ハレルヤ
539円(税込)
発売日:2022/04/26
- 文庫
- 電子書籍あり
日だまりですやすやと眠っていた子猫の花ちゃんは、まるで小さなお饅頭みたいだった。
生には終わりはあるかもしれないがそれを死とは呼ばない――。花ちゃんは外に出るのが好きな猫だった。腫瘍が見つかったのは十七歳のとき。余命二週間を宣告されると花ちゃんは大きな声で鳴いた。懸命に生きる花ちゃんとのかけがえのない日々を描いた「ハレルヤ」。子猫だった花ちゃんとの出会いを振り返る「生きる歓び」。川端康成文学賞受賞作の「こことよそ」など、愛おしさに満ちた傑作短篇集。
十三夜のコインランドリー
こことよそ
生きる歓び
解説 湯浅 学
書誌情報
読み仮名 | ハレルヤ |
---|---|
シリーズ名 | 新潮文庫 |
装幀 | 岡田望/カバー写真、新潮社装幀室/デザイン |
雑誌から生まれた本 | 新潮から生まれた本 |
発行形態 | 文庫、電子書籍 |
判型 | 新潮文庫 |
頁数 | 192ページ |
ISBN | 978-4-10-144925-8 |
C-CODE | 0193 |
整理番号 | ほ-11-5 |
ジャンル | 文学・評論 |
定価 | 539円 |
電子書籍 価格 | 539円 |
電子書籍 配信開始日 | 2022/04/26 |
書評
いつか再読する日のために
いつか再読する日のために、大切に本棚に仕舞っている本がある。誰しもそんな本があるだろうか。今回その中から三冊を選び再読したので紹介したい。
僕に再読の喜びを教えてくれたのは大学時代のサークルの先輩だった。なぜか後輩にも敬語を使うその人は、暇を持て余した落研の部室でこう言った。「良い本を読むと良い心持ちになるじゃないですか。またあんな心持ちになりたいと思って、時間が経ってからもう一度読むんですよ」。聞いた時、「心持ち」という言葉がなんだか良いなと僕は思った。
宮部みゆき『本所深川ふしぎ草紙』は江戸の義理人情を描いた時代小説集だ。第三話「置いてけ堀」の中でその「心持ち」という言葉が出てくる。やや古風なこの表現は時代小説だからこそ自然に使われていた。
――いっそ、庄太のあとを追ってしまおうかという心持ちが、冷たい水のように身体にしみてくる。
亭主を亡くした若い女房が寂しさを募らせる場面である。置いてけ堀に現れる岸涯小僧が、もしかしたら死んだ亭主が化けた姿なのではないかと疑うところから、物語は進んでいく。
本所七不思議を題材にした七つのお話は、どれもこれも味わいある人情話に仕上がっている。不思議な出来事が起き、それにつられて人の心が動くのだが、提示された謎はスッキリ解決したり余韻という形で残ったり。暮らしの中の悲しみも苦しみも、叶わない切ない思いも描かれているのに読後感がたまらなく良く、もう一度この「心持ち」を味わえたことが嬉しい。
保坂和志『ハレルヤ』を再読して驚いたことがある。もともと大好きな小説家で、すべての著作が本棚に並んでいるのだが、表題作「ハレルヤ」を初読の際、身体を射抜かれたような心持ちになったはずの一行が、再読時どこにも見当たらなかった。どうしてそんなことが起きるのか。もしかしたら誤読や間違った記憶すらも読書の楽しみであり、また再読の喜びなのかもしれない。
「生きる歓び」には、十八年前、谷中の墓地で偶然拾った子猫の花ちゃんのことが描かれている。花ちゃんは「生きる歓び」をその全身で表現した。片方の目が開かず、自分で餌を食べる力のない状態の花ちゃんを拾った「私」は、薬を飲ませ餌を食べさせた翌日の夕方に見違えるほど元気になった花ちゃんの様子を見て、その生きようとする力に驚く。
――「生きている歓び」とか「生きている苦しみ」という言い方があるけれど、「生きることが歓び」なのだ。
それから花ちゃんは「私」の家族になり、十八年八カ月の歳月を生きた。「ハレルヤ」では花ちゃんが旅立つ日が描かれていて、最後の花ちゃんの様子と「私」の心の中が小説になっている。
これはただの喪失を描いた物語ではない。単に命の重さを問う物語でもない。そもそも物語ですらもなく、僕はこの小説を通じて世界や人間や時間や記憶や存在について考えさせられた。きっと読了後、自分が忘れたり仕舞い込んでいた大切な何かを思い出すことになると思う。そんな小説だ。
木田元『反哲学入門』を再読した理由は、初読の時によく分からなかったからだ。再読の喜びには、あの頃「分からなかったことが分かるようになる」ことが含まれる。
哲学史をニーチェ以前と以後に分け、以後を「反哲学」とする著者の試みは、今回とんでもなく面白く読めた。様々な哲学者たちの思索が解説されているのだが、「なぜ彼がそう考えるに至ったか」が著者の憶測も交えて細かく書かれており、そのことに初読時点では気づかなかった。
――インセスト・タブーに対するこうした反撥が心理的動機として働いて、ニーチェは西洋の文化形成の総体を批判的に見るような壮大な歴史的視野を開きえたのではないかと思っています。
哲学者というどこか遠くに感じる存在を著者が手ほどきしてくれる本であり、考えることの喜びを味わえる名著だ。
今回、再読した三冊を僕はまた本棚に大切に戻した。再再読の日が来たら、今度はどんな「心持ち」になれるだろうか。
(なつのかも 落語作家)
波 2024年2月号より
読むといいことが起こる
何事も起きていない日など厳密には誰にもないのだけど、それでも大きく気にかかるようなものがなく、とりたてて言うほどのものはなく、仕事が面倒くさいとか、あいつが嫌だ、あいつが好きだ、退屈だ、死にたい等々はあれど、今日と同じ明日が来るだろうか、というような、もちろんどんなに似た日であろうと今日と同じ明日などないのだけどそれでも、そんな風な思い方をしない時、には気がつかない、あれこれ、というのがある。それは字にも書けないような事だ。どんな身近な人にすら、言葉、では伝えられない事だ。しかしそれは、この本を読んで「ああそうだ忘れていた、わたしの幸せはそんな時のその感じだ」と認めてしまったら、ばちが当たって、ほんとうかならそうしてやろう、と上の何かに思われたら困る、というような事、とも言える。
母が死ぬ前、ぼくはまだ若かった。若かったから、六十前でわたしは死にかけている、という事の、当人の切実なんかわかるはずもなく、ただ迂闊にもまだ死ぬとは思ってもいなかったものが死ぬ、という掟のような当たり前にうろたえるだけで、その状況が嫌で、陰気な顔をしていた。なのにぼくは、病棟の、日のさす談話室の、静かな時間の光景を思い出す。車椅子に乗せた母と見た桜の木を思い出す。そして、またあの光景を味わいたいな、と思う。そう思ってしかしすぐに、だめだだめだ、と思う。あの光景は、大事なものがなくなるとわかった時のような、なくなったと知った時のような、崖から突き落とされる、あの気分を経た後にだけ来るものだと知っているからだ。
ぼくは同じ気分を震災の時にも感じた。父が死ぬ時にも感じた。そして猫が死ぬ時、病気になり死にかけている時にも、感じた。しかしこれはこうして言葉にするのはあまり良くない。小さな誤解でも違うものになる。誤解されようとなんだろうと関係ない、というような態度も、その態度が、それ、を違ったものにしてしまう。
だからこの本を読めばいい。
五月二十日はとてもいい天気だった、九時に府中の農工大に着くとそこは北海道みたいに広々した敷地で動物医療センターは外にベンチもテーブルもある庭があり地面にはおもにクローバーが生えていた。
待ってるあいだ私は花ちゃんと外のそこにいることにした、キャリーの戸を待つあいだいつものように私は開けた、戸を開けて、中で縮こまっている花ちゃんを撫でるつもりだったのが花ちゃんは戸が開くとキャリーから出た。そしてキャリーを置いていたベンチから下に跳び降りた、花ちゃんはベンチのすぐ下のコンクリートにもあまり長いこといずにクローバーの地面を歩きはじめた、このとき花ちゃんは物の影や形ぐらいは見えていた、だから簡単にベンチから跳び降りた、チワワだったかトイプードルだったか、小さい犬を抱いた老夫婦が診察にきた、建物に入る前に奥さんが地面に屈んだ、
「四つ葉のクローバー見つけた。」
「ほお、きっといいことがあるね。」
私はそれを聞くだけでもう泣いていた、私たちもこういう老夫婦になるんだろうか。五月の晴れた郊外のキャンパスは鳥がしきりに鳴き交わしていた、ツバメが低く飛び回っている、花ちゃんはその下で喜んで歩いている。
「ハレルヤ」
書かれることなのか、書かれ方なのか、しかしそれは同じことで、それが書かれること、それ、とは「世界」と言われたりするもののことだ。「世界」が書かれようとすること、書くというのはそこにあること、それらがやわらかいやり方で、雑とも見えるやり方で、あちこちの淡い色が重なった瞬間、重ねられた瞬間、小説になる。捕まえた訳ではない。
四つ葉のクローバーを見つけた老夫婦には四つ葉のクローバーを見つけたとき、見つけなくても、奥さんが屈んだとき、もう「いいこと」が起きていた。
(やました・すみと 劇作家・小説家・俳優)
波 2018年8月号より
単行本刊行時掲載
著者プロフィール
保坂和志
ホサカ・カズシ
1956(昭和31)年生れ。1990(平成2)年、『プレーンソング』でデビュー。1993年『草の上の朝食』で野間文芸新人賞、1995年『この人の閾(いき)』で芥川賞、1997年『季節の記憶』で谷崎潤一郎賞、2013年『未明の闘争』で野間文芸賞を受賞。他の作品に『残響』『カンバセイション・ピース』『猫がこなくなった』『書きあぐねている人のための小説入門』『小説の自由』三部作、絵本『チャーちゃん』など。