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耳に聞こえないメロディーは、聞こえるメロディーよりさらに甘美だ。

オルフェオ

リチャード・パワーズ/著 、木原善彦/訳

3,190円(税込)

本の仕様

発売日:2015/07/31

読み仮名 オルフェオ
発行形態 書籍
判型 四六判変型
頁数 428ページ
ISBN 978-4-10-505875-3
C-CODE 0097
ジャンル 文芸作品、評論・文学研究
定価 3,190円

微生物の遺伝子に音楽を組み込もうと試みる現代芸術家のもとに、捜査官がやってくる。容疑はバイオテロ? 逃避行の途上、かつての家族や盟友と再会した彼の中に、今こそ発表すべき新しい作品の形が姿を現す――。マーラーからメシアンを経てライヒに至る音楽の歩みと、一人の芸術家の半生の物語が響き合う、危険で美しい音楽小説。

著者プロフィール

リチャード・パワーズ Powers,Richard

1957年イリノイ州エヴァンストン生まれ。イリノイ大学で物理学を専攻、のちに文学に転向する。文学修士号を取得後、プログラマとして働くが、アウグスト・ザンダーの写真と出会ったのをきっかけに退職、デビュー作となる『舞踏会へ向かう三人の農夫』(1985)を執筆し、各方面で絶賛を浴びる。現代アメリカにおける最も知的で野心的な作家のひとり。9作目の長篇『エコー・メイカー』(2006)で全米図書賞を受賞。2018年刊行の『オーバーストーリー』でピュリッツァー賞を受賞。他の作品に『囚人のジレンマ』、『われらが歌う時』、『幸福の遺伝子』、『オルフェオ』など。

木原善彦 キハラ・ヨシヒコ

1967年生まれ。大阪大学教授。訳書にトマス・ピンチョン『逆光』、リチャード・パワーズ『オルフェオ』など。ウィリアム・ギャディス『JR』の翻訳で日本翻訳大賞を受賞。著書に『UFOとポストモダン』、『ピンチョンの『逆光』を読む――空間と時間、光と闇』、『実験する小説たち――物語るとは別の仕方で』など。

書評

魂を揺さぶる「情」の人

小野正嗣

 リチャード・パワーズを読むことは、何かに似ていると思っていた。
 僕がパワーズに最初に出会ったのは、英米文学翻訳者の柴田元幸先生の大学院のゼミの授業でだった。『舞踏会へ向かう三人の農夫』を原書で読んだ。そこに何が描かれているのかをよりよく理解するには、第一次世界大戦についての歴史的な知識が必要となり、読むことはすなわち、舞台となる時代の社会史や文化史を学ぶことにもなった。
 パワーズを読むのはなかなか骨が折れる。それでも、科学と芸術についての該博な教養に支えられたこの「知」の作家を人が読まずにはいられないのは、彼の作品に人間の「魂」が感じられるからだ。パワーズが来日した折に一度会ったことがある。圧倒的な知性に驚嘆させられたが、周囲の人への思いやりに溢れた謙虚なたたずまいにも心を打たれた。知の巨人である彼は、柴田先生がどこかで書かれていたと思うが、何よりも「情」の人なのだ。
 本作『オルフェオ』の主人公は、アメリカ東海岸に暮らすピーター・エルズという老齢にさしかかった現代音楽の作曲家である。大学の特任教授を引退し、ずっと作曲から遠ざかっていた彼は、まったく新しい作曲法を着想する。その手法は遺伝子工学のテクノロジーが発達し、しかもネットによって誰の手にも届くようになったこの二十一世紀において初めて可能になったものである。
 パワーズの作品らしく、本書もまた科学技術と芸術との接点について、あるいはその接点において書かれていると言ってもよい。エルズの画期的な作曲法は、細菌の遺伝子操作を必要とする。それはバイオテロにも転用されうる技術である。エルズの自宅に置かれた実験器具が、ひょんなことから警察の目に触れ、警官との会話のちょっとした誤解が疑念を生む。時代は9・11後のアメリカである。あらぬ容疑をかけられ、エルズの人生は激変する。
 作品は、エルズの過去を遡行する。彼の人生において決定的な役割を果たすクララとマディーという二人の女性との出会いが回顧される。彼女たちとエルズとの出会いを媒介するのは音楽だ。クララは若きエルズにクラシック音楽の豊かさと多様性を開示する女神ミューズとなる。のちに妻となるマディーとは、エルズは自分の作品の歌手として出会うのである。
 ギリシア神話の音楽家・詩人オルフェオ(オルフェウス)が、冥界から死んだ妻を連れ戻そうとするものの、振り返ったために妻を永久に失なうという伝承を知っている者は、エルズの愛がどうなるかは想像がつくだろう。だがエルズが失ったものは、それだけではない。
 一九四一年生まれのエルズの人生をたどり直すことは、前衛化・先鋭化するあまり聴衆の嗜好から遠ざかっていくアメリカにおける現代音楽のありようを描くことにもなる。作曲家としてのエルズもまた袋小路に入っていく。芸術的な行き詰まりは家庭を崩壊させる。かつての芸術家仲間の誘いでオペラを作曲するが、ある政治的事件をきっかけにエルズは公演を拒絶し、作曲家としてのキャリアに終止符が打たれる。
 二十世紀以降の現代音楽の陥った困難はどのようなものなのか。政治的な出来事に芸術家はどのように応答すべきなのか。そうした問題について学べ、考えさせられるところもパワーズ作品らしく読みごたえがある。
 だが圧巻は、危機的状況にあるエルズが、過去の作曲家たちが恐るべき苦境のなかで創造した作品に思いをはせる場面である。オリヴィエ・メシアンの「時の終わりのための四重奏曲」とショスタコーヴィッチの交響曲第五番について書かれた文章は、言葉で音楽を再現するという絶対に不可能な試みが、ほとんど成功していると思いたくなるような大きな感動をもたらす。パワーズの文章は不意に読む人の「魂」をつかみ、揺さぶる。
 深い音楽の知識と科学的な知見にもとづく専門用語や比喩、複数の時系列が自在に入れ替わる精緻な構成。一見とっつきにくいのだが、しっかり意識を集中させて耳を澄ませば(視線を凝らせば)、見たこともない光景が広がるあの感じ。パワーズを読むことは、すぐれた現代音楽の作品を聴くことと似ているのかもしれない。

(おの・まさつぐ 作家)
波 2015年8月号より

訳者あとがき

『オルフェオ』という小説は一言で言えば、“危険な音楽”を作ろうとした一人の男の物語だ。家族の死や運命の女性たちとの出会いを経ながら芸術の極北を目指した後、静かな隠退生活を迎えかけていた男が、ふとしたことをきっかけに大波乱に巻き込まれ、自らの人生を振り返りつつそのあがない、あるいはその総仕上げを試みることになる。そのさまはまさに、逃亡者(fugitive)が奏でる遁走曲フーガ(fugue)だ――実際、この二語は“逃走”という意味の同じ語源から発しているのだが。
 タイトルとなっている“オルフェオ”なる存在については、作中で説明的な言及がなく、ギリシア神話や神話に取材したオペラ(グルックの『オルフェオとエウリディーチェ』やモンテヴェルディの『オルフェオ』)に親しみがない読者にはその含意が分かりにくいと思われるので、まずはその説明から始めたい。
 オルフェオ(=オルフェウス)はギリシア神話に登場する竪琴の名手であり、音楽家の祖と言ってもよい。彼が奏でる竪琴の調べは、鳥獣草木をも魅了したとされる。彼は死別した妻エウリディーチェ(=エウリュディケ)を追って冥界に入り、音楽で冥王ハデスの心を動かし、「地上に達するまで妻の顔を振り向かない」と約束して妻を連れ戻すことになるが、出口を目前にして約束を破り、永遠に妻を失う。オルフェオはその後、亡き妻以外の女性に無関心なせいで怒りを買って殺され、死体を八つ裂きにされる。したがって、本作が神話を下敷きにすることで暗示しているのは要するに、主人公が冥界へと出掛け、音楽によってそれを手なずけ、“死者”を地上に連れ戻そうとするということだ。
 インタビューで作者リチャード・パワーズが語っているところによると、この小説を書くきっかけとなった出来事が二つあったようだ。一つは、二〇〇四年にアメリカで起きたスティーヴ・カーツ事件(本文三四六頁に言及あり)。ニューヨーク州立大のカーツ教授はバイオアート(生物を用いた芸術の実践、バイオテクノロジーとアートの境界領域)を専門とする芸術家で、二〇〇四年五月に自宅で妻が呼吸停止を起こして死亡し、911に緊急通報した。現場に駆けつけた警察は、教授が展示の準備をしていた器具(ペトリ皿や実験用の機材)に目を留めてFBIに通報し、FBIは教授をバイオテロ容疑で起訴した。結局、教授に最終的に無実の判決が下されたのは四年後、二〇〇八年のことだった。執筆のきっかけとなったもう一つの出来事は、パワーズの知人で、非常に難解な(換言すれば、ほとんど聴く者のいない)曲を書いていた高齢の作曲家が亡くなったことらしい。オルフェウスの神話を土台に、これらの事件と出来事を編み合わせることで、出来上がったのが『オルフェオ』というわけだ。
 他にも、作家自身の経験が本書に反映している部分は多い。パワーズはチェロをはじめとしていくつかの楽器を演奏し、相当な音楽好きとして知られているし、『黄金虫変奏曲』(The Gold Bug Variations, 1991[未訳])や『われらが歌う時』(新潮社、二〇〇八年)など、過去の作品でも音楽を中心に据えて成功を収めている。本書執筆の過程では、ノイズを前景化する二十世紀音楽を集中的に聴いたせいで周囲の音に異常に敏感になり、あらゆる音が音楽のように聞こえるという不思議な経験もしたそうだ。科学に対する興味も旺盛な彼は、二〇一〇年にスタンフォード大学で分子生物学の研究に参加し、実際にそこで遺伝子組み換えの操作を体験している。過激な前衛作曲家の主人公をパワーズと重ねるのはやや強引かもしれないが、それでも、野心的な作品を生み出し続ける小説家の自画像みたいなものを感じないで本書を読むことは不可能だろう。
 前作『幸福の遺伝子』(新潮社、二〇一三年)で“幸福”の問題について考え抜いた作者が、それに続く本作で取り上げたのは、一人の芸術家のケースだ。自らの人生を懸けて作品を作り、新しい地平を切り開き、それを人々に聞かせたいと願うのだが、ほとんど誰にも耳を傾けてもらえない――作品の意味を自分では信じているが、誰にも理解してもらえない――とき、その芸術家は幸福だといえるのか? 大きな失敗に思える人生を取り戻す方法はあるのか、ないのか? これが『オルフェオ』の問うテーマだ。
 パワーズの小説といえばしばしば二つ、あるいは三つ以上の物語が巧妙にり合わされ、美しいハーモニーを奏でるイメージがあるが、『オルフェオ』は一見、単線的に一人の主人公に寄り添う形で物語が進行する。書き方としては、本作がパワーズの作品の中で最も素直かもしれない。その分、読者の感情に訴える側面が明確で、作者の芸術家魂と詩的表現をストレートに味わえる新たな傑作となっている。時間的には過去を振り返る部分が何度も差し挟まれるが、過去の物語の中では子供時代から大学勤めの時代までが順に語られ、現在の物語の中では愛犬の死から最後の大団円に至るまでが時系列に沿って語られる。ただし、この作品はそれと同時に、二十世紀のいわゆる“現代音楽”の歴史を主人公の目を通して振り返ってもいる。つまり、現在の主人公に起きている出来事、主人公の生涯、二十世紀音楽史という三つのストーリーラインを精妙かつ緊密に編んでいるとも言えるだろう。それに加え、「章」か「節」の区切りとなる部分に挿入されているエピグラフ風の短文の正体が結末近くで明らかにされるという仕掛けもある。
 この小説家の作品としては意外なほど直截に語られる本書の解釈に関して、訳者が差し出がましい意見を述べるのは避けるべきだろう。しかし、私がたまたま本書の訳了後に手に取った小説に芸術家の生の激烈さを見事にとらえた挿話があり、非常に印象的だったので、それについて一言触れておきたい。問題の小説は、スコットランド出身の実力派作家アリ・スミスが書いた話題の最新作『両方になる』(Ali Smith, How To Be Both, 2014)。小説の前半部分(あるいは版によっては後半部分)は、実在する十五世紀イタリアの画家フランチェスコ・デル・コッサの語りとなっていて、そこに、幼き日の画家が母親から神話を聞かされる場面がある。

 母に聞かされたもう一つの話は半人半獣の音楽名人、マルシュアスの物語。彼はどの神にも劣らず笛の演奏が巧みだった。しかし、やがてその噂を聞きつけた太陽神アポロンが光の矢のごとくまっしぐらに地上に舞い降り、技比べを挑んで勝利し、マルシュアスの生皮をはいで戦利品としたという。
 これは不当な仕打ちに聞こえるかもしれないけれど、必ずしもそうではないの、と私の母は言った。だって、考えてもごらんなさい。トマトをお湯に浸けると皮がつるんとむけて、果実の中から赤くて生々しい甘い部分が出て来るでしょう? あれみたいに、マルシュアスの皮ははげたのよ。その光景は、目にした人皆を感動させ、どんな音楽家や神が演奏した音楽よりも心を強く動かしたわけ。
 だから常に自分の皮を懸けて生きなさい、と母は言った。皮をはがれることを恐れては駄目。だって、恐れ多くも神々が私たちから皮を奪うとき、その行為は何らかの意味で私たちに利益をもたらすものだから。

 マルシュアスはしばしば思い上がりの罰を受けた音楽家とされるが、ここではそれが逆に評価されている。全盛期に正当な評価を得ず、晩年にテロリストの容疑をかけられ、ある意味、オルフェオのように“八つ裂き”にされるピーター・エルズも、マルシュアス同様に悲劇的であると同時に、命懸けの行為による大きな衝撃と驚異(脅威?)の反響を残した音楽家と言えるのかもしれない。
 なお本書には、時代背景を示すアイテム(その時期に発表された曲のタイトルや同じ時代に起きた事件など)がいくつも埋め込まれている。訳注にもその一部を記したが、中には、実在しそうでしないアイテムもある。例えば、「国内に自分のブランドを広めている有名なイデオローグで姦通者で横領犯の男が三千万人の国民を喜ばせるために、大統領に似せたヴードゥー人形の股間に針を刺していた」(一一六頁)というのは非常に具体的な描写なので、これはきっと実際の誰かを念頭に置いているに違いないと思い、念のため作者に確認したところ、単なる虚構だと判明した。同様のもっともらしい仕掛けは他にもいくつかあるので、その部分は読者にも作者と一緒に遊んで(笑って、あるいはだまされて)いただきたいと思う。
 最後にもう一つ、私がこの小説を訳しながら何度も思い返したパワーズのもう一つの音楽小説『黄金虫変奏曲』の一節を、翻訳を論じた美しい文章として紹介したい。『黄金虫変奏曲』は未訳だが、この部分は柴田元幸氏による翻訳が氏の著書『アメリカ文学のレッスン』(講談社現代新書、二〇〇〇年)に収められているので、それをここに引用させていただこう。

 シェークスピアをバントゥー語に、インディアナをブルックリンに、レスラー博士を韻文に、欲望を生物学用語に。世界は翻訳でしかない、翻訳以外の何物でもない。だが逆説的なことに、言い表わしがたいことに、それはまさにほかでもない、ここという場所の翻訳なのだ。これらの変換作業――言葉をカンタータに、風景を言葉に――がめざすのは、原文に対する忠実度でもなければ(忠実度がなければ価値もないが)、目標言語における美でもない(美がなければ、徒労だが)。すべての翻訳のポイントは――科学に費やされた数年、美術史から離れて、図書館にこもって、この段落に閉じこめられた数年――こうしてにわかに、まったく同じになる。
 翻訳とは、移植したいという渇望とは、シェークスピアをバントゥー語に持ち込むことが肝要なのではない。肝要なのは、バントゥー語をシェークスピアに持ち込むことなのだ。土着のセンテンス以外に、その言語に何が言えそうか、それを示すこと。めざすのは、起点を引き延ばすことではなく、目標を拡げること。かつて可能だった以上のものを抱擁することだ。有効な解読を行なったのち、「正しい」解決を思いついたのち――たとえそれがどれだけ一時的で、試験的で、入れ替え可能な、局部的なものであれ――二つの拡張された、高められた言語(シェークスピアもまた、アナロジーがアフリカの平原に適応することによって永久に変わる)が三角測量の六分儀を形成し、それが廃墟の塔の高みをふたたび指し示し、限定された言語を、言わなくても知が通る場へと導いていくのだ。

 つまり、本書(音楽を分子生物学に持ち込もうとする作品)の翻訳は、日本語をパワーズに持ち込むことであり、日本語を二十世紀音楽に持ち込むことだった。とてもスリリングだがきわめて困難なこの作業に当たっては、新潮社の編集担当の佐々木一彦さんをはじめ、校閲の方々にもいろいろな角度からきめ細かなご助力をいただいた。本当にありがとうございました。不明な点については作者パワーズ氏が丁寧に質問に答えてくださった。ありがとうございました。音楽と小説を愛する多くの方々に広くこの本が読まれますように。そして、訳者の日常をいつも支えてくれるFさん、Iさん、S君にも感謝しています。どうもありがとう。

  二〇一五年五月

木原善彦

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