立ち読み:新潮 2019年11月号

第51回新潮新人賞受賞作
尾を喰う蛇/中西智佐乃

 灰白色の床の廊下は、絞られた明かりで霞んだようになっている。左側に並んでいる病室からは布団が擦れる音、くぐもった鼾、電子音、呼吸が染み出してくる。小沢興毅こうきはアシックスのスニーカーで靄の中を割くように進んでいった。
 夜勤の仕事を嫌がる人は多い。職員が削られ、抱える患者数が一気に膨れ上がる。時間帯によっては担当がフロア全体になる事もある。けれど興毅はそこまで嫌ではなかった。身長が一八六センチで体格もいいため、人がいない分、腕や足を大きく動かしやすかった。
 誰もいない廊下で思い切り伸びをした。そのまま背泳ぎをするように片腕を回しながら進み、四人部屋の病室の前で止まった。
 スライド式ドアの取っ手を右に引く。人の熱によって粘り気を持った空気が興毅に手を伸ばしてくる。マスクの下で鼻から息を抜き、足を踏み入れた。
 仕切りのカーテンが閉められ、鼾と寝息が聞こえる中、不規則な音が聞こえた気がした。左右のカーテンを軽くめくって覗き、右奥のカーテンをめくった途端、ベッドの上にあるナースコールに手を伸ばした。
「介護の小沢です。三〇三号室、急変出ました。泡を吹いて、胸を押さえています」
 相手からは一言もないまま、通話が切れた。ベッドの上で右側を下にして横たわっている痩身の老人は、口から泡を吹き出し、胸を押さえている。ぐふっ、くっ、ぐふぅと音を口から漏らしているのを聞きながら、興毅はライトを点けた。髭が点在している頬が白を通り越して青くなっている。その青色も、もうすぐ黒に変色していきそうに見える。
 大きく咳き込み、口から飛び出した泡が興毅の手の甲についた。手を顔の前に持ってくると泡に血が混じっている。近くにあったティッシュで拭った。確かこの老人は感染症にかかっていなかったはずだと思いながら、運び出す時の事を考えて布団をめくり上げて畳み、パイプ椅子の上に置いた。
 老人は身体をくの字に折り曲げ、血と泡をシーツの上に撒き散らしだした。ピッピッと黒い血しぶきがシーツに飛び、染み込んでいく。
 洗濯する時の血の取り難さが浮かぶ。あーあと苛立った声が出そうになるのを飲み込み、老人の脚の方にあるカーテンを開いた。走って来る足音が耳に入ってきた。
 三十五歳の興毅と同い年くらいの看護師の男が入って来た。興毅はベッドから離れ、男と代わる。男は苦しんでいる老人の名前を耳元で呼んだ。泡を吹いた口で答えられるのかと色がなくなった唇を見ていると、また足音が聞こえた。
 まだ二十代と思われる医師の女が入ってきた。ベッドの横に立ち、老人の名前を呼びながら二の腕を叩く。上の部分がつんと尖った耳が見えた。噛んだらこりこりといい音がしそうだった。
 ストレッチャーが運ばれてくる音がしてきた。興毅は病室を出て、廊下の端に立った。ストレッチャーが病室に吸い込まれ、数分で老人を乗せて出てきた。老人の口から泡や音が漏れることはなくなり、顔は青から黒にはっきりと変わりだしていた。ストレッチャーが廊下の真ん中にあるエレベーターに乗り込むのを最後まで見ずに、病室に戻った。
 老人が運び出されたベッドのシーツを剥ぎ取り、布団をベッドに戻す。床の上に落ちてしまった新聞や、補助テーブルの上で倒れているペットボトルを片づけ、ライトを消し、シーツを持ってカーテンを閉めた。
 左奥のカーテンを開き、中に入る。血の付いたシーツをパイプ椅子の上に置いた。布団を足元まで捲る。老人は鼾をかき、起きる気配がない。仰向きにして寝かせたのが二時間前。鼾が途切れたので、老人の顔に視線を向ける。もごもごと動かす口を見て、さっきの血の付いた泡がちらついた。
 初めて泡を吹いた人を見た時、震えた。この病院に勤める前、介護施設に勤めていた頃のことだ。深夜に入居者が急変し、泡を吹いていた時は膝が前後に揺れ、その震えが腰、腹、肺に伝い、叫びそうになり、口を両手で塞いだ。
 興毅は上を向いてマスク越しに鼻から息を吸い込み、止めた。老人の膝を曲げて尻の下に手をいれる。さきに手を洗えばよかったなと興毅は思いながら、正確に老人の体位を変え出した。

 ブルーの制服に着替え、屈みながらロッカーの扉の裏にある鏡を興毅は見た。黒いフレームの大きな眼鏡をかけた丸い顔が映っている。顎を上げてその裏側を見るとうっすら赤い。朝、髭を剃る時にシェーバーに負けた。
 ズボンが食い込み、ウエスト部分に両親指を入れた。ならすように腹回りをなぞる。三十代になると代謝が落ちると聞いてはいたが、二十歳の時から十五キロ近く肥えてしまっている。
 左の壁にかかっている時計に視線をやる。七時十分を過ぎようとしている。発売されたばかりのアイコスとスマホと小銭入れをポケットに入れ、マスクを指先に引っかけて更衣室を出た。乾燥したぬるい空気が頬に当たるのを感じ、マスク上部にあるワイヤーを鼻に当てながら大股で進む。始業時間は八時だが、正社員は七時十五分までにスタッフルームに入るのが介護課の不文律になっている。
 地下一階から三階までの階段を駆け上がった。廊下に出ようとして人にぶつかりそうになり、慌てて後ろに体重をかけた。のろのろとした足取りのパジャマ姿の老人は、ぶつかる寸前だったにもかかわらず、興毅に気づかず、前方にある手すりに腕を伸ばし、両足の裏を廊下から離さず進んでいく。興毅は下唇を噛んで、大きな一歩を老人とは逆方向に踏み出した。
 介護課のスタッフルームに入ると中にいた二人が振り返って興毅を見た。挨拶をし、二人に近づく。一人は山中副主任という四十過ぎの男で、電卓を叩いてはパソコンに打ち込んでいる。ぼってりとした体形で前に出た腹が椅子と机に圧迫されている。
 もう一人はフルパートのおばさんで寺池という。寺池は備品の数を用紙に記入していた。目の下が黒くなっているのが見え、目を逸らす。隈ではない。化粧が剥げたので黒くなっている。普段以上に見るに堪えない顔だった。
 後ろで扉が開く音がした。視線を向けると後輩の水野が入って来ようとしていた。今年二年目になる彼女は、もともとは白い頬を桃色にしている。ふっくらとした体つきで、茶色に染めた髪を一つにしているが、束ね損ねた髪の一房が首の横に流れていた。
「すみません」
 声の合間に、ハッハッと息が挟まれるのを興毅は耳で拾う。目の端で寺池が立ち上がるのが見えた。始まるなと身構えると同時に「遅刻やで!」という寺池の叱声が飛んだ。
 遅刻ではない。八時スタートだと、引継ぎに十五分かかったとしても本当なら七時四十五分でいい。今は二十分だった。寺池は水野に近づき、持っていた用紙を突き出した。
「備品の数、ここまで見たから後やって。私、お手洗いに行ってくるから」
 寺池が出ていくと水野は興毅と山中に頭を下げ、さっきまで寺池がしゃがみ込んでいた所に向かった。興毅は山中を見た。彼はさっきと同じ姿勢のままパソコンに向き合っている。
 興毅はポケットに入れてきた物を取り出しながら引継ぎのボードに向かった。
 予備のおむつ、消毒用のアルコール、ごみ箱などを載せたトロッコを興毅は押して歩く。本来はおむつ交換車という名前がついているらしいのだが、色んな物を載せているのでこの病院では、トロッコと呼んでいる。
 朝の引継ぎが終わるとすぐに朝食の食器の回収に向かう。それが終わるとトイレへの誘導、おむつの交換や体位を変えるのに病棟を練り歩く。
 興毅は大阪にある総合病院に介護福祉士として勤めている。最近は介護が必要な高齢者が増え、興毅のような介護専門職員が病院に雇われる事も多くなってきた。排泄介助、入浴の世話、部屋の清掃、口腔ケアなど業務は多岐にわたり、座る暇もない。正社員の介護福祉士は現在四人。パートの人数は六人いるが、掛け持ちをしている人も多く、常に来てくれるわけではない。
 人手が全然足りていない。
 前を歩くショートパートのおばさんが病室の中に入って行った。「おはようございます」と声をかけてからカーテンを開く。中で目を開けて横になっていた老女は、少しだけ首を動かす。それが挨拶をしているつもりなのは、介護士を始めてから知った。
「三十分後にリハビリですね」
 おばさんが耳に口をつけるようにして大声を出すと、老女は眉間に皺をかすかに寄せた。脳梗塞を起こして緊急入院をした。幸い軽いもので、ある程度回復し、リハビリを行う段階になって興毅の病院に転院してきた。リハビリを毎日行わなければならないのだが、それを嫌がる。
「トイレ、行っておきませんか?」
 おばさんがさらに大声を出す。行っとけと興毅も思う。女性は男性より我慢が出来る方ではあるが、それでも体を動かすと漏らすことは多い。その濡れた下着を処理するのは、興毅達だ。
 老女は口をへの字に曲げ、「さむ、い」と言った。
 返事になっていないという言葉を飲み込み、興毅は隣のベッドに目を移す。早く終わらせて昼食の準備や洗濯物を分別したいと思った時、悲鳴が聞こえた。
 おばさんと視線を合わせ、興毅は廊下に出た。左右を見ても何も変わったところはなく、斜め左前方にあるナースステーションに向かう。看護師二人が、興毅がいる側とは反対の廊下に向って、走って行くのが見え、後を追った。
 並んだ病室のドアの一つから水野が後ずさりをして出てくるのが見えた。看護師のうちの一人が「どうしました」と彼女に聞く。水野は額を押さえている。
「ちょっと、その」
 看護師は水野を置いて病室に入った。興毅は水野の名前を呼んだ。顔を上げた彼女の左頬が赤くなっている。額に置いた手の下も赤くなっているかもしれない。
「殴られたの?」
 水野は大きな目を興毅に向け、頷いた。鼻から息を抜き、病室の中を見る。手前の右側のベッドの上で、興毅が心の中で89と呼んでいる爺さんが山中副主任に押さえられていた。

(続きは本誌でお楽しみください。)

[→受賞者インタビュー 暴力を追いかける/中西智佐乃]