オヤジギャグの華

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その20 ラクゴ・ラクゴ

オヤジギャグの華

「何をケタケタ笑ってるのよ?」ガールフレンドのコジマが呼びかける。
 着物を着た日本人がテレビに出てるんだよ、と私は説明する。何もない小さな舞台に正座して笑い話をしてるんだ。「一言もわからないんだけど、とにかくその演技っていうかマイムっていうか、酔っ払って唇ぴちゃぴちゃ鳴らす真似なんか、もう最高なんだ!」
「あ、ようやく落語を発見なさったわけですね、我らの愛する伝統的な笑いの語りを」と私の編集者が、こちらの問い合わせメールに答える。「さてさてさて」
「何なんだろう、『さてさてさて』って」私はコジマに言う。
 彼女は肩をすくめ、「ま、今夜説明してくれるんじゃないの」と答える。名残惜しいが私たちはもうじき東京を去る。そこでわが編集者が、銀座のバー・ルパンでお別れの「スペシャル」深夜飲み会を設定してくれたのだ。コジマはわくわくしている。「あそこ、前々から行きたかったのよ!」
 薄暗い銀座の裏道で、店の名の由来となっているあのフランス人泥棒紳士の、シルクハットに片眼鏡姿を描いた看板がこうこうと輝いている。店内は暗い色の木が基調で、心地よいアールデコ風、黄色いランプが頭上でほのかに光る。L字形の豪勢な木のカウンターから私の編集者が迎えてくれる。もう夜も遅く、私たち以外には、カウンターの向こう端に小さなグループがいるだけのようだ。
「ここ、有名なんですよ」私の編集者はいつもの考え深げな、かつ愛想のいい調子で言う。「文学の歴史が詰まってるんです」。ニヤッと笑う……なんとなく、陰険な感じ。「それに落語にも縁があるんです! で、何お飲みになります? こちら、今夜のスペシャルゲスト・バーテンです」
 バーテンはカウンターの下にかがみ込んでいて、見えるのは彼の広い背中だけだ。いや、彼女の背中だろうか――見えている着物は派手な女物なのだ。バーテンはまっすぐ立ち上がる。絹とおぼしきスカーフに半分隠れた、精悍な顔がじっと私を見る。ちらちら揺れている……
 まさか、と思いつつも、おぞましい染みがじわじわ広がるように、だんだん私にもわかってくる。
「ハロー」男の太い、イギリス訛りの声が言う。「私、ヘンリー・ブラックです」
 そしてヘンリー・ブラックはニヤッと笑い……それから、顔がさっと気むずかしげに変わって私はギョッとする。
「と……床屋?」私は唖然としてしどろもどろに言う。「あなたが――あの床屋? 『オヤジギャグの華』の?」
 私がショックを受けているのを見て、編集者が悦に入ってくっくっと笑う。「ブラック師匠です。『快楽亭ブラック』の名で、イギリス人ながら明治時代屈指の落語家でした。あなたが東京にいらしてから、床屋を演じる役を引き受けてくださったんです。あなたが泊まってらっしゃるアパートメントの、前のコンシエルジュが、私の同僚の娘さんでして。あなたが来日されて早々、動向や居場所を教えてくれたんです」
「というと、つまり……?」私は愕然として言う。
「はい、白状します。床屋の一件は、すべてお芝居だったんです!」。編集者はまたくっくっと笑う。「床屋とはかつて、近所の人が集まる格好のたまり場でした。日本でいち早く書かれた有名な滑稽物語は『浮世床』と呼ばれています。粋でしょう? そこで私も、あなたを巻き込んで、不吉な床屋のエピソードを仕組んだわけです。『オヤジギャグの華』というタイトルも私の発案です。すべて、あなたが東京をめぐる物語を書く刺激になればと。ま、私たち編集者も、たまにはふざけて楽しみたいってこともありますけど」
「わー、すごい!」コジマが言う。目を丸くして立ちつくしている私の肩を、彼女は陽気にぽんと叩く。
 でも、お会いしたあのとき、あなたは西洋人には見えませんでしたよ、と私はヘンリー・ブラックに言う。ちらちら幽霊みたいに揺らめいてもいなかったし。
「それは、私が芸達者だからです」ブラックは鼻高々に言いはなつ。「歌舞伎の女形で有名でしたし」――そう言って身を縮め、両手を優雅にはためかせる――「幡随院長兵衛ばんずいいんちょうべえみたいなタフガイ・ヒーローも得意でした」――喧嘩腰になって、怖い目で睨む。
 でもどうやって……どうやってあの呪わしい床屋の店は消えたのか?
「歌舞伎の裏方仲間にとって、組み立てたり壊したりはお手の物ですから」ヘンリー・ブラックが言ってのける。
 江戸東京博物館にあった、『オヤジギャグの華』の豆本雑誌は? と私は編集者に訊く。
「あなたのエージェントのジュンゾーさんに、ご協力いただきまして」
 じゃあ菅原文太とポテトサラダ・インタビューは――それに神保町でのあの騒ぎは?
 「ああ、わが獰猛なる友、文太さんと仲間たち」ヘンリー・ブラックがニヤッと笑う。「あいつら、よくやったでしょう?」
 「じゃあちょっと待って、ほかの幽霊もみんなグルだったってこと?」私の頭はすっかりくらくらしている。
 「いやいや、そんなことは!」私の編集者が答える。「何せここは東京――幽霊の都です!」  編集者は嬉しそうに手をすりあわせる。「さあ、飲みましょう!」
 ブラック師匠が特大の酒瓶を持ち上げる。注いでくれる。私たちは東京に乾杯する。一気に飲み干す。
 私は呆然とグラスのなかに目を落とし、今晩明かされた事実を想って首を横に振る……周りはみんなニタニタ笑っている。
「ちょいと一席、行きましょうか」ブラック師匠が言う。目がキラキラ光っている。「では。ある男が、一杯やろうと飲み屋に向かって歩いていると、雨で出来た水たまりの前にしゃがみ込んで釣りをしている年寄りに行きあたります。男はこの何とも情けない、物哀しい姿を憐れに思って、年寄りを誘います。一緒においでなさい、あたしが酒も食いものもおごるから、と。というわけで飲み屋に行きますと、まあこの老人、飲むこと、食うこと。男は訊ねます。『よう爺さん、あんた水たまりで、ほんとに釣れたのかね?』『もちろんです』と答えが返ってきます。『今日は旦那で五人目です!』」
「ハハ! あんた、魚なんだ!」コジマがゲラゲラ笑う。また私の背中をばんと叩く。ヘンリー・ブラックがウインクする。
 みんなが愉快そうなので、私はなんとか我慢している。「まあ僕も自分のこと、一種落語家みたいなものだと思っているよ」私は力なく言う。
 私の編集者がうなずく。「そうですよね。落語家には三段階の身分制があるんです。あなたは前座ですね――一流の前座です」
「それってどの身分?」
「見習いです」ヘンリー・ブラックが言う。またウインク。
 どうやら今夜は、とことん私がコケにされるみたいだ。
「今度は日本酒じゃなくて、モスコミュール飲みたい」カクテルにも目がないコジマが声を上げる。「有名なんでしょ、ここのモスコミュール」


その20 ラクゴ・ラクゴ


「酒は日本酒が一番です」バーテンが答える。
「いいえ、モスコミュールがいいの。ウォッカにジンジャーエール、可愛い銅のカップで!」
 むっとした顔になったヘンリー・ブラックは、カウンターの向こう側でごそごそ動き、言われたとおりコジマの前に可愛い銅のカップに入ったモスコミュールを出す。コジマが一口飲み……顔を歪めてペッと吐き出す。
「これ、まずい!」
なんとおっしゃいましたか?」派手な着物を着た偉大な落語家は、傲慢に胸を張る。
飲めたもんじゃない!」コジマはなおも、私が肘でつつくのを無視して言い張る。
「Hey stupid girl(おい馬鹿娘)」カウンターの向こうから英語で声が上がる。「偉い落語家にそんな口利くな! こっちへ来い、俺が接吻してやるから!」
 私たちはみなさっとそっちを向く。話しているのは幽霊っぽい日本人の男で、ほかにも幽霊らしいのがもう二人いる。男は三十がらみ、一九四〇年代風の黒っぽいチョッキにネクタイ姿。ひどく酔っ払っている。
「うるさい、くたばれ!」コジマが答える。私はもっと激しく肘でつつく。
「あ、太宰だ」編集者がくっくっと笑う。
 まさしく! 着物を着ていないので見違えたのだ。あの有名な、酒場で撮った写真を私も一気に思い出す。きっとまさにこの店で撮ったにちがいない。
またあいつ」コジマが鼻を鳴らす。
 一緒にいる男性の、やはり三十がらみ、四〇年代の洋服を着た人物が、大きな眼鏡の向こうから、ぞんざいな、だが是認のまなざしでコジマにニッと笑いかける。「Good!」と彼は英語で叫ぶ。カウンターをばしんと叩く。「君は本心から、肉体からものを言っている! 俺はミスター・アンゴ・サカグチ」。そう言って一礼する。
「太宰と同じ、有名な無頼派作家ですよ」編集者がささやく。
 そう言われて私も気がつく。「僕、あなたのあの写真大好きですよ、そこらじゅう原稿用紙が散らばってるなかであなたが書いてるやつ」と私は坂口安吾に言う。「どうして知ってるかっていうと、僕、散らかすこと、ため込むことについて本を書いたんです。ほら、ゴミ屋敷とか」
 安吾はとまどいの表情を浮かべる。
「で、こちらのご婦人は」安吾は気を取り直し、隣にいる着物を着た澄まし顔の幽霊女性を指して続ける。「ミス・サダ・アベ。優しい、温かい、未来の世代にとっての救いの神だ! 俺ね、この人と対談したんだ」
「救いの神」はクスクス笑って、安吾に一礼する。それから彼女は私たちにもお辞儀し、我々の横をすり抜けるようにして出入口に向かう。彼女が近づいてくると、ヘンリー・ブラックは大きな両手を組んで着物の股間を隠す。見れば編集者も、さりげなく同じことをやっている。
「定さんのこと、知ってます?」彼女が立ち去るのを見ながら編集者は私に小声で訊く。身を乗り出し、答えを私の耳許でささやく。
「えーっ、あのアベサダ?」私は思わず口走る。
「なあに?」コジマが言う。
「で、あんた、落語好きなのか?」坂口安吾が大声で割って入る。
「あとで話す」と私がコジマにささやくなか、無頼派作家はまくし立てる。「落語、すごいよ! ブラック師匠だけじゃない、俺の友だちのミスター・オサムも落語家なんだぜ、文学落語だよ、史上最高の! 新しく書いた話、ここで一席やりたいんじゃないかな」
「うわ、これはスペシャルですよ」編集者が熱く言う。
 なんてすごい晩だ、と私も胸の内で思う。
 太宰はふらふらと私たちにお辞儀する。「まず、ちゃんと落語家らしく座らないと」しゃっくり混じりに言う。カウンターの丸椅子の上に、なんとか正座する――そしてゆっくり、床に倒れ込む。
 大変だ、と私たちは口々に叫ぶ。
 太宰は仰向けに倒れたままゲラゲラ笑う。「ここから落語、やるぞ!」
「高座で寝転がっちゃあいけません」ヘンリー・ブラックが息巻く。
「最高に純粋な落語をやるんだ」太宰が言い返す。「落語とは『堕ちた言葉』!」クスクス笑う。天井に向かってお辞儀する。そうして語り出す。
「私は森のなかを歩いている。と、一人の男が木に体を押しつけているのが見える。ズボンが足首のところまで落ちている。私ははじめ、男が自然の欲求を満たしているのだと思う。だがやがて、男がくねくねと腰を振って、低く二股に分かれた枝のくぼみに熱っぽくこすりつけていることに気がつく!」
「ちょっと待って……」私は唾を飛ばして言う。自分の耳が信じられない。
ああベイビー、と男がうめくのが聞こえる。ああベイビー!」
「待て! やめろ!」私はわめく。「それは僕の話だぞ。何年も前に書いた『自然の欲求』だ!」
 安吾が愕然とした顔になる。
「いやいや、これは俺の話だ」太宰は言い張る。
僕のだ!」作家としての怒りに包まれて私は絶叫する。
 私は太宰の方に向かって動き出すが、安吾に行く手をさえぎられる。
 突然、日本語の荒々しい胴間声が聞こえる。私たちはみんなそっちを向く。幽霊っぽい、革ジャンを着た角刈りの男がよたよたとバーに入ってきて、呆然とあたりを見回す。
 三島由紀夫
「I hate your literature, Osamu Dazai!(僕は太宰さんの文学はきらいなんです!)」と英語に切り替えて三島は叫ぶ。ひどく酔っ払っていても、日本人でない顔がいくつかあることに気づいたらしい。「私のもっとも隠したがっていた部分を故意に露出するから!」
「でもいまの話、僕が書いたんですけど」私は訂正に努める。
「そんなことを言ったって、こうして来てるんだから、やっぱり好きなんだよな」嫌いと言われた太宰は冷ややかに笑って受け流す。「なあ、やっぱり好きなんだ」
 こう言い返されて、三島は激怒する。短剣がその手のなかでキラッと光る。誰もが大声を上げる。私の編集者が三島の片腕を掴み、どうにか短剣を奪い取る。
「さあ、三島さん」編集者は慣れた様子でなだめる。「お気に入りの『どん底』に行って、楽しく寝酒と行きましょう」
 三島は一応大人しくなって、導かれるままに店を出る。私の編集者は申し訳ないという顔で出入口から手を振り、また連絡します、と身振りで私に伝える。そして三島と二人で夜の街に消えていく。
 ルパンも今夜は閉店だとヘンリー・ブラックが宣言する。
「いやー、ものすごい『スペシャル』な飲み会だったなあ!」地下鉄を出てアパートメントに向かいながら私は言う。「床屋のこと、ほんとに信じられないよ。僕の編集者も! それと、太宰がやったこと、まだ怒りが収まらないぞ!」
「ただの酔っ払いじゃない」コジマが言う。「あれ、笑えたわよ」
 私はうなり声を漏らす。次の瞬間、私は黙る。通りの向こう側に、幽霊っぽい年寄りの男が、水たまりの前で、原始的な釣り竿を手にしゃがみ込んでいるのだ。老人は私たちに気づく。そしてすぐさま、その皺だらけの顔に、この上なく情けない、すがるような表情を作る。
「くたばれ、爺さん!」私は叫ぶ。
「ヘンリー・ブラックの友だちね」コジマが笑う。「ハハ、あんたは魚! ハハ!」
 私はそれに応えて、ルパンにいたあの幽霊婦人、阿部定が生前何者だったかをコジマに告げる。映画『愛のコリーダ』の、愛人の陰部を……
 コジマの笑いが別の何かに変わる。

つづく
FLOWERS OF OYAJI GYAGU by Barry Yourgrau
Copyright(C)2020 by Barry Yourgrau
波 2020年12月号より

著者紹介

バリー・ユアグローBarry Yourgrau

南アフリカ生まれ。10歳のときアメリカへ移住。シュールな設定ながら、思いつきのおかしさだけで終わるのではなく、妙にリアルで、時に切なく、笑えて、深みのある超短篇で人気を博す。敬愛する作家・アーティストはロアルド・ダール、北野武ほか、また「ヒッチコック劇場」「トワイライトゾーン」などのTV番組にも大きな影響を受けたという。著書に『一人の男が飛行機から飛び降りる』『セックスの哀しみ』『憑かれた旅人』『ケータイ・ストーリーズ』(以上、柴田元幸訳)『ぼくの不思議なダドリーおじさん』(坂野由紀子訳)などがある。

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