こざわたまこ『負け逃げ』

発売前の短篇 全文公開!「美しく、輝く」
[書評]窪美澄「けもの道を全力で走り出す」
目次

目次

Ⅰ 僕の災い
Ⅱ 美しく、輝く
Ⅲ 蠅
Ⅳ 兄帰らず
Ⅴ けもの道
Ⅵ ふるさとの春はいつも少し遅い

「真理子ちゃん」
 橋の終わり、別れ際にそう呼ばれた。人を呼び止めるなんてしたことがないんだろう美輝ちゃんの声は加減を間違えて、人気のない道路にいやに大きく響き渡った。

「私、描いた漫画を雑誌に投稿してみたい」
 そう言う美輝ちゃんの瞳は爛々と輝いていた。初めてその名前にふさわしい情熱を、光を見た気がした。その眩しさに、思わず目を背ける。外した視線の先に言うべき台詞を探そうとしたけど、すぐに、そんなのはどこにもないってことに気づいた。

 言葉はペラペラのコピー用紙で、ともすれば風にさらわれてしまいそうだ。やっと搾り出した、がんばって、は声がかすれて、自分の本心かどうかもわからなかった。心の底では美輝ちゃんにがんばってほしいと思っている気もしたし、そんなの美輝ちゃんにできるわけないじゃん、って鼻白むような気持ちもあった。また、どこかには、美輝ちゃんの夢がぐちゃぐちゃに潰れてしまえばいいと願う、ひどく残酷な自分もいた。

 私の内心なんて知るよしもなく、美輝ちゃんはありがとうと微笑み、描いたらいちばんに見せるねと約束してくれた。そう言う美輝ちゃんの笑顔は、私の心に再び黒い影を射した。私は、その影を振り払うように美輝ちゃんに呼びかけた。

「美輝ちゃん」
 今度一緒に、隣町の画材屋に行こうね。いっぱいトーン買おうね。美輝ちゃんに言っているようで、本当は自分に言い聞かせながら、わざと声を張り上げた。さっき美輝ちゃんが、私を呼んでくれたみたいに。美輝ちゃんは私の言葉に、首が折れるんじゃないかってくらい大きく頷いて、けれどその姿は次第に遠ざかり、濃さを増していく村の暗闇に消えていった。



 その夜、私は新しい漫画を描き始めた。美輝ちゃんが主人公の漫画だ。まずシャーペンで、美輝ちゃんの顔を描いてみる。目は顔の半分くらい大きく、睫毛をつけて、でも美人すぎずに、やわらかな描線で。少女漫画の主人公みたいに。どうにもしっくりこなくて、少年漫画のヒロインとして描いてみた。顔は幼くツインテールで、でもおっぱいは大きめに、ムチムチとした体つきで。けど、それもいまいちだった。

 次は、脇キャラで出してみた。その次は、主人公のクラスメイトとして。村人として。召使達のひとりとして。今度はライバルとして。親友として。敵のボスキャラとして。やっぱりうまくいかなかった。

 紙の上の美輝ちゃんを漫画の枠の中に押し込めようとすると、現実の美輝ちゃんがどこからか飛び出して来て、それを邪魔する。何度か試行錯誤を繰り返して、私は描くことを諦めた。出来上がったとしても、美輝ちゃんには見せられない。その日は、一ページも進まなかった。



 日を追うごとに、美輝ちゃんの頬はこけ、目は落ち窪み、顔色は悪くなっていった。しばらくすると、放課後目をこすりながら、昨日は徹夜、とぼやくようになった。そうでない日も、明け方まで漫画を描いているらしい。授業中の居眠りが増え、ヒデジから呼び出しを受ける回数も多くなった。

 ヒデジはここぞとばかりに美輝ちゃんに目をつけ出した。授業中ちょっとよそ見をしていたとか、指したら答えられなかったとか、何かにつけては因縁をつけて、美輝ちゃんをいびっていた。でもそれも、美輝ちゃんの漫画への情熱を冷めさせるには至らない。

 美輝ちゃんは、授業中やお昼休みも、なりふりかまわず漫画を描いていた。女子高生の日常としては、かなり異様な姿ではあったけれど、美輝ちゃんは一人でいるのが当たり前なので、それを気に留めるクラスメイトなんていなかった。

 投稿の締め切りが迫っているというのに、私が読んだ漫画に対して芳しくない反応をすると、次の日には全く別の漫画を渡された。もちろん、漫画の主人公は美輝ちゃんで、それだけは変わることがなかった。

 反対に、私が美輝ちゃんに漫画を見せる機会は少しずつ減っていった。美輝ちゃんはそれに対して、何も言わなかった。放課後の時間は次第に、漫画の見せ合いというよりも、私が美輝ちゃんの漫画を読んで、その感想を告げアドバイスをする、という一方的なお披露目会に変化していった。

「この流れだと主人公の気持ちがわかりづらい」
「このコマは説明が多すぎる」
「ここはもっと絵でカバーできるんじゃないか」

 自分の意見が吸収され、それが作品に反映されていく姿を見るのは、気分の悪いものじゃなかった。むしろ、やりがいのある仕事だった。私はそれが自分の描いた漫画であるかのように、親身になって助言した。美輝ちゃんは、私が思っていたよりも素直で柔軟で、努力家だった。

 美輝ちゃんはもうすぐ、完成させた漫画を雑誌に投稿するだろう。そしておおげさでなく、その作品の一端を私が担っている。この村の桜が咲いて、そして散る頃、私達は特に声を掛け合うでもなく、ごく普通に、当たり前に並んで下校するようになっていた。水無橋を渡って。時には、漫画家の名前や作品のタイトルでしりとりをしながら。

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