立ち読み:新潮 2018年11月号

第50回新潮新人賞 受賞者インタビュー
河内という土地に書かされた/三国美千子

――「いかれころ」は、大阪府南東部に住む杉崎一族の濃密な人間模様を、女児・奈々子を主人公にして丹念に描き出した小説です。作品が生まれた経緯を教えてください。
 生まれ育った関西から、初めて非関西語圏へ移住した体験の産物でしょうか。新しい土地ではとにかく孤立していると思い込んでいましたし、外で「大阪」という単語を耳にするだけでぴりぴりしていました。実際はいい人たちだらけなのですが。異質な自分を通して、社会を引きで見る視点を持てるようになったのが、この作品を書くきっかけになったのかもしれません。
 ちなみに「いかれころ」とは、「踏んだり蹴ったり」や「頭が上がらない」という意味を持つ河内弁です。私の家族は物事を勝ち負けで捉える癖があるのか、母も何かあるとよく「ほんま、いかれころやわ」と言っていました。でもどこかユーモアもあって、思い入れの深い言葉です。

――本作では婿養子や私生児、精神疾患などに対する登場人物たちの残酷な差別の視線が、幾重にも交錯します。生活と地続きのものとして、こうした差別が生まれてしまう構図が、実に巧みに描かれていました
 一つの共同体の中でも人々の、あるいは家々の「違い」があり、助け合いの繋がりと同時に、支配的な構造が存在します。それが一つの家系の中にどう顕れてくるのかを書いてみようと思いました。村の中でなぜある家の人々だけが精神的に圧迫され、自ら死に追い込まれなければならないのか。そこにどのような精神的な力学が働き、しわ寄せが一個人に集中するのか。ある抑圧的な構造が時に上から下へ働き、別の時には下から上へ働いてしまう――その仕組みが誰からも幸福を少しずつ奪っているような家のありよう、共同体のありように関心がありました。

――一九八三年時点で四歳という奈々子の設定は、三国さんの経歴ともほぼ重なります。ご自身の実体験が様々な形で作品に昇華されているのでしょうか。
「おかいさん」と呼ばれる独特の食習慣や、真夏の「ひのつじ」と呼ばれる昼寝、農作業の合間のあぜ道での食事をはじめ、確かに体験に根ざしている部分は多いです。
 牧歌的な暮らしとは対照的な嫌な面も、もちろんありました。学校や地域社会でいじめや嫌がらせは珍しくないでしょうし、私自身も小さなものは経験していました。とりわけ村において、序列ははっきりしています。そして冠婚葬祭の場で、それが顕在化するのですね。
 作中にもありますが、強く記憶しているのは高校生の頃のことです。通学中の電車の車内で、久しぶりにその地域に来たらしい老いた女性が見知らぬ乗客に向かって、ある地域を差別する言葉を言い出しました。その疑いを知らない素朴さ、言っている内容のひどさに、私も含めた乗客は口を閉じたまま身動きできなくなりました。「これか。中学でさんざん教員から教えこまれた差別の発端は、こういうことか」と悟った瞬間でした。そして別の局面では自分も無邪気に人を傷つけかねないことに恐怖を覚えます。

――作品の舞台になった南河内は、三国さんにとってどのような土地ですか。
 悪夢のようであり、極彩色の夢のような場所です。荒っぽいイメージがありつつ、あけすけで人情が深い土地柄でもある。そこにいた二十六歳までの記憶は、完全に凍り付いたまま頭の中に残っています。取り出して言語化するのには注意が必要なタイプの記憶です。私はそこを捨てて出てきたので、うしろめたさも付きまとうのかもしれません。
 それでも、受賞作は河内という土地に書かされたような気がします。いわば、そこに暮らしていた亡き人々やその記憶が偶然に文章化したという感じでしょうか。

――物語は、奈々子と親しい叔母・志保子に持ち上がった縁談を中心に展開していきます。因習を重んじる一族にとって、結婚は遠戚をも巻き込む一大事となりますが、なぜこのような主題を選ばれたのでしょうか。
 結婚や出産は農村の重要な通過儀礼であり、労働力を確保するための関心事です。女性は縁談を通して物として扱われ、さまざまな葛藤や理不尽にさらされます。とりまく人々の立ち位置や内心の感情がはっきり浮かぶ出来事で、小説の強いテーマとなりうると思いました。

――学生運動に熱を上げた奈々子の父・隆志が共産党員である市長を親しみを込めて「さん」付けで呼んだりと、随所にちりばめられた政治的なモチーフが物語に厚みを持たせています。
 共産党員の市長をめぐる市民同士の激しい対立は、実際に幼少の頃耳にしましたが、作中で隆志が語っているように、どこか昔話として受け止めていました。事実だとわかったのは大学に入ってからです。ご指摘いただいた「政治的モチーフ」というのは、あくまで作中人物の生活に根ざしたものです。ありふれた「庶民」がいて、生活上の矛盾や苦しみ、やりきれなさがある。どうにか折り合いをつけようと努める心情と言動を描こうとした結果、そうしたモチーフに傾くきらいがあるのかもしれません。
 政治や思想は机上の空論で終わらせるのではなく、暮らし、そして言動を通して示してゆくのが理想ではないかと私個人は思います。学生運動の経験をノスタルジーで語る大人をこれまで見てきた上での感想です。

――奈々子の一人称の「私」は、限りなく三人称に近いものとして読めます。四歳児が受け取った生々しい主観的な印象と、数十年後の現在から冷静に振り返って受ける客観的な印象とが、絶妙なバランスで共存していますね。
 八十年代の空気を「あの頃はよかった」と郷愁の中に閉じ込めるのではなく、今に通じるものとして書こうと試行錯誤しました。石牟礼道子さんの『椿の海の記』や森茉莉の初期随筆には、大きな影響を受けたと思います。幼い「みっちん」が水俣の人を語り、「おまり」が鴎外を語る時の、うっとりするような親密さと、長い時間の経過を思わせる突き放した語りの両立は勉強になりましたが、かなり背伸びをしているかもしれません。

――選考会では、大阪の旧家を舞台にした本作が、谷崎潤一郎の『細雪』を想起させるという意見も上がりました。『細雪』と比べれば随分短い枚数で、これだけ多くの人物の姿を生き生きと描き出すのに、苦労はありませんでしたか。
 ちょっと登場人物が多すぎたでしょうか。しかし、頭に浮かぶ一人ひとりが、それぞれに言いたいことを持つ血の通った人物ばかりでした。小説空間を構成するため出るべくして出てきた人たちだったな、と思っています。実際に関西に足を運んでいただければわかるのですが、本当にどこにでも独特な人がいますし、ユニークさを尊ぶ曖昧さがあるのではないでしょうか。基本的におしゃべりですし、大阪人は「やいやい」ですね。何でも口に出します。

――日本文学研究科の修士課程を修了されていますね。三国さんの文学的な来歴をお聞かせください。
 学部時代は森茉莉を熱心に読みました。というか、森茉莉しか読めなかったのです。『父の帽子』に始まり、『贅沢貧乏』などの随筆や『甘い蜜の部屋』の世俗の倫理を超えた父と娘の愛の物語にもはまりました。現実の世界よりも、小説の中の独立した世界観に安らぎを覚えていたのかな、と思います。
 それから森茉莉を高く評価していた三島由紀夫にも興味を持ち、大学院に進みました。しかし、分析をすることや論ずることにまったく向いておらず、場違い感がひどかったです。バイトをするなど、脱線を繰り返しました。寛容な先生方には感謝しています。でも後から思えば、一人の作家の最初から最後まで全ての作品を読んだのは、文章を書くための下地になったかもしれません。三島の作品からは、構成について学びました。見切り発車で書き始めるなんてとんでもないのだなと思い、吸収するところは多かったです。
 院生時代には『幽界森娘異聞』を書かれた笙野頼子さんを知りました。続いて『二百回忌』も読みました。現代の日本にもこういう作家の方がおられるのかとたいへん驚きました。はっと惹きつけられる独創性や、細やかで幅広い表現に魅了されました。

――小説執筆にはいつ頃から取り組まれていたのでしょうか。
 実家を出た二〇〇五年からです。執筆は予兆もなく急に始まったという感じです。最初は夫のパソコンを借りていたのですが、ある日目覚めると枕元に新品のノートパソコンがどんと置いてありました。独占して迷惑をかけていたのでしょう。話し相手もいなかったので、機械相手に創作を始めました。その頃は笙野さんに強く影響を受けていたと思います――幻想的で土着的な話でした。「傑作に今一歩及ばず」と、ある新聞社が主催する文学賞の選考委員の方に選評で書かれたのをはっきり覚えていて、「傑作やないとあかんねんな。そらそやな」とぼんやりと納得しました。
 一作目を書いてから長い間、自分にはあまり書くほどのものはないのだな、とも感じていました。関西の話をどう標準語で書けばいいのか、確たる方法が見つかりませんでした。坂だらけの小さな田舎町で「買い物難民」として暮らしながら、時折、図書館に通う生活をしていました。

――次回作が楽しみです。
 今回の賞を受賞してもしなくても、活字になってもならなくても、今後も小説を書いていいのだ、というひらめきが数カ月前にありました。たぶん書くという病気にかかっているのです。簡単に寛解したり、死んだりしないように気をつけていこうと思います。ありがとうございました。

[→第50回新潮新人賞受賞作 いかれころ/三国美千子]