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小林秀雄全作品 第23集 考えるヒント 上

小林秀雄/著

1,870円(税込)

発売日:2004/08/08

  • 書籍

読める、わかる――21世紀の小林秀雄。

昭和34年57歳の初夏、『文藝春秋』に始めた「考えるヒント」。愛情、常識、道徳など身近な事柄から入って多様に語り、毎回読者を発奮させたエッセイの至芸。ほかに「ゴルフの名人」「無私の精神」など。

目次
昭和三十四年―― 一九五九
ペレアスとメリザンド
スポーツ
ゴルフの名人
「近代絵画」受賞の言葉
エリオット
好き嫌い
常識
プラトンの「国家」
井伏君の「貸間あり」
読者
「バルザック全集」 II
漫画
良心
昭和三十五年―― 一九六〇
歴史
無私の精神
言葉
役者
「菊池寛文学全集」解説
或る教師の手記
ヒットラアと悪魔
梅原龍三郎展をみて
平家物語
本居宣長――「物のあはれ」の説について
東京
「プルターク英雄伝」
昭和三十六年―― 一九六一
忠臣蔵 I
古鐔
忠臣蔵 II
 人生の教師  大岡 昇平

書誌情報

読み仮名 コバヤシヒデオゼンサクヒン23カンガエルヒント1
シリーズ名 全集・著作集
全集双書名 小林秀雄全作品
発行形態 書籍
判型 四六判
頁数 272ページ
ISBN 978-4-10-643563-8
C-CODE 0395
ジャンル 全集・選書
定価 1,870円

書評

知りつつ、知ることを忘れること

茂木健一郎

 しばらく前に、銀閣寺に行った。高い生け垣の間を歩いて、ぱっと視界が明るくなると、向月台が見えた。ぐるりと廻り、手前に銀沙灘を置き、向こう側に銀閣を置いた風景の中に身を置いてみると、そのコンセプチュアルアートとも言うべきシンプルな幾何学性の中に、何とも言えぬ味わいがある。
 ふと、向月台の斜面に注意が向いた。その優美なラインは、ちょっと見ると直線のようだが、実は少し下側に湾曲している。その湾曲の仕方が実に微妙で、ああ、よくデザインされているなと思った。それから、待てよと思った。あれは、砂を山に仕立てたら、自然にできる曲線ではないのか。そこにデザインの企図を見る理屈は、案外込み入っている。そんなことを考えているうちに、小林秀雄のことを思いだした。
 小林は、「見る」という行為の純粋性を、とても大切にしていたように思う。「美しい花がある。花の美しさという様なものは無い」という小林の有名な言葉がある。「美」という抽象概念に対して、目の前にある具体的な花という体験自体を優先させる。もし銀閣寺に行くならば、向月台という体験自体を受容することが重要なのであって、故事来歴、蘊蓄の類はなるべく介入させるべきではない。これは、共感できる考え方である。
 難しいのは、無垢に見ているつもりでいる時も実はそうではないことが多いということである。向月台を前にして、心を無にしているつもりでも、実は無意識の中に斜面のラインとアリジゴクの巣の類似性を思い描いてしまうかもしれない。粉粒体の物理学についての思索が浮かぶかもしれない。小林が「ただ観て発見すればいい」と言う時、それは、この世に生まれ落ちたばかりの赤子のように白紙の状態で見るべしという意味ではないはずだ。むしろ、過剰なまでの無意識下の連想のプロセスに炙られながらも、あくまでも透明で澄んだ泉の領域を心の中に確保することを志向する、そのようなことを意味していたに違いないと思うのである。
 知りつつ、知ることを忘れる。ここに、「ただ観る」という言葉の中に潜むパラドックスがある。このような問題について、小林はどのようなことを書いているのだろうと気になると、私は見当を付けて読み始める。その過程で、探していたものを見出すこともあるし、寄り道をして違う場所に行ってしまうこともある。小林の文章を読む場合、寄り道をしてしまうことは実際多い。
「測鉛II」という文章の中に、植物のメタファーが頻出するのを見いだして考え込む。「批評家とは精神の植物学者だ」。「芸術家の真の苦悩とは、この葉緑素的機能の苦悩である」。多くを知りつつ、それを忘れて観ることを志向する心理的状態には、どこか植物的なところがあると思う。植物、銀閣寺、向月台。この三つを心の中で並べて眺めると、一度も感じたことのないものが立ち上がる。水仙になってしまったナルシスが、もしそれでも世界を眺めているとすれば、それが「ただ観る」という境地に一番近いのではないか、そんなことを考える。
「感想」はベルグソン哲学を論じた文章だが、この中に「単に眼があるから見るのではない、寧ろ、眼があるにも係はらず、見抜くのである」とある。向月台を「ただ観る」というのはこのことかとも思う。だとすれば、小林は、知識にとらわれることだけでなく、見た目にとらわれることを避けることをも志向していたはずだ。「美しい花」というのは、そのイメージそのものであると同時に、ある種の観念をも指すことになる。実は、このような議論は、現代の脳科学の見地からも大変面白いのである。
 銀閣寺に行くことと小林の文を読むことが日を空けずに続くことがなければ、生涯に一度も通らなかっただろう概念空間の場所を通る。これが、文字というメディアを通して先人と対話することの悦びである。
 それにしても、小林秀雄も、もはや「先人」という言葉がふさわしいほど時を隔てた人になってしまった。今度の全作品には初めて脚注が付く。実際に脚注が付いた文章を眺めてみると、これこそがまさに「知りつつ、知ることを忘れる」ことが問題になる場所だと判る。一番良いのは、一度脚注を読んでそれを忘れて本文を読むことではないかと思う。文章を読む行為における「知りつつ、知ることを忘れる」。小林が何か関係したことを言っていないか気になって、また見当を付けて読み始めたくなるのである。

(もぎ・けんいちろう 脳科学者)
波 2002年11月号より

著者プロフィール

小林秀雄

コバヤシ・ヒデオ

(1902-1983)東京生れ。東京帝大仏文科卒。1929(昭和4)年、「様々なる意匠」が「改造」誌の懸賞評論二席入選。以後、「アシルと亀の子」はじめ、独創的な批評活動に入り、『私小説論』『ドストエフスキイの生活』等を刊行。戦中は「無常という事」以下、古典に関する随想を手がけ、終戦の翌年「モオツァルト」を発表。1967年、文化勲章受章。連載11年に及ぶ晩年の大作『本居宣長』(1977年刊)で日本文学大賞受賞。2002(平成14)年から2005年にかけて、新字体新かなづかい、脚注付きの全集『小林秀雄全作品』(全28集、別巻4 )が刊行された。

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