こざわたまこ『負け逃げ』

発売前の短篇 全文公開!「美しく、輝く」
[書評]窪美澄「けもの道を全力で走り出す」
目次

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Ⅰ 僕の災い
Ⅱ 美しく、輝く
Ⅲ 蠅
Ⅳ 兄帰らず
Ⅴ けもの道
Ⅵ ふるさとの春はいつも少し遅い

 この村は、周囲を山に取り囲まれた盆地にある。さらに、南半分が人の住む町と田畑、北半分がタヌキやらイノシシが棲む里山といくつかの小さな集落でできていて、真ん中には、山と人とを分かつように一本の川が流れている。私達の高校があるのは、町から川を隔てた向こう側、山の入り口だ。

 川は水無(みずなし)川と言って、水無と言う割に、まあ普通に水はある。そもそも水無川、というのは川の種類の名前なので、本当は他に正式名称があるらしい。けど、村の大人がみんなあの川をそう呼ぶので、私達もそう呼んでいる。私はこの川に架かる水無橋から見る景色が、この村のどんな風景よりも好きだった。

 水無川は浅く、ところどころに中州があって、昼間は釣り人達で賑わう。鮎釣りの密かな名所らしい。家族連れやカップルなんかにも人気のスポットだ。
 ところが、太陽が沈んで村に夜が顔を出すと、この辺りからは潮が引くように人がいなくなってしまう。美輝ちゃんと別れて、帰り道に橋を渡るのがちょうどその頃だ。

 橋から見る夜の川は、漆黒の世界地図に見える。水面が海で、中州が陸地。この世のどこにも存在しない、ここだけの世界地図だ。しかも、その日の川の水位によって、地図の地形は毎日微妙に変化した。それを目にするたびに、この村を抜け出して、別の世界に来たような気持ちになれる。

 この村は、緑がきれいで、水も空気もおいしい。けど、映画や小説に出てくる絵に描いたような田舎町にはなりきれなくて、町のツタヤがトレンドのライフライン。だから死ぬほど退屈で、でも最低限の生活には困ることのないぬるま湯のような村だ。

 ゆきりんとハラエリいわく、この村は最低だ。この村から隣町へと続く国道沿いには、これぞ地方都市のモデルケース、とでも言わんばかりにラブホテルが何軒も連なっている。そういうところが最低、らしい。さらにはそのホテルの名前が「ドルフィン」だったり「ホテル夢小路」だったりするところが、もう見てるだけで死にたくなるんだそうだ。でも、そんな村を最低だ最低だ、と語る二人の顔は、近所の悪口を言うこの村の大人達とそっくりで、結局二人は、この最低な村の中で一生を終えていくんだろうな、と思う。

 川が世界地図に見えるなんてのは夜だけの魔法で、登校する時に見る橋からの景色は、ただの風景でしかない。昨日ヒデジに怒られたとか、ゆきりんやハラエリが冷たかったとか、そんなことがあった日の翌朝は、特にそうだ。川が朝日を照り返し、どれだけ美しく輝いていたとしても、私の心は全く揺り動かされない。それどころか、ひどくのっぺりとした、灰色の風景に見えてくる。誰か、見知らぬ人の遺影みたいに。



 冬より日が長くなったとはいえ、外はもう暗い。でも、人が消えてしんとした校舎は、水無川の次くらいに好きだ。私は美輝ちゃんとつるんでいることを、ゆきりんとハラエリにはもちろん、クラスの誰にも話さなかった。教室では、「漫画」という言葉は禁止にしてある。二人だけの秘密、と言うと、美輝ちゃんは喜んで私の案に賛成してくれた。

 その日も、私達は一緒に放課後を過ごしていた。私がゆきりんとハラエリについた嘘の回数は、すでに両手では数えきれない程になっていた。球技大会の実行委員の集まりがあるから、と言えば二人はすんなり引き下がる。

 そもそもゆきりんが、真理子は責任感があるから、なんて言って私を推薦したからだ。クラスTシャツを作ろうとか、面倒な仕事は全部案だけ出して投げっぱなしにするくせに、「あのデザイン微妙」なんて不平不満だけは一丁前だ。けど、私が文句を言いかけると、ゆきりんは、もういいよ、とそれをさえぎり、ハラエリを連れて教室を出て行ってしまった。ハラエリは去り際、申し訳なさそうにこちらを振り返ったけど、戻ってきてはくれなかった。

 お互いの漫画を読み終わって、帰り支度を始めると、それを見ていた美輝ちゃんが意を決したように声を掛けてきた。

「一緒に帰らない?」
 その台詞の意味を理解するのに、十秒くらいかかった。それが自分に向けられた言葉だと思わなかったからだ。

 美輝ちゃんが自分から話しかけてくるのも、何かを提案するのも初めてだったし、何より私と美輝ちゃんは漫画以外の時間を共有したことがなかった。漫画を読む時間が終わると、私達は当然のように別々に教室を出た。同じ橋を渡り、同じ村の家に帰るんだとしても。

 私の脳みそは普段の会話と比べ物にならないくらい長い時間をかけて美輝ちゃんの言葉を咀嚼して、ようやく、一緒に下校しようと誘っているんだ、ということを理解した。

 ふと、美輝ちゃんは普段人から話しかけられる時、いつもこんな感じなのかもしれないと思った。まさか自分が話しかけられると思っていなくて、だから小学生が国語の問題を解くみたいに、一から文の意味を考えているのかもしれない。何か返す前に、美輝ちゃんがあせったように言葉を重ねた。

「ごめんね、やっぱやだよね、私なんかと一緒に帰るの」

 それを聞いた私はなぜだか腹立たしくなり、わざと怒ったように、そんなことないよと返した。そうだ、別になんでもないことだ、美輝ちゃんと帰るくらい。
 美輝ちゃんは、あからさまにほっとした声で、ほんとに? と言い、目を潤ませながら、よかった、と息を漏らした。一世一代のプロポーズに成功したみたいなリアクションだ。それを見て、少しうんざりする。そして、そんな気持ちになったことを後ろめたく思った。

 美輝ちゃんといると、こういうことがたびたびある。美輝ちゃんは悪くないし、多分私も悪くないのに、一方的に悪者になったみたいな気分だ。少女漫画なら、一途な主人公にそっけない振る舞いをするいけずな男の子は、読者から嫌われてしまう。けど今なら、その男の子の気持ちがわかる気がする。

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