ホーム > 書籍詳細:遺伝と平等―人生の成り行きは変えられる―

遺伝と平等―人生の成り行きは変えられる―

キャスリン・ペイジ・ハーデン/著 、青木薫/訳

3,300円(税込)

発売日:2023/10/18

  • 書籍
  • 電子書籍あり

「親ガチャ」を乗り越えろ。最先端の遺伝学の成果は、あなたの武器になる。

遺伝とはくじ引きのようなもの――だが、生まれつきの違いを最先端の遺伝統計学で武器に換えれば、人生は変えられる。〈遺伝と学歴〉〈双子〉の研究をしてきた気鋭の米研究者が、科学と社会をビッグデータでつなぎ「新しい平等」を指向する、全米で話題の書。サイエンス翻訳の名手、青木薫さんも絶賛する、時代を変える一冊だ。

目次
第I部 遺伝学をまじめに受け止める
第一章 はじめに
学歴が不当なほど有利に働く社会/誕生時に引かされる二種類のくじ/遺伝学はどう見られているか/今も残る優生学の負の遺産/遺伝学と平等主義――予告編として/なぜ新しい総合ジンテーゼが必要なのか/本書の目標
第二章 遺伝くじ
われわれの内なる遺伝的多様性/正規分布/努力も運にはかなわない?/運を掴んだ者が勝つ/公平な世界を目指して
第三章 レシピ本と大学
遺伝のレシピ、ゲノムのレシピ本/候補遺伝子アプローチの失敗/レシピ本ワイド関連解析/レシピ本ワイド関連解析からゲノムワイド関連解析へ/悪夢のような話なのか、取るに足りない話なのか?/ポリジェニックスコアと、人生の成り行きアウトカムの予測(不)可能性
第四章 祖先アンセストリーと人種
崩壊して融合する系図/系図上の先祖 VS 遺伝上の先祖/祖先アンセストリー VS 人種/なぜGWASにとって祖先アンセストリーが重要なのか/GWAS研究のヨーロッパ中心主義的バイアス/生態学的誤謬とレイシズムの暗黙の前提/アンチレイシズム、そしてポストゲノムの世界における責任/まとめと展望
第五章 生活機会ライフチャンスのくじ
ルーマニアの里子実験/原因と反事実/「あのときああなっていたら」を観察する/何が原因ではないか/厚い因果関係と薄い因果関係/ランダムな遺伝子?
第六章 自然によるランダムな割り振り
きょうだい間の遺伝的多様性/遺伝率とは、遺伝が生み出す違いの大きさのこと/不平等の七つのドメインと、その遺伝率/よくある反論――普遍性がないものは無益?/遺伝率の行方不明事件/ポリジェニックスコアの家族内研究
第七章 遺伝子はいかにして社会的不平等を引き起こすのか
赤毛の子どもたちと、オルタナティブな可能世界/どこに?――教育に関連する遺伝子は、脳に影響を及ぼす/いつ?――遺伝の影響は、発生のごく初期に始まる/何に?――遺伝の影響は、基本的認知能力に関与する/ふたたび、何に?――遺伝が影響を及ぼすのは知能だけではない/誰が?――遺伝の影響には、親や周囲の人たちとの相互作用が関係している/赤毛の子どもたち再考
第II部 平等をまじめに受け止める
第八章 オルタナティブな可能世界
高いほうを削って全体を均し、格差を小さくする――最悪の環境が最大の平等を生む/平等 VS フェアであること/底辺を向上させる:介入によって公平な社会を作る/持たざる者が取り残される――持てる者はますます豊かに/誰のために?――より大きな透明性を求めて/何を公平にするか?――因果の鎖は長い/別の種類の人間社会を思い描く
第九章 「生まれ」を使って「育ち」を理解する
われわれはまだ、なすべきことを知らない/なぜ社会科学はもっとも難しいハーデスト科学なのか/性教育プログラムによる介入は成果を上げているか/間違うのもタダではない/遺伝を無視するという「暗黙の共謀」/古い問題に新しい道具/道具箱の中の道具はすべて使う
第十章 自己責任?
犯罪の遺伝学/非難したいという気持ち/一卵性双生児と自由意志係数/教育における自由意志係数/運が果たす役割の重要性/非難したい気持ち再考
第十一章 違いをヒエラルキーにしない世界
遺伝学研究に関するふたつの懸念/社会的に価値を与えられるのであって、生まれながらに価値があるのではない/良い遺伝子、悪い遺伝子、高身長の遺伝子、ろうの遺伝子
第十二章 アンチ優生学の科学と政策
時間、金、才能、道具を無駄にするのはやめよう/人々を分類するためでなく、機会を改善するために遺伝情報を用いよう/排除のためにではなく、平等のために遺伝情報を用いよう/運が良いことを、立派なことだと勘違いしないようにしよう/自分が何者かを知らなかったとしたら、どうするだろうかと考えてみよう/むすび
謝辞
訳者あとがき
原註

書誌情報

読み仮名 イデントビョウドウジンセイノナリユキハカエラレル
発行形態 書籍、電子書籍
判型 四六判変型
頁数 400ページ
ISBN 978-4-10-507351-0
C-CODE 0045
ジャンル サイエンス・テクノロジー
定価 3,300円
電子書籍 価格 3,300円
電子書籍 配信開始日 2023/10/18

書評

また新たな基礎的教養書の登場

平野啓一郎

 遺伝に関しては、モヤモヤしたものが社会にある。
 例えば、背の高さや顔の作りといった人間の外観に、遺伝の影響を一切認めないという人はいないだろう。運動能力に関しても、恐らく多くの人がそれを自明視している。
 では、学歴についてはどうか? 勉強が出来る子は、生まれつき“賢い”のではないか、というのは漠然とした想像だが、その見方には反発もあり、懐疑もある。
 昨今では、学習障害への理解と対応も広がってきたが、学校教育は、基本的に生徒の学習能力の遺伝的な差異を認めていない。では何故、成績に差が出るのか? その説明は、従来、「努力」の一点張りだった。福沢諭吉の『学問のすゝめ』には、「人は生まれながらにして貴賤・貧富の別なし。ただ学問を勤めて物事をよく知る者は貴人となり富人となり、無学なる者は貧人となり下人となるなり。」とあるが、こうした考え方は、勤勉による立身出世が尊ばれた明治時代以来、戦中戦後と、時代の要求に応じながら深く社会に浸透し、今日も頑なな「自己責任論者」を生み出し続けている。
 とは言え、格差の拡大は、さすがに人々の意識を変えつつあり、「親ガチャ」から「文化資本」に至るまで、今日、生育環境の不平等を訴える議論は盛んである。M・サンデルの『実力も運のうち 能力主義は正義か?』が評判となったのもその一例だろう。
 しかし、本当に、生育環境の不平等だけだろうか? もし私たちが、遺伝の不平等のために、この社会で不当な不利益を被っているとすれば?――この極めてセンシティヴな問題に関して、本書の著者の主張は、極めて明確である。
 遺伝子がIQテストで測定されるような「認知」スキル、更には動機や忍耐力、粘り強さといった「非認知的」スキルに影響を及ぼすことは事実であり、そのために教育の成功が左右され、結果、社会的な地位や収入に格差が生じている。しかも、私たちが生物学的な両親から受け継ぐ遺伝的特質は、「くじ」に喩えられるように、完全な運任せである。――この指摘は、直ちに様々な誤解や悪用の懸念を引き起こすが、著者は、その「リベラル」な政治的信念に基づき、しかしバイアスを排した科学的態度に徹して説明を尽くす。
 例えば、ダウン症のような染色体異常や単一遺伝子病とは異なり、鬱病には何万にも及ぶ遺伝子の「バリアント」が影響しており(ポリジェニック)、況してや学歴や人生の「成り行き」への影響となると、その数も途方もない。従ってこれは、人工的な操作が極めて困難な確率論であり、特定の遺伝子に介入することで、ユヴァル・ノア・ハラリが主張するような「ホモ・デウス」がすぐにも誕生するといった話ではない。
 この蓋然性(ポリジェニックスコア)の算出方法は、あくまでとある集団内での平均であり、対象は個人で、結果は個体差であって、それを「人種」のような社会的構成物としての集団に当て嵌めることは不可能である(従ってレイシズムに悪用することは出来ない)。また、他の集団に、この学歴とポリジェニックスコアとの相関を移植することも、現在のように、遺伝的祖先がヨーロッパ系の人々に偏したデータに基づいて研究が為されている限り不可能である。
 そうした条件を踏まえた上で、我々は、個人の遺伝的特質と学歴との相関(それも環境要因と同程度に強い)という現実に対して、どう向かい合うべきだろうか?
 著者は三つの立場を示す。一つは、人生に遺伝の影響があるという事実を以て格差を自然化し、介入的変革を否定する「優生学」。二つ目は、公平な社会の実現に於いて、遺伝的差異を無視する「ゲノムブラインド」。作者はこの両者を徹底して批判している。対して、三つ目は、「遺伝データを利用することで、人々の生活を改善し、成り行きアウトカムの平等化を効率的に進められるような介入の探究を加速」することに努める「アンチ優生学」である。
 結局のところ、学歴とポリジェニックスコアとの相関も、今日の我々が、特定の遺伝的特質を備えた人間が有利となるような社会を作り、維持しているというに過ぎず、著者は遺伝的多様性を前提とした、真の意味での平等な社会の実現を訴える。
 私はその考えに、基本的に同意する。ただ、個人のポリジェニックスコアが可視化されてから、それに十分に配慮した社会が実現されるまでの過渡期には、多大な不利益を被る人も出てこよう。自尊心の問題もある。優生学的な主張も、容易には根絶やしに出来まい。
 いずれにせよ、個人の“幸福”に於ける遺伝の影響という難題に対し、本書は極めて周到な議論を展開しており、今日の私たちにとっては必読書と言うべきであろう。

(ひらの・けいいちろう 作家)
波 2023年11月号より
単行本刊行時掲載

インタビュー/対談/エッセイ

遺伝学と社会学がつながるとき

青木薫大澤真幸

アメリカで話題沸騰! 親ガチャを乗り越えるために今こそ、私たちができること。

遺伝学に起こっている「革命」

大澤 青木さんの訳されたものは以前から読んできました。翻訳が的確で、内容も重要なものが多いので、選択眼も含めて信頼しています。特に青木さんの日本語はすばらしいので、感心してきました。本を読む快楽、これをいつも、青木さんの翻訳作品には感じます。

青木 ありがとうございます。

大澤 『遺伝と平等―人生の成り行きは変えられる―』も読ませて頂きました。タイトルの通り、遺伝学の最先端を解説した第I部と、その知見でどんな社会をつくるかという第II部に分かれますね。

青木 はい。第I部は、最新の遺伝学、特に遺伝統計学の進展についてです。中でも、ゲノム全体を量的なアプローチで調べていく、「GWAS」という最新のゲノムワイド関連解析により精度が上がり、目や髪の色、身長の高さだけでなく、性格や能力にまで対象が及ぶ段階に入り、GWAS革命とまで呼ばれるようになった。この新展開が一般にはまだほとんど紹介されておらず、専門書となるといきなり難しい。

大澤 この本は違いますね。著者のハーデンは噛み砕いて易しく、わかりやすい喩えを使って、でも高度な内容を妥協せずに説明している。

青木 性格や能力といった社会的に非常にデリケートな領域でも遺伝との関連性が可視化されると、それ見たことか、人間には優劣がある、全員が生きるに値するのか、と短絡的に結論づけられてしまうリスクも、もちろん生じます。

大澤 そうする人が必ず出てきますね。優生学的な考え方ですね。

青木 それを否定するあまり、「遺伝なんて関係ない」「どんな人でも才能を開花できる社会をつくるべきだ」という反応をする人もいる――ハーデンはこの立場を、ゲノムの違いに目をつぶる、という意味で「ゲノムブラインド」と称します。でも、ハーデンは、どちらの側でもないんです。人類には優劣があるという優生学的な考え方はとんでもないけれど、一方で、それを見ないことにするのもダメだと。

大澤 はっきりと書いていますね。

青木 第II部は、サイエンステクノロジーの発展がこれだけ多岐にわたるなか、それなら私たちはどんな社会をつくりたいのかを問うています。つくりたい社会にしていくために、科学の知見をどう利用していくか、ということです。専門的で複雑な遺伝の話を、自分のスタンスを明確に打ち出しながら、ここまでわかりやすく説明しているという点で、類書がないと思います。そのスタンスとは、公正、フェアであること。「公正としての正義」という立場ですね。

大澤 そのフェアネスが難しい。そもそも、この本を翻訳しようと思ったきっかけはどこにあったんですか?

青木 それはやはり子育てだと思います。ハーデンも二人のお子さんを育てていますが、私も二人育てています。そして、親を同じくする子供でさえ、生まれたときからこうも違うか、という経験をしている。
 でも保育園時代には、「どんな子供も生まれた時は同じだけの可能性を持っている」というスローガンをよく聞きました。もちろん、そうであってほしいですよ。でも、現実にはひとりひとり違う。大きく違う可能性を持って生まれてくる。
 実際の違いを無視していたら、それぞれに必要なサポートや手助けだってしてやれませんよね。それでいいわけないでしょ、とハーデンに背中を押された気がしました。

誰もが大量に引く「遺伝くじ」

大澤 この本の原題は「The Genetic Lottery」、「遺伝くじ」ですよね。私たちは誕生時に、すでにいろんなくじを引かされています。

青木 20世紀後半の日本に生まれるか、戦下のアフガニスタンか、多くのくじの結果を合わせると、「自己責任」などと言える部分はほとんど残らない。くじの結果はその人の手柄でも落ち度でもない、とハーデンは繰り返し言います。ですが、それはひとつの解釈です。同じ科学の成果を見て、「人間には生まれもった優劣がある」という優生学的な解釈をする人もいる。

大澤 科学は、どうすべきかは教えてくれませんからね。

青木 ただ、大澤さんなら科学と社会の関係、ハーデンの抱く危機感を解読してくださる気がしています。
 実は、この本を翻訳している間に、何度も大澤先生を思い浮かべました(笑)。数多いご著書の中でも『社会学史』(講談社現代新書)という一冊で、社会学というのが、近接の学問はもちろん、社会や人間全般に関わるもので、社会史全体をとらえておくことは全ての学問にとって大事だと教えてもらいました。平易な言葉で大きな教養が頭に入ってくる喜びもある本ですよね。

大澤 そうでしたか。ありがとうございます。社会秩序がいかにして可能かというのは、社会学の分野の、固有の主題です。この主題とともに社会学は成立したとも言える。ですが、その歴史はたかだか二百年。哲学や自然科学の歴史を考えると、若い学問です。

青木 未来の社会秩序はいかに可能か、訳しながら何度も考えました。

大澤 人間を特別にとらえる宗教的な世界観は、何らかの意味で人間仕様につくられていますが、自然科学は、基本的には人間中心主義を超え、離れることで成立します。人間という主体をどう組み込むかという問題は、社会科学や哲学の援軍を必要とする。だからこの本は、社会科学的な問題と自然科学的な問題の、理想の結婚と言えますよね。

青木 そうなると思います。社会を考える上で必要な情報がある。ただ、勘違いしやすいところですが、科学が教えてくれる自然界の膨大な情報に対して、私たちがニュートラルに情報を選べるかというと難しく、なにかしら主観や意図が混じりこんでくるんですよね。

大澤 そう、そして、とくに遺伝学は、社会や政治との付き合いに一度失敗しているから、お互いに距離をとりすぎているのかもしれない。本来は正しく使われれば、「良き社会」に大きく貢献するはずです。
 とはいえ、「良き社会」を考え始めるとたいてい、ロクなことにならない。哲学者の市井三郎が『歴史の進歩とはなにか』(岩波新書)で喝破したように、「進歩」に見えたのにマイナスだった、ということが一般的です。人間の価値観だってゆらいで一定とはいえません。合意が簡単には生まれない世界では、「中途半端な良き社会」になると不幸な人がむしろ増える。経済的に豊かなら幸せなはずなのに予想外に不幸だったり、「自己責任」の強調が弊害をもたらしたり、社会主義が典型ですが、自己破綻を起こしがちです。

青木 まったくその通りです。

大澤 でも、市井は、ひとつだけ、進歩を意味する消極的な条件があるとしていて、僕も賛成です。不条理な――つまり自分の責任によらない偶然の――不幸や苦痛がより少ないこと。ぼくらはみな、あなたの責任ではないことであなたが不幸になることが、できるだけ少なくなるように願っている。

青木 遺伝学の成果がそういう社会の実現に役立ってほしいです。

大澤 偶発的な災害の被災者を救いたいように、遺伝のことで不幸になる人がいたらできるだけ助けたい。くじに外れただけで不幸になる人を救うことができる社会の方が良いのではないか。

遺伝学にもビッグデータの時代

青木 おっしゃる仕組みについては、具体的に方向性が見えてきたといえますね。ただ、「ChatGPT」でも「GWAS」でも、データ学習の量がブレイクスルーを迎えていますよね。子どもたちの時代はどうなるのかと心配になってきます。

大澤 心配になる人もいるだろうし、それなら遺伝子を改造したいという人も出てくるかもしれませんが、この本は、希望通りの改造は事実上不可能だということも教えていると思います。
 ある種の遺伝病、たとえばハンチントン病など、単一の遺伝子に原因がある場合は別ですが、認知能力やあるいは高身長のようなもっと単純なものも含め、僕らが評価する能力や性質の大半は遺伝が関係しているけれども、それらは多数の遺伝子のものすごく複雑な因果関係の結果です。ある遺伝子を改造すれば、それは予期できない因果関係を通じて、別の能力や性質に否定的な結果を招きかねない。それどころか、ねらっていた能力や性質に対してさえ逆効果ということもありえます。遺伝子への介入を通じた意図的な改造は、事実上、不可能なのです。
 しかし、ある能力や性質に遺伝の影響があることが実証できていれば、遺伝子への直接的な介入とは別の方法で、不運を補償し、公正に近づけることができるわけです。

青木 詳しくお聞かせください。

大澤 この本ではっきりしたのは大きく二つだと思います。一つ目は、遺伝は複雑系で、それを下手にいじるとロクなことはないということです。二つ目に、複雑であっても、最終的に遺伝くじが関係していることが明らかならば、その「違い」に対しては、「公正としての正義」の観点からの補償や救済が可能だということです。

青木 「違い」に踏み込んで、有効に行動すべきですね。必要な手助けや公正平等を考えると、ゲノムブラインドは有効とは言えない。科学の使い方という観点で、新しい知見が出た時にどう生かすかは、人間や社会の方に委ねられているということでもあると。

大澤 科学と社会の関係で言うと、現代では科学の方のスピードが速いんですよね。我々がどう対応すべきかを定めるのがどんどん難しくなっている。科学的に可能なものをただ実行しているだけで、気づかぬうちに、これまでの常識や前提が破壊されていく。
 ChatGPTのような、大規模言語モデルの場合もそうです。その能力は、開発者の予想すらもはるかに凌駕している。今は、利用してよいものと、現時点では利用を抑制すべきものに分ける必要があるかもしれない。

青木 遺伝でいうと、ゲノムをいじって望む結果が得られるほど、シンプルではないということですね。
 そして、遺伝くじの結果のせいでアンフェアな事態が生じるなら、フェアになるように社会的に手助けしたい。

大澤 本書で使われている「公正としての正義」という言い方は政治哲学者のジョン・ロールズの言葉です。ロールズを批判する倫理学者や哲学者はたくさんいますが、人文社会科学系の学問の常として、批判する人が多いものほど、優れています。ロールズは明晰に「正義の原理」を定式化している点で、やはり基礎中の基礎だと思う。例えば累進課税はロールズが提起した「格差原理」という考え方で正当化できます。金持ちが損をするので不公平ですが、一番恵まれない人が得をする政策なので、正義に適っているというわけです。
 しかし、所得や資産の不平等より、遺伝が原因の不平等の方がより深刻です。長年その内実がわからなかった。そして、わかっているつもりでなされた措置は、とんでもない不正義や痛ましい結果をもたらした。しかし遺伝統計学の進歩によって、遺伝学は新しい局面に入ったわけです。そのような遺伝学ならば、公正な社会を実現するために活用できるし、活用すべきだというのが、ハーデンが勇気をもって主張したことでしょう。

青木 もちろん正義論はロールズの後に進展がありますが、ハーデンはおそらくそこまで視野に入れている。例えば障害者の問題もそうです。社会科学と自然科学の両輪、重要ですね。

(この対談は、2023年10月20日、東京・代官山蔦屋書店にて行われた)

(あおき・かおる サイエンス翻訳家)
(おおさわ・まさち 社会学者)
波 2024年1月号より
単行本刊行時掲載

関連コンテンツ

著者プロフィール

テキサス大学心理学教授。同大学のDevelopmental Behavior Genetics Lab(発達的行動遺伝学研究室)を運営。テキサス双子プロジェクトを共同主宰。初の著作となった『遺伝と平等―人生の成り行きは変えられる―』は、「ニューヨーカー」、「ガーディアン」など各媒体で絶賛され、2021年の「エコノミスト」ベストブックに選ばれるなど高評を得た。

公式サイト (外部リンク)

青木薫

アオキ・カオル

1956年生れ。翻訳家。訳書に『フェルマーの最終定理』『暗号解読』『宇宙創成』などサイモン・シンの全著作、マンジット・クマール『量子革命』(以上、すべて新潮社)、ブライアン・グリーン『時間の終わりまで 物質、生命、心と進化する宇宙』(講談社)、トマス・S・クーン『新版 科学革命の構造』(みすず書房)など。著書に『宇宙はなぜこのような宇宙なのか 人間原理と宇宙論』(講談社)がある。2007年度日本数学会出版賞受賞。

この本へのご意見・ご感想をお待ちしております。

感想を送る

新刊お知らせメール

キャスリン・ペイジ・ハーデン
登録
青木薫
登録

書籍の分類