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ひとの住処―1964-2020―

隈研吾/著

814円(税込)

発売日:2020/02/15

  • 新書
  • 電子書籍あり

人間にとって建築とはなにか? ふたつのオリンピックをつなぐ圧巻の半自伝的文明論!

1964年、横浜・大倉山の“ボロい家”に育ち、田園調布に通いながら丹下健三に目を剥き、建築家を志す。無事にその道を進みニューヨークへ。帰国後のバブル崩壊で大借金を背負い、10年間東京で干される間に地方各地で培ったのは、工業化社会の後に来るべき「緑」と共生する次の建築だった。そして2020年、集大成とも言える国立競技場で五輪が開催される――自分史を軸に人間と建築の関係を巨視的に捉えた圧巻の一冊。

目次
はじめに――ふたつのオリンピック
第1章 1964――東京オリンピック
工業化社会は建築の時代/建築か、革命か/戦後日本のシステムと吉田五十八/田んぼの中の新幹線/ボロい家/里山で育つ/お化け屋敷とアーツ・アンド・クラフツ/田園調布とガーデン・シティ/10宅論と東横線/代々木競技場の衝撃/田中角栄と建築/時代を読む/丹下と大地/丹下の神殿/法隆寺と丹下
第2章 1970――大阪万博
1964という祭りの後/大阪万博での落胆/メタボリズムと黒川紀章/広場とトレイ/吉田健一と『ヨオロッパの世紀末』/オイルショックとトイレットペーパー/原広司と集落調査/サハラの旅/サハラの子供/集落調査を続ける僕/離散型住居/サハラからの帰還
第3章 1985――プラザ合意
武士よさらば/建築家も武士化/ニューヨークとプラザ合意/中筋修とコーポラティブハウス/檮原町で木に出会う/違う時間を過ごす/登米の森の能舞台/馬頭の杉でできた広重美術館/最高の木は裏山の木だ/奇々怪々建築を超えて/時間そのものが建築/万里の長城の竹屋
第4章 2020――東京オリンピック
産業資本主義と金融資本主義/新国立競技場第一回コンペ/第二回コンペ/土間と床の長岡市役所の体験/木のスタジアム/金融資本主義の後の建築/低い競技場/米軍が敵視した歌舞伎座/木で再建された明治神宮/内田先生の教えと日本建築の庶民性/小径木の日本の木造/ネーションステートを超える「国立」/「国立」と森をつなぐ

書誌情報

読み仮名 ヒトノスミカイチキュウロクヨンニイゼロニイゼロ
シリーズ名 新潮新書
装幀 新潮社装幀室/デザイン
発行形態 新書、電子書籍
判型 新潮新書
頁数 208ページ
ISBN 978-4-10-610848-8
C-CODE 0252
整理番号 848
ジャンル アート・建築・デザイン
定価 814円
電子書籍 価格 814円
電子書籍 配信開始日 2020/02/21

インタビュー/対談/エッセイ

ひとの住処の回復論

隈研吾井上岳一MOTOKO

「二項対立」というフィクション

井上 今日は日本デザイン振興会さんのご提案で、私の書いた『日本列島回復論―この国で生き続けるために―』(新潮選書)と隈研吾さんの『ひとの住処―1964-2020―』(新潮新書)をテーマにオンラインでブックイベントを開くことになりました。いずれも新潮社刊ということで、新潮社さんの協賛も頂いて(笑)、題して「ひとの住処の回復論」。書名を足して2で割ったようなタイトルですが、あらためてよろしくお願いいたします。
 隈さんについては皆さんご存じのことと思いますが、今日は一人、ゲストをお呼びしています。写真家のMOTOKOさんです。MOTOKOさんは、広告やCDジャケット、雑誌写真のトップランナーとして活躍されてきましたが、10年ほど前からは〈ローカルフォト〉という新しい概念で、写真を通じて全国のまちを元気にしようという活動をされています。
 時間も限られていますので、早速本題に入ろうと思いますが、MOTOKOさんから隈さんに是非聞いてみたいテーマがあると伺っていますが、どういったことでしょう?

MOTOKO ありがとうございます。いきなり本題で恐縮ですが、それは「二項対立」という言葉です。以前、友人の建築家から「これからの建築って、二項対立じゃないと思う」というのを聞いて、ハッとしたんです。そこで「二項対立/建築家」で検索したところ、隈さんが書かれた記事が出てきました。1992、1993年ころのもので、そこに「バブル崩壊の時に二項対立が揺らぎ始めた」と書いてらっしゃって、まさにそうだな、二項対立が崩壊し始めている世界をどう表現しようかと考えるようになったんです。
 隈さんはどのようなことから、この二項対立という言葉を使われるようになったのでしょうか?

 僕自身が「二項対立」という言葉を思いついたのはまさに20世紀末、バブルの崩壊という現象に出くわした時です。ただ、これには前段があって、僕は1986年に『10宅論』という本を出しています。ちょうどニューヨークにいた頃に書いたものでね、日本の住宅を10のカテゴリーに分けてみたんです。例えば住宅展示場派とか清里ペンション派とか、コンクリート打ちっぱなしのアーキテクト派とか……。当時の日本の住宅って、個人の欲望をお金で買っているんじゃないかと。それを嗤いのめしてやろうと思ったんです。

井上 挑戦的な試みですね。

 でも、その時は二項対立というところまでは考えが及ばなかった。それに気付かせてくれたのは上野千鶴子さんです。『10宅論』を読んだ彼女が、国立民族学博物館の梅棹忠夫さんを中心とする「これからの家族」をテーマにしたシンポジウムに呼んでくれたんです。そこで僕が話したことを、見事に社会学的に整理してくれた。つまり、「住宅を私有する欲求は、自分をお金で買うようなことではないか」。そしてそれは「20世紀の初めに住宅ローンというものを発明したアメリカが作ったフィクション。住宅さえ所有できれば幸せが手に入るというフィクションをアメリカが世界中に行き渡らせた」と。
 そこからいろんなことが腑に落ちるようになって、二項対立の考えが膨らんでいったんです。すなわち「お金を払って自分用の家を建てる人」と「超高層を建てる資本家」。最初はその二項対立で考えていたのですが、実は対立自体がフィクションじゃないか、と思うようになりました。個人住宅も超高層も、結局はどちらも個人の欲望を忠実に形にしただけだろう、と。

井上 なるほど! 私も『日本列島回復論』で、近代化以後の生産と消費の分離がコモンやコミュニティを失わせていく過程を描きました。ムラから出て都市の労働者となった人々は、同時にマーケットを作る消費者となったわけで、そうやって膨らませてきた経済が行くところまで行って弾けたのがバブルという現象でした。
 隈さんは二項対立の話から応答可能な建築へと話をつなげていますが、これはどういうことでしょう? 建築家は施主との間で対話するだろうから、そもそも建築というのはインタラクティブなものではと思っていたのですが。

 もちろん、建築家や建設会社はクライアントと対話はします。でも、郊外に個人住宅を建てる時も、「あなたが欲しいのはこういうもんでしょ」というふうにして、結局、建築家や建設会社の欲望の世界の中に閉じ込めて、お金を払わせる構図になっている。
 一方、都市の高層オフィスで働く人も、箱の中に詰め込まれ、それが効率的な労働環境だと信じ込まされて、他者とは応答のない世界に生きている。
 そういう応答のない建築が都市でも郊外でも再生産されていく状況が何とかならないかなぁと思っている時に、偶然、高知に行ったら、そこには二項対立とはまったく別の、人間と人間がちゃんと対話している世界があった。それで僕は変わることができたんです。

井上 隈さんのターニングポイントとなる高知のゆすはら町との出会いですね。檮原で出会ったのは、建築家や住宅産業というようなシステムになる以前の世界ということでしょうか。

 まさに本来、人間が家を建てたりムラをつくったりする時の、建て主と大工さんが一緒にコラボしてモノが出来上がっていく世界ですよね。

井上 『ひとの住処』では「檮原で僕は救われた」とお書きになっています。「檮原の人たちは金融資本主義とは無縁に生きて生活している。彼らと寄り添い、その場所と並走することによって、建築は再び大地と繋がることができるかもしれないという希望を手に入れた」と。「変わることができた」と仰いましたが、何が変わったんですか?

 仲間と作っているという感じですね。やっぱり仲間なんです。プライベートを超えて、でも不特定多数でもなく、顔の見える何人かの仲間と一緒にモノを作っているという実感です。

自然体の若者たち

MOTOKO 私も小豆島や滋賀県高島市で、仲間で高め合う感じを見てきました。それはやっぱり都市にはないものだなと感じました。

井上 仲間と一緒に、対話的につくるというのは、各地で街づくりに取り組む若い世代にも共通するものですね。隈さんは最近の若い世代の動きをどうご覧になっていますか?

 僕はものすごく共感を覚えています。というのも、僕の上の世代の建築家は凄く偉そうで、僕はそれにずっと違和感を持っていた。そうじゃない生き方の建築家でありたいと思ってきたけれど、今の20代や30代は非常にナチュラルに、その街が素敵だから、そこにコモンをつくるみたいなことを自然体で直観的にやっています。つくりたいものをつくるし、見せたいものは、SNSで発信する。突出したデザインが求められる建築雑誌には無理に出そうとしないんです。そこが凄くいい。
 一方で、僕自身は上の世代のように理屈や原則がないと不安になるところもあって、ある種、時代の変わり目にいる人間なんだと思います。中間にいる境界人だから、若い方達のやっていることを法制化したり言語化したりすることができるのではないかと思っています。

井上 隈さんにそう仰って頂けると若い世代も自信を持てると思います。

 小屋をちょっと手直しするような仕事って、実はすごく気持ちいいんです。街のパン屋とか小さな風呂屋とか、建築雑誌には載らないそういう仕事を僕は積極的に意義づけていきたいし、実際に本や雑誌で紹介もしてきました。
 近代的都市計画を批判したジェイン・ジェイコブズは、かなり直観的な人だったけれど、自分の嫌いなものを明確にしながら、魅力ある街の原則を記述して、ある意味、都市計画を変えるきっかけをつくった人です。井上さんがやろうとしていることも、色々な町や村のこと、そこには井上さんなりの「これはいいけれど、こういうのは嫌だよな」というものをジェイコブズ流にテキストにして、バシッとぶつけるということをされている。そういう作業はやっぱり時間を超えて残ると思います。

井上 ありがとうございます。ジェイコブズは経済や資本の論理から街や暮らしの豊かさを守ろうと戦ってきた人ですよね。僕も影響を受けています。
 一方で、日本では、特にバブル崩壊後、不良債権処理を目的に都市再生が叫ばれるようになり、規制緩和によって高層建築を建てやすくしました。経済を膨らますためにタワー型マンションに象徴される「タテの建築」が大量に建造された。小泉政権が牽引した政策ですが、結果、地方は疲弊し、東京の風景も大きく変わりました。

 タテに行ったのは、思うに、建設業と不動産業が経済のエンジンとしてあまりに存在感が大きかったからです。日本の戦後経済はアメリカ以上にこの二つの産業に依存していた。だからバブルが弾けた時は、この二つを何とか存続させるためにタテに積まなければいけなかったという構図です。
 でも皮肉なことに、それが経済の足を引っ張ることになったんですね。アメリカの場合、バブル崩壊後は、ITとかアートといった、新たな産業が経済の立て直しを担っていくんだけど、日本は建設、不動産業を生き残らせるために、タテに積むことに傾注した。だから他の産業が育たなかった。日本にグーグルみたいな企業が生まれなかったのは、そこにあると思うし、それが今の日本の閉塞感の元凶になっている。

井上 まさにそうですね。

生業としての「農」

 『ひとの住処』にも、「武器よさらば」ならぬ「武士よさらば」と書いたのですが、僕は建設業界は武士と同じだと思っていました。戦国時代には武士は必要で、世の中を引っ張ってきたのですが、江戸時代になって平和な世になると武士はいらないですよね。でも、江戸幕府は武士階級を維持するための制度を作った。そのために「葉隠」のような、フィクションをでっちあげて、武士文化の延命をはかった。
 高度成長後の日本も、建設産業という武士を守るために文化も政治も奉仕した。建築家って妙に葉隠的な美学を言ってきたわけですよ。「こうじゃなきゃ建築じゃない。そもそも建築ってこういうものだろ」みたいなことを僕らは先輩達からうんと説教されて、もう葉隠と同じだと思って。それで「武士よさらば」と書いたんですね。

井上 私も『日本列島回復論』で武士について触れたのですが、武士って、兵農分離前は百姓でもあったわけです。それだと田植え、稲刈りの時期は戦をしないので、24時間365日戦ってくれる存在として専従の兵士をつくり、城下町に住まわせた。土地から切り離された武士は、生産手段を持たない消費者です。サラリーマンと同じです。サラリーマンの原型は武士です。
 逆に、いまローカルで頑張っている若者たちは、すごく百姓的に生きています。建築もやっているけど、自分でカフェも運営しているとか。土地に根差した、いろんな仕事をしている。

 僕も、まったくそう思うんだ。兵農分離で農から切り離され、地面から完全に切り離されたことから、寂しい武士、寂しいサラリーマンが生まれてくるわけで、僕の父親なんかが、まさにその典型例だった。その寂しさを見ていたから、何とか「農」を取り戻したい。もちろん農と言っても農業に限定する意味ではなくて、自分の生業としての「農」です。

私たちの「適正規模」

井上 そういえば、隈さんはシェアハウスを自ら運営されているんですよね。

 そう、自分の生業の一つとしてリアルなビジネスをやってみたいなと思って。シェアハウスをやると実際に仲間ができるから、僕の「仲間志向」にもピッタシはまる。やってみたら本当に楽しかったですね。

井上 シェアハウスをなさってみての気付きは、どんなことがありますか?

 それは適正規模ですね。シェアハウスって、企業がやると採算がとれないらしくて、どうしてもでかいビルを作っちゃう。でも、それだとシェアハウスとは言えないし、経済的にもサステナブルでない。5〜6人ぐらいでなんとか回していくのがいい。

井上 赤字にはならないんですか?

 小規模で回す限り大丈夫です。シェアハウスに限らず、あらゆるものについて適正規模の意識は絶対必要です。

井上 なるほど。でも、クライアントワークをやっている限り、「適正規模はこれくらい」と思いながらも、資本家の論理でもっと大きくしてくれと言われて、その矛盾に引き裂かれるということがあるのではないですか?

 建築家って自分の「農」、すなわち自分のビジネスがなくなると、クライアントに依存しちゃうんです。発注がなければ仕事はない。カッコいいことを言っても、結局、待っているだけになっちゃう。発注者のロジックから自由になるためには、やはり自分自身が「農」を持つという以外ないんじゃないかというのが、ここ何十年かやってきた、僕の結論ですね。

MOTOKO お伺いしていて、私がローカルを目指したきっかけを思い出しました。ファッション雑誌で安い中国製の服を撮影していたとき、モデルが着た先から捨てられてゆくのが分かるんです。おかしいな、何で捨てられるものを撮っているんだろう、何のためにこの仕事をしているのかと思って。お金を儲けることより、何か本当に困っている状況に対して役に立つことはどこにあるんだろうと思って地方に行った時に、農家さんがいて、「このお米、どうやって売ったらいいだろう」と。それで、ちょっとやってみるかというところから、今の私が始まりました。

井上 つまり写真であれ、建築であれ、クライアントワークから離れ、真正面からその地域の課題解決に向き合うことで生き残っていくということですね。

MOTOKO デザインもそうです。実際にいろんな地方で実践され、上手くいっている方々を見ると、課題解決のためにいろんなスキルを発揮されているんです。それこそ百姓的センスで、広義のデザインをされていて、リノベーションも土木もできる。

 その点で言うと、建築って、やっているといろんな課題が周りにあることが見えてくるんですよ。でも、それらは建築物だけで解決しようとしてもできないんです。だから私の事務所も、家具とかグラフィックデザインとかランドスケープとか、百姓的に多様化している。建築家は建築物を建てなければいけないと自分の職業を限定すると、武士の世界にはまり、抜け出せなくなる。

「場所の神様」が求められる時代

MOTOKO ところで、話が変わるんですが、隈さんにすごくお伺いしたいことがありまして、戦前の日本って天皇を神として崇め、高度経済成長期以後は資本主義が神だったと思うんですが、今回の五輪が終わったら、次の神様は何になるのかな、って……。

 僕はやっぱり“場所”に神様がいるって感じになると思う。昔の日本にはそれぞれの場所に小さな神様がいたんですね。それが近代以降、一神教になった。だから、これからはこの単一の神様からどうやって抜け出すかが課題のような気がするなぁ。地形も複雑、気候もバラバラ。そういうところに住んでいるわれわれに一番合っているのが「場所の神様」だと思いますね。

井上 今のお話を聞いて、隈さんの本の中の「日本は小径木の文化だった」という一節を思い出しました。僕はその言葉に凄く感動したんです。日本の建物は太い木じゃなくて細い木(小径木)で建てる仕組みになっているというご指摘なのですが、それって裏山の木で建てられる仕組みになっているということですよね。
 小径木のように、できるだけ小さなもので回していけば取り換えもきくし、それが永続的につながっていく。新しい国立競技場もそんな思いを込めて設計されたそうですが、これからは、そういう小さいけれど永続するシステムをそれぞれの地域が持つことが、円環的な時間の作り方であり、課題解決の手段となっていくんだな、と思いました。

 まさに小径木はそういう象徴になりますね。細くて短い木を、だましだまし組み合わせる日本の在来木造は、剛性は高いですが、柱の位置さえ自由に動かすことができます。この小さくて強くてやわらかいメソッドは日本の未来の循環システムのためのヒントになるんじゃないかなと思っています。


隈研吾 Kengo Kuma
建築家。その土地の環境、文化に溶け込む建築を目指し、ヒューマンスケールのやさしく、やわらかなデザインを提案。コンクリートや鉄に代わる新しい素材の探求を通じて、工業化社会の後の建築のあり方を追求している。

井上岳一 Takekazu Inoue
日本総合研究所、内閣府規制改革推進会議專門委員、GOOD DESIGN Marunouchi「山水郷チャンネル」ディレクター。森のように多様で持続可能な地域社会の実現をめざし、官と民、技術と伝統、マクロとミクロをつなげる研究、実践活動に取り組む。

MOTOKO
写真家、ローカルフォト主宰。音楽媒体や広告分野で活躍する傍ら、2006年より日本の地方のフィールドワークをはじめる。以降、ローカルフォトという写真によるまちづくり事業を小豆島、神奈川県真鶴町、愛知県岡崎市など、全国各地で行う。

波 2021年10月号より

コロナ禍を経て、住処を考える

隈研吾

 うまくいっている時、都市も建築もひとつの方向に走り続け、同じデザインを再生産する。方向転換は難しい。人間と同じで、ひどい目に合ってはじめて変われるのである。ある意味、都市や建築は、人間よりもっと図体が大きくて小回りがきかないので、方向転換はより難しい。コロナ禍の後、この大きい図体の怪物は、どこに向かって走り出すのだろうか。
 3・11の後、僕はリスボン大地震(1755)とシカゴの大火(1871)という大災害が、都市・建築をどう変えたのか考えた。18世紀のリスボンには中世の街並みが残り、道路は狭く、建物は崩れやすく、燃えやすく、27万人のリスボン市民のうち9万人が亡くなったともいわれる。その大惨事は、すべてのヨーロッパ人の心に衝撃を与え、それをきっかけに、神に頼らず、王に依存しない近代哲学、近代科学、近代政治、近代建築がスタートしたといわれている。その衝撃から産業革命とフランス革命が生まれ、この大地震の直後から、勘のいい何人かの建築家が、20世紀のモダニズム建築の典型となるような、整然とした幾何学的な建築の絵を描き始めた。リスボン大地震こそが近代都市、近代建築の引き金となったという歴史家もいる。
 それから約100年後のシカゴを襲った大火は、死者こそ少なかったものの、木造が中心であったシカゴの建築、2万件近くを焼き尽くし、800ヘクタールが焼失した。この惨事で、建築の構造性能、防火性能が重要視されるようになり、焼け跡には合理的構造システムを持つ強く大きな建築が次々と建ち上がった。これがシカゴ派という建築の新しいムーブメントとなり、この流れは、その後の20世紀初頭のアメリカの超高層ブームを生み出し、それがアメリカ支配の20世紀経済のエンジンになったともいわれている。事実、シカゴ大火以前のアメリカ建築は、技術においてもデザインにおいてもヨーロッパ建築から大きく遅れをとり、アメリカには都市といえるものは存在しなかった。シカゴ大火がなければ、20世紀のアメリカの覇権はなかったという人もいるほどである。
 このように大災害と都市や建築の関連をたどってみると、災害のたびに都市も建築も強く、大きなものへと進化してきたと整理することができる。当然の気持ちの流れ、歴史の流れで、誰も異議を唱えないだろう。
 そしてこの流れをさらにさかのぼっていくと、中世の終わりのペスト禍に辿りつく。しかし、3・11の頃、疫病がまさか自分の問題となるとは、僕を含めて多くの人は思いつかなかったので、誰もペストのことは議論しなかった。ここでもまた同じ警句を繰り返さなければならない。うまくいっている時、人間は変わろうとしないのである。大地震も津波も、東京にいた自分にとってはヒトゴトだったのである。
 中世ヨーロッパを襲ったペストの死者は2億人といわれ、リスボン大地震の9万人の比ではない。狭く不潔な、ゴチャゴチャとした路地が病気の大きな要因と考えられて、広くまっすぐな道路、整然とした建築が求められ、ルネサンスという新しい時代が始まったのである。リスボン大地震もシカゴ大火も関東大震災も、ペストから始まった大きな流れの中のエピソードということで整理すると、頭がだいぶすっきりした気がする。
 では、今回のわれわれを襲った疫病は、この都市、建築の一貫した流れ、すなわち大惨事の後に、より強く、より大きなものへと進化するという流れを繰り返すのだろうか。僕は何か根本的に違うことが起きたような気がするのである。もう強く大きくしようとは誰も考えない気がするのである。強く、大きなハコに閉じ込められてきた、われわれのライフスタイル自体が、今回の疫病で全否定されたように感じられるからである。
 ペストからの流れの果てに、われわれはゴチャゴチャとしたものを排除し、強く、大きなハコで埋めつくされた、「合理的」で「衛生的」な20世紀都市モデルへと到達した。そのオオバコの極致は超高層のオフィスであり、そこにつめ込まれて働くことが最も効率的であり、オオバコにいることがエリートの証であった。そのエリートは、朝・夕、同じ時刻に鉄のハコ――電車、バス――に閉じ込められて、出勤し、退社する。
 しかし振り返ってみると、実際のところ、このオオバコモデルは少しも効率的であったとは思われない。現代のITテクノロジーをもってすれば、オオバコに閉じ込められなくても、あるいは都市に閉じ込められなくても、充分に効率的に仕事をし、コミュニケーションすることが可能であった。むしろストレスと不効率しか生んでいなかったし、オオバコの排出する熱とCO2で、オオバコの外は、よりひどい環境になって、地球は傷ついた。しかし、われわれは20世紀初頭に、オフィス、大工場、大都市というモデルが作られた時、そのうまくいっていた時のいい思い出から抜け出せずにオオバコをさらに作り続け、積み上げ続け、都市というオオバコを拡大し続けていたのである。
 そして、オオバコは、われわれが気がつかないうちに、オフィス以外の様々な領域に伝染していた。たとえば、教育とは、いつのまにかオオバコの中に子供を詰め込むこととなっていた。オオバコという「均一で平等」な空間の中で、均一なテキストを読まされ、試験で競わされた。その延長線上に、オフィスのオオバコの中で競争が繰り返されて、敗れたものはオオバコから追い出された。住居においてもマンションというオオバコがデフォルトとなり、その間取りも、内外装の仕上げも、日本全国ほとんど同一のものとなった。そのオオバコに住んでいることが、エリートの証となっていたからである。そのようなオオバコのもたらしたすべてのストレスに、不自然に、われわれは気が付かないフリをしていたのである。オオバコの図体の大きさが、われわれをそう仕向けていたのである。
 ではどうすればオオバコから出ることができるのだろうか。今回、僕は一人で歩けばいいことを学び、そして実践を始めた。ハンマーを持ってオオバコをすぐに壊すというわけにはいかない。しかし一人で歩き始めれば、オオバコから自由になることができる。一人で歩けば、人との距離を自分で自由に選ぶことができる。距離をとりたければ、いくらでも遠ざけることができるし、抱きしめたい時は、ギュッと抱けばいいのである。もちろんコロナの後のことだが。
 そのように、ハコの外を歩きたいと思う人間が増えれば、オオバコは、いつかは消えていく。コンクリートでできた現代建築の物理的寿命は意外に短い。ペスト以降に進化して世界に溢れたオオバコは、ある意味仮設建築であるようにも、僕には見え始めている。そういう眼で見ると、今回の惨事は、強く、大きいものへと、われわれをプッシュし続けた従来の惨事とは質が違うもののように、僕は感じている。
 これはひとつの折り返し点なのである。大きな流れが反転して、逆向きに流れ始めようとしているのである。コロナは、強く、大きなハコは、逆に人間という生き物を不幸にすることをわれわれに気付かせてくれた。思い返してみれば、流れを反転しなければいけないと、色々な人が気づいていた。オオバコなんてもう嫌だと、実はわれわれ全員が気づいていたのかもしれない。しかし、都市や建築というのは先述したように、図体が大きい。すなわち政治、制度、経済のすべてが、そのオオバコの維持、拡大を前提にして動いているので、とんでもない図体となっているのである。単にコンクリートが重くて、固いというだけではない。だから、気づいていても、方向を変えられなかった。それでも、ついに折り返す時が来たのである。

折り返し点の秘策

 ではどんな感じで折り返せばいいだろうか。僕にはちょっとした秘策がある。それは、壊さないで、少しずつ足していくというやり方である。
 オオバコの方法というのは、実は壊すという方法であった。壊さないと、ハコは建てられない。古いものを壊したり、自然を壊したりして、新しいハコが建てられた。ゴチャゴチャした不潔な街がダメだというので、壊し、更地にして、そこにハコを建てた。壊し、新たに建てることで経済はまわっていた。そんな形でまわり始めた経済は、なにか新しい理由を見つけてきてはそこにあったものを壊し、時代が必要とする新しい理念をまとった、ピカピカとした「新しいハコ」を建ててきたのである。それが「経済」というものであり、その壊し、建てる経済を支えるためのシステムが長い間「政治」と呼ばれていたのである。理念はころころ変わるが、壊して新しいものを建てるという方法自体は、ずっと変わらなかったのである。
 今回もきっと、疫病リスクのある都市を捨てて、緑の中に衛生的なスマートシティを建てようとするプロジェクトが、すぐに動き出すであろう。
 それでは全然折り返したことにならないのである。折り返すということは、壊さないという決断をすることである。もうハコに頼らないと決断することである。新しいハコを建てれば、何か新しい生活が始まり、新しい世界が生まれるという幻想を捨てることである。この幻想の導くままに、人類はオオバコに向かって、つき進んできてしまったことを、もう一度思い起こしてほしい。
 ハコに頼らずに、ハコを出て自分自身で歩くことである。そのためには一緒に変わる仲間も必要である。仲間とつながるための技術はすでにたくさんあるので、それを使えばいい。仲間とつながるために、ハコを保存する必要はない。ハコがなくても、仲間とは簡単につながることができる。
 仲間と同じように大切なのは、歩き廻るための場所である。今回のコロナ禍で、僕自身、自分の家のまわりの場所と、ずっと親しくなることができた。こんなにおもしろい場所が近くにあったことに、初めて気が付いた。「住処」はハコではなく場所のことだったのである。ハコによってではなく、場所によって自分が生かされていることを知った。
 自分で歩くということは、場所に少しずつ足し算をしていくことである。ハコを建てるやり方は、場所を壊し、殺すことだった。しかし、足し算のやり方でいけば、場所はより愛しいものへと変わっていく。日本のデザインの本質、日本建築の核心というのは、そんな小さくて地道な足し算にあった。むしろ、壊すことは野暮とされた。小さなモノや小さな情報を少しずつ足しながら、場所をより歩きやすく、歩いて楽しいところへと変えていくのである。
 そうやって、ハコとハコの間の場所を変えること。そうすれば、人はどんどんハコから出ていくだろう。その地味な方法こそが、本当の意味でラジカルな方法、すなわち根っこから変わるやり方である。そうしてこそ、われわれは折り返すことができるのである。

(くま・けんご 建築家)
波 2020年7月号より
*コロナ禍にあたり、近著にちなんでの緊急寄稿である。
なお、冒頭の写真は1964年当時、10歳の頃の筆者。

タモリさん、隈研吾の案内で国立競技場を巡る!

隈研吾タモリ

全国津々浦々を歩き回っているタモリさん。それなら国立競技場をご案内しましょうと、設計に携わった隈研吾氏が一緒にぐるりと。「地獄組み」というすごい用語まで出てきて、詳しすぎる建築談義にもり上がるのでした。さて、JR千駄ケ谷駅に集合です!

タモリ どうも、お久しぶりです。

 トーク番組でご一緒して以来です。

タモリ 案内だなんて、よくお時間がありましたね。

 それはこちらのセリフです(笑)。国立競技場は、私も関わった共同設計の本体工事の区切りがいったん付きまして。すでに公開されていますが、いまはオリンピックに向けて放送中継やセキュリティー関係の設備工事などの真っ最中です。

タモリ それでまだ工事中なんですね。
 そういえばこの千駄ヶ谷一帯は明治に入って、徳川のお屋敷だったんですよね(以下、カッコ内は編注 江戸城を追われた徳川宗家が、界隈10万坪ほどの敷地に暮らした)。いまでも確か電柱に「徳川支」とか書いてありますよ。土地としては高台で、いいところですよね。

 教えていただくことが多い……タモリさんは建築にもご興味が深いですよね。

タモリ 建築には、ありますね。面白いです。まずデザインに目が行きますかね。

 ディテールでご覧になりますよね。ご一緒した際、工事の鉄筋の結束(鉄筋同士の交差部分を結束線で固定すること。名人芸を発揮する職人もいるとか)を褒めていらしたのが印象的でした。僕でさえ考えたこともなかったのに。
 東京体育館から大江戸線国立競技場駅へ、外苑橋の脇の階段から降りてオリンピックミュージアム、絵画館前まで、外からぐるりと競技場を一周してみます。

《国立競技場駅の新しくできた出口のそば、外苑橋にて》

 ここがいちばん眺めがいいんです。競技場は、周りにとけこませるために高さをとにかく押さえました。ザハ案の75メートルから、観客席をグラウンドに近く設定したり、屋根の構造を薄くしたりし、47・4メートルに。垂直の高い壁にはせず、庇を使って建物を分節し、その下にある木が雨風で傷まないようにしました。「五重塔方式」と内輪で呼んでいまして、法隆寺が世界で一番古い木造建築になれた特別なノウハウです。植物を庇の上一面に置き、緑をこんなに建築に取り入れた競技場はないと思います。

タモリ 一周ぐるりと回れるんですね。

 コミュニティにいかに開くかが現在世界の建築界の大きなテーマでして、五輪後は最上階をだれもが入れるようにし、ぐるりと森を見渡せるようにします。

タモリ 庇が長いですね。

 そこが見せ所でして、「片持ち梁(一端で他を支える梁)」という、60メートルの梁をリングの構造にしました。鉄骨に混ぜた木が軽いために可能になったんです。使った木の一本一本は10・5センチ角という寸法です。これは日本でいちばん流通しているサイズで、値段も安く庶民的な材料です。日本はもともと細い木を組み合わせて、間伐材を循環させながら木造建築物を作ってきました。無駄に木を切らずにきた結果、国土の約70パーセントが森林として残っているわけです。

タモリ 庇の役割はなんですか。

 そこにぶつかった風を流す役割ですね。いちばん上の庇へぶつかって入る風がもっとも強くなりますが、途中にも抜けるので、中にいても風を感じられます。

タモリ 夏にいいですね。
 もう30年ぐらい前かな、外苑橋の下、少し先あたりに2軒、ラーメンの屋台があったんです。1軒が「オリンピック」というお店でした。

 名前がオリンピックって(笑)。

タモリ これがね、結構うまかったんですよ。ラスタカラーの提灯のせいで裏で何か別のモノを取引しているなんて噂が出て。嘘なんですがね。実際はタクシーの運転手が忙しい時に皿洗いの手伝いをしているような、のどかな店でした。チャーシューが美味しくて、褒めたことがあったなあ。

 食べたかったなあ。少し先、ホープ軒っていうラーメン屋は今もありますね。

タモリ ホープ軒、まだありますね。一時期すごく並んでいましたね。

 オリンピックがホープ軒に進化したわけではないんですか。

タモリ 別だと思います。
 外から歩くと見えませんが、階段の上はどうなっているんですか。

 全部デッキになっていて、そのデッキが野球場の方からだと段差なく入れます。競技場は東西で結構な高低差があるんですよ。もともと、外苑橋から仙寿院を経て表参道の方に抜ける、競技場の西側沿いのこの道は、渋谷川の谷でした。

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国立競技場は楕円形で、広さは約11万平方メートル(敷地面積)

タモリ はい。渋谷川の源は新宿御苑の池ですね。暗渠が多くなっていますが、大まかに、表参道に抜けて渋谷方向へ流れていく。

 その谷の傾斜があったので大きな競技場の敷地としては割とやりにくい土地なんですが、その段差を利用できました。渋谷川に沿って寺社が多くあった場所で、鳩森八幡神社は有名ですね。村上春樹も昔この辺でジャズバーを開いていたし。人が集まるのかラーメン屋も(笑)。

タモリ 賑わっているキャットストリートなんて、昔は川だった。渋谷川の先の広尾の辺りもお寺さんが多いですよね。 (競技場の内部が見える箇所を見つけて)あ、ちらっと内部が見えました。ああ、グラウンドはあのレベルですか、だいぶ低いんですね。高低差がよくわかります。
 ここは全体を上から見ると、神宮の「森」というひと塊なんでしょうね。

 下からライトアップすると、夜景もすてきなんですよ。

《競技場の東側へ》

タモリ こちら側からみると、高さが違うのがまたよくわかりますね。

 庇には、全国47都道府県の杉を使っていて、東京から各県庁所在地を向いたときの方向にそれぞれ配置しています。草は26種類、手入れにあまり手間がかからない野のものを混ぜて植えました。

タモリ 植物だけでも相当な量ですね。

 こう、ぐるりと回ってみるとわかりますが、敷地は、現在の収容人数が入るぎりぎりの大きさで、こういう競技場としては狭い方です。特に東西方向がぎりぎりですが、東京の真ん中の森によくこれだけの敷地があった、とも言える。

タモリ それにしても、設計をやるって決まってから、時間がなかったでしょう。

 はい(笑)。めちゃめちゃ時間がなくて、設計1年、工期3年の4年でできました。その前にごたごたが1年あったので、普通なら合計5年のところを、1年間圧縮したというスケジュールなんです。

タモリ よくできましたね。

 でもですね、1964年の原宿駅前のあの丹下健三の代々木競技場は、工期1年半でできたんです。いまでも信じられないスピードです。

タモリ え、そうなんですか。

 8時間の3交代制で工事をしたとか。いまは働き方にうるさいですから絶対にできません。

タモリ しかも難工事だったでしょう、ワイヤーで屋根を吊っていくという前代未聞の造りで。あの当時にはコンピューターでの作図とか計算とかもできなかったわけで。

 手描きの設計の上に人間の手計算であれだけやったと考えると、構造設計の坪井善勝先生は天才的です。丹下先生と凄まじく衝突したらしいですけど(笑)。

《車に乗り、木組みが特徴的な隈建築のひとつ、サニーヒルズ南青山店へ移動》

タモリ ここ(サニーヒルズ)もまた、まあ、複雑なことをやられていますね。

 タモリさんもお好きそうですが、竹に紙、石や木にガラス、もう、いろいろな材料に挑戦するのが好きで好きで。例えば、木ですと、福岡の太宰府のスターバックスもここと同じ木組みです。

タモリ ああ、太宰府の、行きました。

 競技場の木は10・5センチ角で、太宰府とここが全部6センチ角です。ただし、同じ原理と寸法で組んだものの、太宰府は平屋なので1階だけ支えればいいんですが、ここは3階建てを全部支える必要があり、難易度が上がりまして……。

タモリ この細いので支えるって……。

 これが「地獄組み」という組み方なんです。大きな建築に使うのではなくて、家具など小さなものを強くするために、細い材料を組み合わせていく。一度組んだら離れない技法だから地獄で、それを建築に応用しました。

タモリ 荷重は周りで支えるわけですか。

 柱はなくて、荷重はこの木組み全体で分散して支えています。使った木の全長が5・4キロほど。

タモリ 柱がないとつい不安になりますよね。ほお。すごい荷重のかけ方だな。一本一本組んで設計するわけでしょう。

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サニーヒルズ南青山店

 よくぞ言ってくれました(笑)。なにしろ立体的に理解しにくいので設計もさすがに大変でした。この6センチ角の木を組んで模型(左写真下)をつくりながら設計を進めました。

タモリ ほお!

 工事の方もなかなか引き受けてくれる建設会社が見つからず、みんな図面を渡すと「これはできません」という。やっと引き受けてくれたところが「佐藤秀」という工務店なんです。

タモリ ああ、佐藤秀がやってくれましたか(笑)。

 やはりご存知でしたか(笑)。創業者が佐藤秀三さんでして。最後の頼みの綱のここも、実際に自分たちで試作をしてみてやっと方法がわかったそうです。

タモリ このやり方でつくる建物はその後は続いているんですか。

 それがなかなか大変で……。

タモリ これは大変だろうなあ。でも、この組み方は日本に昔からあった?

 この「地獄組み」は、縦と横で格子状に組んだ後それをもう一回、3層にすると動かないぞという組みです。単にもう一回組んで二重だとスライドしてしまう。つまり、組み方にも斜めにする最新の工夫があるので、単に伝統的とは言えないと思います。

タモリ 思いつかれたわけですか?

 ここは実は、台湾のパイナップルケーキ屋さんの支店なので、依頼を受けた途端にパイナップル状にしようとすぐにひらめきました。細い木を千鳥格子で組む僕の木のシリーズとしては第3弾なんですが、一番難易度が高かった……追随する建物がないのはそのためです。

タモリ もう二度とやりたくない(笑)。考えついたのはよかったけれども、難しかったんですね。手入れは必要ですか?

 掃除はあまりせずに、もともと色が変わっていく経年変化をよしとする考え方です。でも、クモの巣は大丈夫ですが蜂の巣ができるし、カラスが結構来ますね。蜂の巣は、毎年つくられちゃうので、撤去に手間をかけているそうです。

タモリ 全体がなにかの巣のような。窓の周りの木組みが空いているのは、開けるためにそういう構造にされたんですね。

 模型を見るとわかりやすいです。他はつなげて、荷重を流します。

タモリ 模型だけでもはや一つの芸術作品ですね。

 3Dプリンターを駆使しました。サカノさんという名人がいらして。図面のやりとりだけで地獄だそうですけど(笑)。

タモリ へえ。サカノさん。

 いまの時代の技術だからできる建物でもあるんです。複雑な荷重の流れの解析もコンピューターでできる。昔は単純なフレームでしか構造計算ができなかった。

タモリ 時代と共にできることが変わったわけだ。

 昔の木造とは違い、現代の技術の産物だと言えますね。もちろん施工も進化していますが、最後まで人間がつくる点で限界があり、コンピューターのようなスピードでは進化していません。一方の構造計算は、完全に計算だけの世界だから、すごいスピードで進化したんです。

《隈氏の著書『ひとの住処』を手にして》

タモリ 時代の変化を書いているといえば、『ひとの住処―1964-2020―』はとても面白くて、一気に読みました。文章もわかりやすくて。

 ありがとうございます。自伝でもあり、こういう木の建築に至った考え方をまとめた本でもあります。

タモリ 全部面白かったです。たとえば地方の現場で職人と話をするところ。
 戦前、福岡のうちの家の半分を畑にしていたんですが、小学校3年ぐらいの頃にそれを売っちゃったんですよ。隣に家が建つことになって、毎日、小学校から帰ってきて現場をずっと見ていました。

 工事現場を?

タモリ とにかく面白くて。基礎からセメントの配合、壁土までぜんぶじっと。

 工事現場を見守る小学3年生(笑)。

タモリ ええ。毎日見ていましたね。建ったら建築主が引っ越してくるんだけれど、俺の方がよほど自分の家だと感じていました。「何だ、この人ら俺のうちに図々しい」と思って(笑)。

 その後も建築の工事には興味が?

タモリ ええ、興味がありますね。27か28の会社員時代に、友達がどういうわけか、無謀にも建築会社を始めたんです。適当な言い訳をしてその会社に顔を出して、面白くて午後からはずっと現場に通っていた時期がありました。

 やっぱりじっと見ていた。

タモリ ちょうど行ったら左官屋が風呂場をつくっていたんです。「おい、さくいセメントをつくってくれ」と言われたからだいたいの勘でセメントをつくったんです。左官屋が「これ、よくできているぞ。キャリアはどれぐらいあるの」と聞くから、「初めてつくりました」「へえっ。君、左官屋にならないか」って、スカウトされたこともあったんですよ。

 えーっ! それは違う人生がありましたね。左官仕事はできる人できない人がはっきりしていて、僕はできない(笑)。

タモリ それもやっぱり小学校のときに見ていたからです。セメントと砂と水の割合を、土台をつくるときはこれぐらいだなと、だいたい覚えていたんです。

 それは感性が鋭い。

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なんと、左官にスカウトされた歴ありのタモリさん

タモリ たぶんできるんじゃないかなと思って具合を見てやってみたら意外にできた。そうしたらスカウトされてました。

 自分ちの改装の手伝いはやったんですが、塗装とか床の板を張るとか、僕はそれくらいでした。左官のタモリさんとお仕事をご一緒してみたいなあ(笑)。

タモリ 本の中に、高知の田舎、檮原ゆすはらの左官の方と、壁に藁をどれぐらい入れるかの話があったでしょう。うらやましく読みました(笑)。

 田舎の現場だと職人と腹を割って話せて、創造的なんです。何か無理を言われたのを「やってやっか」となるのか、職人にとっては楽しそうでもあります。
 そういえば、ご自宅を建てられるときはどうされたんですか?

タモリ 30年前の話なんですが、建てるときに、建築家の方に紹介で会ったんです。家の設計をお願いしますって言ったら、何をなさっているんですか? って。

 タモリさんを知らなかった(笑)。

タモリ 一言でどういう住宅を建てたいんですかと聞かれて「シャンデリアのない家がいいですね」「ああ、それ僕、できます」。ただし「その代わり半年間一緒に飲んでくれ」と言われました。つまり、何を考え、どういう行動でどういう趣味なのかわからない限りは住宅はできないからと。

 それはすごいな。

タモリ 2回目に「あなたは有名らしいですね」と言われ、聞けば「家に帰って、今度タモリという人の住宅を建てることになったって言ったら、みんながわっと盛り上がった。ちょうど日曜日だったので、『笑っていいとも!増刊号』を家族で見たけど、どこが面白いのかわからなかった」と(笑)。椎名政夫という方です。

 アメリカで活躍された方ですね。

タモリ そうです。毎週1回、スケジュールを合わせて飲み屋に行くんですよ。建築の話からなにから、いろんな話をして、半年経ったらいよいよ設計が始まって、無事に家は建ちました。

 全体としては、どんな感じのをお建てになったんですか。

タモリ L字の鉄筋なんですが、設計段階に入ったら、裏にこっちの家に入る道があって、それと表の通りが直角じゃないことが判明した。それで一部をちょっと円形にして、ごまかしてあるんです。

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左官のタモリさんと働きたかったと悔しがる隈さん

 へえ、なるほどね。

タモリ そうしたら、何か近所に急に円形の家が増え始めて。今は3軒、円形の家があります。でも、俺はしゃれてやったわけじゃない、苦肉の策でやったのに。

 流行って連鎖するんですよ。特に近所で(笑)。

タモリ 実は使いづらいんです。家具は円形の家具になりますし。

 あ、中の壁も円形になっているんですか。だいたいの家具は直角ですもんね。

タモリ ええ。でも建築家の方と最初からやりとりできて面白い経験でした。

 タモリさんの方が建築家より知っていることが多いんじゃないんですか。

タモリ えっ。いやいや、そんなことは。

 この配合が、なんてさっきも。

タモリ あ、現場は強いです。競技場も実際に見ると、木がきれいでした。そして、威圧感のなさ、のようなものを感じました。あと、近所のビルの上の方から見た知り合いが、あのちょうどいい高さと、森とのマッチングに感心していました。本にある空撮写真を見ると、まさに森の中ですよね。

 絵画館前の方から見ると、木の一番上が少しだけ出るぐらいの高さに競技場が収まり、ほとんど木に隠れる感じになってうまくいきました。設計するときから木の高さと建物の関係に注意をしていたのが、その通りにいって良かったなと。
 それから、今日は歩きませんでしたが、すぐ横のイチョウ並木から絵画館の方を見ると、完全に競技場の建物が森に消えているポイントがあります。森が豊かなんです。

タモリ ほう。神宮外苑という森ですね。

《左官への応援で意気投合するふたり》

タモリ 「ブラタモリ」(NHK総合)で秋田に行って知った余談なんですけど、秋田産の天然のアスファルトは東京でもよく使われたそうですが、いま残っているのは絵画館の前だけらしいんです。

 えっ、あの道路に敷いてあるやつ。そもそも、天然のアスファルトがそんなに使われているとは! 面白いですね。
 余談ついでに言うと、あのイチョウ並木は、イチョウの高さに変化をつけて、1923(大正12)年に造園しているんです。青山通りから見て、徐々に高さを低くして木を植えているから、遠近法で絵画館の建物が立派に見える。

タモリ へえ。いまもそのままですか。

 そこまで考えてイチョウの木を選んだ人たちは、すごい(笑)。

タモリ さすがですね。鎌倉の鶴岡八幡宮もそうですね。海側から行くと参道の幅が広い。視覚効果が出て、ずっと歩いていくと狭くなっていく。

 あれは鎌倉時代ですね。

タモリ その頃からなんですね。

 神社など見ると日本人は昔から、そういうノウハウを持っていますよね。能舞台も橋掛かりは傾斜をつけていますし。建物に知恵が凝縮されている。

タモリ 本の中にある、建築された宮城、登米とよまの能舞台の話は面白いですね。2億円でやってくれと地元の方たちに頼まれて大変な目に(笑)。

 能舞台なのに、桁が一つ違うんです(笑)。でも、地元の情熱に負けました。

タモリ 能舞台がそもそも、屋根のついた屋外での建物が、明治期になって屋内に屋根ごと入ったなんて驚きました。
 そういえば、伊豆に小さな家を建てたんです。木と漆喰が好きなのでそれで発注して、現場へ行ったら、左官屋が匂いを嗅ぎながら懐かしがっていました。

 漆喰は悪い物質を吸着してくれるので環境にいい。

タモリ 気持ちがいいわけだ。

 頼み続けないと、その職人さんの技術がなくなっちゃうんですよね。
 日本の左官は、壁や床、土塀をコテを使って塗り上げる仕事がメインですが、世界でも技術力を高く評価されています。そして建築と左官は、世界市場ではセットですから重要です。若い人でカリスマ職人的な人も出てきていまして、なるべく左官に仕事を頼むようにしています。

タモリ 挾土はさど秀平さん、とか? 一度、左官を呼んで番組で壁塗りをやったんです。そうしたら「こうやっていくと、だんだん分子がそろってくるのがわかりますよね」とまでいうから、いいなあと。

 土っていうのは、実は最後に案配をつけて調整できるからとても便利なんです。柱を建てておけば、その隙間の寸法がちょっと違っても、あとでどう動いても、土でなんとかだましだまし調整できるという、よくできた技術なんですよ。
 昔は僕も、柱やフレームが建造物を支えていると考えていたんですが、解析をしてみるとその間に「竹小舞たけこまい」(土壁の下地となる竹組み)や土があって、そういう一見頼りなさそうなものの全体が、実は地震のときにすごく効いている。

写真
ありがとうございました!

タモリ 荷重を支えているという?

 はい。土壁というのは、だましだましが得意な日本人らしいすごい技術、蓄積なんですよね。

タモリ そういう柔軟な構造は「半壁構造」ですかね。

 そう、まさに、「半壁」、「半」なんです。ヨーロッパみたいに、完全にぎしぎしの箱にするのではなく、力を吸収するちょっとした逃げを作る。タモリさんのおっしゃる「半」は大正解なんです。

タモリ 伊豆の辺りは30年の間に何度も地震がありましたが、力を吸収したのか壁に一つもクラックができていません。

 ところでタモリさん、番組では左官にまたスカウトされたんですか?

タモリ いやいや、今回は残念ながらされませんでした(笑)。

(タモリ タレント)
(くま・けんご 建築家)
波 2020年4月号より
単行本刊行時掲載

著者プロフィール

隈研吾

クマ・ケンゴ

1954(昭和29)年、横浜生れ。建築家。1979年東京大学大学院建築学科修了。コロンビア大学客員研究員、慶應義塾大学教授を経て、2009(平成21)年より東京大学教授。主な作品は「森舞台/登米町伝統芸能伝承館」「サントリー美術館」「根津美術館」「la kagu」など国内外に多数。『10宅論』『負ける建築』『ひとの住処 1964-2020』など著書多数。

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