こざわたまこ『負け逃げ』

発売前の短篇 全文公開!「美しく、輝く」
[書評]窪美澄「けもの道を全力で走り出す」
目次

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Ⅰ 僕の災い
Ⅱ 美しく、輝く
Ⅲ 蠅
Ⅳ 兄帰らず
Ⅴ けもの道
Ⅵ ふるさとの春はいつも少し遅い

「代わりに持ってこうか」

 そう言った瞬間、美輝ちゃんの顔がぱっと輝いた。私が初めて、美輝ちゃんの漫画にアドバイスした時みたいに。私はそれを直視できないまま、いいから早く行きなよ、と急(せ)かした。美輝ちゃんはこくこく頷き、持っていた封筒を差し出した。涙ぐみながら、何度もありがとねを繰り返し、後ろ髪を引かれるようにして教室を去っていった。去り行く美輝ちゃんに、私は笑えていただろうか。


 私は今日も一人、水無橋を渡っている。緩やかに山の際へ落ちていく太陽が、同じく下校途中の生徒達を照らす。私の前を、野口さん達が歩いていた。好きな小説家の話で盛り上がり、楽しそうに笑っている。足の悪い野口さんに合わせて、前原さんがゆっくり歩く。それに対して、野口さんは申し訳なさそうにも、必要以上にお礼を言ったりもしない。

 しばらくして、二人の近くに野口さんの家族らしき車が止まり、野口さんはそれに乗って橋を去って行った。前原さんは野口さんを見送ると、二人でいた時と変わらないスピードでまた歩き出した。それを早足で追い越して、美輝ちゃんから預かった封筒を取り出した。

 封筒の口のセロテープに爪をかける。美輝ちゃんが貼り付けたセロテープは、よれて曲がって散々だった。これでよく漫画なんて描けたな、と思う。きれいに剥がすのはあきらめ、破くようにして封筒を開けた。普通の紙より少し硬い原稿用紙が覗く。そこに書かれた四角の枠が見えた瞬間、少しためらったけど、結局私は橋の真ん中で、その漫画を読み始めた。

 美輝ちゃんの漫画は、やっぱりいつも通り美輝ちゃんが主人公だった。ただし今回の美輝ちゃんは漫画の中で、変身したり、世界を救ったり、いきなりプロポーズされたりすることはなかった。美輝ちゃんは美輝ちゃんのまま、いつまで経っても鈍臭く、いつまで経ってもその歯は矯正中のまま、いつまで経ってもおしゃべりが下手で、いつまで経ってもなんの取り得もない、さえない女の子だった。

 けど、そんな美輝ちゃんに、漫画の中で友達ができた。同じ夢を持った、クラスメイトの女の子だった。その漫画は、美輝ちゃんみたいなひとりぼっちの女の子が、美輝ちゃんみたいにひとりぼっちで日々を過ごしていく中で、たったひとりの友達ができるっていう、ただそれだけの漫画だった。

 原稿用紙に雫が垂れて、一滴、また一滴と染み込み、濡れていく。あわてて手でぬぐうと、滲んだ枠線が擦れて、汚れた。しまったと思ったけど、止まらなかった。涙は後から後から零れ落ちた。

 私は美輝ちゃんの漫画を読んで、泣いていた。漫画の中の美輝ちゃんに、友達ができたからだろうか? そこに描かれている「友達」のモデルが、明らかに自分だったからだろうか? 違う。その漫画が、おもしろかったからだ。本当に、おもしろかったから。

 美輝ちゃんの描く漫画には哀愁があって、物悲しくて、でも、そこには確かに明かりが灯っていた。暗闇の道しるべとなるような、微かな光。それは、美しく瞬きながら、闇を蹴散らし、読む者の心を照らす。例えば、希望のような。

 美輝ちゃんはいつのまに、こんな漫画を描くようになったんだろう。あんなに自分に自信がなくて、いつもおどおど人の顔色を窺って、自分の意見も満足に言えないようなあの子が。そうだ、美輝ちゃんは、自分の漫画に対してだけは「私なんか」を使わなかった。

 私は、やっと気づいた。美輝ちゃんと漫画の間にある切れようのない絆と、私と美輝ちゃんの間に存在する、埋まりようのない溝に。

 帰り道、いつものしりとりで美輝ちゃんが言う漫画は、私が聞いたことのないものばかりだった。私はその場では知ったかぶって、その漫画のタイトルを必死に覚え、家に帰ってからこそこそインターネットで調べた。

 美輝ちゃんが口にした漫画はどれも少しだけ古くて、でも必ず漫画史に残る名作、なんてふれ込みとともに紹介されていた。けど、私は結局、わざわざそれらを手に入れて読むなんてことはしなかった。そして夜な夜な部屋に溜まっていく描きかけの原稿用紙は、ちょっとばかりの万能感を与えてはくれるけど、私は一作だってそれを完成させた例(ためし)がない。

 ゴオッと音がして、強い風が水無橋を通り抜けた。巻き上げられる砂と埃に、人々が悲鳴を上げる。私は目をつぶり、吹き飛びそうになる漫画を持っていかれまいと、手に力を込めた。風が止み、うっすらと瞼を開ける。

 そこには、いつもと変わらない川があった。目の前に広がる景色は、ちっとも世界地図なんかには見えない。かといって灰色の風景でもない。そこにあるのは、田舎町に流れるごく普通の川だった。けれどその水面は、西日に照らされてきらきらと輝いている。まるで、美輝ちゃんの描く漫画みたいに。

 私はその光に誘われるように足を止め、欄干に手をかけて、美輝ちゃんのことを思った。そして、自分の部屋に散乱している、描きかけの美輝ちゃんの漫画のことを思った。そういえば、美輝ちゃんは一度も私の漫画に感想を言ってくれなかったな。それに気づいて、無理やり笑ってみた。漫画の一コマみたいに。私の乾いた笑い声は、誰にも描きとめられることのないまま、もう一度吹いた風に舞って、どこかに消えてしまった。私は漫画を持っていた力を緩め、原稿用紙を橋の上から手放した。

 漫画は、吹きすさぶ風の流れに翻弄されながら、何枚かは橋にぶつかって引っかかり、何枚かは川に着水して流されたりして、静かに私の目の前から姿を消していった。道行く人は私に咎めるような視線を送ったけど、私はそれよりも、空中を舞い落ちていく原稿用紙に、目を奪われていた。初めて美輝ちゃんの漫画を見た時みたいだ。私はそれを、白い花びらのようだと思った。ひらひら、ひらひら、落ちていく。あの時も今も、やっぱりそれはきれいだった。

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