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流転の海 第一部

宮本輝/著

880円(税込)

発売日:1990/04/27

  • 文庫
  • 電子書籍あり

理不尽で我侭で好色な男の周辺に生起する幾多の波瀾。父と子の関係を軸に戦後生活の有為転変を力強く描く、著者畢生の大作。

書誌情報

読み仮名 ルテンノウミダイイチブ
シリーズ名 新潮文庫
発行形態 文庫、電子書籍
判型 新潮文庫
頁数 448ページ
ISBN 978-4-10-130750-3
C-CODE 0193
整理番号 み-12-50
ジャンル 文芸作品、文学賞受賞作家
定価 880円
電子書籍 価格 880円
電子書籍 配信開始日 2012/05/25

書評

30年前から私を作ってくれた名著たち

原田ひ香

(1)『日出る国の工場』
 この本の内容について、私は数ヶ月に一度は必ず、と言っていいほど思い出す。単行本として出版されたのが1987年、私は十七歳だった。村上春樹さんとイラストレーターの安西水丸さんがさまざまな工場を巡ってレポートするという内容になっている。
 高校時代というのは、どうしても社会が小さい。それが、日本のさまざまな地域の、日頃はなかなかお会いしない人たちについて、コミカルとシリアスが上手に入り交じった、村上さんの素晴らしい文章(と安西氏のすてきなイラスト)で突然、知ることになったのだ。ぐうっと世界が広がって、自分が急に大人になったような気がした。

村上春樹/安西水丸『日出る国の工場』書影

 今回読み返して、私はこの本である意味初めて、「かなり奥深いところの、大人の本音と建て前」に立ち会ったのだ、だからあんなに感動したのだ、と思った。
 また、このエッセイ集はあの『ノルウェイの森』の半年前に出版されている。つまり、この本のために村上さんと安西さんが日本中の工場を回った時、世間の人々は村上春樹さんがあの『ノルウェイの森』の作家だと知らずに触れ合ったのだ。実際、文章の中にも「見も知らぬ自分たちに皆さん、親切に話をしてくれた」というような表現が何度か出てくる。
 だから工場の人たちは、というか、村上さんが話を聞き出し、その文章の中に現れた「工場の人」たちは「本当はこう言わないといけないって会社からは言われているんですけど、実際はこうなんですよね」と正直に包み隠さず話してくれている。「大人は、決して悪い人ではなくても、いろいろあって、でも頑張っているんだな」と高校生の私は彼らを面白くて愛おしい人たちだと知ることができた。
 さらに、今の日本にもつながる構造的な問題がこの時すでに現れている。
 例えば、日本の某超有名鞄メーカーは少し前まで、あの造り、あの素材としては破格の安さだと言われていた。なぜなら、作っているのが六十代、七十代以上の縫製職人で、作業費は安いものの、年金だけで食べていけるし、皆、「自分は◯◯カバンを作っているんだ」というプライドで請け負ってしまう。だから、国内の他のバッグ工房は太刀打ちできない、という話があった。
 それを聞いた時、私がまず思い出したのがこの本の「コム・デ・ギャルソン」を作る工場だ(実際には下町の家内制手工業の一軒家)。ここに出てくる、「コム・デ・ギャルソンを作ってるんだよ」と旅行先の飲み会で自慢する初老の男性と、「◯◯カバンを作ってるという誇りで安い手間賃でやってしまっている人たち」がちょっと重なったのだ。
 あの頃すでに「善人のやり甲斐や好意に甘えている」現在の日本の構造的な問題が含まれていたのを、バブルが始まる少し前の高校生の私は気がつかなかった。

(2)『流転の海』
 宮本輝さんも若い時にたくさん読んだ作家さんだ。新潮文庫には『螢川・泥の河』『錦繡』など素晴らしい作品がたくさんあるが、私は『流転の海』を挙げたい。

宮本輝『流転の海 第一部』書影

 粗野だけど、生命力に溢れる松坂熊吾(著者の父親がモデル)の半生を描く長編小説だが、現代の目から見ると、ちょっと乱暴すぎるところもあるかもしれない。だけど憎めない。
 宮本さんは時々、とても大切なことを小説で教えてくれる。男の「学歴の低さと身長の低さ」は何があっても、どんなに酔っていてもからかってはいけない、なんていう言葉は最近の作家にはちょっと書きにくいことだろう。だけど、二十代の秘書時代、この言葉にどれだけお世話になったことだろうか。
 また、この松坂熊吾の生まれ故郷となっている愛媛県の一本松村は、私の父の生まれ故郷の隣村だ。

(3)『塩狩峠』
 実を言うと、最初はこの本と井上靖『しろばんば』、下村湖人『次郎物語』の三冊で「明治大正の男の子は大変だなあ」という原稿を書くつもりだった。

三浦綾子『塩狩峠』書影

 なぜか、皆、複雑な家庭環境で、母親不在、なのに、お祖母さん(しろばんばでは曾祖父の二号さん)の性格がきつい。嫁の立場は弱いけど、それだけをもって戦前は「男尊女卑」だったとは一概に言えないほど、祖母の存在と癖が強い。それも一因なのか、皆、性に対して臆病だったり苦手意識を持っているのだが、ちょっと気を抜くと年上男性にむりやり吉原に連れて行かれたりする。
 こういう古い小説を読んで、戦前の「男の子」のつらさを知るのもまた、小説の楽しみではないだろうか。

(はらだ・ひか 作家)

波 2026年3月号より

老若男女の織り成す壮大な人間模様 宮本輝「流転の海」全九冊について

重里徹也

 今年の一月中旬から二月末にかけて、コロナ禍の東京に居ながら、私は長い旅をしていた。それで、退屈なはずの日常が楽しくて豊かな日々に変貌した。
 実は宮本輝の「流転の海」シリーズ全九冊を一気に読んでいたのだ。すでに単行本が刊行された時に読んだものもあるのだが、全編を続けて読むことで、この大河小説がいかに魅力にあふれたものか、まざまざと実感した。これは偉業だ。驚嘆すべき仕事だ。
 物語は1947年に始まり、1968年に終わる。敗戦後の焼け跡から、高度経済成長へ。宮本の父親をモデルにしたという松坂熊吾を中心に、千数百人を超える老若男女が登場し、日本の戦後史が描かれていく。
 小説の視点は徹底して低い。絶えず、地べたのにおいが漂い、河川の流れる音が聞こえ、雑踏の声が響く。庶民たちが織り成す人間模様が次から次に展開される。私たちは、ある時には登場人物の突然の死に無常を思い、別の場面では裏切りに人間存在の本性を考える。男女の情愛に人生の深みを感じ、絆の強さに接して宿命の重さに驚く。
 舞台は大阪を中心に四国の南宇和(愛媛)、富山、金沢、兵庫県の尼崎市、城崎温泉などに移っていく。しかし、前面に出てこない土地もある。「東京」だ。これは「東京」抜きの戦後史なのである。「東京」はいつも遠くから距離を置いて眺める存在でしかない。はっきり言って、この小説に登場する人々は目の前の生活に必死で、そんなものにかかわりあっていられないのだ。
 流行歌もあまり出てこない。芸能やスポーツの話題は数えるほどだ。そういう安易な方法で時代が表現されることはない。逆に世界の出来事はスターリンの死去からベトナム戦争や文化大革命、ケネディ暗殺、大学闘争まで、登場人物たちが自分の見方で話題にする。
 主人公の熊吾はダンスホールの経営、中華料理店、プロパンガスの販売など、さまざまな仕事に手を染める。ただ、中心になって打ち込むのは中古車の販売だ。中古車部品の販売やモータープールの運営も含めて、商売の実態が生々しく描かれる。景気の浮き沈みに、人々はため息をつき、喜びに沸く。経済成長は自動車の普及とともにある。自動車を選んだのは熊吾ならではの読みだろう。自動車とは戦後日本社会の急所の一つなのだ。時代を表すのに、中古車は卓抜な鏡だと気づかされる。
 熊吾はバイタリティーにあふれ、エネルギッシュで全てのことに対して情が深い。そして特筆すべきことは、彼が市井の思想家でもあることだ。彼は思索し、あらゆる生活の場面で哲学を語る。
 いくつもの心に刺さる言葉が彼から発せられる。人間にとって大切なことは何か。日本人とはどういう民族か。戦後社会というものをどう考えるのか。戦争は人間のどういう性質をあらわにするか。自尊心よりも大切なものを持つとはどういうことか。ダメな教師とはどういうものか。私たちはしばしば立ち止まり、思いをはせることになる。
 そんなに人の世が見えている熊吾なのに何度も失敗する。脇が甘いし、誘惑に弱いし、自分の健康管理もできない。熊吾の妻である房江は苦労を重ねながら自身の生き方を見いだす。自殺未遂を経て、自立する女性として生まれ変わっていく。熊吾が五十歳になって初めてできた息子の伸仁は今度新しく文庫になる第九部『野の春』では大学生になって、文学とテニスとアルバイトと恋愛に明け暮れる。
 そう、この第九部でははっきりと時代が移り変わっているのを感じさせるのだ。ずっと読んできた読者は精神病院に入れられて死んでいく熊吾に何を思うのだろうか。味わいは苦くて複雑だが、主人公がやがて宇宙に還っていくような解放感を感じるのも確かだろう。
 登場人物たちの中から、自分の贔屓をつくるのも楽しい。私は断然、南宇和の鍛冶屋の男性と、茶道を追求する在日コリアンの男性に惹かれた。二人とも個性的な苦労人だ。南宇和の鍛冶屋は戦場でギリギリの体験をしてきたし、在日コリアンの男性は貧しく、日本語の読み書きも不自由だ。だが、二人とも人間としての芯がしっかりとしていて、それが表情にもしぐさにも表れている。この二人が小説に姿を現すと、私は何か、なごんだような気持ちになる。彼らが第九部でも登場するので心が弾んだ。
 一月から二月というのは、私の苦手な季節だ。寒さはどこまで続くのかとどんよりした空を見ていてつらいし、春はなかなかやってこないし、そのうち花粉症に悩まされる。毎年、とても長く感じる。ところが、今年はあっという間に過ぎていった。小説に読み浸る喜びで、時間の流れが速くなったのだった。

(しげさと・てつや 聖徳大学教授・文芸評論家)
波 2021年4月号より

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著者プロフィール

宮本輝

ミヤモト・テル

1947(昭和22)年、兵庫県神戸市生れ。追手門学院大学文学部卒業。広告代理店勤務等を経て、1977年「泥の河」で太宰治賞を、翌年「螢川」で芥川賞を受賞。その後、結核のため2年ほどの療養生活を送るが、回復後、旺盛な執筆活動をすすめる。『道頓堀川』『錦繍』『青が散る』『流転の海』『優駿』(吉川英治文学賞)『約束の冬』(芸術選奨文部科学大臣賞)『にぎやかな天地』『骸骨ビルの庭』(司馬遼太郎賞)『水のかたち』『田園発 港行き自転車』等著書多数。2010 (平成22)年、紫綬褒章受章。2018年、37年の時を経て「流転の海」シリーズ全九部(毎日芸術賞)を完結させた。

The Teru's Club / 宮本輝公式サイト (外部リンク)

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