立ち読み:新潮 2015年10月号

帰還することが困難な場所から/椹木野衣(「新潮」2015年10月号より転載)

 ちょうど1年前(2014年10月号)の本誌に、私にとって初めての戯曲『グランギニョル未来』が掲載された。これに先立つ去る8月の盛夏には、演出家の飴屋法水の手により、横浜で舞台作品として初演もされている。もとはと言えば本作は、飴屋が1980年代に主宰していた劇団「東京グランギニョル」が、その代表作「ライチ光クラブ」(1985)で日航ジャンボ機御巣鷹の尾根墜落事故(1985)を下敷きにしていたことから、これを演出家としての彼の原点とみなした私が、限りなく創作に近い批評文として、その後の飴屋の活動を随所に織り込みながら、脚本形式で書き下ろしたものだった。
 ところでこの夏は、その日航機事故からちょうど30年、また多方面で耳目を集めているように、太平洋戦争の終戦からは70年という特筆すべき年にあたっている。航空機事故と終戦では一見、直接的な関係はなさそうだが、そもそも航空機産業とかつての軍閥が、切り離しがたく密接な関係を持っているのは言うまでもない。しかし、そこにはより具体的な関連もあった。事故機のコックピットで最期まで生還の望みを賭け、全長70メートルにもおよぶ機体の上昇・下降を繰り返していた機長、高濱雅己は、元海上自衛隊のパイロットで、その教官は元日本海軍に所属した空の雄、杉野計雄だった。さらに、戦争時にその杉野の上官であったのが、日航機事故墜落現場となった御巣鷹の尾根が位置する自治体、群馬県上野村の首長で、遺族や報道受け入れの陣頭指揮を取った黒沢丈夫である。つまり、墜落機の機長と墜落地点の自治体首長は、皮肉なことに、「軍から自衛隊へ」という戦後の変遷を伏線とする、いわば「教え子の教え子」だったのである。日航機事故30周年と、太平洋戦争終結70年は、そんなところでも繋がっていた。
 が、戦争の話はひとまず置く。先に触れたように、私が戯曲「グランギニョル未来」を書いたきっかけは、飴屋の原点にある空の大事故を、もう一度彼のなかに呼び戻す目的があったわけだ。が、私のなかには、実はもうひとつの関心があった。垂直尾翼の大半と油圧による舵取り機能のすべてを失い、もはや猛スピードで疾走するだけの「鉄の塊」となったジャンボ機が、すでに命運尽きていたにもかかわらず、30分にもわたって空を飛び続けたという事実である。私には、この想定外の過酷事故の突然の勃発と、奇跡的に直後の破局こそ免れたものの、迷走に次ぐ迷走のうえ、やがて緩慢な――ゆえに残酷きわまりない=グランギニョル劇としての――死を迎えた経緯が、東日本大震災をきっかけに3基メルトダウンした福島原発を抱えながら、どうすることもできぬまま、しかしなんとか目先の利益にしがみつき「飛行」を続けている現在の日本の姿に、生々しく重なって見えたのである。
 このように、私にとってこの戯曲の抱える主題は、去る夏に特定された一過性のものではありえない。「乱飛行」はむしろ、新東京五輪という着陸(不時着?)地点を得て、ますます酷くなる一方である(不吉なことを言うようだが、あの日航機も、羽田への帰還を目指して国の象徴、富士の山容を機窓から確認したあたりから一気に制御が乱れ始めた)。そこで私は、この戯曲をいま一度、ただし今度は(飴屋の原点確認という出発点を超えて)終戦から70年に当たる2015年という、現在の日本の状況により明確に引きつけるかたちで「再演」することにした。そして「8月」(この語を括るのは、むろん6日のヒロシマ、9日のナガサキのふたつの核戦争、12日の日航機事故、15日の終戦記念日という死の輻輳路を、時空を超えて束に折り重ねたいからである)を迎える直前に当たる7月28日に、部分的にこれを実現した。
 会場となったのは、福島県の浜通り一帯に広がる「帰還困難区域」内の某所である。この区域は、原発事故の影響で、事故から5年を経ても放射能汚染が年間50ミリシーベルトを下回る見込みがなく、全住民が避難している国指定の立ち入り禁止(正確には厳重な制限)区域である。実は、バリケードで封鎖されたこの地帯の各所を会場に、私も実行委員のひとりを務める国際展「Don't Follow the Wind」展が、今年の3月11日からスタートした。といっても、すでに記した理由により、展会であるにもかかわらず、設置された作品を一般の観衆が「みにいく」ことはできない。私は実行委員であると同時に、「グランギニョル未来」を名義とするアート・ユニット(現メンバーは私と飴屋のほかに赤城修司、山川冬樹)の一員として作品を出品する立場にもある。実際、すでに規模の大きい美術作品を某所に設置済みだ。その展示の詳細をここで明かすことはできないが、戯曲「グランギニョル未来」が再演されたのは、この作品が設置された、とある屋内でのことである。全身、放射能防護服で身を守り、手続きのうえで許された滞在時間のなかでの再演であったため、一部の抜粋にすぎないし、言うまでもなく観客はひとりもいない。しかし私にとっては、この作品を「帰還困難・・・・(日航機がそうであったように?)区域」のなかでいま上演することが、どうしても必要だったのだ。
 というのも、私はこの「残酷劇」を、日航機事故やフクシマ核災害のみならず、70年前の戦争とも重ね描く必要を感じていたからだ。したがって、上演はいささか特殊な形態を取った。横浜公演で主演を務めた山川と私が帰還困難区域の展示会場に身を置き、ちょうど同時期に、劇団「マームとジプシー」による沖縄戦を扱った演劇作品「コクーン」(原作・今日マチ子)の巡回に併せて沖縄にいた飴屋が、70年前に野戦病院として使われたガマ(鍾乳洞)の闇に潜り、帰還困難区域とガマという、いまなお「出口」の見えないふたつの「封鎖地帯」を電話回線で繋ぎ、70年の時の隔たりと1700キロの距離を超え、音声だけを媒介に、「グランギニョル未来」のいくつかの場面として、それぞれの場所で・・・・・・・・再現したのである。
 この時と距離の隔たりにもかかわらず、福島と沖縄はいま、放射能汚染物質の長期管理のための中間貯蔵施設建造と、辺野古への基地移転をめぐる情勢で、国家による土地の収奪という、きわめてよく似た問題を抱えている。私がこの再演を通じて体感的に見極めたかったのは、沖縄のなかにフクシマを見、福島のなかにオキナワを見ることだった。その内容は「ただちに」公開するわけにはいかないが、映像による記録と音声の収録は済ませている。いずれ頃合いを見て、また別のかたちの「グランギニョル未来」を通じて披露できる機会を、遠からず作りたいと思う。

新潮 2015年10月号より