ホーム > 書籍詳細:初恋さがし

初恋は、イヤミスによく似合う。
忘れられない、かけがえのない日々。
だから会いたい、あの人に。
その気持ちが、間違いの始まりでした――。

初恋さがし

真梨幸子/著

1,728円(税込)

本の仕様

発売日:2019/05/20

読み仮名 ハツコイサガシ
装幀 オートモアイ/装画、新潮社装幀室/装幀
雑誌から生まれた本 小説新潮から生まれた本
発行形態 書籍
判型 四六判
頁数 280ページ
ISBN 978-4-10-352581-3
C-CODE 0093
ジャンル 文学・評論
定価 1,728円

所長も調査員も全員が女性、「ミツコ調査事務所」の目玉企画は「初恋の人、探します」。青春の甘酸っぱい記憶がつまった初めての恋のこと、調べてみたいとは思いませんか? ただし、ひとつご忠告を。思い出の向こう側にあるのは、地獄です――。他人の不幸は甘い蜜、という思いを、心のどこかに隠しているあなたに贈る、イヤミス極地点!

著者プロフィール

真梨幸子 マリ・ユキコ

1964年宮崎県生まれ。2005年『孤虫症』で第32回メフィスト賞を受賞しデビュー。2011年に文庫化された『殺人鬼フジコの衝動』が累計60万部を超えるベストセラーに。他に『ツキマトウ』『向こう側の、ヨーコ』『ご用命とあらば、ゆりかごからお墓まで』『祝言島』『カウントダウン』など多数の著書がある。

目次

エンゼル様
相談受付日 2012.02.03
トムクラブ
相談受付日 2015.02.13
サークルクラッシャー
相談受付日 2015.03.05
エンサイクロペディア
相談受付日 2017.08.11
ラスボス
依頼受付日 2017.08.15
初恋さがし
相談受付日 2016.10.12
センセイ
原稿完成日 2019.01.30

第1話「エンゼル様」試し読み

 エンゼル様。どうか、よしむら先輩が別れますように。そして、村田先輩が、私と付き合ってくれますように。

よし

 JR高田馬場駅から歩いて五分。早稲田通り沿いの雑居ビル、四階。

 ミツコ調査事務所。

 今日の依頼人は、少々面倒かもしれない。

 所長のやまうちみつは、目の前に座る依頼人をしばらく観察した。この人は、もう三分以上も、光子が渡した名刺を見つめている。その手は土色で、相当にくたびれている。

 光子は、依頼人の顔を覗き込んだ。

 マスクをしたその顔からは、表情が読み取れない。ただ、その瞼だけが意味ありげに、粘ついた瞬きを繰り返している。

 光子は軽く咳払いした。

「では、ご依頼の内容を、詳しくお聞かせください」

「……はい」

 依頼人は、相変わらず名刺を眺めながら、白髪交じりの頭をねっとりと撫で付けた。その視線は、加工肉を隅々まで吟味するスーパーの客のように、ぎらぎらと容赦ない。

 このような反応はいつものことだとばかりに、光子は慣れた口調で言った。

「ご安心ください。こう見えましても、わたくしは、かつて大手法律事務所で調査員をしていたんですよ。有名な事件もいくつか担当させていただきました」

「はあ」依頼人は名刺と光子を、交互に見やった。

 光子は殊更、背筋を伸ばした。

「見た目はただのおばちゃんですが、実績だけは確かですよ」

 そして、壁に貼られた『初恋さがし』というポスターをちらりと見た。

「“初恋さがし”っていうのは、わたくしのアイデアなんです。いわゆる、初恋の人、探します……というやつです」眉を上下させながら、光子は得意げに言った。

「ただの人探しじゃ、注目されませんものね。やっぱり、なにか訴求ポイントがないと。いろいろと考えて、“初恋”がいいんじゃないかと。“初恋”って、なんだか特別な響きがありますでしょう? だって、“初恋”って、人生でたった一度のことですもの。そして、“初恋の人”は、特別な存在ですもの。で、一年前、“初恋さがし”という企画を試してみたんです。そしたら、案の定、当たりまして、テレビでも紹介されたりしましたもんですから、おかげさまで、今ではそこそこ仕事をさせてもらっています。料金設定も良心的だと好評いただいておりますし、なにより、スタッフはみな女性。きめ細かい調査を得意としていますので、安心してご依頼ください。……それで、初恋の人をお探しですか?」

「いいえ」依頼人は、視線をそらしながら言った。腰はすでにソファから数センチ浮いている。

「では、どんなご依頼でしょう?」

 光子は依頼人の体をソファに押し戻すかのように、声に圧力を加えた。

 もう逃げも隠れもできない、興信所のドアを開けてしまったからには、悩みをすべて打ち明けてしまいなさい、疑惑をすべて吐き出してしまいなさい。そんな光子の気迫に、依頼人はようやく視線を定めた。覚悟を決めたようだった。ソファに腰を落ち着かせると、言った。

「この人を、探しています」

 そして紙袋を膝に載せると、その中から一枚の紙を引きずり出し、それをそっとテーブルに置いた。

 光子は老眼鏡をかけると、紙を手繰り寄せた。そこには住所と氏名が書かれている。ペン習字のお手本のような文字だ。どの文字も一画一画、必要以上に丁寧に書かれている。住所は、神奈川県横浜市の戸塚区……。

「この方を、お探しですか?」

「はい」

「この住所には、もういらっしゃらないのですか?」

「その住所は、もう、三十年以上も前のものなので」

「なるほど。それだけ経っていれば、確かに移転している可能性が高いですね。……差し支えなければ、この方を探している理由をお聞かせ願えますか?」

「古い、知り合いです。どうしても、もう一度会いたくて」

「なるほど」

「ずっと忘れていたのですが、ここにきて、ふと、思い出してしまいまして。思い出した途端、この子のことばかり考えてしまって、落ち着かないのです」

「なるほど。いえ、珍しいことではないですよ。ある程度歳を重ねると、なにかをきっかけに、ふと、忘却の彼方にあった遠い昔のことを思い出すものです。先日も、五十年前に埋めたタイムカプセルの場所を探してほしいという依頼がありましてね」

「それで、どのぐらい、かかりますか?」

「料金は……」

「いえ、時間です。すぐに探し出せますか?」

 依頼人の顔が、すぐそこまで迫っている。その額には青い筋が立ち、マスクは細かく震えている。光子は思わず、体をのけ反らせた。

「一概には言えないのですが――」

「できるだけ、早く」

「いや、しかし」

「ガンなのです」

「は?」

「ですから、私、末期ガンなのです!」

 断末魔の叫びのように、依頼人の声に突然、力がみなぎる。

「……ガン?」

 光子は、再び体をのけ反らせた。

「先日、医者に宣告されました。私は、もうそれほど長く生きられません。時間がないのです。このままでは、死んでも死に切れません。あの子のことを気にしたまま死ぬわけにはいかないのです。私の人生、ろくなものじゃありませんでした。後悔だらけの人生です。眠れない夜も何百とありました。でも、死ぬときぐらいは、心清らかに、洗い立てのシーツにくるまったときのように心安らかに、目を閉じたいのです。ですから、どうか、どうか……」

 依頼人の指が、光子の腕にきりきりと食い込む。とにかくその圧力から解放されたくて、

「分かりました。一週間、お時間をください」

 と、光子は、応えた。

 西武新宿線。

 新宿駅を出発して、もう五分ほど経つだろうか。喜和子は、手持ち無沙汰に電車内に視線を巡らせた。

『安心、丁寧、低価格。女性スタッフが真実をズバリ、突き止めます。――ミツコ調査事務所』

 中吊り広告が、水槽の中の水草のように揺らめいている。

 こんな原始的な広告手段にどれほどの効果があるものなんだろうかと馬鹿にしていながら、こうやってついつい見上げて凝視してしまうのだから、やはりそれなりの効果はあるのだろう。

 喜和子は、いつのまにか伸ばしていた首を、亀のように引っ込めた。そして、逆方向に視線を巡らせてみたが、そこにもやはり、中吊り広告。

『成功に導く十の魔法』

 今度は、書籍の広告コピーだった。

 成功? 喜和子はつい、鼻で笑った。そして、

 この手の本は、成功のことしか言わないけれど、成功の秘訣なんて千差万別。マニュアル化なんかできない。むしろ失敗のほうが、パターンは決まっている。失敗をしない方法について書けばいいのに。

 こんな感じで評論家よろしく自身の主張を心中唱えてみるのだが、もちろん、それは独り言に過ぎない。

 左手のレジ袋を、右腕に持ち替える。少々、買い過ぎたか。メロンパン十個。新宿のデパートの催事場、買うつもりはなかったが、その行列につい、釣られた。並ぶこと、二十二分。ここまで並んだのだから買えるだけ買わないと損だとばかりに、店員に向かって「十」という数字を口にしていた。ひとつ三百円で三千円。……とんだ無駄遣いだ。もう五十四年も生きているというのに、どうしていまだに「行列」と「損」にこうも簡単に騙されるのだろう。特に「損」というのは強烈な強迫観念だ。「損」を回避するために、かえって多くを失っている。

 私のようなカモがいるから、資本主義は回っているのよ。

 などと正当化してみるが、このメロンパンはさすがに手に余る。甘いものが好きな娘はすでに嫁に行き、家にいるのは甘いものが苦手な夫だけだというのに。仕方ない。明日、職場に持っていって、同僚に配ろう。賞味期限は明日とか言っていたから、大丈夫よね?

 視線を右側に少しだけ動かすと、今度は女性週刊誌の広告。

『寿命が十歳延びる、とっておきの話!』

 これ以上、寿命延ばしてどうすんのよ。超高齢社会に突入した日本はこれから大変だって、毎日のようにテレビで煽っているのに。今朝だって、年金と医療費で日本の財政は破綻寸前とかなんとか、どこかのコメンテーターが偉そうに――。

 あ。いつものが来た。

 身構えるより早く、それは喜和子の体をあっというまに覆った。

 あつい。

 そう、「暑い」ではなくて「熱い」。

 蒸気のような熱風が、身体中を巡りはじめる。

 ああ、あつい!

 喜和子は、ダウンコートのボタンを一気に外した。

 車窓の眺めは、絵に描いた様な冬景色。灰色の雲が深く垂れ込め、細かい雪がちらちら降っている。

 道行く人々はそれぞれのコートを掻き抱くようにしながら、風に煽られ、せかせかと歩いている。天気予報によれば最高気温二度。だというのに、喜和子の体はカイロのようにかっかっと火照り、背中には汗が次々と流れていく。今すぐコートも服も脱ぎ捨てたい。できたら、この窓を開けて、凍り付く外に身を投げ出したい。

 せめて、座りたい。

 しかし、席は空いていなかった。

 日曜日の昼下がり。混んではいないが、シートは隙間なく埋まっていた。喜和子は、ドア付近まで足を運ぶと、これ見よがしに体をドアに預け、斜め掛けしたバッグの中からタオルハンカチを取り出し、それを団扇代わりにおもいっきり扇ぐ。

 ホットフラッシュ。

 そんな言葉を知ったのは、五年前。いわゆる更年期症状のひとつだ。ホットフラッシュにはじめて襲われたその年、閉経した。つまり、もう女ではなくなった。

 じゃ、今の私はなんだろう? 生物的には。

 そういえば。日本人の平均寿命って何歳だっけ? 男女合わせて、八十代半ばぐらい? まあ、八十歳として。……あと、二十六年。

 あと二十六年。これが、若さと健康を保ったままならばいいのだが、細胞は間違いなく老化し続け、今こうしている間にも、老いは進んでいる。そもそも、ヒトは、こんなに長生きする必要なんかあるのかしら? 生物としての旬は、生殖可能な十代から三十代ぐらい? あ、これは女性の場合。男性ならば、八十歳ぐらいでも生殖活動はできる。とはいえ、精子の状態を考えれば、やっぱり旬は四十代ぐらいまでじゃないだろうか。どっちにしろ、男も女も、花の季節は短い。「おにいさん、おねえさん」と呼ばれる期間はあっというまで、三十歳を過ぎれば「おじさん、おばさん」と呼ばれそれが三十年間ぐらい続いて、六十歳を過ぎれば「おじいさん、おばあさん」と呼ばれそれが死ぬまで二十年ぐらい、長生きな人ならば四十年近く。つまり、生物としてはおまけのような時代が平均で五十年、人によっては七十年続くのだ。もっといえば、生物としての魅力を失った状態で疎まれながら生きていく七十年!

「じゃ、私の場合は、あと、何年?」

 喜和子はウンザリとつぶやいた。そして思った。

 現実問題、もうすぐ、おばあちゃんと呼ばれる。

 娘が、二ヶ月後に母になる。初孫が誕生するのだ。男の子か女の子かは分からない。分かっているはずなのに、娘が教えてくれない。

 娘は、昔からそうだ。秘密主義。いや、違う。私にだけ秘密にするのだ。娘の反抗心は筋金入りだ。そう、私にだけ。

 小さい頃は違ったのに。「ママ、ママ」と、ひとときも私の傍らを離れなかった。私も娘のことが心配で可愛くて、一瞬も目を離さなかった。他からは過保護だと言われもしたが、なにしろ女の子だ。とにかく心配でならなかった。小学校に入った頃だろうか。「ママ」から「お母さん」と呼ばれるようになった頃から、あの子は私と距離を置くようになった。それでも私は、あの子のことが心配でならなかった。中学生になると「ババァ」なんて呼ばれることもしばしばあったが、それでも私は、あの子のことが心配で、あれこれと干渉しないではいられなかった。だから、結婚にも反対した。

 だって、あんな甲斐性なしの男。娘はきっと苦労する。だけれど、そのことが、いよいよ私と娘の溝を深めた。加速をつけて溝を飛び越えようとしても、なかなか飛び越えられないほどに。運よく飛び越えられるときもあるが、成功率は二割。今日は、たぶん、失敗だ。今朝からメールを送り続けているのに、あの子からはさっぱり返事はない。

 失敗の原因は分かっている。あの子がいやがる言葉を綴ったからだ。『しっかりしなさい』この言葉があの子の機嫌を損ねるのは充分に承知しているのに、どうしても言わずにはいられない。

 夫に対してもそうだ。電車に乗る前に、「駅まで車で迎えに来て」と、命令口調で言ってしまった。命令されると夫は途端に不機嫌になることを百も承知で。

 人は、どうして、失敗の原因を分かっていながらそれを回避できないのだろう。

『成功に導く十の魔法』

 だから、こんなコピーに何度も騙されて、何度もすがってしまうのだろうか。

 それはそうと。

 喜和子は、額の汗を拭った。

 汗が、なかなか引かない。いつもなら、熱風は一分ほどで過ぎる。そのあとは、彫刻のように体はひんやりと冷たくなる。なのに、今日は、熱風がなかなか治まらず、このままでは焼け死にそうだ。

 喜和子は、今一度、レジ袋を持ち替えた。空いた手で、ドア横の手摺を掴む。

 ふぅ、ふぅ、ふぅ、ふぅ。

 前屈みになって、呼吸を整えてみる。大丈夫、大丈夫。すぐに治まるから。そんな呪文を呟きながら、床を見つめていると、黒い塊が、足元に転がってきた。埃に絡まった髪の毛の塊だ。避けられず、黒い塊がパンプスの爪先に絡まる。

「ひっ」

 思わず声が出て、シートに座っていた老人がびくっとこちらを見た。そのマスクが細かく震えている。その膝には、水着姿の女性が表紙の男性誌。袋とじのミシン目を破ろうと、グラビアに指を差し込んでいる。が、悪戯を見られた子供のように、老人は慌てて指を引き抜いた。しかしその指は未練たらたらで、一度は別のページを捲ってはみたものの、再びグラビアに戻ると袋とじのミシン目に照準を定める。

 これだから、男は。こんな歳になっても、袋とじのヌードグラビアにギラギラ欲望をたぎらすなんて。夫もそうだ、エッチな本を、いまだに隠れて読んでいる。

 ああ、いやだ、いやだ。いやだ。

 ……うん?

 ……え?

 やだ、このエロじいさん、なにやってるの? 右手が、あからさまに股間をまさぐっている。

 やだ、まさか、こんなところで? ……自慰?

 喜和子の予感は的中し、老人のシワシワの手がズボンのチャックをするすると下げた。そしてベルトを緩め、ホックを外したかと思ったら、老人はパンツの中身を引きずり出した。

 信じられない!

 喜和子は、逃げるように、その場から立ち去った。車両の端まで来たところで振り返ると、老人が案の定、男性誌を見ながら自慰をはじめている。なのに、他の乗客は無関心。見て見ぬふりで、老人の奇行を許している。

 信じられない、信じられない!

 喜和子は勢いをつけて仕切ドアを開けると、そのまま隣の車両に飛び込んだ。

 なんなの、あれは!

 信じられない、信じられない、信じられない!

 出かけるんじゃなかった。家にいればよかった。そもそも、今日は、一日家にいる予定だったのに。こんな雪の日は、家が一番なのに。

 だけれども、昨日、良枝から三十年振りに連絡があり、会うことになった。そして、今日、新宿伊勢丹近くのイタリアンで再会した。

 良枝とは、幼馴染だ。

 小学校から中学校二年生まで同じクラスで、一時は親友と認め合うほどの仲だったが、良枝が一つ上の先輩と付き合うようになり、それからは距離を置くようになった。喜和子も好意を寄せていた先輩だった。はじめての失恋。とにかくなにもかも忘れたくて、無我夢中で勉強に励んだものだ。そのお陰で難関の名門女子高に合格したが、公立の共学に進んだ良枝とは、ますます疎遠になった。歩いて十分もかからないようなご近所だというのに、高校時代はほとんど会うこともなかった。一週間に一度、バス停留所で挨拶を交わす程度。

 喜和子が地方の国立大学に進学し、良枝が地元の短大に進んでからは、さらに距離ができた。それでも良枝が結婚したときは、友人としてスピーチをした。本当は断りたかった。あのときの緊張を思い出すだけで、汗が噴き出す。もともと、人前でなにかをするのは大の苦手だ。それでも良枝の結婚を祝して、卒倒しそうになるのを何度もこらえて、スピーチしたのに。良枝だって、「夫に一生ついていくわ」なんて言って、幸せそうだったのに。

「なのに、離婚しちゃったなんて」

 喜和子の口から、ふいに言葉が漏れる。それは思いのほか大きかったようで、斜向かいに立っていた女子高校生が、ぎょっとしてこちらを見た。

 喜和子は、照れ笑いを浮かべながら、体の向きを変えた。

 ホットフラッシュはようやく過ぎ、汗もいつのまにか引いている。

 それにしても、良枝もおばちゃんになっちゃったものね。前に良枝と会ったのは、良枝の結婚式のときだから、三十年前。昔は、清楚で控えめな子だったのに、あんなに派手になっちゃって。そのアクセサリーはどれも大き過ぎて品がなかったし、そのサーモンピンクのワンピースは襟元が少々開き過ぎていた。なにより、あの安っぽい香水。あれはひどかった。せっかくのイタリアンが台無しだった。

 熟年離婚か。

 喜和子は、今度は頭の中だけで、改めて呟いた。

 五十四歳で離婚だなんて。良枝、これからどうするんだろう?

「まあ、どうにかなるわよ」

 三十年振りだというのに、良枝はまるで先週会ったばかりの友人のように、親しげに言った。「幸い、家はあるしね」

 だから喜和子も、親しい近所の人と井戸端会議をするように、言った。

「今も実家で暮らしているの?」

「うん。十年前かな、父と母が立て続けに倒れてね。介護が必要になったんで、一時的に実家に戻ったんだけど。なんだかんだで、結局、住み続けちゃった」前菜の生ハムとチーズをフォークでつっつきながら良枝は言った。「旦那にとっては、いわゆるマスオさん状態。まあ、そういうことも、離婚の遠因かもね」

「直接の原因は?」パンを齧りながら喜和子が訊くと、

「浮気。旦那の浮気よ。風俗嬢にハマって、家出したの。でも、彼女に追い出されたみたいで、すぐに戻ってきたけど。今度は、私が追い出してやった」

 と、良枝は特に隠しもしないで、しれっと言った。

「ありがちでしょう? まあ、子供がいれば、浮気ぐらいは我慢してたかもしれないけど。子はかすがいとは、よくいったものね。子供がいないと、夫婦の絆なんてはかないものよ。……で、そっちはどうなの?」

「まあ、相変わらずよ」喜和子はパンをちぎりながら、肩を竦めた。「旦那のボーナスがちょっと下がったけど」

「でも、旦那さん、公務員でしょう? 公務員なんだから、ボーナスがちょっと下がったぐらい、どうってことないわよ。安泰よ、安泰」

「でも、家のローンがまだ終わってないのよ。ボーナスが減った分、私がパートに出ているの」

「パート?」

「近所の予備校で、経理の手伝い」

「へー、経理?」良枝は、大ぶりのネックレスをいじりながら、妙な笑いを浮かべた。「お子さんは?」

「娘が、一人。二十五歳。去年結婚して、家を出たけれど」

「へー、結婚したの」

「でも、式はしてないの。籍を入れただけ」

「もしかして、できちゃった婚?」

「まあ、そんなところ。再来月、出産予定」

「じゃ、喜和子、おばあちゃんになるの?」

「そう、おばあちゃん」

「へー。おばあちゃんか」

 良枝が、再び妙な笑みを浮かべた。そして、繰り返した。

「おばあちゃん……ね」

 あなただって、もう少しすれば、孫がいようがいまいが関係なく“おばあちゃん”と呼ばれるのよ。そう思ったが、喜和子は言葉を飲み込んだ。その代りに、話を引き戻した。

「それにしても、良枝、この歳になって離婚だなんて」

「この歳だからこそ、決心したのよ。残りの人生は、自分だけのために生きようって」

「自分だけのために?」

「そう。自分だけのために。もう、両親もいないしね」

「おじさんとおばさん、亡くなったの?」

「うん。去年、母が亡くなってね。父は三年前に亡くなって……あれ、連絡しなかったっけ?」

 連絡? なに言っているのかしら。そもそも、この三十年、年賀状のやりとりもしていないじゃない。なのに、なんで、今回は連絡をくれたのだろう。……というか、なんで、うちの連絡先、知っていたんだろう? 私が結婚した頃から、まったく連絡が途絶えていたのに。ああ、そうか。たぶん、夫だ。今の家を買ったときに、夫が良枝にも転居届を出したんだ。あの人は、そういう無神経なところがある。

「そうそう、今回、連絡したのはね、ちょっと気になることがあったからなのよ」フォカッチャを引きちぎりながら、良枝。

「気になること?」喜和子も、フォカッチャを籠から小皿に移した。

「そう。先週ね、興信所から電話があって。あなたの居場所を探しているって」

「興信所? なんで?」

「あの町にずっと住み続けているのは私ぐらいだから、私に問い合わせがきたんじゃないかしら。中学校の名簿を片っ端から当たっていたみたいだし」

「いや、そうじゃなくて、なんで、興信所が私のことを調べているの?」

「知らないわよ。興信所の人も教えてくれなかったし」

「それで、どうしたの? 私の住所、教えたの?」

「そんなわけないでしょ。だって、個人情報だもの。そんなに簡単に教えないわよ」

 フォカッチャにオリーブオイルをたっぷりまぶしながら、良枝は語気を強めた。「私、親友は裏切らないわ、昔から。……そうでしょう?」

「あ、ごめん。気を悪くしないで」喜和子は、反射的に謝った。良枝は、昔からこういうところがある。友情の押し売りだ。その友情はどこまでも清くて正しくて。でも、どこか鬱陶しくて。喜和子は、お冷やで唇を濡らすと、話を続けた。

「でも、気持ち悪いわね。なんだろう、誰が私のことを探しているんだろう?」

「もしかして、“初恋の人、探します”ってやつじゃない?」

「え?」

「テレビで見たことあるわよ。最近の興信所は、初恋の人探しの依頼が多いんだって」良枝は、フォカッチャの欠片かけらを振り回しながら言った。「そうよ、そうよ。きっとそうよ。なにか、心当たり、ない?」

「初恋? 心当たり? ないわよ、そんなの」

「じゃ、その人の片思いだったのかもね。だって、喜和子、モテたじゃない」

「嘘よ。そんなこと、ないわよ」

「あら、結構、ラブレター、もらってたじゃない?」

「まあ、多少は」喜和子は、頬が得意げに上がっているのを自覚しながら、生ハムを三枚重ねてフォークで掬い取った。

「喜和子、童顔で可愛かったもんね。なのに、胸だけはしっかりあって。今でいう、エロかわいい系? ほんと、テレビに出ているアイドルなんかよりずっと、キュートだった」

 良枝は、なにか含みを持たせて、言った。「でも、あの頃のアイドルも、みんなおばちゃんになっちゃったわよね。前にテレビで見て、びっくりしちゃった。あんなに可愛かったのに。……老いというのは、どんな人間にも平等に残酷なのね」

 良枝は、にやつきながら、さらに続けた。

「喜和子、高校は天下の白薔薇女学院だったしね。女学院のセーラー服を着た喜和子見たさに、よく、バス停留所に地元の男子がたむろってたよね」

「やめてよ」と言葉では言いながら、喜和子の小鼻がひくひくうごめく。そう、あの頃は、確かに、男の子たちの視線をよく感じていたものだ。

「……私も、あのセーラー服、着たかったな。ね、セーラー服、とってある?」良枝は、フォカッチャを再び力任せに引きちぎった。

「あるわけないじゃない。うちの実家、私が大学生のとき、北海道に引っ越しちゃったじゃない? だから。そのときに、たぶん、処分している」

「そうなんだ。残念」良枝は、最後のチーズを、フォークで突き刺した。「あ。セーラー服といえば」

「なに?」

「喜和子、高校に入学してすぐの頃、セーラー服を汚されたことなかった?」

 言われて、喜和子の顔が強張る。

 そう、もう四十年近く前なのに、あのときのことはよく覚えている。通学のためにバスに乗っていたときのことだ。喜和子は座っていた。バスの揺れが気持ちよく、うたた寝をしていた。もうそろそろ終点かと目をうっすら開けたとき、なにか生温かいぬるっとしたものが頬にあたり、顔を上げると、性器を丸出しにしたマスクの男が喜和子の真ん前に立っていた。男はいやらしく笑いながら、マスク越しに言った。

『この白いの、なんだか分かる?』

 ――ああ、いやだ、いやだ。

 喜和子は、グラスを手に取ると、中身を一気に飲み干した。あのときのことは、思い出したくもない。喜和子は、軽く頭を振ると、話題を変えた。

「で、あの町はどう? 私、高校を卒業して以来、全然行ってないんだよね。どう、あの辺、変わった?」

「うん、変わったよ。駅前なんか、もう立派になっちゃって。昔は、スーパーとボウリング場ぐらいしかなかったじゃない? なのに、今は、デパートと高層マンションとショッピングモールができちゃって。私たちが住んでいた地区も、去年ぐらいから再開発の話がでていてね。……そうそう、私たちが通っていた中学校も廃校が決まったのよ」

「そうなの?」

「うん。来年、隣町の中学校と統合されるのよ。少子化の影響ね。私たちのときは十組まであったじゃない? 今じゃ、三学年とも一クラスだって」

「そうか。なくなっちゃうんだ、あの中学」

 それまでは、滅多に思い出すこともなかった中学時代、が、学校がなくなると聞くと、途端に郷愁が込み上げてきた。手に負えない自意識と切なさと苛立ちと不安と。あの頃は、抱えきれない感情を持て余しながら、暗闇を手探りで進むように家と学校を往復していたものだ。時には、訳の分からない焦燥感で途方に暮れながら。時には、訳の分からない優越感でステップを踏みながら。……もう、四十年も前のことだ。

「あの神社、覚えている?」

 視線をテーブルに戻すと、良枝がフェットゥッチーネをフォークに巻き付けていた。

 喜和子の前にも、リゾットが置かれている。喜和子はスプーンを掴むと、言った。

「神社?」

「ほら、中学校の裏にあったじゃない、古い神社」

「ああ……」

 学校の裏門を出ると、市営団地に続く細い坂道があった。山を切り崩してそのまま作業を途中で放り出したような崖が足元に切り立っていて、ガードレールが申し訳程度に設置されてはいたが、そこから滑り落ちて怪我をした子供は少なくなかった。その道を抜けると、市営団地の裏庭に出るのだが、注意深く見てみると、その手前にもうひとつ細い道が隠されていて、茂みを分けて進んでいくと、神社があった。何を祀っているのか本当の名前は何なのかも知らなかったが、その辺に住む子供たちには、『エンゼル様』という呼び名で知られていた。喜和子も、一度、行ってみたことがある。

 神社というよりは、祠だった。が、一応、小さな鳥居と賽銭箱と祈願書を書く台のようなものがあったと記憶している。

 エンゼル様に祈願すると、必ず願いが叶う。

 喜和子がそんな噂を聞いたのは、中学三年生のときだ。

 団地に住む小学生の誰かが、「おもちゃのカンヅメを下さい」と祈願したところ、金のエンゼルが当たったというのだ。エンゼルとは、チョコレート菓子のパッケージに印刷されている“当たり”だ。金と銀のエンゼルがあり、金の場合は一枚で、“おもちゃのカンヅメ”と交換できる。つまり、その小学生の願いは叶ったのである。このエピソードが元で、あの神社は『エンゼル様』と呼ばれるようになった。

 こんなエピソードもあった。

 とある女子生徒が少女漫画誌の『週刊少女J』最新号が欲しいと祈願したという。当時は、毎週少女漫画誌を買ってもらえる子はクラスに何人もいなかった。誰かが買った漫画誌を、発売から数日遅れで貸してもらうのがほとんどだった。そのためには、漫画誌を所有している子のお気に入りにならなくてはならない。が、その女子生徒はお気に入りになれなくて、漫画を回してもらったことがなかったという。そこで、「『週刊少女J』を毎号、発売日に読ませてください」と、エンゼル様にお願いしたらしい。すると、その翌週から定期的に『週刊少女J』が届けられるようになったというのだ。

 その他にも、願い事が叶ったという事例が次々と、風の便りで聞こえてきた。そんな噂に釣られて、喜和子もエンゼル様に行ってみた。中学三年生の夏休みのことである。噂では、誰にも知られず一人で行って、祠の前に置いてある紙に具体的な願い事を書いて賽銭箱に入れると、願い事が叶うという。

「でも、あれって、願いが叶っていないケースのほうが多かったんじゃないかしら」

 良枝が、フェットゥッチーネをフォークに巻き付けながら、言った。「だって、ほら、願いが叶ったケースは大袈裟に拡散されるけど、叶わなかった場合は、特に話題にもされないじゃない? そもそも、エンゼル様に祈願するときは誰にも知られないように参拝しなくちゃいけないんだから、願いが叶わなかった人は、そのまま黙っているもんじゃない?」

「確かに、そうね」リゾットをスプーンでかき混ぜながら、喜和子は深く頷いた。

「たぶん、あれは偶然に願いが叶ったケースが口コミで一人歩きしただけなのよ」という良枝の分析に、

「金のエンゼルが当たったのは、確かに偶然だったのかもね」と、喜和子も同意した。「でも、少女漫画誌が毎週送られてきたって噂は?」

「ああ。あれ、デマだったみたいよ」

「デマ?」

「それがね、ひどい話なのよ」良枝は顔を般若のように歪めると、一気にまくしたてた。

「三組に、カシワダって子がいたの覚えている? その子、エンゼル様の賽銭箱に入れられている祈願書を盗んで、中身を見ていたみたいなの。で、その願い事をネタにして、お金をゆすっていたのよ」

「ゆすり?」

「願い事って、結構プライベートなことだったりするじゃない? その人の本性というか、隠し事が分かるというか」

「まあ、確かに、世界平和とか家内安全とか、そういうことはわざわざ書かないかもね」

「そう、特にエンゼル様は呪いにも使われていたから、誰が誰を憎んでいて、誰が誰を陥れようとしているのかも一目瞭然」

「ああ、そういえば、あの祈願書には、氏名と住所を書く欄もあったわね」

「でしょう? だから、あの祈願書は格好のゆすりのネタになったというわけよ」

「でも、カシワダって子は、なんでそんなことを?」

「お小遣いが欲しかったみたいね。ゆすりで得たお金で、『週刊少女J』を購入していたみたいよ。つまり、少女漫画誌が毎週送られてきたって噂は、自作自演だったってこと」

「やだ、そうなの?」喜和子の顔も、自然と歪む。「本当に、ひどい話ね。それにしても、なんでそんなに詳しく知っているの?」

「え? ……噂よ、噂で聞いたのよ」

 良枝は、フェットゥッチーネをゴルフボール大ほどにフォークに巻き付けると、それを口に押し込んだ。

「……そもそも、願いが叶ったところで、それが幸せにつながるかどうかなんて――」喜和子もリゾットをスプーンに山盛り掬うと、ぱくりとくわえ込んだ。

 しばらくは、言葉が途絶える。

 このまま食べることに集中してもいいが、リゾットももう残り少ない。なにより、ちょっと気まずい。

 何か言葉を探していると、先に良枝が口を開いた。

「雪、積もるかしら」

「きっと、うちのほうは、もう積もっていると思うわ。都心よりも、二度ぐらい、気温が低いのよ」

「帰り、大丈夫?」

「うん。旦那に駅まで迎えに来てもらうわ」

「そう」

 良枝の香水が、ぷぅーんと漂ってくる。喜和子は、紙ナプキンで、そっと鼻を押さえた。

「つまり、良枝はカシワダって子に、お金をゆすられていたのね」

 電車のドアに体を預けながら、喜和子は心の中で呟いた。

「あ、でも、私も祈願書に願い事を書いたけど――」

 カシワダって子からゆすられたことはない。もっとも、あんな内容じゃ、ゆすりのネタにはならないか。

 ――どうか、良枝と村田先輩が別れますように。

 それにしても、馬鹿な祈願をしたものだ。これじゃ、願いというより、呪詛だ。

 でも、たぶん、祈願と呪詛は似ている。きっと、自身の欲望を満たすには、誰かの幸福を横取りしなくてはならないのだ。実際、良枝が言うように、あのエンゼル様を呪いに利用していた人もいたと聞く。

 メールの着信音が鳴る。娘かと思ったら、夫からだった。

『こっちは、もう雪はやんだ。だから、迎えに行かない』

 なによ、これ。まったく、使えないわね! 携帯電話をバッグに放り入れたとき、中吊り広告が大きく歪んだ。

 喜和子の体もバランスを失い、三歩ほど変なステップを踏まされる。

 あと一歩で転倒というところで手摺りをつかんだおかげで最悪なことにはならなかったが、手に持っていたレジ袋の中身のいくつかがみっともなくばら撒かれた。メロンパンが三個。そのひとつは、シートに座っている中年男性の足元に向かっておもしろいようにコロコロと転がっていく。それを追いかけようともつれた足を元に戻したとたん、後ろから声をかけられた。

「これ、あんたのだよね?」

 え?

 振り返ると、そこには、隣の車両にいたはずの、あのマスクの老人が立っていた。その左手には例の雑誌、そして、右手にはメロンパン。その指は、自慰をしていた指だ。見ると、なにか粘ついている。

「いえ」

 否定してみたが、レジ袋の中身と老人が手にしているメロンパンはまったく同じもので、否定のしようがない。

「それ、差し上げます」

 言いながら、喜和子は、じりじりと、後ずさった。なのに、

「ありがたいんだが、僕は、甘いものは医者に禁止されているんでね」

 と、老人は、メロンパンを執拗に喜和子の前に差し出す。指先が、なにかぬるぬると、てかっている。

 無理、無理、無理、無理!

 老人を撥ね除けようとしたとき、電車が再び、大きく揺れた。老人の体が後ろによろめく。その隙を狙って、喜和子は車両の端まで早足で逃げ、そして、隣の車両に移った。

 冗談じゃない。あんな指で触ったメロンパンなんて、もういらないわよ!

 そもそも、なんで、電車の中で自慰をはじめちゃうような人を放置するわけ? 立派な痴漢行為じゃない。

 あのときだってそうよ。私の真新しいセーラー服に、精液がぶちまけられたとき。誰も助けてくれなかった。誰もあの男を咎めようとしなかった。だから、あの男はのうのうと、次の停留所で降りて行った。あの男は、それからも、何度も同じバスに乗り込んできた。そのたびに、どれほど私が怯えていたか。あの男は、私の家の周りもうろつき――。

『そう。先週ね、興信所から電話があって。あなたの居場所を探しているって』

 良枝の言葉が蘇る。

 嘘、まさか。あの精液男が、今も私を探している?

 まさか、まさか。

 まさか!

 ……あの老人が、あのときの男?

 見ると、例のマスクの老人がこちらの車両に向かって歩いてくる。

 来ないで、来ないで!

 車掌はどこ? 痴漢がいるの、ストーカーよ! 早く、捕まえて!

 声に出そうとしたとき、喜和子の体はいつもの熱風に覆われた。

 熱い、熱い、熱い!

 一斉に汗が噴き出す。まるで、サウナの中にいるようだ。

 熱い、熱い、熱い!

 いったい、どうしたこと? 最近、ホットフラッシュが頻繁にやってくる。今まではそれが過ぎるまでひたすら我慢していたけれど、さすがにもう限界だ。明日、病院に行って来よう。パートは……休ませてもらっても大丈夫よね。今は、繁忙期じゃないし、私一人いなくても、なんとかなるわよね? あ、そしたら、このメロンパン、どうしよう?

 熱い、熱い、熱い!

 メロンパンなんて、この際どうでもいいわよ。とにかく、もう熱くて、たまらない。

 喜和子は、斜め掛けしたバッグを外すと、ダウンコートを脱いだ。そして胸元が見えてしまうのもかまわずに、カットソーの襟元を大きく広げた。

 熱い、熱い、熱い!

 もう、限界だ! と思った瞬間、電車が止まった。駅に到着したようだ。ドアがゆっくりと開く。

 喜和子は、ドアが完全に開き切らないうちに、ホームに飛び降りた。縁もゆかりもない駅だけれど、そんなの今はどうでもいい。

 とにかく、体を冷やしたい!

 その願いを叶えるように、真冬の冷えた外気が、喜和子の体から一気に熱を奪う。

 ああ、助かった。

 しかし、次にやってきたのは、凍えるような寒さだった。頬にあたる雪が、針のように痛い。

 喜和子は、コートのボタンを留めようと指をその位置に持って行ったが、そこにはボタンはなかった。

 え、嘘、私のダウンコートは?

 それどころか、バッグは? そして、傘は?

 両腕を目の前で伸ばしてみる。

 腕に絡まっているのは、メロンパンが詰まったレジ袋。それだけだった。

 ええ! コートとバッグと傘、もしかして、電車の中?

 しかし、もう電車は行ってしまった。その後部が、遠くに見えるだけだ。

 嘘。

 どうしよう?

 私のコート! 寒くて、死にそうだわ!

 それより、バッグ。あの中には携帯電話とお財布と――。

「これ、あんたのだよね?」

 肩を叩かれて振り返ると、あの老人のマスクがすぐそこにあった。自慰老人だ。その手には、見覚えのあるコートとバッグと傘、そして、先程落としたメロンパン。

「ひいっ」

 喜和子は、反射で、後ろに飛び退いた。

「これ、あんたのだよね?」

 いや、いや、いや、来ないで、こっちに来ないで!

「これ、あんたのだよね?」

 だから、こっちに来ないで!

 喜和子は、さらに体を後退させた。

 しかし、そこはホームの端だった。

『3番ホームご注意ください。電車が通過します。黄色い線までお下がりください』

 やだ、電車が来る。

 喜和子は、体中のバネを使い、体勢を整えた。

 電車が、もうすぐそこまで来ている。

 喜和子は体をさらに逃がそうと、ホームの内側へと、身を乗り出した。

 と、そのとき。

 後ろから、香水の匂い。

 え? この匂い。

 この匂いは……。

 振り返るまもなく、喜和子は膝裏を軽く何かで突かれた。

 膝ががくんと落ち、雪で凍り付いたホームの上、喜和子の靴はおもしろいように滑り、あがけばあがくほど、線路のほうに進んでいく。そして、とうとう、するすると線路に引きずり込まれた。

 

 ひぃーーーーっ。

 落ちる、落ちる、ホームから落ちるーーーーっ!

 来る、来る、来る、電車が来るーーーーっ!

 やだ、やだ、やだ! やだーーーーーーっ!

 誰か、助けて! 助けてーーーーーーーっ!

 まだ、死にたくない! せめて、平均寿命までは生きたい!

 助けてーーーーーーーっ!

 

 しかし喜和子の願いは、警笛にかき消された。

「気の毒ね」

 JR高田馬場駅から歩いて五分。早稲田通り沿いの雑居ビル、四階。

 ミツコ調査事務所。

 所長の山之内光子は、朝刊を見ながら呟いた。

「ミツコ先生、どうしたんですか?」

 調査スタッフのもとおりが、横から声をかける。

「主婦が駅のホームから転落して、特急電車に轢かれたって」

「事故ですか?」

「たぶん。雪で足元が滑りやすくなっていたから、それが原因だろうって。でも、自殺の可能性もあるみたい」

「自殺ですか?」

「なんでも、その人、様子がおかしかったんだって。はじめは各停の電車に乗っていたらしいんだけど、いきなりダウンコートを脱ぎだして、バッグも傘も放り投げて、ぶつぶつ言いながら電車を降りて、そのすぐあと、特急電車に轢かれたみたい」

「なにか、悩みがあったんでしょうかね。お歳は?」

「五十四歳だって」

「ああ、近所のおばさんと同じ歳です。その人、更年期障害で、時々、衝動的に変なことをしちゃうんですよね。……その主婦も、そうだったのかしら?」

「なんでもかんでも、更年期のせいにするもんじゃないわよ。そういうステレオタイプな思考はどうかと思うわ。そもそも、更年期障害は、人それぞれなんだから」

 まさに更年期の真っただ中にいる光子は、語気を強めた。

「すみません。……あれ?」

 新聞を覗き込みながら、根元調査員は言った。「この亡くなられた人の名前、どこかで聞いたことありません?」

「え?」

 言われて、光子は改めて、その名前を確認してみた。

“村田喜和子”

 村田喜和子、村田喜和子……。

「ああ、思い出した」根元調査員が軽く手を叩いた。「旧姓吉野喜和子さん。ほら、先月、所在調査したじゃないですか」

「ああ……」光子の記憶が反応する。

「せっかく探し出したのに、亡くなっちゃうなんて。依頼した人は、残念でしたね」

「本当ね」

 しかし、いちいち感傷に浸っているわけにはいかない。仕事をしなくては。ありがたいことに、依頼は山積みだ。光子は新聞を畳むと飲みかけのコーヒーを飲み干し、パソコンに向かった。

 メールが来ている。

「あ、この人」

 噂をすればなんとやらだ。メールの差出人は、まさに、あの依頼人からだった。

 このたびは、喜和子の所在を調べていただき、誠にありがとうございます。お陰様で、積年の恨みを晴らすことができました。これで、私も心安らかに、あの世にいけます。

 喜和子は、かつて、私の親友でした。かけがえのない、大切な親友でした。彼女には、なんでも話しました。家族のこと勉強のこと、そして、恋のこと。

 私は、当時、ひとつ上の先輩と付き合っていました。が、中学三年の夏の終わり、彼は冷たくなり私たちは別れました。とても辛い失恋でした。食事も喉を通らず、勉強も手につかず、私は、第一志望の白薔薇女学院の受験にも失敗しました。一方、喜和子は白薔薇女学院に合格し、私たちは自然と疎遠になりました。

 高校に進学すると、喜和子と例の先輩が付き合っているという噂を聞きました。とても信じられませんでしたが、ある日、ある一通の紙を見せられて、私は真実を知りました。その紙とは、地元の小さな神社に奉納された祈願書です。私たちは、その神社を『エンゼル様』と呼んでいました。

 その紙を私のところに持ってきたのは、中学時代の同級生、カシワダという女でした。彼女は「彼と別れた本当の理由を知りたければ、一万円でこの紙を買え」と言ってきました。はじめは断りましたが、失恋の痛みをいまだ引きずっていた私は、せめて理由が知りたいと、彼女から一万円でその紙を買い取りました。

 その紙に書かれていたのは、まさに、喜和子の裏切りでした。

 そう、喜和子は、私と先輩が別れるように、呪詛をしていたのです。

 私と先輩の仲を応援しているように装い、喜和子は、虎視眈々と、彼を狙っていたのです。

 もともと、男子に人気のあった喜和子です。彼が喜和子のアプローチに応えないわけがありません。

 その真実を知らされても、私には何もできませんでした。恨んでも仕方がない、前向きに生きよう。そう思い、私は他の男性と交際をはじめ、そして結婚しました。

 結婚式には喜和子も呼びました。上がり症な喜和子にスピーチを頼みました。私の小さな復讐です。

 それで、私の恨みも解消されたはずでした。実際、喜和子と先輩が結婚したという噂を聞いても、動揺しませんでした。

 しかし、両親の死、夫の浮気、離婚、そしてガンの宣告と、不幸に襲われるたびに、私は自分の人生を呪わずにはいられませんでした。

 そんなときです。私は、『ミツコ調査事務所』の看板と出会いました。

 夫の居場所を聞き出そうと、夫の浮気相手である風俗嬢に会うために、高田馬場に来たときです。

 風俗嬢と刺し違える覚悟で行ったのですが、その風俗嬢は言いました。

「あなたの不幸の元凶は私じゃない。もっと、他にいるんじゃない?」

 そのとき、ふと、喜和子の顔が浮かんできたのです。

 そうだ。もし、あの子が彼をとらなかったら。私が彼と結婚していたならば。

 そんな仮説など無駄なことだと分かっていても、止められませんでした。次第に私は、私のこの不幸はすべて喜和子のせいだと思うようになりました。打ち消しても打ち消しても、喜和子に対する恨みが増すばかりでした。

 それでも、喜和子も同じように不幸ならば、私は許そうと思ったのです。ですから、『ミツコ調査事務所』のドアを叩いて、彼女の居場所を探すように依頼したのです。なにしろ、私たちは三十年も疎遠でしたので、私には喜和子を探す術も、なによりも時間がありませんでした。

 でも、三十年振りに会ったあの子は幸せそうでした。孫ができるんだと嬉しそうに話していました。パートをはじめたんだとイキイキしていました。雪が降っているから夫に迎えに来てもらうと、自慢もしていました。頬はピンク色に紅潮し、顔色もよく、いい服を着て、なにより、昔と同じように綺麗で、若々しかった。

 私の敗北感が頂点に達したのは、イタリアンレストランでお勘定をしていたときです。私たちの姿を映し出す、レジ前の鏡。

 病気のせいで醜くんだ私と、すらっと健康そうなあの子。

 私は、そのとき、思い出しました。

 エンゼル様の祈願書に書いた、私の願い。

『喜和子が元気になりますように』

 受験前に風邪を引いたあの子のために、私は、そう祈願したのです。

 なのに、なのに、なのに……。

 イタリアンレストランを出た私たちは、新宿駅で別れましたが、私はこっそりと喜和子の後を追いました。

 あの子は相変わらず、幸せそうでした。ひとつ三百円もする高級なメロンパンを十個も買って、電車の中では自分のスタイルの良さを誇示するようにコートを脱いで、カットソーの胸元から胸の谷間をみせつけていました。それをちらちら見ていたご老人は彼女に声をかけ、ついには彼女を追いかけて駅を降りる始末。まったく、あの子は、こんな歳になっても、男を挑発しないではいられないんです。

 私が死んでも、あの子はこのまま幸せな人生を送るんだと思ったら、我慢できませんでした。衝動が走りました。私は、あの駅で、持っていた傘の先であの子の膝裏を、軽く押しました。

 あっというまでした。おもしろいように、あの子はホームから転落していきました。その姿を見て、私はようやく、長年の呪縛から解放された気分になりました。

 後悔はありません。もう、後悔だけの人生はまっぴらです。

 私の余命は、あと僅かです。

 残されたこの時間、私は、自分だけのために生きるつもりです。

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