ご来店ありがとうございます。小僧の佐吉でございます。
この大黒屋矢来町店は大黒屋の無認可支店です。
〈古着屋総兵衛影始末〉シリーズや〈新・古着屋総兵衛〉シリーズの作中に出てくる人名や地名や歴史的な事柄などを、手もとの貧弱な資料をひっくり返しつつ、紹介させていただくコーナーです。なお無認可支店と申し上げましたとおり、私どもが何を書きましても、本家の佐伯泰英先生にはまったく責任はございません。誤記、悪文、更新遅滞、事実誤認等々、すべて責任は私どもにございます。先に謝っておきます、まことに申し訳ございません。さあ、頑張って更新していきたいと思います。
鶴岡出張
お久しぶりでございます。佐吉でございます。

 昨秋、鶴岡に出張してまいりました。そして痛恨のミスをしてしまいました。

 鶴岡というのは山形県でございます。庄内地方でございます。 庄内藩の城下町です。庄内藩の藩主は酒井家でございます。初代藩主は酒井忠勝。酒井忠勝は酒井家次の長男です。酒井家次は酒井忠次の長男です。

 そう、徳川四天王、徳川十六神将である酒井忠次の直系ということになります。ちなみに徳川四天王は酒井忠次、本多忠勝、榊原康政、井伊直政、徳川十六神将は四天王の四人に加えて米津常春、高木清秀、内藤正成、大久保忠世、大久保忠佐、蜂屋貞次<植村家存(家政)>、鳥居元忠、鳥居忠広、渡辺守綱、平岩親吉、服部正成、松平康忠<松平家忠>の十二人といわれています。いずれも筆頭が酒井忠次です。家康が今川に人質として出された時からずっと家康のそばに侍った重臣中の重臣です。

 この忠次の嫡男家次は家督を継いで、下総臼井城三万石から上野高崎藩を経て越後高田藩十万石となって死去。その家督を継いだ忠勝は越後高田藩十万石から信濃松代藩十万石に移封され、その後、出羽庄内藩十三万八千石(のちに十四万石)に。庄内藩二代藩主は忠勝の嫡男忠当(ただまさ)。最終的に出羽庄内藩は十七万石となったようです。庄内は米どころの豊かな土地で実質は二十万石くらいの石高があったそうです。


 酒井忠次-家次-忠勝(庄内藩初代藩主)-忠当(庄内藩二代藩主)


 この庄内藩酒井家の居城が鶴ヶ岡城で、現在は城址は鶴岡公園となっています。お堀には鴨がうようよいて、緑も美しく、春には桜が咲き誇るという、大変素晴らしい城址公園です。

 本丸跡に荘内神社があります。この荘内神社の祭神が酒井忠次、酒井家次、酒井忠勝、酒井忠徳(ただあり)の四人で、酒井忠次を初代とすると、初代、二代、三代、九代のお殿様が神様として崇められているということになります。

 この荘内神社の直ぐ側に鶴岡市立藤沢周平記念館がございます。今回の佐吉のミッションは、この藤沢周平記念館主催で行われる佐伯泰英先生の講演を聴きに行くということでございました。ご存知のように、佐伯先生は大変シャイな方で、講演の類はほとんど引き受けてこられませんでした。過去には僅かに盟友の故児玉清先生とのトークショーを引き受けられたくらいです。

 今年一月二十六日は藤沢周平先生没後二十年のアニバーサリーに当たります。

 藤沢周平先生といえば、用心棒日月抄、彫師伊之助捕物覚え、獄医立花登手控え、隠し剣の各人気シリーズが有名な時代小説作家です。シリーズ物以外に代表作として、『橋ものがたり』『?しぐれ』『暗殺の年輪』『暁のひかり』『冤罪』『三屋清左衛門残日録』『たそがれ清兵衛』『海鳴り』『白き瓶』『秘太刀馬の骨』『又蔵の火』『密謀』『義民が駆ける』などなど枚挙にいとまがないほどの傑作名作を遺されています。達意の文章で下級武士や庶民の喜びや悲しみをすくい取った作風に思わず涙された方も多いかと思います。

 講演類の依頼を一切受けてこられなかった佐伯先生が他ならぬ藤沢周平先生の追悼になるならと初めて受けられたのでした。


 講演前日の十月二十九日、佐吉は電車を乗り継いで鶴岡入りしたのでございますが、上越新幹線で新潟まで行き、新潟からは羽越本線を特急いなほ号で北上して参りました。左手にきりりと気持ちが引き締まる厳しい波濤を見せる日本海、右手にどこまでも広がる刈田が続き、シベリアから訪れたたくさんのコハクチョウが落ち穂を啄んでいるのが見えます。素晴らしい風景でした。

 鶴岡駅からのんびり二十分ほど歩けば鶴岡公園に着きます。お濠端にマガモが何十羽と整列しているのが大変可愛らしく、マガモ好きにはたまらないスポットです。緑豊かな公園内を進めば、荘内神社が見えてきます。神社にお参りして、藤沢周平記念館におじゃましました。自然光をふんだんに取り込む構造の、清潔で近代的でありながら華美ではなく、本当に素晴らしい建物でした。この時点で佐吉はまだ自分のしでかしたミスにまったく気づいておりませんでした。

 展示物も素晴らしく、藤沢先生の単行本が一挙に展示されているのは見る者を圧倒する迫力です。またお原稿も数々が展示されていて藤沢先生の肉筆を堪能できます。手(筆跡)には人柄が現れると申しますが、まさにご誠実であっただろうご性格が偲ばれる見事なお原稿でございました。藤沢先生の詳細な年譜も大きなパネルになっているのですが、ご苦労の連続であったことがよくわかりました。旧制中学では夜間部で学ばれ、昼間は印刷会社のちに村役場で働いていらっしゃいます。十八歳の時に終戦を迎え、中学卒業後は、山形師範学校(現在の山形大学教育学部)に進学されます。同人とともに文学修行に明け暮れた時代でもあったようです。師範学校卒業後は、中学の先生として社会に出られます。しかし、数年で肺結核のために療養生活に入られます。東京の病院で手術を受け、徐々に身体が回復されていきます。その後、業界紙の記者になられますが、勤め先が次々に倒産し、なかなか生活は安定せず、業界紙編集長の激務と子育てと新人賞応募のための執筆で大変な日々が続いたようです。

 一九七一年『溟い海』で第三十八回オール讀物新人賞を受賞され作家デビュー。翌七三年、『暗殺の年輪』で直木賞を受賞されます。それまでの順風満帆とは言いがたい人生の年輪が以降の作品の深みを形成しているように拝察いたします。

 藤沢先生の年譜を拝読して、再現された書斎を見ると感慨もより深いものになります。綺麗に整った資料類、書棚、机上……。お原稿での印象とお部屋の印象が寸分の狂いもなくぴったり一致するのです。深く感動します。素晴らしいです。ちょっと席を外していらっしゃるだけですぐにも戻ってこられて執筆の続きに入られそうな、そんな様子のお部屋なのです。

 ひとしきり感動して館長様にご挨拶させていただきました。この館長様が誠実を具現化したかのような立派なお人柄で、いっぺんに大ファンになってしまいました。


 さて、ここでいったん取った宿にチェックインしてと思っていたのですが、駅周辺にも鶴岡公園周辺にもそのホテルがありません。ホテルの名前を検索して住所を見てみると、鶴岡市内ではあるのですが、駅から五キロ、鶴岡公園から四キロほどあるようです。そのホテルは山形自動車道の鶴岡インターチェンジ付近にありました。つまり自動車での旅行客を受け入れるためのホテルだったのです。アメリカでいうモーテルですか。アメリカでなくてもモーテルですか。そのへんのモーテル事情はいまいちよくわかりません。佐吉はインターネットでいくつか出てきた候補を宿泊費でソートして、一番安い宿を選んだのでした。駅や市街地からは微妙な距離があるとはつゆ知らず、予約してしまったのです。「錯覚いけない、よく見るよろし」は実力制第四代名人升田幸三先生の言葉ですが、至言というべきでしょう。


 周辺にタクシーも走っていませんし、バスは早くに終わってしまうようでしたから、歩いてホテルを目指します。四~五キロといえば歩いて一時間です。予定されている夜の会合の会場は駅近辺で、まだ二時間以上あります。「むしろ日頃の運動不足が解消されてよい塩梅だろう」というような、半ば「かえってラッキー」くらいの気持ちでおりました。

 肌寒い日ではありましたが、まだ日が沈んでいませんから、知らない初めての町を歩くのは楽しいわけで意気揚々と出発しました。鶴岡の町並みは美しく、小さな川を跨ぐ小さな橋を渡り、歴史を感じさせるお店や会社の社屋などを楽しみながら、歩きました。途中、巨大な鳥居を持つ神社に遭遇しました。三宝荒神社とありました。由緒書きのような紙に推古帝の元年(593)という文字が見えました。ものすごい歴史です。蜂子皇子(はちこのおうじ)が出羽三山を開山したのがその年で、月山山中で修行された折に、東補陀落山に三宝荒神様が出現されて云々とありました。蜂子皇子というのは崇峻帝の第三皇子で、父崇峻帝が蘇我馬子に暗殺された際、聖徳太子の協力を得て北に脱出されたのだそうです。出羽三山はそれぞれ険しい山中の神社なので、お参りしやすい庄内平野に三宝荒神社が置かれたのでしょうか。そのあたりの詳細はよくわかりませんでした。しかし、朱色に輝く鳥居は大変立派なもので、靖国神社の鳥居に負けない大きさなのではないかと思った次第でございます。

 まさに一時間の散歩で、ホテルにたどり着きました。フロントで「お車のキーをお預かりします」的なことを言われて、「徒歩です」と答えたら怪訝な顔をされました。やはり、徒歩客は珍しいようです。寝床だけ確認して、すぐに折り返します。目指すは駅前ですから五キロの散歩です。秋の日没は早く、五時過ぎでもう結構な暗さです。またこの日は相当寒い日だったそうで、地元の方が「昨日まではそんなでもなかったんですよ」とおっしゃっていました。引きが強いです。風も強くなってきました。日も沈み、どんどん暗くなっていきます。薄手のジャンパーだけですから震えます。しゃかしゃか歩いて自力で体温を上げていかねばなりません。行きとは違ってもう暗いですから、観光も見物も何もないです。ひたすら駅を目指して歩きます。六時頃、ようやく駅前にたどり着きます。予約してあった居酒屋に飛び込みます。

 新進気鋭の昆虫学者T先生と一献傾けるのがこの夜のミッションです。何らかの事情があって鶴岡入りされていたのをよきタイミングと思い、食事を願い出たのでございます。

 また、新潮文庫編集部の新人編集者のT子も、佐伯先生のご講演を拝聴しに訪鶴していたので、同席してもらいます。

 T先生は寄生蜂(きせいほう/きせいばち)の今やトップランナーといっていい活躍ぶりの昆虫学者です。寄生蜂は蜘蛛の体内に寄生してやがてバリバリと蜘蛛を食い尽くして出てくる蜂です。すごい世界です。T先生のご著書、『クモを利用する策士、クモヒメバチ―身近で起こる本当のエイリアンとプレデターの闘い』(東海大学出版部)は、大変面白い本です。動物行動学の名著だと思います。

 クチボソカレイの塩焼き、ノドグロの塩焼き、イカやタイやハマチのお刺身、大粒のカキ、芋煮などなどアテに焼酎のお湯割りを頂きました。鶴岡、魚も素晴らしいです。T先生の今後の展望を伺いながら、動物行動学の輝ける未来について思いを馳せます。

 さて、二軒目は隣のカラオケボックスでした。

 T子は歌がめちゃくちゃ上手いのでそれなりの印象を残せたはずですが、やはり先輩としては、T子以上に印象を残さねばなりません。がつんと記憶にねじ込まねばなりません。吠えてシャウトして、シャウトして吠えて、T先生に圧倒的な印象を残し、散会です。午前一時過ぎでした。T先生も、T子も「よく見る」タイプのようで、駅至近のホテルにそれぞれ帰って行きました。さてさて、私です。よく見ないタイプの佐吉です。駅前にタクシーなど一台もいません。

 店に戻ってタクシー会社の電話番号を聞くという手もあったのですが、酔って気が大きくなっていたようです。

「よし、歩こう」

 たかが五キロです。気温は下がっていましたが、それでも凍えるというような温度ではありません。五度か六度くらいでしょう。酒も入っていますし、シャウトの余韻があります。逡巡する時間が無駄だとばかり、ずんずん歩き始めます。誰もいない深夜の鶴岡の街をシャウトしながら闊歩します。シャウト好きなのではなく、そうしないと寒いからです。心細いからです。

「二回曲がればホテルに着く」

 と思い込んで歩いていました。最初は、「平京田」という大きな交差点で、次はウエストモールバルという巨大な駐車場をいろんなお店で囲んでいる商業施設の角です。しかし、それは大きな錯誤だったのです。鶴岡公園からホテルに行く際は「平京田」で曲がったのですが、駅から行くには曲がってはならなかったのです。「錯覚いけない、よく見るよろし」です。

 そんなこととはつゆ知らず、ご機嫌で四十~五十年前の流行歌、「ブルー・ライト・ヨコハマ」とか「受験生ブルース」とか「中の島ブルース」とか、を虚空に向かってシャウトしながら、大股で闊歩します。暗くなっていますから、夕方一度見た風景を歩いているのですが気づきません。

 で、小さな川(青龍寺川)にかかった橋を越えます。ここで気づきます。

「むむむ、これは夕方、鶴岡公園から出てしばらくして渡った川ではないか」

 時計をみると午前二時十五分くらいです。一時間で着くところをすでに一時間十五分歩いています。鶴岡公園は目と鼻の先に迫っていました。即座に回れ右しました。同じ道を戻ります。三回目です。呆然としていてても時間は戻りません。何事もなかったかのようにシャカシャカ歩きます。回れ右から二十分ほどして、二回めには気づかなかった例の大鳥居の前を通過しました。電飾のたぐいがないので夜は闇に紛れるのです。回れ右以降は歌をシャウトする元気などありません。むしろシャウトしていたから曲がってはならないところで曲がってしまったのです。シャウトのせいです。今度は完全に黙秘です。だんまりを決め込んで、粛々と歩きます。夕方見た風景の記憶が蘇ってきます。それをなぞって歩きます。黙々と歩きます。寒いのですが、黙って歩きます。艱難辛苦に耐え抜き、午前三時過ぎにホテルにたどり着きました。鶴岡の寒い道を二時間さまよったのでした。「錯覚いけない、よく見るよろし」です。結局、この日は、トータルで二十キロくらい歩いたようです。


 一夜明けて、十月三十日。佐吉はもちろん、寝不足で二日酔いです。ちょっと二日酔いくらいが落ち着いていい仕事ができる傾向がありますので大丈夫です。誰に言い訳しているのかわかりませんが。チェックアウトして、歩いて鶴岡公園に行きます。あの巨大鳥居の前を通るのは、四回めです。ほとんど友達です。


 十一時頃、記念館に伺って藤沢周平先生のご遺族にご挨拶させていただきました。藤沢先生のお身内の方ですから、緊張いたしました。しかし、大変にお優しいご夫婦でいろんなエピソードをうかがうことができました。勉強になります。ありがたいです。

 佐伯泰英先生とは荘内神社の参集殿で合流しました。生まれて初めてのご講演で、さすがの佐伯先生も緊張なさっていたようにお見受けしました。

 お客様は続々と集まっていらっしゃいました。

 講演は参加無料ですが事前に応募しておかねばなりません。二百五十席が埋まったそうです。

 演題は、「藤沢周平さんと私」でした。

 藤沢周平先生のファンの方、佐伯泰英先生のファンの方、その両方の方、配分はわかりませんが、会場は熱気に包まれていました。鶴岡市長や教育長など偉い方々、酒井家の現在の当主の方(世が世ならお殿様です!)、また東京から新聞社や通信社の敏腕記者、山形市内から文芸評論家の池上冬樹先生も駆けつけてらっしゃいました。出版社では文藝春秋のみなさんが今回の講演会を仕切ってらっしゃったのでたくさんお見えでした。生き馬の目を抜く出版界ではございますが、文藝春秋の方は高潔な人格の方ばかりです。いつもお世話になりっぱなしで、特に文春のベッキーことBさんには行住坐臥感銘を受けております。ありがとうございます。私は借りてきた猫のようにちんまりと座っておりました。昨日の夜のシャウト三昧がウソのようです。シャウト以外もやればできるのです。やればできる子なのにねえといつも先生と親に言われてました。若干どうでもいいことですね。すみません。


 佐伯先生の講演が始まりました。

 一時間二十分を一部と二部に分けて、一部では藤沢先生の小説作品に佐伯先生がどのように接して、どのような影響をうけたのか、二部はスペインの闘牛を追いかけたカメラマン時代がどんな形で今の作家としての活動に生きているのかというお話をされました。

 スライドを多数用意されていて、お声も大きく、滑舌もよく、大変わかり易く面白くスリリングな講演でございました。

 記憶に残ったところを箇条書きで記させていただきます。まZYは第一部。

 ◯ノンフィクションやスパイ小説あわせて三十冊は書いたが、いずれも重版しなかった話。

 ◯これまで出してくれた出版社から引導を渡された、つまり編集者から「もう官能小説か時代小説しかないね」と言われた話。

 ◯官能は書けないから、時代小説を書くしかないと思ったという話。

 ◯これまでのご自分の歴史・時代小説に関する読書歴の話。吉川英治、柴田錬三郎、司馬遼太郎、池波正太郎、藤沢周平……。

 ◯時代小説に挑戦するにあたって、敢えてそうした諸先輩方の作品は読み返さなかったという話。

 ◯いきなり長編に挑戦するのは勝手がわからないので短編を数本書いて旧知の編集者に持ち込んだら、「えっ、ほんとうに書いたの」と半ば呆れられ、その後「短編集というのは円熟の域のベテランや売れっ子が出すもので時代小説業界ではまったく無名の佐伯さんの短編集を出せるはずがない」と読んでもらえないどころか受け取ってももらえず突き返されたという話。

 ◯それもそうだと長編に取り組んで艱難辛苦、書き上げて再び持ち込んだところ、編集者も根負けしたのか受け取ってくれた。そしてその原稿を質にウン万円の印税前借りをお願いした話。

 ◯その長編が刊行されてすぐ担当編集者から「重版するよ」という連絡をもらい、これが生涯最初の重版となったという話。

 ◯最初に手がけたシリーズ作品は『密命 見参! 寒月霞斬り』だが、今思えば、藤沢周平先生の『用心棒日月抄』シリーズと構造がよく似ているという話。


 第二部はカメラマン時代、その情熱の多くを注ぎ込んだ闘牛についてのお話です。

 ◯スペインの闘牛は日本の大相撲のように地区地区に闘牛士が巡業して行われるということ。

 ◯カメラマンとして写真を撮るにあたってその闘牛士たちの中に入り込まないといけない苦労(交渉時には高級な葉巻を一本差し出した)のお話。

 ◯闘牛士志願者は闘牛士の衣装を風呂敷のような布で包んで、木剣を携え闘牛場付近で飛び入りの機会を虎視眈々と待っていて、数少ないチャンスを得ると興行師の目に留まるべく命がけて挑戦したという話。

 ◯闘牛の立合いとその間や技の種類のお話。

 ◯スーパースターだったエル・コルドベスの話と彼を題材としたノンフィクション『闘牛士エル・コルドベス 1969年の叛乱』を発表されたお話。

 興業を追いかける日々の中でスペインの人たちの人情にもずいぶんと助けられたようです。

 こうしたお話の中で、ご自身が撮影されたお写真をスライドでたくさん見せてくださいました。


 一見、何の関係もないようなスペインの闘牛と時代小説ですが、一流の闘牛士の呼吸と剣術の達人の呼吸は相通じるものがあり、志願者の命がけ飛び入りの姿は武者修行で名を上げようとする剣士の姿と重なり、長屋の人情を描くにあたっては興行を追いかける不自由な環境で子供を育てていく中でご近所の方々に助けられた日々がそっくりそのまま生きているわけです。また興行の裏の世界も政治的な駆け引きを連想させます。

 読者として熱心に歴史小説・時代小説をお読みになり、スペインで闘牛と人情に出会う。こうして時代小説作家佐伯泰英先生は出来上がったのですね。一度は引導を渡されたもの書きですから、どん底から這い上がり立ち上がったわけです。その迫力満点のお話にお客様方はみな手に汗握り、涙を浮かべて、熱心に聞き入っておられました。

 話が終わって、質疑応答の時間が設けられ、お二人がマイクを手にされました。お二人とも熱心な佐伯先生の愛読者の方で質問というより、心のこもった先生への感謝のお言葉といったふうで、その温かさにも感動してしまいました。

 すべての予定が終了し、先生が頭を下げられたその時、万雷の拍手がわき起こり、しばらく鳴り止みませんでした。素晴らしいご講演でございました。番頭さんを説き伏せて出張させてもらった甲斐がございました。演題には「藤沢周平さん」とありましたが、佐伯先生はかならず「藤沢先生」とおっしゃっていました。


 鶴岡はまことによい街でございました。美しく、歴史と文化があり、食べ物が美味しいのでした。また、藤沢周平記念館も素晴らしい施設でした。荘内神社も素晴らしい神社でした。宝物殿ではふた月ごとに展示物が入れ替わります。藤沢周平記念館と背中合わせの大宝館は、大正天皇の即位を記念して建てられた洋風建築で素晴らしい品格です。市の有形文化財に指定されており館内には郷土の人物の資料が展示されています。

 鶴岡公園の直ぐそばには、致道博物館があり領主酒井家に伝わる国宝・重文の大変貴重な展示品の他、歴史的な建造物も公開されています。



 これが今回の鶴岡出張の顛末でございます。最後までお読みいただき、感謝申し上げます。

2017/4/14 更新

対立が激化する綱吉と光圀。裏にはある僧の影が……。新潮文庫百年特別書き下ろし作品。
光圀―古着屋総兵衛 初傳―

ISBN:978-4-10-138034-6/整理番号:さ-73-0/発売日/2015/04/01
737円 

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総兵衛は稀代の絵師喜多川歌麿が極秘裏に描く禁制に触れる一枚絵を追うのだが……。
たそがれ歌麿―新・古着屋総兵衛 第九巻―

ISBN:978-4-10-138054-4/整理番号:さ-73-20/発売日:2014/12/01
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帰還―古着屋総兵衛影始末 第十一巻―
ISBN:978-4-10-138045-2/整理番号:さ-73-11/発売日:2011/09/01
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佐伯泰英 児玉清[特別対談]
佐伯泰英「新・古着屋総兵衛」シリーズ あらすじ/人物紹介
佐伯泰英「古着屋総兵衛影始末」シリーズ あらすじ/人物紹介
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