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Good Job!

デスク男 

とあるサイトに浮かび上がる、ひとつのリンク。添えられていた賛辞に誘われ、まとめサイトに飛んでみると、そこには、未知の世界が広がっていました。
特定の書き手がいるのではなく、同時進行的に多数の方が書き込んでいながら、「恋愛」「青春」「成長」「挫折」「友情」など、さまざまな要素を含む古典的ストーリーとして完成している。なんなんだこれは!
私には、この「電車男」が、極めて文学に近いものに思えてなりませんでした。
書き手が複数と言うなら、共作/競作の作品があります。中絶した絶筆を別の作家が書き継いだケースがあります。句を複数の人が次々に詠い連ね完成させる平安以来の詩形式、長連歌もあります。
確かに、「電車男」は、小説でも詩でもエッセイでも戯曲でもなく、ネット上の掲示板に書かれた文章の連なりです。ですが、それが何か? アスキーアートがあるにせよ、「電車男」がある種の言語表現であることは、論を俟たないでしょう。
とするなら、「電車男」が文学であるかどうかというメルクマールは、書き手の数や匿名性や表現形式の問題ではなく、読み手の感動を呼び覚ますかどうか、という点に帰着するのではないでしょうか。
一つの書き込みが次の書き込みを誘い、その書き込みが電車男のさらなる行動を呼び起こし、事態を変化させ、極めて優れたストーリーが進んでいく「電車男」は、音楽家の即興演奏よりも遥かに偶然性の高い、何かの要素が一つ欠けても成立し得なかった「奇跡」のように見えたのです。
この優れた物語を前にして、出版のオファーを即決したことは言うまでもありません。
翌日から、具体化をめざす動きが始まりました。誰に連絡を取ればいいのか。本文は横組みなのか、縦組みなのか。判型は? 造本は? カバーはどんなイメージで? アスキーアートはどうするのか――。
幸いにして小社での出版が決まって、編集作業が進み、目を通す関係者が増えるにつれ、そのレスポンスの強さは想像を超えたものでした。電車男にエールを送った「名無しさん」のように、「『電車男』がんばれっ!」という声が、社内に渦巻いたのです。
関係者の熱い支持が積み重なり、現実の「モノ」として、22日、『電車男』はいよいよ発売の日を迎えます。リンクを目にした晩が、ずいぶん昔のように思えますが、そのとき思い巡らせていたイメージを凌駕する本ができあがったいま、一人でも多くの方々に本書を読んでいただきたいと願っています。