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飛び散る愛のかけら、深まる〈不倫日記〉の謎。やがて感涙を催す。〈反=恋愛小説〉!

愛に乱暴〔下〕

吉田修一/著

529円(税込)

本の仕様

発売日:2018/01/01

読み仮名 アイニランボウ2
装幀 大野博美/カバー装画、吉田修一/カバー題字、新潮社装幀室/デザイン
発行形態 文庫、電子書籍
判型 新潮文庫
ISBN 978-4-10-128757-7
C-CODE 0193
整理番号 よ-27-7
ジャンル 文学賞受賞作家
定価 529円
電子書籍 価格 529円
電子書籍 配信開始日 2018/06/15

不倫を清算できない真守。そんな折、婚家の祖父が離れに住まわせていた時枝という女の不遇の生涯を聞く。桃子は、離れの床下に異常な興味が湧き、思わぬ衝動買いに走る。一方、身重の不倫相手・三宅奈央との再婚を望み帰宅を拒む真守に桃子は呆れ、遂に奈央に直談判を試みるが、出産の決意は固く、義母までもが桃子の様子が変だと態度を変えてきた。予期せぬ結末へと疾走する愛のドラマ。

著者プロフィール

吉田修一 ヨシダ・シュウイチ

長崎県生まれ。法政大学卒業。1997(平成9)年「最後の息子」で文學界新人賞。2002年『パレード』で山本周五郎賞、同年発表の「パーク・ライフ」で芥川賞、2007年『悪人』で大佛次郎賞、毎日出版文化賞を、2010年『横道世之介』で柴田錬三郎賞、2019年『国宝』で芸術選奨文部科学大臣賞を受賞。ほかに『東京湾景』『長崎乱楽坂』『7月24日通り』『女たちは二度遊ぶ』『初恋温泉』『静かな爆弾』『さよなら渓谷』『元職員』『キャンセルされた街の案内』『平成猿蟹合戦図』『太陽は動かない』『怒り』『犯罪小説集』『続 横道世之介』など著書多数。

書評

「吉田修一小説」と私
アロハオエにチェーンソー

川村元気

 吉田修一が、隣で不味そうな蕎麦を啜っていた。
 あれは確か、十年ほど前。九州の高速道路のパーキングエリアの中にあるフードコートだった。映画「悪人」のシナリオハンティングで、福岡、佐賀、長崎を駆けずり回っていた。疲れ果ててたどり着いたフードコートには、軽自動車で乗り付けたジャージ姿の家族や、営業中らしきスーツ姿の男、美貌の女性を高級車の助手席に乗せていた老人などが皆、プラスチックの器に入ったそばやうどんを啜っていた。ほとんど肉が入っていない親子丼を私がかき込んでいると、吉田修一があたりをぐるっと見回して呟いた。
 日本という国をひとつの場所にまとめると、こういうことかもしれないね。
 数年後、休暇を取ってひとりでハワイの離島にいた。ビーチに据えられたデッキチェアに寝転びながら、出版されたばかりの『愛に乱暴』を読んだ。すぐに後悔した。浮気をする夫と、話のわからない義母との生活に苦しむ主婦の日常。そこに挟み込まれる不気味な日記。ハワイで読むには、まるで相応しくない小説だった。
 けれども、ビーチで奏でられるハワイアンミュージックに、作中のチェーンソーの音が重なった時、拍動が早まり体が震えた。呑気な「アロハオエ」のメロディを聴きながらページを繰っていくと、吉田修一が描こうとしている世界を目の当たりにしたような気がしたのだ。
 まるで関係ないようなものが、実はどこかで関係している。出会うはずのないふたりが、急に接近する。分かり合えないであろうものたちが、気持ちをつなげる。愛、そして乱暴。全く異なるふたつの言葉が、結ばれ同化する。
 吉田修一は二十年間ずっと、はるか遠くの、まるで別世界のものが関係する瞬間を信じて待っている。あのフードコートで蕎麦を啜っていた時と変わらぬ視線が、次に何を捉えるのか、私は隣で目をこらす。

(かわむら・げんき 映画プロデューサー・小説家)
波 2019年9月号より

泣いてくれて、よかった

宮崎香蓮

 吉田修一さんは長崎出身で、そのせいか映画になった『横道世之介』の主人公・世之介も長崎から大学へ入るために上京してくる。私も長崎(吉田さんは長崎市、私は島原市)なので、世之介には何だか親近感を持って大いに肩入れしてしまった。読者の身勝手と言えば身勝手なのだけれど、そういうのって人情みたいなもので仕方がない。地方出身者ならみんな覚えのあることじゃないかな、と思う。
 私が生まれる前には亡くなっていたが、祖父は宮崎康平といってモノを書く人だったから、家には古い本が沢山あったし、母が熱心な本読みだしで、私も自然と本を手に取るようになった。ふらっと目についた書店に入り、文庫本を買い漁り、バッグにはいつも一冊は入れている。母は上京してくると、飛行機で読んだ本を私に貸してくれ(荷物になるから娘が本好きなのを幸いに置いて帰る、と言うべきかも)、おかげでいろんな作家を知ることができた。GWに私の様子を見に来て、村上春樹さんの『多崎つくる』を東京に置いていってくれたところだ。私はお風呂でゆっくり読書をする癖があって、繰り返し読む愛着のある本ほど湿って(たまには湯槽に落として)ぺこぺこになってしまうのが残念なのだが、これも本好きなら多くの人が経験することだろうと思う。
 で、吉田さんの新しい長篇小説『愛に乱暴』だ。真ん中あたりで、「え、あああ!」とゲラの束を湯槽に落しそうになった。ネタばれになるので詳しく触れてはいけないだろうが、吉田さんにうまいこと騙されていたのだ。吃驚。愕然。衝撃。作者が読者にバンッとボールを激しく投げつけて逃げ、読者はあたふた驚いて満足する、みたいなタイプのミステリー小説があって、そういうのも好きだけれども、『愛に乱暴』はそこではまだ終わらない。大きな〈騙し〉が作者によって明かされた後、小説の後半は人間の魂の奥へと入っていく。これは読むのをやめられない。食いしんぼう丸わかりの比喩で恥ずかしいのだが、おいしいラーメンを食べている途中にラー油とか酢とかを入れて、ひと皿なのに味が変わって、深まって、二度愉しい、お得、みたいな感覚。
 これも本好きならありがちのことか、私は好きな本の登場人物には会ってみたくなる。世之介に会いたいし、他の作家の方の作品だと、『神様のボート』の母娘や『死神の精度』の死神など、彼らにぜひ会いたいと思いながら読んできた。『愛に乱暴』の主人公の初瀬桃子さんにも会ってみたくなったけど、このひとは裏表もあって、なかなか手ごわそうな感じの女性。実際、小説を読む限りでは友達が少なそうでもある。
 もっとも最初の方から、私は桃子に味方して読んでいった。吉田さんが巧みに桃子包囲網を張り巡らせているので、突飛な行動を取ったり意味の分からない自信を持ったりする彼女を、それでも応援せざるをえなくなるのだ。私は結婚も不倫も妊娠もしたことがないけれど、彼女の孤独がひりひりと伝わってくる。夫の真守は他の若い女性に走り、優しい舅は病に倒れ、姑はあくまで真守の味方しかせず、以前勤めていた職場に行くとたまらなく嫌なことを聞かされ、しかもどうやら真守の不倫相手は身ごもったらしい。だんだん桃子は追い詰められていき、彼女に感情移入して読んでいる私たちはどんどん胸苦しくなっていく。近所の奥さんの噂話を同情半分野次馬気分半分で聞いている感じだったのが、後半ではもう桃子の肩を抱いて話を聞いてあげている気分になってきて、最後の方で気の強い彼女がついに泣き始めた時には、ああ泣いてくれてよかった、と心底思った。そして、読者も一緒に、潜水で長く泳いでいたプールからやっと浮かび上がって、大きな、気持のいい深呼吸をする感じのラストがやってくる。屈折し逃避していた桃子に変化が訪れて、光り輝いてくる。吉田さん、まったく女性の心理を追いかけていくのが上手いなあ。真に迫っていて、女性作家の方が書いたと言われても何の不思議もない。
 もうひとつ。冒頭思わせぶりに登場してから、しばらく出てこない李青年。あれ、彼は忘れられたのかなと思う頃、この人物が桃子の人生にさっと絡んでくる。この扱いの見事さ! 彼の言葉には桃子も、私たちも洗い流される。今まで読んできた中で最強の言葉のひとつ。
『愛に乱暴』というタイトルや、冒頭から現われる不倫あるいは夫婦関係の危機といった題材から、もっとドロドロした激情系の内容を想像していたのだけれど、これはとても美しい、主人公も読者も浄化される小説だった。きっと、母に貸してあげたら、大喜びするだろう。

(みやざき・かれん 女優)
波 2013年6月号より
単行本刊行時掲載

目次

十一 夫の歩き方
十二 軽い。軽い。軽すぎる。
十三 桃子の日記
十四 助けて下さい
十五 孫のお嫁さん
十六 私、聞いてたんです。
十七 深夜の帰宅
十八 警察呼びますよ!
十九 悪いのは俺
二十 ありがとう

インタビュー/対談/エッセイ

二十年を振り返る

吉田修一

東京湾景』『パレード』『パーク・ライフ』から、わたしたちの21世紀は始まった。柔らかくて、寂しくて、熱い彼の小説ができるまで、そしてこれから――。

 原田宗典氏に『十九、二十』という羨ましくなるほど秀逸なタイトルの小説がある。タイトルもさることながら、もちろん内容も見事な青春小説で、あと数週間で二十歳になる青年がエロ本専門の出版社でバイトしながら過ごす十代最後の夏物語だ。
 この名著の文庫版に、これまた見事な解説を川村湊氏が寄せられている。“二十歳に関する名言はいくつもある。”という書き出しで始まるその中に、“人間が何ごとかを成し遂げるための条件”として、とある人の言葉が引用されている。
 その条件とは、若いこと、貧しいこと、そして無名であることだという。
 読者は、主人公とともに十代最後の(ある意味で無益な)夏を過ごした直後に、この言葉にぶち当たるのだ。
 まだ作家になる以前、まさに十九、二十の気分で読んだ川村氏のこの解説は、未だに小説の余韻とともにはっきりと心に残っている。
 自著の話をすれば、すでに三十冊ほど文庫は出ている中、解説が付いているものはたったの七冊しかない。どうしても書いてほしい作品に、どうしても書いてほしい方にお願いした結果である。素晴らしい文庫解説を知っているだけに流れ作業的にはお願いしたくなかった。
 初めて書いていただいたのは、『パレード』(2004)の川上弘美さんだ。未だにその文章を空で言えるほど繰り返し読んだ。『東京湾景』(2006)では、文芸評論家の陣野俊史さんに“熱い”解説をお願いした。出来上がったのは一編の掌編小説のような作品だった。実はこのとき、「ぜひ『十九、二十』の川村湊さんのような解説をお願いします!」とねだった記憶がある。
 幸運にもその川村湊さんに解説を書いていただけたのが、次の『長崎乱楽坂』(2006)だ。実は作家デビューして間もないころ、「破片」(1997)という二作目の短編小説が「文學界」に掲載されたのだが、この作品を川村さんが毎日新聞で書評してくれたことがあった。
 当時、自身の名前が新聞に載ることがとてつもなく嬉しく、かつ書かれていることにちょっと反論もあったりして、不躾かつ若気の至りでなんと川村さん本人にお手紙を送ってしまった。
 実際の解説を読んでほしいので内容は伏せるが、『長崎乱楽坂』の解説で川村さんはまずこの手紙のことに触れられ、文壇の先輩としてとてもあたたかく優しい言葉で、新人作家の若気の至りをたしなめてくれている。
 続く『7月24日通り』(2007)と『女たちは二度遊ぶ』(2009)は、それぞれ瀧井朝世さん、田中敏恵さんという稀代のライターお二人に書いていただいた。
 ここ数年は小説の書評や解説といえば「瀧井朝世」という人気者だが、初めて彼女に解説を書いてもらったのは、この僕である。と言うと、作家になる前からの知り合いで、現在も飲み友達である彼女からは、「恩着せがましいねー」と笑われるのだが、一つの才能を世に紹介できたことが嬉しくてたまらないのだから仕方ない。
 もう一人の田中敏恵さんとの付き合いも続いている。付き合いどころか、現在の「吉田修一」という作家を陰でプランニングしているのはこの方ではないかと思うほどの関係で、とにかく魅力的な世界を教えてくれる。
 たとえば、今年パークハイアット東京が開業二十五周年を迎えるのだが、この記念行事として書き下ろしの小説を書いた。この企画を進めてくれたのも田中さんだ。(『アンジュと頭獅王』小学館刊、九月末発売予定)
さよなら渓谷』(2010)では、柳町光男さんに解説を書いていただいた。言わずと知れた映画界の巨匠で、「十九歳の地図」や「火まつり」など、どれほど影響を受けたか分からないし、暴走族のブラックエンペラーを追ったドキュメント映画「ゴッド・スピード・ユー!」では、ある少年が年長の少年に殴られるシーンがあるのだが、映画ではなくまるで自分の記憶として残っているほどだ。
 そして今秋に「楽園」というタイトルで映画化される『犯罪小説集』(2018)では、この映画を監督された瀬々敬久さんに書いていただいている。中で瀬々監督はこの短編小説集を中上健次の『千年の愉楽』に重ねて書いて下さり、大変面映くはあるものの、小説が映画へ生まれ変わっていくダイナミックな流れが見えるような、とても素晴らしい解説になっている。
 今回、デビュー二十周年を記念して新潮文庫の全六作『東京湾景』『長崎乱楽坂』『7月24日通り』『さよなら渓谷』『キャンセルされた街の案内』(2012)『愛に乱暴』(2017)の装丁を新しくしてもらえることになった。
 新装丁版『東京湾景』では、従来の陣野俊史版に加え、新たに朝井リョウ氏が解説を寄せてくれる。一度対談させてもらったことがあるが、とても作家っぽい人だった。当代の人気者ながら決して見られる人にはならず、見る側の人であろうとしている。
 その上、今号の「波」の特集では、大森立嗣氏と川村元気氏、そして南沙良さんが、『さよなら渓谷』『愛に乱暴』『7月24日通り』と、それぞれの作品について書いて下さっている。
 出版社の方の話によれば、南沙良さんはすでに映画やテレビ、CMなどで大注目されている女優さんで、十代にして大変な読み巧者と聞く。彼女が初恋に揺れる女性の物語をどのように読んでくれるのか楽しみでならない。
 大森さんは『さよなら渓谷』を映画化してくれた。小説で描こうとした人間の不可解で美しい感情をとても繊細な映像で表現してくれた。
 あくまでも個人的な印象だが、大森さんというのはその存在自体がドクドクと脈打っているような印象がある。そばにいると、その脈の音がはっきりと聞こえてくる。撮影現場はもちろん、普通に飲んでいても聞こえる。きっと彼自身にはこの音が聞こえていないのだろうと思う。この熱が彼に映画を撮らせていることを、きっと彼自身は知らないんだろうなと。
 一方、川村元気氏との付き合いも長い。もちろん映画プロデューサーとしては十年に一人、三十年に一人の逸材だろうし、今や押しも押されもせぬ時代の寵児で、(本人の希望とは別に)錬金術師のような扱いを世間から受けているようだが、こうやって長く付き合わせてもらっていると、実は彼にもちゃんと人としてダメな部分があって、近年の彼が小説を書かざるを得ないのは、きっとこの自分のダメな部分だけはどうしても錬金できないからではないかと勝手に推測している。だからこそ、いつの日か生まれてくるだろう彼の彼による彼のためだけの小説が心から楽しみで仕方ない。
 紙面が尽きた。デビュー二十周年を振り返るという趣旨のエッセイを頼まれていたのだが、気がつけば自身のことはもちろん、身近な人たちのこれから二十年のことが楽しみで仕方なくなってきてしまった。きっといろんな人のおかげで充実した二十年を送ってこられたからだろうと思う。

(よしだ・しゅういち)
波 2019年9月号より

必然性とか衝動みたいなものは

吉田修一

『愛に乱暴』は何小説と呼べばいいのでしょうね。初瀬桃子という主婦が夫に不倫をされる、という設定の長篇小説なんですが、恋愛小説とか、そんな言葉があるのかどうかわかりませんが夫婦小説とか呼んでみても、間違いではないけれど、かなり違う味わいもあるし、内容もはみ出している。ミステリーの要素も大きいのですが、ミステリー小説とも呼びにくい気がする。そんなジャンル不明の小説になりました。
 主人公の桃子が、書き手の目から、中々わかりづらい人だったということも原因のひとつかもしれません。今までの小説だと、登場人物の背中のすぐうしろに立っている、ような感じで書いてきたんです。人物の匂いが嗅げ、思考が読み取れるくらいまで接近して書いていた。でも桃子に関しては、二メートルくらい離れて書いたように思えます。
 これは僕が桃子に興味や好意を持たなかったせいではなくて、作者が言うのもアレですけど、彼女はすごく気になる女性なのに、うまく理解しきれなかったからです。この小説を書き始めてすぐに、(あれ、彼女のことを理解できない)と気づいた。ということは、心情を書くと嘘になるわけだから、彼女の行動だけを追っていこう、と決めたんです。だから、例えばチェーンソーを買う場面でも、「何か気になって」というような心理を書かずに、ただ買う、という具合にしていった。おかげで、なぜ彼女がそんなものを買うのか、作者も深くわかっていないのだから、けっこう怖さが出た。「あ、このひと、チェーンソーを持って帰って、まず畳を切るんだな。怖いな」と桃子を追いかけながら、その場その場で作者も知っていく、そんな不思議な書き方になりました。もちろん、なぜ畳を切って、その次にはなぜあんなこと・・・・・をするのかという漠然たる理由は作者も持っているんですよ。でも、何と言うのか、必然性とか衝動みたいなものは作者ではなく、登場人物のそれを使ったのかもしれません。
 一方で、桃子の旦那である真守のことはわかるんです。彼の性格や思考は想像できるから、かえって僕にはそれほど魅力がないし、あまり書くことをしなかった。桃子で一番わからなかったのは、なぜこの程度の男を結婚相手に選んだのか(笑)。
 だから、やはり恋愛や夫婦関係がテーマではないんでしょうね。いろんな方向から、〈桃子の居場所〉あるいは〈居場所のなさ〉を書きたかったのだと思います。小説を書きながら桃子と長く付き合ううちにわかってきたのは、彼女は「全てには理由がある」と思ってしまう人なんですね。ここにいる理由、結婚する理由、家を出る理由……「理由なんてないんだ」と思えた方がもっと気軽に先へ進めるかもしれないのに。もうひとつ、地方出身で、仕事をやめ、子供もおらず、夫に不倫された専業主婦として、きちんとした〈肩書〉がなくなったことが彼女を不安定にさせたのかなとも思います。母でも妻でも娘でもない彼女には居場所がなくなってしまう。
 桃子が住んでいるのは具体的に存在する街ではなくて、僕が昔住んでいた南荻窪と千歳烏山を足したようなイメージです。この小説の中で、自分に近い人物がいるとしたら、桃子の家近くの安アパートに住む李くんですね。彼は「ゴミの分別ができてない」と疑われるけれど、僕も絶対に疑われてたと思うんですよ(笑)。生活の時間帯やリズムが違うせいで、地域にあからさまに嫌がられていたんじゃないかと。当時は、こっちを嫌がっている人たちを、なんで自分たちが絶対的に正しいと思えるのか単純に不思議に思ってましたね(笑)。夜も早くから真っ暗な住宅街の中で僕の部屋だけが煌々と電気がついて友達が出入りしたりするのですから、「ヘンな人が住み始めて迷惑」と嫌がられて当然なんですけどね。
 でも、こっちも歳を重ねてくると、当り前なんだけれど、嫌がる側の人たち、つまり一般的な方に寄っていて、寄ってみれば、そっちはそっちで決して悪い人たちではないし、実はさほど自信を持って暮らしているわけでもないとわかってくる。スカッと割り切れないそんな人たちが、どこの街にも大勢住んでいる。ごく普通のことです。でも、そんな街には居場所がないとふいに気づかされた女性がいたらどうなるのだろう、どんな行動を取るだろう――そんな桃子の戦いがどんな結末を迎えるか、『愛に乱暴』を読んでもらえたらと思います。

(よしだ・しゅういち 作家)
波 2013年6月号より
単行本刊行時掲載

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