児玉 ベトナムに行ってらしたとか。
佐伯 ええ、半月ほどのんびり過ごしてきました。
児玉 今回の新シリーズ「新・古着屋総兵衛」の取材ですね。
佐伯 それもあったんですが、実はあることがあって、頭の中を真っ白に一度リセットしてみようと思ったんです。
児玉 いかがでした。かの国は。
佐伯 サイゴン(ホーチミン)から入って、ホイアン、ダナンを経て最後にハノイを訪ねるという旅でした。サイゴンのホテルは、マジェスティックというところだったんですが、これがたまたま……。
児玉 開高さんでしょう。
佐伯 そうです。開高健さんが従軍記者としてベトナム戦争を取材されたときの宿だったんです。ちょうど私の取った部屋の下の部屋に開高さんが泊まっていたそうです。
児玉 それは奇遇ですね。
佐伯 驚きました。サイゴン川沿いのホテルならどこでもいいと思って取った宿でしたから。
児玉 サイゴンという町はいかがでした。
佐伯 商都ですから、人のエネルギーは感じました。なによりもバイクの数が凄いんです。原付のスーパーカブで何でも運ぶんです。冷蔵庫は運ぶ、生きた豚七匹を運ぶ、長梯子は運ぶ、シェパードを四匹運ぶ、人間なんかは五人まで乗っているのを見ました。
児玉 まさに曲芸ですね。
佐伯 そうしたたくさんのバイクが川の流れのようによどみなく続くんです。サイドミラーなんか外してしまっていますし、ウインカーもほとんど付いてません。
児玉 前しか見ないんですね。潔いですね。
佐伯 道を横切るのは大変ですよ。信号はないし、止まってくれないし。
児玉 止まると荷が崩れてしまう。
佐伯 そうです。あの荷造りは神業ですね。
児玉 サイゴンには綾縄小僧(編集部注・「古着屋総兵衛影始末」シリーズの登場人物・駒吉の異名)が何人もいるんですね(笑)。
佐伯 次に向かったのが、近郊のミーソン遺跡が世界遺産に登録されたホイアンです。
児玉 ホイアンは中部ですね。南から北上したことになりますね。
佐伯 サイゴンから七百キロくらいでしょうか。日本の長崎・中国とインド・ヨーロッパを結ぶ中継貿易で栄えた河港の町です。今から四、五百年前でしょうか、日本人町があって最盛期には千人くらいは暮らしていたようです。
児玉 徳川幕府の鎖国政策が最終的に成立したのが、一六三九年ですから、それまでは日本人が行き来していたんですね。シャムのアユタヤ、フィリピンのマニラなどにも日本人町はありましたね。
佐伯 来遠橋という当時の日本人が作ったという橋が残っていて観光名所になってました。
児玉 鎖国以降は、日本人は現地の人たちと同化していってしまいますね。
佐伯 その当時の日本人のお墓が残っていて、谷弥次郎兵衛らのお墓参りが、今回の目的でもあったんです。花と線香とチャッカマンを持って、自転車を借りて。
児玉 それは素晴らしいことをなさいましたね。
佐伯 ホイアンは本当に美しい素晴らしい街でした。次に訪ねたのはダナンです。ホイアンから三十キロしか離れてないところですが、中部最大の商業都市です。古代から中世期に勢力を誇ったチャム族のチャンパ王国の都がダナン近郊にあったらしいのですが、ひょっとすると『交趾』(「古着屋総兵衛影始末第十巻」)で、大黒丸が辿り着いたツロンがこのダナンだったんじゃないかと思うのです。
児玉 三百年前には名門グェン家の今坂理右衛門が闊歩していたわけですね。
児玉 古着問屋にして影の旗本という設定は大変面白いですね。面白いというより、凄い装置です。物語を噴出させる装置です。初代鳶沢総兵衛は家康との密約で古着商いの権利を与えられる一方で、影の旗本として武力行使の権利をも与えられた。
佐伯 「影始末シリーズ」はそれから八十五年後の元禄・宝永期、六代目総兵衛の時代になります。
児玉 大黒屋は古着問屋の大きな商家にして徳川家の危難があれば立ち上がる武装集団でもあるわけです。そして、当主の総兵衛は戦国の気風を遺した剛剣、祖伝夢想流を会得したただ一人の奥義継承者であり、さらに秘剣、落花流水剣を編み出した剣豪です。これらの前提はいくつもの物語が重層的に立ち上がる構造を持っています。
佐伯 とおっしゃいますと?
児玉 まずは、史実に基づく前提の中で縦横無尽に架空の物語を描くという、「伝奇時代小説」であるということです。また、秘剣をあやつる主人公を擁した「剣豪小説」でもあります。一方で表の顔は商人ですから古着を廻る「経済小説」にもなります。そしてここが一番感心するのですが、古着というものの流通が情報を付着させて行われるというところに目をつけた点です。古着の売買は売る人買う人の個々の事情が品物と同時にやりとりされます。そうした江戸市中の町人・御家人のプライベートな内情までが、大黒屋に集まります。
佐伯 享保八年ですから、史実的にはこの元禄・宝永期より少し後になるのですが、幕府は「質屋、古着屋、古着買い、古道具屋、小道具屋,唐物屋、古鉄屋、古鉄買い」について「八品商売人」として定めました。この八品は当時、盗品を売って、現金化する者が横行したため、それぞれに組合を組織させ、盗品かどうか調査するための帳簿を作らせるのが狙いだったそうです。これがヒントになって、古着には情報が集まると思ったわけです……。
児玉 素晴らしい着眼点です。情報の駆け引きで物語が動く、つまり、インテリジェンス小説、「諜報謀略小説」でもあるということです。実際、どの巻でも敵方の屋敷に忍び込んでいち早く情報を集めたり──このあたりは「忍者小説」の趣があります──、流通網を生かして人捜しをしたり、大和柳生や京都に奉公人を派遣して諜報活動させるシーンが出てきます。そうした情報を総兵衛に集約し、敵の動きに一歩先んじた、先の先の手を打つことが出来るわけです。
佐伯 なるほど、インテリジェンス小説ですか、伺ってみるとそうかもしれませんね。
児玉 とおっしゃると、この重層的な構造は、はじめから意図されていた訳ではない?
佐伯 明確に意図はしていません。ただ無意識の中で、いくつもの補助線を張っておけば、物語を紡いでいくのに窮することがなくなるのではないかと思っていたのかもしれませんね。
児玉 意図しないものほど怖いものはありません。頭だけでこねまわした小説は、物語の流れがギクシャクしたものになっていることがありますから。
佐伯 私の場合は、頭というより体質で書いているという感じでしょうか。
児玉 ところで佐伯さんの原点は映画ですよね。
佐伯 はい。日活や大映の青春もの、東映ヤクザものチャンバラもの、東宝の黒沢映画、松竹の文芸もの等々、家業の関係でタダの鑑賞券が手に入ったので、みな映画館で見ましたよ。
児玉 一方で大衆時代小説も相当お読みになっていた。
佐伯 中学高校の頃ですね。貸本屋や図書館で片っ端から読んでましたね。ん? 今気づきましたが、私の家には蔵書の一冊もなかったし、映画にもお金を払ってないですね。
児玉 昭和三十年代でしょう? あの時代は仕方がありませんよ。家に本があるのは相当裕福な家庭でした。
佐伯 今はもちろん、本は新刊を買います。映画はチケットを買います。
児玉 当たり前です。自慢になりません(笑)。さて、大学では映画の勉強をなさって、社会人になって実際、映画やテレビCMの撮影に携わられた。
佐伯 アルバイトに毛が生えたような身分でしたが。
児玉 以降はスペインで、真剣勝負の中にも美しい舞踊の要素のある闘牛というものと写真家として格闘された。
佐伯 女房子供には迷惑を掛けました。
児玉 そして最初にお書きになったのが闘牛やボクシングなどに材を得たノンフィクションですね。
佐伯 ノンフィクションライターとしても写真家としても飯が食えなかったのです。失格です。
児玉 そして、海外在住経験を生かして国際謀略小説をお書きになった。
佐伯 なかなか売れなかったですが。
児玉 ざっと佐伯さんの経歴を振り返ったのは、そのすべてが、この古着屋総兵衛シリーズに生きているということがいいたかったのです。このまるで一般的でない人生の一瞬一瞬が佐伯さんの体質を形作った。
佐伯 時代小説デビューは五十七歳の時ですから、遠回りしていたようにも思うのですが。
児玉 まったく回り道はされてないと思いますよ。史実から立ち上るドラマを掴み取る眼はノンフィクション修業から、剣の立ち会いの息詰まる動きは闘牛から、汲めど尽きせぬ豊かな物語や人情の陰影は映画から、インテリジェンスの扱いは海外在住と国際謀略小説の経験から、定評ある描写の手腕は、写真家だったことが大きく影響しているはずです。
佐伯 どれをサボっていても、「古着屋総兵衛」は書けなかったわけですか……。
児玉 そして、旧版の「古着屋総兵衛影始末全十一巻」が二〇一一年の一月下旬から新潮文庫として刊行が開始されます。
佐伯 随分、手直ししましたので、「完全版」と謳いたいくらいです。
児玉 旧版の最終巻『帰還』が〇四年に刊行されていますので、実に丸六年振りに古着屋が戻ってくることになりますね。新シリーズ開始としては、「交代寄合」以来ですから、五年半振りになります。この満を持して始める、あるいは再開する「古着屋総兵衛」ですが、第一巻のタイトルが……。
佐伯 『新・古着屋総兵衛「血に非ず」』です。最後のシリーズになるかもしれません。
児玉 早速、読ませていただいたのですが、冒頭数ページで虜になりました。実に素晴らしい引き込まれる展開です。
佐伯 ありがとうございます。
児玉 時は「影始末」から九十三年後の享和年間です。数年後には江戸文化が爛熟した文化文政期になります。九代目総兵衛は労咳で死の床ですが、跡継ぎは早世してしまっていて、大黒屋内には十代目がいない。九代目が昔、手を付けた女中が子を産んでいるはずだ……というところが発端です。
佐伯 発端部分は随分前から頭にありました。
児玉 ネタバレになってしまうので、詳しくは申し上げられませんが、「影始末」第十巻『交趾』での伏線が生きてきます。一読して驚いたのですが、この『交趾』を書いていらっしゃった時点ですでに、新シリーズの構想がおありになったのでしょうか、そうとしか思えない流れです。
佐伯 うーん。いわぬが花ということもありますし。
児玉 了解いたしました。読者の皆さんにはヒントだけ差し上げておきましょう。『血に非ず』は、この対談の冒頭のベトナム紀行に大変縁が深いものである、ということです。
佐伯 といっても犬を四匹運ぶという話ではありません。
児玉 当たり前です(笑)。
児玉 意味深長な『血に非ず』というタイトルですが、この言葉が脳裏に浮かんだ瞬間は、病院のストレッチャーの上だったと「あとがき」に書かれてますね。
佐伯 そうなんです。ある検査の直後、急に血の気が引いて、意識を失ったんです。それでストレッチャーで病室に運ばれたんです。
児玉 それは、健康診断の一環の検査だったのですか。
佐伯 いえ。実は癌と診断されたんです。その検査だったんです。
児玉 えっ……。
佐伯 前立腺癌です。最初の病院では初期段階と診断されたのですが、次の病院では、そう簡単なものではないと……。
児玉 前立腺癌は、肺やリンパへの転移があることがあると聞いたことがあります。
佐伯 そうしたことを入念に検査してもらったんです。
児玉 大丈夫でしたか?
佐伯 ええ、転移は認められませんでした。
児玉 よかった。本当によかった。
佐伯 その本格的な治療が始まる前に、一度、転地療養もかねて、海外に出て頭の中を真っ白にしてみようと思ったのです。
児玉 大きな意味を持つベトナム旅行だったんですね。これから治療という戦いですね。早期の完治を心よりお祈りしております。
佐伯 ありがとうございます。
(二〇一〇年十一月二十九日 青山にて)