立ち読み:新潮 2020年12月号

母影(おもかげ)/尾崎世界観

 となりのベッドで、またお母さんが知らないおじさんをマッサージして直してる。私はいつも通り、空いてる方のベッドで宿題の漢字ドリルをやりながら待ってた。書くより読む方が得意だから、ふりがなを入れる今日の分は調子よく終わった。
 このお店はせまいから、探けんしてもつまらない。入ってすぐのところにテーブルと細長いイスがあって、その先にやわらかいカーテンにぐるっとかこまれたベッドが二つならんでる。その向こうにはトイレがあって、その先の行き止まりはタオル置き場だった。ちゃんとたたまれた新品のタオルは山になってて、使って捨てたタオルはカゴの中で川になってた。私はいつも手前のベッドにもぐりこんで、カーテンだけを見てる。私が見てるカーテンはお母さんのベッドとつながってて、ときどきそこにお母さんの影が出るからだ。
 とちゅうでお母さんが大きな電気を消しても、ベッドのすみっこにある小さな電気がまだ光ってた。私がいる方のベッドにもその小さな電気があったけど、オニにみつかって連れていかれちゃうから、お客さんがいるときはぜったいにつけちゃだめ、それがお母さんとの約そくだった。だから私はちゃんと約そくをまもって、カーテンの中の影を見てた。こんなに近くにあるのに、お母さんの影はいつもうすかった。私は置いていかれないように、うすい影を目で追いかけた。お客のおじさんはデブが多いくせに弱い。デブは体がデカいから強そうなのに、どうしてすぐにこわれるんだろう。私はこんなにも細いのに、どこもこわれてない。
「お母さんだって直してあげたいけど、子どもだからまだ直すところがないでしょう。もし悪くなったら、その時はすぐに直してあげるからね」
 お母さんはいつもそうやって、お客さんにばかりやさしくした。
 お母さんがお客さんにさわると、お客さんはいつも変な声を出した。お母さんがお客さんにぴったり体をくっつけて、上からゆっくりお客さんの体を押した。お客さんが出す変な声によばれて、お母さんの体が、だんだんお客さんの中に入っていくけはいがする。お母さんの息がカーテンの向こうではねた。そのままお母さんとお客さんが一つになってしまいそうで、私はこわくなった。そんな私を心ぱいするみたいに、お客さんが今度はつぶれた悲しい声で、きもちいって息をはいた。
 せっかくお母さんが直しても、お客さんはまたすぐこわれた。だからお客さんにはもっとちゃんとしてほしかった。ちゃんと直って、どうかもうここに来ないでほしい。どうしてかわからないけど、お客さんはこわれてるのに、いつもうれしそうだった。ここ。ほらここも。お母さんが悪いところを教えてあげると、うん、とうれしそうに返事をした。
 私にはどうして直すところがないんだろう。足も。手も。お腹も。頭も。全部ちゃんとしてる。じゃあ、この気持ちはなんだろう。私はこれを直してほしいのに、どこがこわれてるのかちゃんと言えなかった。これは、いったいどこがこわれてるんだろう。もういちど体をたしかめてみた。足も。手も。お腹も。頭も。やっぱりどこもおかしくなかった。
 ぴーって音が鳴った。やっと終わった。ふざけてる生徒を注意する先生みたいな音だから、私はこの音が好きだった。お客さんの影がゆっくり起きあがって、大きくのびた。来週の金曜にまた来るよ。そう言った声も、いっしょになってのびた。今直したばかりなのに、お客さんはまたすぐにこわれるつもりだ。それなのにお母さんは、いつもありがとうございますって笑った。
 カーテンの下をお客さんの足が通った。私は、さっき入り口で見たお客さんの汚れたクツを思いだした。ほどけたクツヒモはお客さんの足から逃げてるみたいだった。私にはクツヒモの気持ちがよくわかった。ほどけたクツヒモをほったらかしにして自分ばっかり直しに来る、そんなおじさんにはかれてるクツがかわいそうになった。せめてあのクツヒモだけでも、おじさんから逃げてほしかった。
 お客さんの足の後ろを、お母さんの足が追いかけていった。私は、お母さんがはいてるクツも思いだした。そのクツのまん中にはいつもキレイなチョウチョがいて、お母さんが歩くたびにひらひら羽が動いた。でも、チョウチョは飛ばなかった。それはきっと、ずっとお母さんのそばにいたいからだ。私はそんなチョウチョが好きだった。私も早くあのチョウチョをむすびたいんだけど、いつまでたってもできなくて悲しかった。もしむすべたら、私はそのチョウチョを大好きになるだろう。チョウチョも私を好きになってくれて、りょうおもいになれたら、いつでもさみしくないのになって思った。
 店のドアがあいて、お客さんは帰っていった。車が道を走る音が、私の右耳と左耳を通りすぎた。自分の腕をかいでみたら、まだ少しだけあまいにおいがした。太陽に焼けた腕のにおいだ。私が今より小さかったころ、お母さんはときどき私の腕を食べた。あまくておいしそう。そう言って学校帰りの私をだきしめたあとで、私の腕をがぶってかんだ。ぜんぜん痛くないし、くすぐったいけどあったかくて、私はそれがとってもうれしかった。ある日の帰り道、自分の腕をかいでみたら本当にあまいにおいがした。お母さんが食べる前にちょっと味見してみようと思って、私はそのあまい腕をなめてみた。でも、その腕はとってもしょっぱくて、私は急に恥ずかしくなった。もし今日もお母さんが腕をかもうとしたらどうしよう、そう思ってこわくなった。
「宿題終わった?」
 お母さんがカーテンのすきまから顔を出して言った。その顔を見てわかった。私が直してほしいのはここだ。やっぱりここがこわれてる。でも、そこがどこかはうまく言えなかった。よし、言おう。そう思ってお母さんの前に行くと、そのときにはなぜかもう直ってた。お母さんがいるからこわれるのに、お母さんがいるから直った。お母さんはそんなことも知らないで、いつも私に、どこも悪くないよって言った。
「学校どうだった?」
 やさしい声がさみしい。こんなにやさしい声がずっとそばにいてくれるわけがなかった。この声は、お客さん用の声だ。私はうつぶせになって、まくらに顔をうずめた。家のまくらとちがって、とてもしずかなにおいがした。
「ちょっとお昼寝する?」
 さっきよりもっとやさしかった。無視してもっと強く顔をうずめるけど、耳が丸出しだから声だけはよく聞こえた。
「パンツ見えてるよ」
 がんばって無視してるのに、私の耳はちゃんとお母さんの声を聞いちゃうからこまった。パンツが見えてることよりも、そんな耳の方がよっぽど恥ずかしかった。でも、なぜかおもしろくてしょうがない。こんなに嫌なのに、きつく目をとじてても、今お母さんが私を見てることがうれしくて笑っちゃう。ほらパンツ。おしりをつっつくお母さんの指がくすぐったくて、ベッドにしいてあるタオルの中にもぐりこんだ。こげ茶色のタオルの中で目をあけたら、もうすっかり夜になった。でも茶色くて、本物の夜より弱かった。私はこの弱い夜が好きだ。この茶色い夜の中にいると、いつもだんだんねむたくなった。またお母さんがいなくなる前に、もう寝てしまいたかった。
 ドアがあいて、だれかが入ってきた。茶色い夜の中で、私は新しいお客さんの足音を聞いた。それはかたくてつめたいクツの音だった。お母さんのけはいもカーテンの前から消えて、またまじめなお店の空気がもどってきた。ねむたい私は、体を丸めて目をつぶった。

(続きは本誌でお楽しみください。)