オルタネート
990円(税込)
発売日:2023/06/26
- 文庫
- 電子書籍あり
わたしは、わたしを育てる――。直木賞候補となった青春小説の新たなマスターピース。
高校生限定のSNSアプリ「オルタネート」が必須の現代。料理コンテストでの失敗に悩む調理部部長の蓉(いるる)は、再びの挑戦を決断。オルタネートを信奉する凪津(なづ)は、アプリが導く運命の相手を探す。高校を辞め居場所を探す尚志(なおし)は、音楽家らのシェアハウスに潜り込む。そして文化祭の初日、三人それぞれに起こる奇跡――。10代の過酷さと煌めきを鮮やかに切り取る、青春小説の新たなマスターピース。
2 代理
3 再会
4 別離
5 摂理
6 相反
7 局面
8 起源
9 衝動
10 予感
11 執着
12 門出
13 約束
14 確執
15 結集
16 軋轢
17 共生
18 焦燥
19 対抗
20 同調
21 不信
22 祝祭
23 胸中
24 出発
解説 重松清
書誌情報
読み仮名 | オルタネート |
---|---|
シリーズ名 | 新潮文庫 |
装幀 | 久野遥子/カバー装画、新潮社装幀室/デザイン |
雑誌から生まれた本 | 小説新潮から生まれた本 |
発行形態 | 文庫、電子書籍 |
判型 | 新潮文庫 |
頁数 | 496ページ |
ISBN | 978-4-10-104023-3 |
C-CODE | 0193 |
整理番号 | か-93-3 |
ジャンル | 文芸作品 |
定価 | 990円 |
電子書籍 価格 | 990円 |
電子書籍 配信開始日 | 2023/06/26 |
書評
[私の好きな『オルタネート』]
悲しい時に何食べる? 「フード小説」としての『オルタネート』
2016年1月23日土曜日の夜、いつものラジオを聴いていたら「加藤シゲアキが小説を書く人」だということを知った。
それは映画通且つ読書家で知られるラッパーのライムスター・宇多丸氏がパーソナリティを務める番組で、気になるカルチャーについて毎回意外なゲストを迎えてトークを繰り広げるというコーナーに、意外が売りだとはいえ「現役アイドルとして大活躍する加藤シゲアキ」が出演したのだから驚いた。
加藤さんは、自分は番組のリスナーだと告白したうえでデビュー作『ピンクとグレー』について宇多丸氏と楽しげにしかし深く対話し、この番組にインスパイアされて書き上げました、と制作秘話を打ち明けた。不意に宇多丸氏が本書は「章タイトルが全部飲み物」と紹介したので、それは絶対読まねばと購入したのだった。
なぜなら、わたしは幼い頃から小説やマンガ、映画、テレビドラマ等、物語に登場するフードに並々ならぬ興味を持っているからだ。フード描写に対する考察を「フード理論」と呼び、一冊に纏めたこともあるくらいには情熱を傾け続けている。
中でも注目するのがクリエイターのデビュー作だ。よくデビュー作にはクリエイターのすべてが表出すると言われるが、それは強ち間違いではないと思う。デビュー作は、今後もその分野で身を立てて行けるか? を占う巨大な第一分水嶺だ。ここで失敗したら後がない。そんな初仕事に敢えて不得手なネタをぶつける人間はいないと思う。これぞ、という掌中の珠(と自分が思っているネタ)をぶつけるものだ。
例えば、楓という名の少年が主人公の短編バスケマンガ「楓パープル」でデビューした井上雄彦は、のちにバスケマンガの金字塔となる『SLAM DUNK』を描いた。主人公のライバルとして登場する流川楓は「楓パープル」に原型を見ることが出来る。
また、少女マンガの巨匠萩尾望都のデビュー作『ルルとミミ』は、ケーキコンテスト会場に闖入した悪漢を失敗作のケーキを投げつけて退治する、という小学生向けの短編コメディだが、のちの萩尾作品で重要なモチーフとなる双子、長テーブルでの乱闘、勝たない人生(あるいは吸血鬼生や宇宙人生)に寄り添うフード描写がすでに見て取れる。
個人的に萩尾望都のようなクリエイターを「フード作家」という括りで分類している。主題が料理に無関係な作品においてすら、いや、こそなのか、何かしらフード展開を描かざるを得ない作家というものが、じつは密やかに存在するのだ。
つまり、わたしの解釈によればであるが、作家人生の岐路であるデビュー作の章タイトルをすべて酒名にするなんて、明らかに加藤シゲアキはフード作家である。これは食を表現に取り入れることで、より伝わりやすくなると信じている人間の所業に他ならない。フードの周辺を描くことで、登場人物の性格や感情を精密に表現する天賦の才を持つひとだ。そこにフードに対する親愛と癒し、それから執着とトラウマを感じる。
そんな加藤作品の、ひとつのフード的集大成が『オルタネート』だ。本書は真っ向から食を題材に描いた長編小説であり、且つAIやインターネットのSNS、ネット動画が勃興する時代を生きる高校生の群像劇を描いた青春小説である。タイトルの「オルタネート」とは、AIが相性の良さを選ぶ高校生限定のマッチングアプリで、それによって引き起こされる悲喜交々を作者は鮮やかな筆致で描き切った。
調理部部長の新見蓉は、高校生の料理コンテストを配信する人気ネット番組「ワンポーション」に、出場を決意する。蓉を取り巻く親や友人、部活仲間、ライバルとの関係性の機微が物語の主軸だ。並走して音楽に心を寄せる高校生達の軸や、オルタネートを盲信する女子高生の恋人探しの混迷が、まるでミルフィーユのように繊細に折り重り、スパゲッティのように自在に絡まる構成にページを捲る手が止まらない。
料理コンテストのくだりに手に汗握る秀逸なフードシーンが多いのはいわずもがなだが、注目して欲しいのは悲しみに伴う食描写だ。蓉の親友が恋人と別れた顛末を語る場面での「皿の上のカルボナーラが、枯れたように固まっていく。」という情景描写には舌を巻いた。また、ライバル校の出場選手が蓉に語りかける「嬉しい時に何食べるかよりさ、悲しい時に何食べるかの方が、大事だと思わない?」という言葉は確かにそうだと腑に落ちた。
大事なのは「おいしそうな描写」ではない。登場人物の心情にどれだけ寄り添った表現になっているかだと思う。生命体の本質を成す食すという行為と、人工的なデータ処理との狭間で揺れ動く若者達の対比は痛々しくもあり、しかし目を細めるほどに眩しい。フード×青春×戦い×恋愛×ネット世界。そんな素材を加藤シゲアキが料理するなんて、最高においしいに決まっている。
(ふくだ・りか 菓子研究家)
波 2023年7月号より
[私の好きな『オルタネート』]
高校生にとっての養分 「SNS小説」としての『オルタネート』
「オルタネート」とは作中に登場する高校生限定SNSだ。高校生に必要不可欠なサービスを全て含むアプリである。このアプリが台頭する世界で、高校生たちの生長が描かれるわけだが、SNSを扱った小説と考えたときに思い浮かぶような、炎上だとか晒しだとかユーザーの影の部分を描くのではない。『オルタネート』の物語の軸になる蓉、凪津、尚志の三人のうち、ユーザーは凪津のみだ。蓉は「オルタネート」を使用していないし、尚志は高校を中退したためにログインできない。つまり本書は、三人の少年少女とSNSとの距離を描いている。
単行本の『オルタネート』を読んだ当時、私は高校三年生だったが、コロナ禍で、学校に通う青春の日々は失われていた。そんな中読む『オルタネート』からは、あの瑞々しくもわけがわからないままあたふた進む豊かな生活を全身で受け取った。ちなみに当時の私はSNSを一切使用していない珍しい高校生だった。では蓉に共感するのかと聞かれればもちろんするが、様々な場面で色々な人物にのめり込んでしまった。
前述の通り、SNS小説とは言っても全員が全員ユーザーではなく、「オルタネート」を使用していない人物にも焦点が当てられる。ただそういった人物にも「オルタネート」という存在は身近だ。彼らの生長に「オルタネート」は必要不可欠だ。高校生たちのSNSへの依存という意味ではない。本書の表現には光や海や植物など自然に関するものが多い。著者は日々変化していく十代の登場人物たちをも、植物の生長サイクルを観察するように描き出す。そしてさらに、彼らの生長にとってのSNSを、光や水のように生長に必要な養分として描くのだ。
SNSは自分を発信できる場であり、表に出せない自分を漂流させる場であり、自分を偽る場であり、そんな誰が何の目的で行っているかわからない不透明な中で画面越しに他人と関係を築く場である。だからこそ人と人との間に「オルタネート」というSNSの存在を介することでそれぞれの人間性が見えてくる。
蓉は恐怖心を抱いているが故に「オルタネート」を使用する選択肢を端から捨てている。「オルタネート」を使わない、という構造は、蓉の他の問題点に重なり象徴となっている。それは彼女の冒険しない性質であったり、狭い想像の範疇に物事を押し込めてしまったりすることだ。使わないということが現在の彼女の可能性を狭めてしまっている点に読者はきっとやきもきするが、「間引き」という言葉もまた蓉を象徴するモチーフになっている。彼女のSNSと人間関係の取捨選択にぜひ注目してほしい。
凪津は「オルタネート」信者だがSNS中毒とはまた違う。凪津は「オルタネート」のAIとビッグデータのみが、信用にたる相性を導き出すと思い、自分だけの「オルタネート」を育てている。合理的に数値を信頼し、パートナー探しも当然「オルタネート」を有効活用するが、そんな凪津の無意識下での行動は実のところ彼女の思う合理性からは大きく外れ、見た目を気にし、見えるところから相性を探ろうとしている。一見シニカルでロボットっぽくもある凪津の抱えるこの矛盾に気づいたとき、彼女は一気に幼く人間くさくなる。「オルタネート」の使用と、そのマッチングで出会う人物との関わりの中で彼女がいかに生長するのか。凪津と「オルタネート」を重ね合わせて読んでも面白い。
尚志は尚志でSNSを使いたいが使えない珍しい少年(高校中退だから)だ。SNSを使えない人の人間関係の情報網はたかが知れている(体験談)ので、パートナーを追い求める彼のフットワークは非常に軽い。情熱的だ。少し情熱的すぎるかもしれない。つまり自分のことに精一杯なのだ。けれどきっと、SNSでの関係に疲弊している人にとっては魅力的だろう。「オルタネート」が使えない尚志による彼なりの対面の関係構築はしかし幅広い。感覚的で繊細、自分で自分のことを何とか頑張ろうとする健気なところが好印象だ。
ユーザーではない私でもSNSを取り扱った『オルタネート』は読みやすかった。それは『オルタネート』がSNSを過度に賛美するでも批判するでもなく、高校生の周りにあるものとして描き、その環境下で高校生たちが自らどう考え行動していくかにフォーカスし、彼らの生長を息づかせているからだ。それぞれの考えと葛藤を持ち、立ち止まったり引き返したりしながらも確実に進んでいく彼らに、誰もが実感を持って没入し「あの頃」を懐かしむだろう。SNSの中の世界が並行してありながらもリアルに生きる彼らを私たちは応援し、共感し、大好きになるのだ。
(たまがわ・こおり 作家)
波 2023年7月号より
インタビュー/対談/エッセイ
加藤シゲアキの現在地
直木賞候補、本屋大賞ノミネート、吉川英治文学新人賞受賞のあの話題作『オルタネート』が待望の文庫化! 躍進続く作家の次のステップは――。
舞台に立つのは「究極の読書」
文庫版『オルタネート』の著者校正やあとがきの執筆は、舞台「エドモン」の公演と重なって正直本当に大変でした。でも舞台に立つ仕事は、作家としての自分にとって非常に重要なものだと思っています。
演劇をやるたびに僕は、本の読み方を教えられているような気がしています。「エドモン」は19世紀末、『シラノ・ド・ベルジュラック』を書いたエドモン・ロスタンを主人公にしたフランスの戯曲なのですが、当時のフランスの社会背景や演劇界についてのレクチャーを専門家から受けたうえで、台本を何度も読み込み、セリフを反芻し、時間をかけて一つのテキストを隅々まで解釈していきました。これは、ある意味で読書の究極の形態なんじゃないかと。
「エドモン」の本国での初演は2016年です。今なぜ、その時代を舞台にした演劇を面白いと思えるのか、それは現代的な視点を持って観るからなのだと思います。名作『シラノ・ド・ベルジュラック』が、実は若く貧しい劇作家が短期間で書き上げたものだった、という意外性はもちろんですが、作者のアレクシス・ミシャリクによる当時のフランス演劇界に対する驚きやリスペクトなど、ある種の批評眼も盛り込まれています。
これから書いていきたい小説とは
実は『オルタネート』以降、自分の中で問題意識として生まれたのが、作品の中に「自らの批評的な視点」を取り入れたいということでした。それが30代半ばになった作家としての責任なのかな、と。
『オルタネート』は、誰もが通過してきた青春時代をテーマにしたので、若い世代だけではなく、もっと上、50代の読者からも「胸に刺さった」という感想をもらいました。「スクールカースト」という言葉が存在しなかった頃から、教室の中にそうした人間関係というのは必ず存在してきたはずですし、10代特有の揺れ動く心の動きは、皆が身に覚えのある感覚だと思います。そんな高校生の「普遍」を写し取るつもりで書いた小説でした。
でも今後やっていきたいのは、作品のなかに思想的な問い、例えば「今、自分たちは何に不自由をしているのか」「今、自分たちは何に違和感を覚えているのか」といったものを設定し、「普遍」ではない自分なりの考えを提示したい、ということです。
そういうことを僕はこれまでやってきませんでした。デビュー作の『ピンクとグレー』から『オルタネート』まで、自分の知っていることや、経験してきたことを等身大で書いてきたので。もちろん、意識していなくても、自分の批評的視点は多かれ少なかれ作品に反映されてきたのだとは思いますが、もっとそれを意識的にやっていきたいんです。
ジャーナリスティックな視点も取り入れてみたいです。例えば実際に起きた「大きな出来事」を題材にしてみる、ということにも取り組むべきかなと。震災やコロナはまだ渦中にいるわけだし、モラルの問題もあるし、物語に絡めるのはとても難しい。でもある程度時間が経ってから、その時に何が起きていたのか、ということを分析し、考える視点を提示する、というのは物語にこそできることなのだと思います。
現代的、思想的なテーマに挑戦しようとすると、「今これを書くのは危ないな」という場面に出くわすかもしれない。そんなときに「危ないから避ける」のか「危ないからあえて丁寧に書く」のか。物語を書く以上、誰かを傷つける可能性は常に付きまとうので、筆力ももちろんですが、人間性のようなものも試されてくるでしょうね。「パンドラの箱」を開けるような覚悟が必要かもしれません。
『オルタネート』という卒業
もちろんテーマが立ちすぎて説教くさくならないようにはしたいです。エンターテイメントを手がけてきた作家としては、やはり読者に楽しんでもらえるものを書きたい、その気持ちに変わりはありません。
そもそもこんなふうに意識が変わったのは、年齢のせいというよりも、『オルタネート』が直木賞や吉川英治文学新人賞といった文学賞の選考の場で、錚々たる先輩作家の皆様に読まれ、評される、ということを経験したからかな。
例えるなら『オルタネート』は高校生の気分で書いていたけど、文学賞によって卒業させられたような。「そろそろ俺も高校卒業か。大学受験だな。さて何学部に行くべきか」という岐路に立たされている気分です。後輩作家も増えてきているし、留年している場合じゃないぞと(笑)。
(談)
(かとう・しげあき)
波 2023年7月号より
結局、描きたいのは「人間」でした。
司会・構成:吉田大助
3年ぶりの新作小説を刊行した加藤シゲアキさんと、現役大学生で三島由紀夫賞を受賞した宇佐見りんさん。SNSとアイドル、双方の関係性を手がかりに、奇しくも第164回芥川賞(宇佐見さん)・直木賞(加藤さん)で候補となったご両人が、創作の深淵に迫ります。
――「高校生限定」という架空のSNSを題材に描かれる青春群像劇『オルタネート』と、男性アイドルの推し活動をSNSで行う女子高生が主人公の『推し、燃ゆ』。この二作、この二人の並びを考えて、今回の対談を企画した人は天才だなと思っていたんですが、待合室で聞いたら、加藤さんの発案だったそうですね。
加藤 『オルタネート』の刊行記念で対談をという話になった時に、宇佐見さんのお名前を挙げさせてもらいました。まだその時は『かか』も『推し、燃ゆ』も読んでいなかったんですが、いい作品だという噂はいろんな人から聞いていたんですよ。『オルタネート』は高校生を描いているので、なるべく若い方の感想を聞いてみたいなという思いもありました。その後、三島賞を取られた『かか』を読ませていただいたんですが、面白すぎて絶望するぐらい良かった。「もう俺、小説書くのやめようかな!」ってなりました。
一同 (笑)
加藤 『推し、燃ゆ』も素晴らしかったです。
宇佐見 ありがとうございます。私は、自分が小説家になるずっと前から、本屋さんで加藤シゲアキさんのお名前はお見かけしていました。大先輩である加藤さんにそんなふうに言っていただけるなんて、信じられないです。私は今回『オルタネート』を読ませていただいたんですが、発想力に驚きました。東京の高校が主な舞台で、「オルタネート」という架空のSNSの存在が、三人の主人公のパートを繋いでいく。そのSNS自体のオリジナリティがすごいんです。小説の中で、「自分だけのオルタネートを育てる」という話が出てくるじゃないですか。
加藤 オルタネートに自分のスマホの中の情報を全部提供すると、どんどん自分のことを理解していって、高い精度で自分に合った恋人や友達をマッチングして紹介してくれるようになる。お話の途中からは、遺伝子検査した結果をオルタネートに提供すると、「遺伝子レベルの相性」もわかるようになっていきます。その辺りのことを、オルタネートが「育つ」という言葉で表現しました。
宇佐見 SNSは道具というイメージが私の中ではあったんですけど、まるで生き物のように捉えている。いろいろな人間関係だけではなく、「自分対オルタネート」の関係も描かれているのがすごく面白かったです。
加藤 宇佐見さんの小説も、「自分対SNS」の部分が書かれていますね。二作の主人公は、SNSを通じて社会と繋がっているのと同時に、自分を見つめている。SNSの中に現れる自分が、自分というものの合わせ鏡になっている。自分そのもの、ではないんですけどね。『オルタネート』の中では、ある女の子に、自分の言葉を「吐き捨てるために」SNSを使っていると言わせたんですが……。
宇佐見 あのシーン、良かったです。
加藤 ネットに流す言葉には、誰かに届けたい言葉と、吐き捨てたい言葉がある。そうした言葉の裏には、別々の自分がいる。SNSは、そのどっちもが入っている「容器」という感じがします。そういうモノと自分との関係を描くことは、これまでの小説ではできなかったことだと思うんです。
自分なりの神を「信じる」
その姿が、個の表現になる
――宇佐見さんの第二作『推し、燃ゆ』は、主人公の「推し」がファンを殴り、炎上してしまったことから始まる物語です。そのニュースを受けて、主人公はブログやSNSで擁護していく。デビュー作の『かか』も、メインは娘と母の関係なんですが、娘はSNSの裏垢で「推し」のファンたちと常時繋がっていました。二作とも、SNSが重要なアイテムとして登場しています。
加藤 僕が学生時代にはSNSと呼ばれているメディアはまだなくて、高校の頃にミクシィが始まったぐらい。そういう世代の人間からすると、小説でSNSを出すことってチャレンジという感覚があるんです。小説の文章、いわゆる文語と、SNS特有の口語のような文語は相性が良くないというか、一緒に並べるとちぐはぐになりやすい。無自覚なまま書くと、SNSの部分が記号的になりかねないんです。近年SNSを描く文芸作品が増えてきていて、みなさん大なり小なり悩んでいるのかなぁと思ったりしていたんですが、宇佐見さんの小説はめちゃめちゃナチュラルに混ざり合っている。
宇佐見 私は小説でSNSを書くことに関しては、チャレンジであるとか、難しさは感じていなくて。というのも、私は今二一歳なんですが、中高校生の頃からSNSは浸透していたんです。当り前のように生活に溶け込んでいるので、「衣・食・住・SNS」みたいな。
一同 (笑)
宇佐見 現代が舞台の小説を書こうとした時に、自然と出てくるものなのかなぁと感じていました。
加藤 さらっとやってのけるのがすごいですよね。小説界の「第七世代」だ(笑)。ただ、『かか』も『推し、燃ゆ』も、SNSを通して何を描いているかというと、人間を書いている。そこは意識されていましたか?
宇佐見 はい。『オルタネート』も、架空のSNSの面白さが全編にありつつ、描かれているのは結局「人間について」なんだなと思ったんです。小説を書いていくと、最後はそこに行き着くのかもしれないですね。
――『オルタネート』には三人の主人公が登場します。高校三年生で調理部部長の新見蓉、高校一年生で帰宅部の伴凪津、学年的には高校二年生ですが中退したフリーターの楤丘尚志。宇佐見さんの「推し」は?
宇佐見 みんな大好きですけど、やっぱり凪津ちゃんです。『オルタネート』はディテールが本当に素晴らしくて、好きなシーンや心に残る言葉がいっぱいあるんですが、その中でも特に好きだったのは凪津ちゃんが、他の生徒たちと一緒に聖書で雨をしのぎながら学内の講堂に入っていくシーン。敬虔なキリスト教徒の方からすると、神聖なものである聖書を傘がわりにするなんて、あり得ないことじゃないですか。
加藤 あれは、僕の母校では見慣れた光景なんです(笑)。
宇佐見 そうなんですね(笑)。凪津ちゃんは宗教への関心はないから、礼拝中もずっとスマホをいじっている。凪津ちゃんは自分にとっての「運命の相手」を、オルタネートに選んでもらおうとしているんですよね。自分の感情なんてあやふやなものではなく、オルタネートという客観的な第三者に遺伝子情報も渡して、科学的に相手を決めてもらおうとしている。そういう意識が、お話が進むにつれてどんどん宗教的なものへと近づいていくのが面白かったんです。礼拝のシーンではあんなにあった宗教と科学のギャップが、クライマックスのシーンでは一致していく。その構造が、読んでいて本当に鮮やかでした。
加藤 彼女にとっての神は、オルタネートなんですよね。現代って、神様がいっぱい作れる時代だと思うんです。ある人物が何を信仰の対象としていて、どれぐらいの熱量で信じているかは、人間を表現するうえで大事な部分になってくると思う。例えば、何かを信じたいって感情は、それに寄りかからないと立てないって弱さの象徴かもしれない。宇佐見さんの『かか』もそうだし、特に『推し、燃ゆ』はそういう神様であり、信仰の話ですよね。主人公は、「推し」のアイドルを祈るように応援することによって、なんとか立つことができている。
――加藤さんはアイドルとしても活動されていますから、推される側ですよね。『推し、燃ゆ』の感想はぜひお伺いしたかったです。
加藤 読みながら、ちょっと気が気じゃないところもありました。もちろん主人公に感情移入して読んでいったんですが、終盤の、推しのインスタライブのシーンは……「ごめん!」と思いましたよ。心苦しくて。
宇佐見 この小説を読んで「ごめん!」と思った、という感想をいただいたのは初めてです(笑)。
群像劇ならではの広がり
一人称ならではの視野の狭さ
――加藤さんにはデビュー作『ピンクとグレー』の刊行時にもインタビューさせていただいたんですが、「純粋なラブストーリーは照れ臭くて絶対に書けない」とおっしゃっていたんです。今回、心変わりした理由とは?
加藤 デビューの頃「書かない」と言っていたのは、「ジャニーズが恋愛小説書いたらしいよ」って色眼鏡に耐えられなかったからだと思います(笑)。なんて言うか、いかにも書きそうじゃないですか。だからその後の作品でもずっと恋愛とは向き合ってこなかったんですけど、書いていくうちに肩の力が抜けていったんですよね。とにかく今自分が書きたいものを書いていけばいいんだって、当たり前のことに気付くことができた。そんな時にマッチングアプリという題材と出会って、ストレートな恋愛群像劇を書いてみたいなと思ったんです。
宇佐見 『オルタネート』は中盤から終盤にかけて、バラバラだった三人の主人公たちがぐーっと集まってきますよね。結末を絶対に見届けなくてはいられなくなるような、のめり込まされる、ものすごい疾走感がある。それは私の小説にはないものなので、「小説ってこんなことができるんだ!」って感動しました。
加藤 嬉しいです。
宇佐見 最後、登場人物たちの行く末を見届けていくような終わり方をするんですよね。そこには、群像劇ならではの世界の広がり方があるように感じました。この物語を世界に敷衍して、自分も群像の中の一人になっていくような、自分自身にも広がりを持たせてくれるような終わり方なんですよ。この広がり方は、まだ私には書けない。
加藤 ……小説、僕ももうちょっと頑張って書いていこうって気持ちになりました(笑)。『推し、燃ゆ』のラストも絶妙でしたよね。主人公が自分をめちゃくちゃにしてしまいたいと思った時に、掴むものが「アレ」。そんなに感情的になっても、冷静なんですよね。この先この子がどうなるのか知りたい、まだまだ読んでみたいって気持ちになりました。宇佐見さんの小説は今のところ、主人公の一人称で書かれていますよね。それはどうして?
宇佐見 主人公の、視野の狭さが書きたかったんです。小説の中でのリアルさを求めた時に、一人称の方が書きやすかったというのもありました。ただ、三冊目は三人称に挑戦してみようかなと思っています。
加藤 語り口でいうと、『かか』の主人公は独自の「かか弁」を使っている。宇佐見さんの小説は、一文一文が濃密で気が抜けない。全てがパンチラインなんですよ。それって本当に力がないとできないことだし、書くのに相当時間もかかるんじゃないかなと。
宇佐見 かかります(笑)。ただ、加藤さんの小説は、私の小説の四倍ぐらいの長さがあると思うんです。逆にお聞きしたいんですが、例えば『オルタネート』ってどのぐらいの期間をかけて書きましたか?
加藤 四ヶ月ちょっと、ですね。
宇佐見 え!?
加藤 直しの期間を入れたらもっとありますよ。初稿はそれぐらいです。初稿は長い下書きだと思って、粗くてもいいからとにかく最後まで書くようにしているんです。
宇佐見 私もそのやり方です。でも、二作とも四ヶ月よりは時間がかかっています。小説家、やめたくなりました。
一同 (笑)
――この辺りで、会場の書店員さんから質問を受けたいと思います。
Q1 小説を書きたいと思っている、若い世代にアドバイスをするなら?
加藤 偉そうなことは言えないですけど、まず書き上げることだと思います。書き始めることは誰でもできるけど、つまらなくてもいいから最後まで書いてみることは、経験値としてものすごく大きいと思うんです。それから、「これが書きたい」という初期衝動と熱量を持続できる、テーマというか対象を見つけることが大事だと思います。頭の中で考えていただけでは見つからないことも多いので、この時代はなかなか難しいですけど、外に出たり人と会って世界を広げた方が、発見は多いんじゃないかなって思います。
宇佐見 私も加藤さんがおっしゃったように、まず書き上げることが重要だなと思います。それと私自身が常に意識しているのは、絶対に自分の言葉で書くことと、新しいものを作るということ。この世界に小説は本当にたくさんあるわけで、それでも自分は新しいものを書くんだという気概があれば、書けるんじゃないかなっていうふうに思います。「この感情は自分にしかないんじゃないか?」とか、自分の中でくすぶっているものは探せば誰しも必ずあると思うんですよね。そういったものを、「全部乗せ」という気持ちで一度書いてみたら、またその先に行けるんじゃないかなと思います。
Q2 店頭で『オルタネート』と『推し、燃ゆ』を並べて展開したいです。お互いの作品に紹介文を書くなら?
加藤 ムズッ!(笑) 持ち帰りたいくらいですけど……「不器用な主人公にとっての推しが、神なのか、悪魔なのか」。そこがこの作品の面白いところだと思うし、悪魔だとしたら救いはないのか? っていう感じかな。
宇佐見 私は……あとでご連絡することってできますか(笑)。その場で考えるのが不得意なタイプなので、ごめんなさい!
加藤 じゃあ僕は、あとで本屋さんに答えを見に行きますね(笑)。
(かとう・しげあき)
(うさみ・りん)
「切断」と「選択」がもたらすもの―『オルタネート』刊行記念対談を終えて―
吉田大助
対談から一週間後、書店に二作のポップが立った。宿題として持ち越された、宇佐見りんによる『オルタネート』へのコメントは――〈迷いながらも走り抜ける彼らの姿に目を奪われました。幾多の「私」の物語だと思います〉。
老舗エンターテインメント小説誌を創刊以来初の重版に導いた加藤シゲアキと、純文学ど真ん中の三島由紀夫賞を史上最年少二一歳で受賞した宇佐見りん。かけ離れた場所で活動しているように思える二人の小説家は、対談記事にある通り、共鳴し合う部分が無数にあった。ここでは一点だけ、二人の同時代作家の共通点を指摘しておきたい。
『オルタネート』は一本の筋道だった物語を形成しない。三人の主人公の目的も関係性も、バラバラだ。ただし終盤の「祝祭」と題された章において、三人は共通の身振りを行うことによって、目には見えない連帯を結ぶ。その身振りは、二一世紀初頭の日本で生まれた流行語とも共鳴する。「そんなの関係ねぇ!」だ。
人はただ生きているだけで、さまざまな関係との接続を強いられる。人間関係もそうだし、道徳との関係もそうだ。常識やルールの名のもとに、あなたは、若者は、親は子供は、男は女はこうであれと突き付けてくる、世間の呪いもそう。それらを全て受け入れることは、無個性で代替可能な人間になることと同義だ。代わりのきかない自分自身になるために、人は「そんなの関係ねぇ!」と、さまざまな関係の中から切断すべきは何かを選ぶ必要があるのだ。つまり、青春小説にとって必要十分条件である、成長の瞬間が、『オルタネート』はクライマックスで三者三様の形で書き込まれている。
その視点を持って、宇佐見りんの『かか』と『推し、燃ゆ』を読んでみよう。すると、二作のクライマックスにはどちらも、主人公が他者に「そんなの関係ねぇ!」と言われる体験が置かれていることに気付く。そして、他者から切断される体験もまた自己の成長に繋がり得るのだということが、『かか』でも、それよりもずっと強い形で『推し、燃ゆ』においても記録されている。〈彼がその眼に押しとどめていた力を噴出させ、表舞台のことを忘れてはじめて何かを破壊しようとした瞬間が、一年半を飛び越えてあたしの体にみなぎっていると思う〉(『推し、燃ゆ』)。
その視点を持って、もう一度『オルタネート』を読んでみよう。「そんなの関係ねぇ!」と繰り出したのは三人の主人公だったが、その身振りを目撃した人物は多数存在する。その経験によって、彼らもまた変化している。成長している。〈幾多の「私」の物語だと思います〉とコメントした宇佐見りんが、数え上げようとした「私」の数は三人ではないし、物語の登場人物だけに留まらない。なぜなら「そんなの関係ねぇ!」を目撃したのは、この小説を読み進めてきた全ての人だからだ。
二人の同時代作家のこれからを、追いかけていきたい。そこで描かれるさまざまな身振りを目撃し、「私」の中身を作り変えていきたい。
(よしだ・だいすけ)
波 2021年1月号より
単行本刊行時掲載
「運命」と「その先」の物語を描きたかった。
高校生限定のマッチングアプリ「オルタネート」が必須となった現代。東京のとある高校を舞台に、若者たちの運命が、鮮やかに加速していく――。新しいけど、普遍的。そんな、著者の新境地を開く最新長編がついに刊行。作品にかけた思いを聞いた。
――長編第六作となる『オルタネート』は、加藤さんにとって初となる小説誌での連載でした。初回が掲載された「小説新潮」2020年1月号は、創刊六三年の歴史において初の重版に。加藤シゲアキが文芸のど真ん中へやって来たぞ、という期待と応援の結果だったと思うんです。連載が決まった時のことや重版という反響のことなど、まず最初にお伺いできればと思います。
三作目の『Burn.』を出した時に、新潮社さんからご連絡をいただいたんです。デビュー作で終わりではなく、書き続けてきたからこそ信頼してもらえた、いただけたご縁だったと思うので、素直に嬉しかったですね。名だたる作品を生み出してきた出版社の雑誌なので、最初は緊張もあったかなと思うんですが、編集さんと打ち合わせて作品が具体的に走り出してからは気にならなくて。ただ、連載のことが発表になった時の周りのざわめきはすごかったです。ファンの人たちもとても喜んでくれました。若い子が小説誌を買っている光景って、なかなかないじゃないですか。若い子には歴史を動かすパワーがあるんだなと、実感させられました。
――作家とはアプリすらも開発してしまう生き物なのか、と驚いたんですが、物語の基幹部には、高校生限定のマッチングアプリ「オルタネート」が据え置かれています。主な舞台は、東京にある円明学園高校。オルタネートによって生じる出会いや別れ、運命に対するさまざまな態度を描いた青春群像劇です。着想のきっかけは?
まず最初に、編集さんから「『Burn.』みたいな青春群像劇」というお題をいただきました。同じ時期にたまたまレギュラーのバラエティ番組(「NEWSな2人」)で、マッチングアプリについて取り上げる機会があったんです。もう三年以上前なので今みたいにすごく流行っているわけではなかったんですが、そこで若者たちの意見を聞けたことが面白くて。いいという人もいれば、偏見を持ってしまう人たちもいたんですよね。マッチングアプリを前にした時に生じる思いや価値観が、人によってぜんぜん違う。これを真ん中に持ってくれば、物語が生まれやすいんじゃないかと思いました。それまで恋愛モノをやってこなかったから、ここで一回やってみるのもアリだぞ、と。ましてや高校生ってアンバランスなところがあるというか、振れ幅が極端じゃないですか。ちょっとしたことで深刻に落ち込んじゃうし、元気にもなるし、昨日までノーだったことが今日はイエスになる。一〇代後半の子たちの物事に一喜一憂していく感覚は、こういう題材を描くうえで合っているなと思いました。もし大人たちを主人公にしたら、もっと肉体的にドロドロなものになる(笑)。「運命の相手ってなんなんだ?」みたいな、価値観のドロドロが描きたかったんです。
――まさに価値観が乱立していますよね。しかも章ごとに視点人物が変わる形式なので、読者はそれぞれの内面を追体験し、個々の価値観に納得しながら読み進めていくことになります。
いろんな価値観を出さないと、オルタネートというものが見えてこない。少なくとも三人ぐらいは主人公が欲しいかなぁと考えて、オルタネートに対する距離感で三人の人格を作っていきました。やりたくない人、めっちゃやりたい人、やりたくてもやれない人、ですね。
――調理部部長で、ある出来事から人付き合いが苦手になった三年生の新見蓉。オルタネートを信仰し、「運命の相手」との出会いを待つ一年生の伴凪津。学年的には二年生ですが、大阪の高校を中退しオルタネートにアクセスできなくなったことに苛立つ、楤丘尚志。
基本的な設定だけ決めて、ストーリーをどうするかはあえて事前に固めなかったんです。まずオルタネートが生活必需品みたいになっている高校生の社会があって、三人のキャラクターがいて、それぞれが物語の中で走っていく姿をどんどん書き留めていった。蓉に関しては「ワンポーション」という料理バトルの大会に出る、それを書くことは決まっていたんですが、他の二人は行き先を決めていませんでしたね。その結果何が起こったかって言うと、三つの小説を同時に書いている感覚になりました。三人とも、性格が真っ直ぐなんですよ。真っ直ぐすぎて、なかなか三人が交錯しない(笑)。もうちょっとクロスするかなと思ったんですが、話が全然絡まなくて終盤までドキドキしました。
――三本のラインがギリギリまで一本に交わらなかった分、物語の熱量は増幅し続けましたよね。三人の周囲にいる人物も個性を放っていますし、みんながそれぞれの事情で、パートナーを探している状況にある。恋愛に限定されない関係性が無数に描かれています。
マッチングアプリの話なので、三人のキャラクターたちが誰と出会うか、出会った人からどう影響を受けるのかは、丁寧に書いていかなければと思っていました。全員そうなんですが、出会った人のせいで、自分がブレるんですよね。そうなった時に、元に戻そうとするのか、変わろうとするのか。どちらが正しいということはなくて、本人がいかにストレスなく「自分」を生きるか、ということが大事だなと思うんです。「運命の出会い」とか、「自分ではコントロールできないような影響力を持った出会い」って、確かにあるなぁと思うんですよ。そこで相手の方に一歩踏み出すか、踏み出した後でどう自分をコントロールするかというところが、生きていくということだと思う。いろんな出会いを、自分にとっていいものにどう変えていくのか。だから、出会うことが大事なんじゃなくて、出会った後が大事。運命は、それ以上のことはしてくれないんですよね。
――「運命の出会い」と聞くと、なんとなくいいもののように感じますが、実はそれまでの自分だとか人生のレールを変えてしまうものでもある。その怖さが、物語にさまざまな形で溶かし込まれていると思います。
僕の中にそういう感覚があるから、そういう書き方になるんだと思います。特に恋愛に関する部分はそうで、自分が変わってしまうんじゃないか、というのが僕は怖いんですよ。でも、変化していくことは悪いことではないとも思っている。……自分のセンチメンタルでロマンティックなところがどうしても出ちゃいましたね(笑)。
アイドルとしての活動で得た感覚をフィクションに変換
――『オルタネート』は遺伝学、園芸、料理、音楽そしてルッキズムなど、と盛りだくさんのアイデアが投入されています。恋愛がメインにはなっているんだけれども、ストーリーは一本道ではなく、サブストーリーが縦横無尽に走っている。この小説のどこが好きでどう楽しんだかという読者の感想は、間違いなくバラけると思うんですよ。この書き方の変化は、自覚的ですか?
『オルタネート』を書く前にこれまでの自分の作品を振り返ってみて、最後にどんでん返しが起こる話が多いなと気付いたんです。ちょうどその頃、読者として読んでいた小説もどんでん返しのある作品で、正直あんまり面白くなかったんですね。最後のどんでん返しはそれなりに面白かったんですが、そこまでの過程が退屈で「この最後だけで許されると思うなよ!」という気持ちになった(苦笑)。終わり良ければすべて良しとは言うけれども、クライマックスの高揚感とかラストの驚きで勝負しているものって、それだけの良さになっていないか、そこに寄りかかってないかな、と。本を読むことの楽しさって、そこではないんじゃないか。「読んでいる時間がずっと楽しい」が、一番いいじゃないですか。これ、実はあんまりみんなやれてないんじゃないかと思ったんです。これまでの作品もそういうつもりで書いていたのですが、そのテーマに今一度向き合ってみよう、と。「結末なんかどうでもいいよね!」くらいの感覚で、序盤から終盤までずっと面白く読ませる。一個一個のシーンやエピソードや文章を磨き上げる、ということを意識したんです。
――青春小説というジャンルを引き受けるうえで、意識したことはありましたか? というのも、青春は誰もが通過している、あるいは真っ只中にいる季節だからこそ、それを小説にしようとすると「青春あるある」になりがちだと思うんです。『オルタネート』はそこが回避されている。一般的な青春小説は読み進めるうちに自分の記憶が蘇る、青春時代への回想が起こるんですが、『オルタネート』は自分の中にある価値観がざわめいて、新たな思弁が起こるんです。
自分の学生時代だとか、自分の体験に引き付けるというよりは、没入して欲しいなと思ったんです。架空のマッチングアプリが流行っている世界の、架空の高校に通っている感覚になってくれたらいいな、と。だから、それこそ「青春あるある」はなるべく使わない青春小説にしたいなと思っていました。ありがちなシーンって、あんまりないんじゃないかな。キャラクターの名前をキラキラネームっぽく、ちょっと虚構性を高くしたのも、現実から切断されるような効果があるかもと思ったからなんです。他に意識していたのは、例えば「イケメン」のような記号的な言葉でキャラ化をしないようにすること。使った方が瞬間的には伝わりやすいんだろうけど、そういうものに頼らないで書くほうが、小説自体は豊かになると思うんです。
――大人と違い物事に一喜一憂する一〇代の姿を、青春を、今もこんなにも生々しく書けるのはなぜなんでしょう。
高校生だった頃の記憶を引っぱり出した部分ももちろんあるんですが、アイドルとしての活動の中で得てきた感覚を、フィクションに変換したりしているんですよね。例えば、うちのグループはもともとメンバーが九人いたんですが、どんどん減っていって三人になりました。メンバーが抜けるたびに、話し合いをしてきたんです。自分たちはグループを続けるのか、続けるとしたら誰のために、なんのために活動するのか。そういう問いかけって、青春っぽいですよね。しかも、ありがたいことに歌番組に三人で出させていただいて、活動をまたイチからやり直すなんてめちゃめちゃ青春じゃないですか(笑)。大人だから三人ともちょっと照れくさいんですが、歌番組が終わった後に無意識でハイタッチしていたりする。手をパチンとした瞬間にそれに気が付いて、「俺たち青春してるなぁ」みたいに思うわけなんです。そういう時に、初めて歌番組に出た時の感覚が呼び起こされるんですよね。
――どうやらアイドルと作家の二足のわらじは、必然のようですね。
メンバーと別れた、苦しい、つらい。この気持ちを小説にして元を取ろう、みたいな流れもあります(笑)。アイドルって、自分という物語を見せるものだと思うんです。作家としてやっていることも一緒なんですよね。だから、自分の中では既に、二足のわらじではなくなっています。僕がやりたいのは、自分の人生を使って、魅力的な物語を作る、ということなんです。
聞き手 吉田大助
(かとう・しげあき アイドル、作家)
波 2020年12月号より
単行本刊行時掲載
著者プロフィール
加藤シゲアキ
カトウ・シゲアキ
1987(昭和62)年生れ、大阪府出身。青山学院大学法学部卒。NEWSのメンバーとして活動しながら、2012(平成24)年1月に『ピンクとグレー』で作家デビュー。その後もアイドルと作家活動を両立させ、2021(令和3)年『オルタネート』で吉川英治文学新人賞、高校生直木賞を受賞。同作は直木賞候補にもなり話題を呼んだ。他の小説作品に『閃光スクランブル』『Burn.―バーン―』『傘をもたない蟻たちは』『チュベローズで待ってる AGE22・AGE32』、エッセイ集に『できることならスティードで』がある。