立ち読み:新潮 2019年6月号

百の夜は跳ねて/古市憲寿

      3月2日 晴

 そこで生まれてはいけないし、死んではいけない。そんな島があるって知ってるか。産婦人科もなければ葬儀場もない。妊娠したり、大きな病気になったら、すぐに島から出ないとならない。その代わり、俺ら日本人でも、何の許可もなく仕事ができるらしい。ちょっと前までは寿司屋もあったらしくてさ。最果ての街で、寿司を握るってどんな気分なんだろうな。俺はパスポートなんてないけど、翔太は持ってるのか。東京だと有楽町に行けばいいんだっけ。この国は死にあふれているだろう。東京だけでも毎日何百人が命を落としてる。病院や拘置所や路上や会社や民家で何百人が死に続けている。もちろん死ぬことは禁止なんてされていない。怒られることもない。でもその島じゃ、そもそも死ぬなっていうんだよ。葬儀の手間とかの問題もあるんだろうけど、寒すぎるってのがよくないらしい。死体を埋めるだろう。そうすると、悪い病原菌が生き残ってしまう危険性がある。向こうじゃ今でも土葬が多いらしいからな。北の北にあるから、夏はずっと明るくて、冬はずっと暗い。白夜の反対は極夜っていうんだよ。いつまで経っても日が昇らない。果てしのない夜が続く。だけど同じ極夜でも、北の北まで行かないと昼間は薄明かりになる場所も多い。その島の冬では、本当の夜が何ヶ月も続くらしい。太陽が全く昇らない暮らしって想像できるか。俺らの仕事は、雨だと基本的に休みだろ。夜に働くこともほとんどない。その島だとどうなるんだろうな。昼も夜も関係なくかっぱいでいるのかな。
「翔太くん、水滴が残ってる」
 街のすぐ近くまでシロクマが出てくるらしい。だからちょっとした散歩に行くにもライフルを持たないといけないんだってさ。銃は遠くから使っちゃいけない。近づいた時に初めて急所を狙う。そんな余裕があるのかは知らないけどさ。思うんだけど、死んだらいけないっていうわりには、その島で命を落とすのは簡単なはずなんだよ。さすがにシロクマに襲われて死ぬのは嫌だけど、真冬はとんでもなく寒いわけだろ。ちょっと酒でも飲んで、夜の散歩にでも行けば一発なんじゃないか。死ぬのが禁止されている島で死ぬって何だか格好良くないか。いや、勘違いするなよ。自殺願望なんて、俺はこれっぽっちもないからな。というか死ぬわけにはいかないんだ。親の病気のこと話したことあったっけ。たださ、死ぬってことは、この仕事やってる人間なら誰でも考えるだろう。死にたくねえな、でもいつ死んでもいいなって。俺たちはぎりぎりの場所に立っている。このガラスの向こう側は絶対に死にそうもないやつばかりで、たった1センチこっちはいつ死んでもおかしくない。格差ってのは上と下にだけあるんじゃない。同じ高さにもあるんだ。
「翔太くん」
 面白いのはその島に命のホテルがあるっていうんだよ。外観からは、それがホテルってわからない。ただのコンクリートの四角い塊が、雪原にちょこっと顔を出しているだけだ。だけど不思議と幽霊は出そうなんだ。幽霊って不思議じゃないか。学校とか、トンネルとか、やたらコンクリートと相性がいい。なんでそんな無機質な場所に、幽霊が出没するんだろうな。俺らは無意識にコンクリートっていう得体の知れないものを恐れているってことなのか。だとしたら俺らの目の前にも出るのかもな。すぐ隣にいたりしてさ。なあ、お前は幽霊じゃないよな。
「翔太くん、聞いてる?」
「はい、聞いてます」
 美咲さんに右の足首を掴まれて、僕はスクイジーを持つ手を止めた。きちんと仕上げ用のウエスで拭き取ったつもりなのに、まだガラスには目立つ水滴がいくつか残っていた。
「困るよ、そんなんじゃ」
「困るのは美咲さんのほうなんじゃないですか。言いつけますよ」
 僕は美咲さんをにらみつけた。彼女は狭いゴンドラの床に座り込んで、プルーム・テックの水蒸気を気持ちよさそうに鼻から出している。マンションの窓ガラス清掃中に堂々と休んでいることも問題だが、タバコを吸っていることが住人から通報されたら僕にまで被害が及びそうだ。彼女と組むのは初めてだが、いつもこんな問題行動を起こしているのだろうか。それなら住民からのクレームがなくても、誰かが会社に密告していても良さそうなものだ。それとも未だにスーツを着た上層部があの事故の対応に躍起になっていて、問題児の対応までは手が回らないということなのか。
 しかし文句を言っていても仕方ない。バケツに入れたシャンプー棒でガラスを濡らし、スクイジーで水を切っていく。タテタテヨコ。子どもの頃に色塗りってやっただろ。基本はそれと同じなんだよ。とにかく角を意識して。頭ではわかっているのに、未だに手首は思うように動かない。どうしても隅には拭き残しができてしまう。仕方なくもう一度スクイジーを縦に引く。その摩擦音が苦手なせいか、あの人のようには勢いよく手を動かせない。もたもたするなよ。もう怒声は飛んでこない。美咲さんはケージの隙間から見える東京の街をぼんやりと眺めている。
 その姿を見ながら、自分がすっかりこの高さに慣れてしまったことに驚く。55階建てのタワーマンションを上から5分の1ほど降りたところだから、地上からの高さはまだ200メートル近くあるだろう。足場もなくロープだけを頼りにビルを下るブランコ作業と比べれば危険度の低いゴンドラだが、少しの風に大きく揺れることもあるし、何といっても外界と自分たちを隔てるのは、高さ1メートルにも満たない手すりだけだ。
 何一つの隔たりなしに東京を見下ろせる。築地と豊海水産埠頭をつなぐ真っ白い勝鬨橋。その先は晴海埠頭、豊洲埠頭と続くはずだが、無数に建設されたビル群のせいで、どこで街が区切れるのか、ここからは確認できない。代わりに、自分が作業したことのあるビルは、遠くからでもいくつか識別できた。貿易センタービル、フジテレビ、科学未来館、そして東京スカイツリー。もうすっかり見慣れてしまって、景色に心を動かされることも、高さに圧倒されることもない。ここから見えるのは、ただ箱庭のように立方体の物体が敷き詰められているだけの、息苦しく不自由な街だ。わざわざ高い金を積んでまでこんな窮屈な景色を見下ろしたがる人々には驚くしかない。今となっては笑ってしまうが、仕事を始めてから半年くらいは足が震えて仕方なかった。正確にいえば、5ヶ月と11日目までは、決死の覚悟でゴンドラに乗り込んでいた。知ってるか翔太。今日が何の日かって。コスモクリーニングで僕が初めてガラス清掃の作業をしたのが2月9日。てっきり仕事が始まるのは4月かと思っていたら、明日から来て欲しいと言われて、簡単な研修を済ませただけですぐに現場に派遣されてしまった。そういえば結局、7月20日は、何の日だったのだろう。
「翔太くん、また手が止まってるよ」
「せめて昇降機のボタンくらい押してくださいよ。美咲さんも講習受けたんですよね。資格持ってるんでしょ」
 彼女は僕のほうを見てにやっと笑う。3歳の子どもがいるシングルマザーという噂だが、きちんと訊いたことはない。根元が黒くなったピンクの髪が胸元までだらしなく伸びている。会社でも何度か問題になったらしい。昔は職人ということで許されていたカラーリングやタトゥーも、特にこの数ヶ月はやたらうるさく言われる。僕は入社直前から始めた金髪を止めてしまった。帽子で隠せばいいと言われたが、髪にそれほどこだわりがあったわけではないし、そう思われる方が恥ずかしかった。
 ようやく美咲さんがゴンドラの操作を始めてくれたおかげで、ケージが少しずつ下降を始める。僕はシャンプー棒でガラスを濡らしていく。相変わらず美咲さんは仕事をする気がないようなので、仕方なく彼女が清掃をするべき領域までシャンプー棒を伸ばす。ちょうどその時、風が吹いて、なびいた美咲さんの髪が、何本かだけ右手に絡みついた。狭いゴンドラの中では身体が触れあうことでさえ日常茶飯事で、同乗者を恋愛対象として意識することはない。彼女はケージの外を見ながら鼻歌を口ずさんでいる。「世界が腐りそうなんだ」。骨の形がしっかりとわかるくらい痩せた身体だが、作業用のつなぎを着ているせいか、それほど貧弱な印象はない。「今日も生きているのです」。

(続きは本誌でお楽しみください。)