黄色いマンション 黒い猫
649円(税込)
発売日:2021/11/27
- 文庫
私にだって普通の日常があった――。過去、現在、未来を行き来しながら大切な記憶を綴ったエッセイ集。
原宿の黄色いマンションに住んでいたことがある。アイドルとして忙しかった私の青春は、原宿と共にあった。私にだって普通の日常があったのだ――家族のこと、秘密の恋、猫との日々、生と死……。変わり続ける街並みを見つめ、過去、現在、未来、さまざまな時間を行き来しながら大切な記憶を綴ったエッセイ。文庫化にあたり、「和田さんの今日子ちゃん」他1編を追加。講談社エッセイ賞受賞。
スクーターズとチープ・トリック
リッチくんのバレンタイン
嵐の日も 彼とならば
真剣に親権問題
ユミさんのお母ちゃん
夕暮れの保健室
彼女はどうだったんだろう?
原宿キッス
天使に会ったのだ
チャリン、チャリン、チャリン
海辺の町にて
ラブレター フロム
愛だの 恋だの
ただの思い出
飛行機の音 ラジカセの音
母と娘の喫茶店
あの男
懐古と感謝
彼女からの電話
ミカちゃん、ピテカン、そして……
あたしのロリポップ
雨の日の246
あの子の話
お化け怖い!
アキと春子と私の青春
渋滞~そして人生考
ジョーゼットのワンピース
花や 庭や
団地のヌノタくん
ナンパの季節
四月某日の手記
続、生い立ちの記
逃避行、そして半世紀
和田さんの今日子ちゃん
書誌情報
読み仮名 | キイロイマンションクロイネコ |
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シリーズ名 | 新潮文庫 |
装幀 | @Wada Makoto/カバー(カバー原画所蔵:多摩美術大学アーカイヴセンター)、新潮社装幀室/デザイン |
発行形態 | 文庫 |
判型 | 新潮文庫 |
頁数 | 208ページ |
ISBN | 978-4-10-103421-8 |
C-CODE | 0195 |
整理番号 | こ-72-1 |
ジャンル | 文学・評論 |
定価 | 649円 |
インタビュー/対談/エッセイ
私と彼らのあの頃
アイドル全盛期といわれた1980年代。小泉今日子は歌手として多忙な毎日を送る中で「私」にもあった普通の日常をエッセイに綴った。一方で、アイドル・小泉今日子を追いかける少年たちの青春の日々を小説に描いた高崎卓馬が、あの頃のファンとの関係性、自分の記憶を綴るということについて小泉に聞く。
*本対談は雑誌「SWITCH」2022年1月号(2021年12月20日発売)「原宿百景」との連動企画です。ぜひあわせてお楽しみください!
高崎 雑誌「SWITCH」で連載していた小泉さんの「原宿百景」(2007~2016年)が大好きでした。そこに小泉さんが綴るエッセイをまとめた本『黄色いマンション 黒い猫』が文庫化されましたが、連載当時からいつも楽しみに読ませていただいていました。
小泉 わあ、うれしいです。ありがとう。高崎君は広告業界の人。でも、映画やドラマの制作に関わったり、執筆活動もしていて、アイドル時代の私、小泉今日子が登場する小説を書いているんだよね。
高崎 アイドル全盛期と言われた1980年代を舞台に、『オートリバース』という本を書かせていただきました。デビュー間もない小泉さんを、ファンとして夢中で追いかけることで、自分たちの居場所を見つけながらも、様々なことに直面していく十代の少年二人の姿を描いた青春小説です。
小泉 私は『黄色いマンション 黒い猫』の中で、幼少期から現在までの自分の思い出を綴っているのだけれど、高崎君が小説に描いている、私がアイドルだった時期のことも書いています。私がエッセイに書く、自分にとって普通の日常の中にいる小泉今日子と、高崎君が小説に描く、アイドル・小泉今日子。一人の人間のことなのに、立場も視点も全く違うから、二冊を読むと不思議な感覚に陥るんだよね。まるで、小泉今日子という人の表と裏を見ているようで、すごく面白いの。
小説に描かれた小泉今日子の親衛隊
小泉 そもそも私のことを……というよりも、“小泉今日子”という実在するアイドルを題材にした小説を書こうと思ったのはどうしてだったの?
高崎 小泉さんから、直接、アイドル時代の話を聞いたことが大きなきっかけです。友人の吉田玲雄君が書いた『ホノカアボーイ』というエッセイがあるのですが、十年くらい前に、僕が脚本を書いてその本を原作とした映画を製作したんです。玲雄は昔から小泉さんと仲が良くて、映画が公開された後、みんなで食事会をしたんですよね。
小泉 原作には私も登場します(笑)。
高崎 僕が作詞をした映画の主題歌も小泉さんに唄っていただきました(笑)。その食事会の時、小泉さんの横に見知らぬ女性がいらした。ハーちゃんという方で、聞くと、小泉さんが1982年に歌手デビューした頃からのファンの一人とのことでした。お二人から当時のアイドルについていろいろと伺っているうちに、“親衛隊”というワードが出てきて、すごく興味をそそられたんです。
小泉 あの頃は、アイドル一人ひとりに親衛隊と呼ばれる熱心なファンがついていて、私たちを応援してくれたり、守ってくれたりしたの。それぞれのアイドルの名前がそのまま隊の呼び名になっていて、私の親衛隊は“小泉今日子隊”。親衛隊も一応組織化されていて、隊長や副隊長がいるのだけれど、ハーちゃんはいちばん上の総長の彼女で、ヒメと呼ばれてた。総長は、コンサートや歌番組の公開放送、地方での営業的なイベント、親衛隊とのお茶会、とにかくいろいろなところへ来てくれて、必ずハーちゃんも一緒だったの。だから私と彼女は十代半ばからの付き合いで、今でも仲が良いんだよね。
高崎 親衛隊のことを小泉さんから初めて聞いた時は驚きました。アイドルとファンの関係が、今では考えられない距離感ですよね。
小泉 そうだね、あの時代だから成立していたことだと思う。でもいわゆる追っかけみたいなことではなくて、私たちアイドルの活動をサポートしてくれる人たち、という感覚だった。歌手デビューする前後、原宿で歌のレッスンを受けていたのだけれど、その頃、私はまだ神奈川県に住んでいて東京から家が遠かったのね。それを知る親衛隊の子たちが原宿の道に車を停めて待っていてくれて、「お送りします!」といって厚木にある自宅の近くまで送ってくれることもあった。
高崎 怖くなかったんですか?
小泉 怖くないよ。何かあったら勝てると思ってたもん(笑)。それに彼らにはきちんとしたルールがあって、変なことは絶対にしてこないの。車の中で、当時既に人気だった松田聖子さんの曲を聴きながら、「今日子もこういう曲、作ってもらいなよ」「そうだよねえ、私の曲ってなんか暗いよね」なんて話したりして、楽しかった。
高崎 あはははは!
小泉 事務所を訪ねてくることもあるんだよ。「今日子隊でーす! スケジュール拝見します!」って、ホワイトボードに書かれた予定表を見て歌番組とかの入り時間を確認してるの。すると、そこにいる社長が「君たち~、応援よろしくね」「はい!」みたいな。応援してくれるし、現場で私を守ってくれるから、事務所側も助かっていたんだよね。時々、社長が「おい、今日子。彼らとお茶会してやれ」って(笑)。
高崎 すごい世界ですよね(笑)。アイドルとファンによるお茶会という存在を初めて聞いた時も衝撃でした。
小泉 コンサートで全国を回る時は、移動する新幹線のホームまで護衛に来てくれた。例えば、新大阪駅から私が乗ると「こちら新大阪です。今日子、××時××分発に乗りました。名古屋に××時に着きます」「了解しました!」と、大阪の子から名古屋の子に連絡がいく。で、名古屋駅に着くと、ホームで現地の親衛隊が待っていてくれるの。駅まで追いかけてくる他のファンたちから、私の身を守ってくれていたんだよね。歌番組に出演する時には必ず観覧に来てくれて、私の歌に合わせてコールと言われる声援を送ってくれた。
高崎 「スマイルガール ウ~レッツゴ~ 今日子 L・O・V・E キョウコオオオッー!」って(笑)。
小泉 そうそう(笑)。新曲ごとにいつも面白い掛け声を考えてくれて、ステージで歌いながら思わず吹き出しそうになることもあった。コールのことは、高崎君も小説に書いているよね。
高崎 コールは当時の親衛隊の活動を伝える上で重要な事柄です。けれど残念なことに、ほとんど音源が残されていないんです。それだけでなく、親衛隊についての記録は非常に少ない。小泉さんも、そのことが残念でさみしい、と話していましたよね。それなら、僕が書いてみたいと思ったんです。
小泉 きちんとした形では何も残ってないんだよね。親衛隊のことを記した書籍も見たことがない。
高崎 当時は携帯電話もインターネットもなかったので、今のように簡単に記録を残せなかったんですよね。資料どころか、写真もほとんど残っていない。だから僕は、実際に親衛隊だった人や関係者に会い、直接話を聞いて小説を書き進めました。取材で聞きだしたのは、個人的な思い出や感情ではなく、当時の服装、頭に巻いていたハチマキの色、乗っていたバイクの車種などといった、事実だけです。それを骨格として、主人公の二人に十代の頃の自分の想いを入れ混ぜながら、肉付けして物語を作っていきました。
小泉 嘘は書けないけれど、小説としての面白さも必要。だからきっとすごく大変な作業だっただろうと思う。
高崎 時間はかかりましたね(笑)。原稿に行き詰まると、当時、小泉さんや他のアイドルがよくコンサートをしていた場所であり、親衛隊が集まっていた、NHKホール、渋谷公会堂、日本青年館という、原宿の街を囲むように建つその三ヶ所をまわってウロウロしていました。実際に歩いて同じ景色を見ることで、小説の主人公二人の気持ちに近づけるような気がしたんです。ここからあの木が見えるのか、この坂道はこれくらいの傾斜なんだな、とか。自分の中に、リアリティがほしかったんですよね。
小泉 小説とはいえ、地名も場所の名前も実際のものだし、架空の誰かではなく、私を実名で出しているから、いろいろなことがリアルに感じられた。
高崎 小泉今日子、とそのままの名で登場させるのはすごく勇気が要りました。物語とはいえ、勝手なことは書けませんから(笑)。
小泉 本当にあったことを、事実とは少し話を変えて書いてくれた部分もあるよね。主人公のひとり、高階良彦君のこともそう。名前や設定は実際とは違うけれど、彼は実在した子で、親衛隊として熱心に私を応援してくれていたから当時よく顔を合わせてた。でも小説と同じように、病気のために若くして亡くなってしまった。私は彼のお見舞いにもお葬式にも行けなかったことをずっと後悔していたの。けれど高崎君が、小説の中の小泉今日子に、彼の入院する病院へ会いに行かせてくれた。実際の私ができなかったことを、小説の中の私はしてあげられたんだよね。すごくうれしかった。彼もきっと喜んでくれていると思う。
あの頃の私にもあった普通の日常
高崎 高階のように、登場人物の設定は僕が考えたことも多いのですが、小泉さん自身のことに関しては基本的に事実に基づいて書きました。だから小説を書く上で、小泉さんが「原宿百景」に綴る文章が、僕にとってとても重要な資料となったんです。ある意味、参考文献のような感じ(笑)。「小泉さんはあのことを書いている、けれど当時のファンは知らなかったことなのだから小説に書いてはいけないんだ」「あの日のコンサートで元気がないように見えたのは、エッセイに綴られているこの出来事があったからかもしれないぞ」というように、自分の原稿と小泉さんの文章を照らし合わせながら書き進めました。
小泉 へー、そうだったんだ! 答え合わせをするようで面白いね。小説の中で、各章のところどころに当時の歌番組「ザ・ベストテン」のランキングを載せているでしょう。話が進むごとに、小泉今日子の曲の順位が上がっていく。親衛隊にとってそれは喜ばしいことなのだけれど、人気が高まれば高まるほど私との距離が広がってしまう。あのランキングを載せることで、そのさみしさのようなものがすごくよく表されていたと思う。言葉で説明をするよりも伝わってくるよね。
高崎 あのランキングは、調べて書くのがすごく楽しかったです。子どもの頃、好きなアイドルが唄うのを見るために、聴きたくもない演歌を聴いて待たなければいけない時間を思い出したりして(笑)。
小泉 あったね、そんなこと(笑)。私はあの頃、曲が売れるとともにどんどん人気が出てしまって、追いかけてくるファンたちから逃げなければならなくなった。それは私がエッセイに書いた、家がバレるたびに引っ越していた頃や原宿のピテカントロプス・エレクトスというクラブのようなところで、アイドルではなく普通の十代の子として遊んでいた時期と重なるの。だからさっきも言ったけれど、私と高崎君の本、両方を読むことで、当時の小泉今日子が立体的に見えてきて、一人の人間の表と裏を見るようなんだよね。
高崎 小泉今日子という一人の人に、二つの時間があるように感じますよね。
小泉 ステージで唄う私の向こうには、何千人というファンの子たちがいて、彼らには彼らの生活がある。同じように、ステージを降りると私にだって普通の日常があった。確かに私はアイドルとして、他の人とは違う日々を過ごしていたけれど、『黄色いマンション 黒い猫』には誰にでもあるような「私」の思い出を大切に綴ったんです。
高崎 生まれ育った場所も青春時代を過ごした環境も全く違うのに、小泉さんのエッセイを読むと不思議と共感できる部分が多いんですよね。ページをめくっていて、突然、自分の記憶が鮮明によみがえることもありました。子どもの頃に学校の教室でシバタさんという女の子を泣かせてしまったことを思い出して、ごめんね……と泣きそうになってしまったり。小泉さんの文章に押されて、頭の奥に眠っていた記憶と感情が不意にワッと湧き出てくることがあるんです。
小泉 前号で対談をした、本木雅弘君も同じようなことを言ってた。僕の十歳下の妻も泣きながら読んでいた、世代に関係なく誰にとっても自分のこととして読める本なのではないか、と。
高崎 アイドルであり、誰もが知る有名な人が書いた本なのに、皆が共感できる。不思議な本ですよね。
小泉 私にとっては、“原宿”というテーマがあるのはとても幸せなことで、それを軸にいろいろな書き方を試しながら自由に書くことができたの。結果的に読者にとっても、その柔軟な文体が読みやすかったのかもしれないね。きっともっと若い頃、十代や二十代ではこんな風には書けなかったと思う。二十年、三十年と時間を経たから、文章にすることができたんじゃないかな。
高崎 時間を置いたからこそ書けることってありますよね。
小泉 エッセイに昔の思い出を綴る時、過去にいる向こう側の私の姿を、現在にいるこちら側の私が見ながら書いているような感覚があるの。話の中に今の私が入ってしまわないように、距離感を保ちながら客観的な視点で書きたいと思っていて。特に「原宿百景」のエッセイは、時間軸も年齢もわざとぐちゃぐちゃにして書いたんだよね。十七歳の私になって書いてみたり、連載時の実年齢である四十代の私のままで書いてみたり。
高崎 十代の少女になって自分のことを綴る、四十代の小泉さん。その距離感が面白いですね。
今わかるファンの思いと彼らへの感謝
高崎 僕の小説『オートリバース』は、2020年にラジオドラマとして放送されたんです。その時、多くの十代の子たちが聴いてくれたことにとても驚きました。僕のような五十代の人間が書いたものが、まだちゃんとラジオを聴いたことがないような若い世代に届くということがすごくうれしかった。今回、文庫になった小泉さんのエッセイ集も、今の十代の子たちが読んだらきっと面白いと感じるでしょうね。
小泉 そうだといいね。私も最近、アイドル時代の私を知らない世代の子たちが、YouTubeとかで私が唄っている昔の映像を観てくれて、SNSを通じて感想を送ってくれることがすごくうれしい。そうしてファンの子と簡単に繋がれる時代になったんだよね。
高崎 1980年代のアイドル全盛期では考えられないことですよね(笑)。
小泉 ほんと! 実は私も今、人生で初めてファンクラブなるものに入会して、オタク活動をしてるんですよ。
高崎 あ! BTSですね。
小泉 そうです(笑)。アイドルを追いかけることで、自分自身にフィードバックすることがたくさんあるの。あ、そうか! あの時、彼らはこういう気持ちだったのか! って、ファンの子たちが私に何を求めていたのかが、今更ながらわかるようになった。それを古参のファンの方に、「やっとわかったのか!」と言われてる(笑)。
高崎 BTSの影響力ってすごい(笑)。
小泉 2022年で、私はデビュー四十周年なんです。だから全国ツアーや映像集の発売などいろいろなことを計画しているの。そのためにレコード会社に残っているプロモーションビデオやコンサートの記録を全部観せてもらったのだけれど、大阪のフェスティバルホールでのコンサートを収録したものを観たら、外で開場を待つファンの子たちにインタビューしている映像があったの。「キョンキョンのどこが好き?」「まあ、他のアイドルとはちゃうところやな」「それはどんなところ?」「自分の考え、持ってるからな」って、ヤンキーみたいな男の子が答えているのを観て、思わず泣きそうになっちゃった。
高崎 めちゃくちゃいい話ですね。
小泉 ね! 十代の自分がアイドルとして必死にがんばっている姿にも、なんだか泣けてきてしまって。こんな時代からやってたのかよ~って(笑)。
高崎 こんな時代って(笑)。
小泉 そうだよ! デビューした1980年代初め頃なんて、まだアナログレコードで新曲を出していたんだから。
高崎 『オートリバース』の主人公二人は、小泉さんの曲をカセットテープで聴いていますしね。四十年を振り返ると、小泉さんは歌手として俳優として、本当にいろいろな時代を見ていらした方ですよね。
小泉 自分でもそう思います(笑)。
高崎 1980年代はアイドルとして駆け抜けて、1990年代前後からは川勝正幸さんと出会い、藤原ヒロシさんやスチャダラパーといったサブカル界の人たちとも交流を持つようになる。かと思うと、久世光彦さんや相米慎二さんといった、映画やドラマ、演劇界の方々、そして、『黄色いマンション 黒い猫』の装丁を手掛けられた和田誠さんや糸井重里さんなど、デザイン、美術、広告界の方たちとも親交が深い。
小泉 いろいろなジャンルの方と仕事をして、歌手もやって俳優もやって、舞台のプロデュースまでするなんて人、私くらいかもね(笑)。
高崎 そして、文章も書ける。
小泉 きっと、ある意味ノンポリだからできたんじゃないかな。アルバムのプロデュースにしても、平気で誰かに任せられるから、みんな私に新しいことをさせたり、私で遊ぶことを楽しんでくれていたんだと思う。そして何より、ファンの子たちがそういう私を面白がってついてきてくれた。2022年は、そんな人たちへ御礼をするという気持ちで、四十周年という記念の一年を過ごしたいと思います。
(こいずみ・きょうこ 歌手/俳優)
(たかさき・たくま クリエイティブディレクター)
波 2022年1月号より
私たちのあの頃
ともに1982年に歌手デビューし、アイドルとして同時代を駆け抜けた二人。小泉今日子が綴るあの頃の日々に、本木雅弘が自身の記憶を重ね、同じ立場にいた仲間だからこそ分かち合えるアイドル時代の思い出と、互いに知らなかったそれぞれの普通の日常、そして、二人の不思議な関係性を語り合う。
*本対談は雑誌「SWITCH」12月号(2021年11月20日発売)「原宿百景」との連動企画です。ぜひ、あわせてお楽しみください!
小泉 本木君と私は、生まれた年は違うけれど同学年で、歌手デビューしたのも同じ1982年。
本木 小泉さんが三月で、僕たちシブがき隊が五月。その年は他にも多くのアイドルがデビューをしたので、“花の82年組”なんて言われてますね。
小泉 初めて会ったのは、レコードデビューする前の年でお互いにまだ十五歳だったから、知り合ってもう四十年にもなるんだ!
本木 ホント! 随分と長い付き合いになりますね。デビューしてからの数年間は、テレビの歌番組やイベントなどでよく共演していたから、私たちはいつも近くにいる存在でした。けれども案外、その頃の小泉さんについて知らなかった部分があったんだなと、エッセイ集『黄色いマンション 黒い猫』を読んでみてわかりました。
小泉 この本は、雑誌「SWITCH」の連載「原宿百景」に綴ったエッセイをまとめたもので、書き始めた2007年当時、私は四十代になったばかりだった。その時の私が、過去を振り返ってみたり、今、感じていることを、自分なりの文章で、少し長い時間をかけて書き続けてみようと思って始めたの。原宿を主題におきながら、でもそれだけではなくて、幼い頃の記憶、十代のまだ何者でもなかった少女時代の思い出、デビューしてからの日々、そして、現在の自分。私が生きてきたこれまでを、いろいろな時間軸の中で、実際の出来事やその時の気持ちを思い起こしながら書いてみたんです。
本木 ここに綴られているのは、小泉今日子という人が過ごしてきた時間であり、個人的な感情ですよね。けれど私は、まるで自分ごとのように感じながら読みました。原宿での出来事もそうだし、家族とのエピソードや、昭和の黒電話、あの時代の同級生たちの雰囲気、それはおそらく、小泉さんと私が同い年だからだろうと思ったんだけれど、我々より十歳下である私の妻も、同じように共感できると言って、涙を流しながら読んでいました。だから時代の感覚というだけでなく、誰が読んでも何か心に響くものがあるんですよね。太宰治の『人間失格』を読むと、ああ、自分のことを書かれているようだ、と皆が感じるでしょう。文章の種類としては違うけれど、読後感はあれと同じなのではないかな、と。小泉さんらしい、シンプルで軽快な言葉で綴られているんだけれど、情緒の伝わってくる素晴らしい文章でした。
小泉 わあ! そんな風に言ってもらえるなんてすごくうれしい。
本木 小泉さんは昔から、見つめた何かを自分の言葉にして表すことが得意でしたよね。十代の頃から読書好きだったことも、きっと影響しているんでしょうね。いつだったか、何かの用事で小泉さんに電話をしたら、「今、『モモ』を読み終わって放心してるから……」って、電話口でダマられたことがありました(笑)。
小泉 あははは! そんなことあったっけ。高校を中退してから勉強が好きになって、本を読むことにも夢中になっていたの。ドラマやCMの撮影現場へもいつも何冊か持っていって、空き時間ができると本を開いてた。
本木 とにかく本好きのイメージがあって、当時から、同世代の他の子たちとはどこか違う落ち着きを感じてましたよ。
アイドルとして駆け抜けた日々
本木 アイドルとしての活動も、既存の枠にとらわれず、常に表現が新しくて。裸体に絵の具を塗って「人拓!」とかさ(笑)。当時、私も小泉さんのライブを観に行っていたけれど、キュートで奇抜で、その破壊力にいつも驚かされてました。ミュージシャンやアーティストに、素材として自由に遊ばれる面白さも感じたし、まな板の鯉状態で平気で自分の身を晒す小泉さんの姿が実に爽快だった。
小泉 私自身も楽しんでたからね。たとえば、近田春夫さんにアルバムのプロデュースをお願いした時は、ハウスミュージックでいい? と言われて、はい! みたいな(笑)。ちょうどその頃、私も初めてハウスを聴いて、かっこいいじゃん! と思っていたから。
本木 アイドルがハウスなんて、当時は画期的でしたよ。そうして誰かに任せられる器の大きさが、小泉さんのかっこいいところ。
小泉 私がそんな風にできたのは、やっぱりとにかく無我夢中にがんばっていたデビュー後の数年があったからこそだと思う。あの時、ずいぶん鍛えられたから怖いものがなくなった(笑)。まだ十代半ばだったのに、私たちは本当にいろいろな経験をしたよね。
本木 大人たちに囲まれて、そして仕事をこなす。実に目まぐるしい毎日でしたね。歌のレッスン、振り付け、歌番組の生出演やラジオの収録、イベント、コンサート、雑誌の撮影……。太陽をまともに見てる時間がどのくらいあっただろうという感じで。
小泉 私たちが初めて一緒に仕事をしたのは、テレビ東京の歌番組「ザ・ヤングベストテン」(1981〜1982年)だったよね。シブがき隊と少年隊の前身のグループが司会で、私はアシスタントガールだった。原宿の街の中でロケをすることもあったし、スタジオでは、客席に座ってフリップを掲げながら「今週のプレゼントはこちらで〜す!」なんて言わされてた(笑)。先輩アイドルたちの曲を唄うコーナーもあって、近藤真彦さんの「情熱☆熱風 せれなーで」に合わせてアラブのお姫様の衣装を着て踊ったのをすごくよく覚えてる。でもその番組に出ていた頃は、本木君とはまだ仲良く話すという感じではなかったような気がする。
本木 翌年の春、お互いにレコードデビューしてからは、歌番組やイベントの場所で必ずと言っていいほど顔を合わせてたから、自然とあれこれ話すようになって。
小泉 レコード発売時には営業的なイベントもあったし、週末になるとどこかのお祭りに出演してたよね。公民館でメイクしてると本木君たちが来て、あ、今日もシブがき隊と一緒なんだ、と思ってた(笑)。
本木 ある時なんて、海を越えて、イタリアのサンレモ音楽祭でも一緒でしたよ。実際に唄ったのは、小泉さんだけだったけれど。
小泉 私、サンレモで唄ったの? 覚えてない(笑)。あの頃は、何かというと写真集や雑誌の撮影隊が同行して、まずパリに行ってスイスに寄って、最後にやっと本来の目的地であるイタリアに着く、みたいなことがたくさんあったでしょう。だからどこへ何をしに行ったのか、覚えてないことが多いの。
本木 「明星」「平凡」、その他にもあの頃はアイドル誌がいくつもあって、取材旅行ということで何度も外国へホイホイと連れていってくれたなあ。
小泉 本や雑誌が売れる時代だったんだよね。編集者の方が、私たちの見聞を広めるために一役買ってくれていたような気がする。
本木 いい時代でしたよね。とにかくそうして慌ただしい一年を過ごして、年末が近づくと怒濤の賞レースが始まる。日本レコード大賞、日本歌謡大賞、日本有線大賞……覚え切れないほど多くの音楽賞がありました。大晦日なんて、帝国劇場で「レコ大」(「輝く!日本レコード大賞」)に出演して、その後十分以内に「NHK紅白歌合戦」が始まるから、猛ダッシュでNHKホールに向かってましたよ。あの頃の「紅白」は、オープニングで出演者全員が揃いのブレザーを着て大階段から降りてくるという伝統の演出があって、そこに間に合うことが絶対条件だった。生放送のはしごも含めて、大晦日の一大イベントでしたから。日比谷の帝国劇場から渋谷のNHKホールに向かう道は、警察を動員して信号を全部青にしてもらうという異常事態でした。
小泉 大晦日のスター大移動(笑)。
本木 今では考えられないけれど、そういう時代だったんですよね。そしてもうひとつ、小泉さんとアイドル時代を語る時に忘れてはならないのが、新宿音楽祭の生卵事件。
小泉 あははは! 私の頭に客席から飛んできた生卵が当たった事件ね。
本木 これは小泉さんを題材にした小説作品『オートリバース』(高崎卓馬著)にも書かれているけれど、松本伊代さんのファンが、賞を取った小泉さんへの嫉妬心で卵を投げつけたと言われていましたよね。けれど実は、小泉さんのファンが、その横に並んでいた私たちシブがき隊に対して、「何でオマエらが小泉の横にいるんだ!」という怒りで僕たちにぶつけようとしたのが、誤ってご本人様に当たってしまった、というのが真相だったんですよ。
小泉 ね! 私もそれを聞いて、なんで私が自分のファンに生卵を当てられなきゃならないんだよ、ふざけんな!って思った(笑)。
本木 あははは! 五円玉や十円玉が飛んでくることもありましたよね。
小泉 飛んできたライターが唇に当たって、あっ、イッタ〜い、どんどん腫れてく……と思いながら唄い続けたこともあった。硬い物は投げないでよ、と思ってたもん(笑)。毎日がファンとの戦い、みたいな気分だったよね。
本木 ありがたいやら何やらで(笑)。
世界を広げてくれた本と大人たち
小泉 ちょっと前まで普通の中学生だったのに、突然そんな毎日になったでしょう。今振り返ると、よくがんばって耐えていたなと思うよね。
本木 周りの環境や自分の日常が、ガラッと変わりましたからね。シブがき隊のデビューイベントは北海道の某デパートの屋上で開催したんだけど、客席から紙テープやら白い恋人やら、果てはジャガイモまで飛んできて(笑)。ファンの子たちの興奮を初めて目の当たりにした時、うれしいというよりも、え? 何これ? って。どうして俺たちこんなに人気があるの? と、不思議で仕方がなかった。
小泉 自分のいる状況に、気持ちが追いつかなかったよね。
本木 そうそう。先輩であるたのきんトリオの大活躍をずっと見ていたから、へ? 俺たちでいいの? って。女の子たちに騒がれるという現象に素直に浮かれている自分も多少はいたけれど、客観的に見ている割合の方がずっと大きくて、少し冷めていたというか、所在ない感じがしばらく続いてました。
小泉 私は十代の子どもながらに一生懸命考えて、騒がれるのがイヤで、この状況にも耐えられなくなったらやめちゃえばいいや、と思ってた。でもいざやめるとなると面倒くさいし、じゃあどうしたらいいかなと考えた時に、もう受け入れるしかないんだ、と気持ちを切り替えることができたの。
本木 私も小泉さんと同じで、この状況でいいのか、自分はこれを受け入れられるのか? と、いつも自問自答してました。1988年にシブがき隊としての活動を終えるまで、ずっとそんな風に悩んでいたかもしれない。
小泉 本木君はグループだったからね。自分一人が受け入れても、他の二人の意見が違うと、また同じ悩みを悶々と繰り返してしまいそう。それは当時、端から見ていても感じてたよ。その点、私は一人だったから、気が楽だったかもしれない。私が決めれば、その方向に動くわけだから。
本木 そういう意味では、一人で判断できる環境がうらやましかったです。私は小泉さんほど腹を決めてアイドル道を進めてはいなかった。与えられた役割を懸命に演じながらも、こうではない、本当の自分を誰かにわかってほしい、という気持ちがどこかにあったように思います。
小泉 私もそんな時があったけれど、本を読むことで自分の世界に入って、気持ちを落ち着けていたのかもしれない。それにあの頃、周りにいい大人たちがたくさんいて、いろいろなことを教えてくれたでしょう。私は十代の終わり頃、原宿の黄色いマンションに一人で住んでいたんだけど、その近くにあったピテカントロプス・エレクトスというクラブのようなところで、スタイリストのお姉さんたちに遊んでもらいながら、ファッションのこと、音楽のこと、海外を旅する楽しさ、いろいろなことを教えてもらった。
本木 私も十九歳で初めて一人暮らしをして、その頃から自分の気持ちが変わり始めました。クリエイターやファッション界の人たちと出会い、その活動や考え方に影響を受けて美意識や自意識が変わったし、自分の価値観と向き合えるようにもなった。そして僅かながら、自分に自信がつき始めたような気がします。
小泉 テレビ局やスタジオを行き来するだけの毎日の中で、違う仕事をしている年上の人や、同年代の友だちと会うのはすごくいい刺激になったし、彼らと過ごす時間に救われたよね。
本木 知らない世界と自由を広げてくれる存在でしたね。
小泉 あの当時出会った年上の人たちは、もう七十歳を過ぎている人もいるけれど、みんな元気なの。時々、スタイリングやヘアメイクをお願いすることがあるけれど、今でも本当に楽しそうに仕事してる。でも一方で、亡くなってしまった方たちもいて。「原宿百景」では、原宿のお店の人や街にゆかりのある人たちに会ってきたけれど、『黄色いマンション 黒い猫』の装丁をしてくださった和田誠さんや安西水丸さん、ゴローズの高橋吾郎さん、クリームソーダの山崎眞行さん……今ではもう会えない人もたくさんいる。
本木 人だけでなく、セントラルアパートやパレフランスなど、無くなってしまった思い出の場所が原宿にはたくさんありますね。
小泉 そうだね。十代の頃からいろいろな人や場所に出会って、自分の在り方や生きる意味をひとつずつ積み重ねてきたからこそ、今、自分はここに立っているんだなと感じるね。
それぞれの道を歩く互いの存在
小泉 シブがき隊としての活動を終えてから、本木君は本格的に俳優としての道を歩み始めたよね。その頃から、私たちはアイドル時代のように頻繁に会うことはなくなったけれど、本木君の活躍はいつも気にして見てた。あ、今、あんなことをしてるんだ、って。
本木 私もそうです。小泉さんが舞台にも出演するようになってしばらくしたある時、堤真一さんと共演された作品を観に行ったんですけど、小泉さんが役者としてまた進化していることにとても驚いてね。その感激を素直に小泉さんに伝えたら、「ありがとう。ここに来るまで十年かかったけどね」と言っていて、私はその言葉を噛み締めながら帰りました。十年の積み重ねによる厚みが、舞台上での佇まいから声の出し方、印象の残し方まで、全てに表れているんだな、と。いつもど真ん中にいた人なのに、脇役も汚れ役もやるよ、と覚悟を決めて挑んでいたし、そのうち、今度は自分で会社を設立したでしょう。あれもすごく衝撃的でした。え〜、裏方に!? って。私からすると、小泉さんはアイドル時代から非常に男っぽいエネルギーで自分の道を切り拓いて進んでいる印象があって、私は逆にそれを追いかけてる女子、みたいな感じ(笑)。
小泉 あはははは!
本木 小泉さんと私は、アイドル時代の頃から男女が逆転したような関係でしたよね。
小泉 「ねえ、本木君! しっかりしなよ!」っていつも言ってたね(笑)。でも私は逆に、ひとつのことをじっくり考えて、一歩ずつゆっくり進めていく本木君のやり方に、どこか憧れている部分がある。彫刻を彫るみたいに、美しく丁寧にきちんと作品を仕上げていくような仕事の仕方でしょう。
本木 いや、全ては不器用というコンプレックスの裏返しなんですけどね。
小泉 本木君って、十代の頃から本当に繊細だったよね。こんなに神経を使って、この人、死んでしまうんじゃないの? と本気で心配だったもん。ここまで生きてきたんだから、長生きしてほしいよ(笑)。
本木 そうですね、本当に。これからも小泉さんの背中を追って生きていきますよぉ(笑)。
小泉 私たちもあと四、五年で還暦。赤い服を着て合同で還暦パーティーでもしようか(笑)。なんて、この年になってもこんな風に楽しく話せる友だちがいるって本当に幸せなことだね。
(こいずみ・きょうこ 歌手/俳優)
(もとき・まさひろ 俳優)
波 2021年12月号より
著者プロフィール
小泉今日子
コイズミ・キョウコ
1966(昭和41)年、神奈川県厚木市生れ。1982年「私の16才」で歌手デビュー。「なんてったってアイドル」「学園天国」「あなたに会えてよかった」「優しい雨」など数々のヒットを放つ。また、俳優としてドラマ、映画、舞台などで幅広く活躍。2015(平成27)年より代表を務める株式会社明後日では、プロデューサーとして舞台制作などを手掛ける。2005年から10年間、読売新聞で読書委員を務めるなど執筆の仕事も多く、エッセイ集『黄色いマンション 黒い猫』で2017年講談社エッセイ賞を受賞した。