシャツ姿の気のいい仏陀という風情の響一に連れられて、私たちは小さなクラブに入っていく。煙たくて薄暗くて、内装はいかがわしく派手。「ここ、フランス座を特別に再現したんだよ、有名な古いストリップ劇場の」響一が講釈してくれる。「ここから出発した大物コメディアンけっこういるんだよ、ビートたけしとか。ほら、いまも舞台に」
 小さな舞台の上に、偽のオリンピック表彰台が置いてある。ほぼ裸の若い女性が三人、ハワイアンギターがかろうじて聞こえる古いポップスに合わせて腰をくねらせている。偽のオリンピックメダルが乳首の前にぶら下がっている。
 音楽がほとんど聞こえないのは、女の子たちの横で幽霊っぽいコメディアンが喋りまくり、騒ぎ立てているからだ。不思議なことに、その姿は内なる悪霊と闘っている者のように見える。だいぶ酔っ払っているみたいだ。
「あれっ、渥美清だ――寅さんだ!」私は素っ頓狂な声を上げる。
 ただしその服装は、昔のチンピラの何とも安っぽい格好。白黒ストライプの角張ったスーツ、黒いシャツ、白がやたら派手なフェルト帽をてかてかの頭にはすにかぶっている。足にはツートンカラーの靴!
「うん、渥美の幽霊だよ」響一がくっくっと笑う。「ここでコメディアンとして出発したんだ。いま来たばっかりみたいだね。いつもいつも愛すべき寅さんでいるのはうんざりだって言ってるよ! だからやたらわざと下品に、無礼にふるまってる。若かったころのチャチなチンピラに戻りたいのさ!」

その16 寅さんミニミニマラソン

「うーん、柴又の皆さんがっかりしますよねえ、来なかったら」ジュンゾーが声を上げる。
 渥美清はいまや淫らに腰をくねらせている。向こうが見えそうで見えないメダルを着けたストリッパーたちの前で、ぶざまに腰を突き出し、引っ込める。
「あの人、可愛いじゃない!」コジマが言い、響一にもらった団扇で盛んに顔を扇ぐ。「ここ、暑いわねえ――ちょっと、何ストリッパーに見とれてんのよ?」突然私の方を向いて言う。
「見とれてなんかいないよ!」私は嘘をつく。
「壇の上に乗ってる綺麗な背の高い女の子、安藤永子の若いころの幽霊だよ」響一が私に耳打ちする。「ここでストリッパーやってたのが、『黒船』でジョン・ウェインと共演したんだ。ほらあそこにいる、見えるかい?」
 何と、本当にいる――ジョン・ウェインの堂々たる幽霊が、観客の陰にひそんで……見とれている。私に見られているのに気づくと、舞台に向けて急いで投げキスを送り、顔を隠して、消える。
 やがて、客席から生きた若い女性が何人か、マスク越しにどなり、邪魔だと言わんばかりに渥美清を手で追い払おうとする。
「最近じゃ若い女がストリップ見にくるんだよね」響一がニヤッと笑う。「みんなすごく好き嫌いはっきりしててさ! 年配の男の幽霊は落ち着かないよね」
 声を上げて文句を言う女たちを、渥美清は露骨にあざける。うしろを向いて体を曲げ、彼女たちに向かって屁をこく真似をする。
 幽霊っぽい年配の紳士が席から立ち上がり、何か叫ぶ。みんながそっちを向く。
「寅さんの科白だよ」響一が笑う。
俺が芋食ってお前の尻からプッと屁が出るか?」ジュンゾーが笑いながら訳してくれる。
 私は思わず立ち上がる。「あいつ、知ってる!」私はあわてふためく。「あの床屋だ――消えた年配の床屋、僕に床屋の会報の『オヤジギャグの華』に原稿を依頼した床屋だ!」〔※連載第1回参照
「痛い! 足踏まないでよ!」コジマがわめいて、私を団扇で叩く。
「ごめん! でもあの幽霊――」
 コジマのスマホから霧が出て私の言葉をさえぎる。おぞましいお岩が飛び出す――そして泣き叫ぶ。
 悲鳴が上がり、みんな逃げ出そうとして場内は修羅場と化す。
 私は押したり突いたり、やっと見つけた床屋のところに行こうとあがく。だが相手はもうそこにいない。大騒動のなか、どこにも見あたらない。
 またも消えた……。
 私は首を振りふり席に戻っていく。驚いたことに、渥美清が舞台から降りてきていて、ジュンゾーに通訳してもらってコジマと話し込んでいる。
「ねえこの可愛い扇風機、キヨシさんにもらったのよ」コジマが私に言う。縁日などで売っているたぐいの、安物の電池式扇風機で顔を冷やしている。
 私が現われて渥美清は残念そうだ。ジュンゾーに何か訊く。
「あなたとコジマさんは、その、一緒なのかって訊いてます」ジュンゾーが通訳する。
 私の答えを聞いて、渥美清はひどくがっかりする。
「寅さんらしいなあ――いつも失恋!」ジュンゾーが優しい声で呟く。懐かしげに微笑み、ため息を漏らす。「柴又の人たち、気の毒に――渥美さんに会いたいのに!」
 こう言われて、渥美清はますますみじめな顔になる。「柴又!」酔いの悲しみに包まれて彼は叫ぶ。
「ねえ、ほんとに行った方がいいわよ」コジマがその肩を叩きながら言う。「行ったら気分も晴れるわよ。お盆だもの!」

 提灯のともる柴又に私たちは戻っていく(響一はリサーチがあるので浅草に残る)。渥美清は辛抱強く待っていたファンの群れに手を振るが、人々の返す喝采には迷いが混じっている。見慣れない服装に戸惑っているのだ。
「寅さん! 寅さん!」と渥美清は自分で叫び、うなずいて己の胸を叩く。募る思いに頬が濡れている。
 群衆はいっせいに歓喜の声を上げ、「寅さんミニミニマラソン!」の旗を振る。
 ストライプの上着にゼッケンを付けてもらいながら、渥美清は差し出された団子を頬張る。ゼッケンには彼の愛らしい笑顔が描かれ、「一九六四年に乾杯!」とスローガンが入っている。やがて彼は、偽のスタートラインに立つ――服はチンピラ上着、白いフェルト帽、ツートンカラーの靴のまま。
「位置についてレディ!」と彼は英語で叫ぶ。
 帝釈天の周りの道を走って戻ってくるのだ。要するに絶好の撮影タイム。
 どこからともなく、幽霊のような姿が飛び出してきて、寅さんと並んでスタートラインに立つ。観衆が息を呑む。往年のランナー服を着た日本人の若者だ。白地に斜めのストライプが二本、小さな日の丸のかたわらに入っていて、下は短パン。番号は77。
「おいあれ、六四年に三位になったマラソン選手じゃないか?」と私は問う。
「そうです、円谷幸吉です!」ジュンゾーが叫ぶ。「二位になれなかったことが元で命を断った――そして寅さんよりも大きな傷心を抱えていたために!」
 渥美清はギョッとして、目を見開く。それから、本気を出してスタートの構えに入るが、やがてまた体を起こす。目に涙を浮かべて、円谷を抱きしめる。
「そうだよ、男はつらいよ!」と彼は叫ぶ。
 円谷も涙ぐんで抱きかえす。群衆もやはり涙ぐんで喝采を送る。
 と、渥美清が身を振りほどき、若きマラソン選手の幽霊を、そして私たちみんなを導いて、一緒に悦ばしい盆踊りをはじめる――歌は「炭坑節」。円谷と二人で、シャベルで石炭をすくう身振り。それから、寅さんが叩き売りで使う、バンバンと台を叩くしぐさ。
「四角四面は豆腐屋の娘、色は白いが水くさい!」と二人は無茶苦茶な胴間声を愉快げに合わせて寅さんの科白を叫ぶ(ジュンゾーが訳してくれる)。
 二人は踊って進み、私たちもあとに続き、そばの江戸川の土手まで降りていく。幽霊っぽい漕ぎ手が乗った幽霊っぽいボートが待っている。チンピラ服の渥美清と、短パンの円谷幸吉が乗り込み、彼らが手を振るなか、ボートはゆっくり暗い川を渡ってあの世へ戻っていく。私たちの周りの人々が、帰る者の行く手を照らすべく灯籠を川に流し、それらがさながら大きな蛍のようにひょこひょこ揺れる。もっと明るい蛍のように、無数のスマートフォンが岸辺で点滅する。
「バター!」と渥美清の声がカメラの方に届く。
「チーズ!」と群衆が正しく返す。
 二人の訪問者が灯籠の光の向こうにとうとう見えなくなるまで、みんな手を振っている。やがて私たちはゆっくり向きあい、マスク越しに笑顔を交わす。
 それを合図に、コジマのスマホが霧を吐き出す。柴又の人々に恐怖の絶叫を上げさせるのが誰なのかは言うまでもあるまい。

つづく
FLOWERS OF OYAJI GYAGU by Barry Yourgrau
Copyright(C)2020 by Barry Yourgrau
波 2020年8月号より

著者紹介

バリー・ユアグローBarry Yourgrau

南アフリカ生まれ。10歳のときアメリカへ移住。シュールな設定ながら、思いつきのおかしさだけで終わるのではなく、妙にリアルで、時に切なく、笑えて、深みのある超短篇で人気を博す。敬愛する作家・アーティストはロアルド・ダール、北野武ほか、また「ヒッチコック劇場」「トワイライトゾーン」などのTV番組にも大きな影響を受けたという。著書に『一人の男が飛行機から飛び降りる』『セックスの哀しみ』『憑かれた旅人』『ケータイ・ストーリーズ』(以上、柴田元幸訳)『ぼくの不思議なダドリーおじさん』(坂野由紀子訳)などがある。

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