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トマス・ピンチョン全小説

【書評】未来の作家 都甲幸治

未来の作家

都甲幸治

『メイスン&ディクスン』を日本語で読んだあなたは、生まれて初めてピンチョンの過激な面白さと直面することになるだろう。もちろん一九九八年に出た『ヴァインランド』の日本語版だって最高だったし、あの自由奔放な翻訳を成し遂げた佐藤良明が天才だってことは、誰の目にも明らかだ。でも膨大な知識が叩きこまれ、主人公たちが縦横無尽に世界を駆け巡る巨大な作品群、『V.』『重力の虹』『メイスン&ディクスン』を読まなければ、彼の本領はわからない。そしてピンチョンがこの半世紀間、文学という渦の中心に居続けている以上、それは現代アメリカ文学、ひいては現代世界文学を理解し損ねるということだ。
「トマス・ピンチョン全小説」が続々刊行されるという話を聞いて、思い出した光景がある。今を去ること十五年前、まだ四十歳前後の柴田元幸先生を囲んで、学生だった我々はこつこつと『V.』を読み続けた。あの読書会は三年ほど続いたはずだ。そのとき僕がいつも感じていたのは、驚きと怒りだった。あれほど難しいと聞いていたのに、英語で読めばピンチョンはなんてわかりやすくて面白いんだろう。そして、どうして日本語で読んでいたのでは、そんな単純なことさえわからないんだろう。
 だからといって、当時の訳者たちを責めているのではない。ただ日本とアメリカの距離があのころとは決定的に変わってしまっただけだ。航空運賃は劇的に下がり、インターネットで細かい情報を瞬時に調べられるようになった。それにつれて、アメリカ文学は遠い異国からやってきた、見上げるべき文物であることを完全にやめてしまい、水平な目線で楽しむ対象になったのだ。こうした時代の変化のなかで輝きを失ったものも多い。だがピンチョンは違う。それは、彼が尊敬されたいなんて少しも思っていないからだ。ただ極端に優れた言語能力を駆使して、読者を笑わせ楽しませたいだけなのである。だからこそ今、「ピンチョン全小説」が刊行されることには大きな意味がある。
 具体的に見ていこう。どうにも寝坊な船員を起こそうとするだけで、ピンチョンならこんな文章になる。「縄の端で足の裏を叩く、鼻に蜚蠊(ゴキブリ)を挿入する、体を転がし料理人ルーカスが淹れた悪名高き珈琲で浣腸を施す、(中略)火縄に火を点し、足指の間に入れてみる。吊床(ハンモック)に包んで船外に垂らしたところで、波に触れてもそわそわ身を捩らせ、ぐうぐう鼾をかき始めるのみ」(『メイスン&ディクスン』80-81)。まったくどこまでやるんだろう。往年の『たけしのお笑いウルトラクイズ』よろしく、呆れるほど大げさで多様な責め苦も、とんと効果がないところがおかしい。あるいは人工の鴨が襲ってくるシーン。「鴨はその後新たに、一点に留まったまま非常な速さで前後に細かく身を動かし、従って直線的に進まずとも不可視になれる術を身に付け」る(『メイスン&ディクスン』538)。かの消える魔球、大リーグボールじゃあるまいし、そんなことあるわけないだろう。とにかく、鴨すごすぎるよ。いかにも文章がもっともらしいのも笑える。こんなところはまるで上質な落語のようだ。
 おそらくピンチョンにとっては、今我々が文学だと考えているものなんてどうでもいいんだろう。むしろ彼が見据えているのはもっと大きなものである。今の文学はいったい何を切り捨ててきたのだろう。そのもととなった歴史とは? 植民地主義が世界を吹き荒れ、奴隷制や戦争の悲惨の中からアメリカ合衆国が形成されていく十八世紀という、重要な時代を描いた『メイスン&ディクスン』は、まさにアメリカを始まりから思考し、想像、あるいは創造し直している。そのことはまた、アメリカ文学の、今あるものとは別の形を夢想する作業でもあろう。その意味でピンチョンとは、ただの現代作家ではない。むしろ我々がいまだ見たことのない未来に属する作家なのだ。

(とこう・こうじ 早稲田大学准教授・文芸評論家)

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