
沈むフランシス
605円(税込)
発売日:2025/02/28
- 文庫
- 電子書籍あり
北海道の小さな村で出会った男と女。二人の深まりゆく愛と鮮やかな希望の光を描く傑作。
東京での仕事を三十五歳で辞め、北海道の小さな村で郵便配達をする女。川のほとりの木造家屋で世界中の「音」を集めながら暮らす男。偶然出会った彼らは、急速に惹かれあっていく。からだでふれあうことでしか感じない安息と畏れ、不意に湧きあがる不穏な気配。その関係が危機を迎えた嵐の夜、もう若くはないふたりが選択した未来とは。深まりゆく愛とひと筋の希望の光を描く傑作。
書誌情報
読み仮名 | シズムフランシス |
---|---|
シリーズ名 | 新潮文庫 |
装幀 | 小畑雄嗣/カバー写真、新潮社装幀室/デザイン |
雑誌から生まれた本 | 新潮から生まれた本 |
発行形態 | 文庫、電子書籍 |
判型 | 新潮文庫 |
頁数 | 208ページ |
ISBN | 978-4-10-105572-5 |
C-CODE | 0193 |
整理番号 | ま-67-2 |
ジャンル | 文芸作品 |
定価 | 605円 |
電子書籍 価格 | 605円 |
電子書籍 配信開始日 | 2025/02/28 |
書評
贅沢な喜びをくれる作家
この魅力的なガイドを読めば読みたくなること間違いなし! 心の奥底を震わす三つの物語、待望の文庫化開始――
小説を読むとき、ひとは何を求めるのだろう。たとえばそれは、波乱万丈の物語展開がもたらすスリルだろうか。「ページターナー」の語が示すとおり、夢中でストーリーの先を追わずにはいられない作品が昨今、もてはやされがちである。
しかし猪突猛進だけが読書ではない。作中に描かれた世界にゆったりと身を落ち着け、文章の流れを心ゆくまで味わう。そんな贅沢な喜びがあることも確かだ。現代の作家でそうした愉悦を与えてくれる存在といえば、松家仁之の名が思い浮かぶ。繰り返し読むに値するその作品群が、ついに文庫化される。
2012年に刊行された『火山のふもとで』は、長編第一作とは思えないほどの完成度の高さで多くの読者を瞠目させた。1980年代前半、世はいわゆるバブルに突入していこうとしていた。そうした時代を背景とするにもかかわらず、この作品はじつに端正な佇まいを見せている。心地よい、落ち着いた静けさが物語の基調をなすのである。
村井設計事務所に所属する十名の建築家たちは、いずれもが「村井俊輔という建築家が黙ってつづけてきた仕事の非凡さ」を認め、心服している。物静かな「先生」のもと、事務所は静寂に包まれている。とはいえその雰囲気は気づまりでもなければ、堅苦しくもない。彼らは共通の価値観を抱き、同じ目標に向かって日々、ともに歩み続けることの喜びをわかちあっている。小説の中心部分をなすのは、毎夏、事務所の機能を移転させて過ごす北浅間の「夏の家」での日常だ。1982年に事務所に加わったばかりの「ぼく」の眼をとおして、「先生」および先輩たちの姿がういういしく描き出されていく。
大学で建築を学んだ「ぼく」なのに、事務所に入ってみると、鉛筆の削り方や線の引き方から身に着けていかなければならない。先輩はあれこれの作法を言葉少なに伝授する。それが高圧的に響かないのは、いちいちの手順に合理的な理由があり、納得のゆく指示だからだ。「ぼく」ばかりでなく読者も、建築家の仕事がどういうものなのかがすっきりと頭に入ってくるような心地になるだろう。「夏の家」は理想の教室にして、快適な仕事現場である。国立現代図書館のコンペに向けて、ベテラン建築士二人がアイデアを競い、さらに「先生」の案が披露される。緊張をはらむ展開とはいえ、大声を出したり、居丈高になったりする人間はだれもいない。毎日寝泊まりして顔を合わせているのに、集団生活のうっとうしさが感じられない。シンプルながらよく考えられた三度の食事のメニューがとてもおいしそうだ。そして憩いのひととき、ターンテーブルに乗せられるベートーヴェンやモーツァルトのLPレコードからは、何と豊かな響きが聞こえてくることか。
建築は芸術じゃない、現実そのものだよという「先生」の言葉が何度か引かれている。設計事務所の面々にとって、建築は生活そのものだとも言えるだろう。しかも「夏の家」があるのは標高千メートルを超える地点だ。清々しい空気が小説を満たしている。外からは鳥や虫の鳴き声ばかりが聞こえてくる。ここは楽園かとさえ思える。しかもどうやら先生に気に入られたらしい「ぼく」の前には、二人の魅力的な女性が現れ、彼はそのいずれとも徐々に心を通わせていく。事務所内での恋愛はご法度という不文律を、ひょっとして新入りの「ぼく」は大胆にも踏み越えようとするのだろうか?
これはコンペの、そして男女の関係の行方をめぐって、平穏に見えながら水面下に大きなうねりを隠した小説なのだ。ストーリーが進みゆくに従い、高原の静けさがいよいよ胸に染みてくる。そして過ぎた季節への哀惜の思いもまた募っていく。
翌2013年に刊行された第二作『沈むフランシス』では、のっけから異様な光景が提示されている。どこかの川を、闇の中、だれかの身体が流されていく。そもそも題名からして謎めいている。前作から一転して挑戦的な、スリリングな企みが仕掛けられているのだ。
主人公の桂子は、非正規雇用で郵便配達の仕事をしながら一人で暮らしている。その彼女が、やはり一人暮らしらしい和彦と知り合い親しくなる。やがて、三十代の二人が睦みあい、ベッドで体を絡ませあうしどけない様子まで描かれる。そうしたシーンには踏み込まなかった前作の慎ましさとの大きな違いだ。とはいえ、静謐を希求する姿勢はひときわ強まっている。
何しろ桂子は、東京で会社勤めをしていたのに同居相手と別れたのち、思い立って職を辞し、はるか遠い北海道にやってきて、「枝留」という小都市からさらに離れた村に移り住んだのである。都市の喧騒に背を向け、川がありクマやシカのいる自然の中での暮らしを求めての移住だった。和彦にもまた、どこか隠者のような気配がある。「撫養」と「寺富野」といういずれ劣らず珍らしい姓をもつ孤独な男女の恋愛に絞り込んだ物語だが、不思議と閉ざされた印象を与えない。むしろ何か悠久の時に心を開いていくような趣きがある。
和彦のベッドルームに黒曜石の矢尻や石斧が置かれているのは、ただの飾りではない。「千年万年」の昔にもこの地の森で暮らした人間がいた。原生林で木の実を拾い、獣を狩って暮らしていた者たちとのつながりが想起されるとき、個人を超えた次元が広がり出す。そんな雄大なパースペクティヴのうちに二人の物語は書き込まれている。
他方、和彦がテクノロジーに魅せられた男である点も興味深い。オーディオに関する蘊蓄は病膏肓に入るほどのものだ。しかも彼は録音マニアで、世界各地で録音した種々雑多な「音」を最上級の装置で再生して悦に入っている。そこに一抹の浅はかさもにじむとするなら、やはり作品の主人公とみなされるべきは桂子である。クライマックスに至り改めてそう実感させられる。和彦と桂子は戸外の真っ暗闇の中に二人きりでいる。そこで桂子はいったい何をつかみ取るのか。至上の――沈黙の――音楽が鳴り渡るような瞬間が読者を待っている。
『沈むフランシス』がもたらした「北」のテーマは、『光の犬』(2017年)に受けつがれ、ひときわ大きな展開を見せることとなった。助産婦をしていた「よね」は関東大震災後、「北海道へ行きなさい」と恩師に言われて「枝留」に移り住んだ。そこから始まる添島家三代にわたる物語である。そして何代にもわたって飼われ、一家に寄り添い続けるのが「北海道犬」たちだ。
北海道犬とはかつてはアイヌの狩猟犬であり、二十世紀前半には天然記念物に指定された貴重な純粋種である。作中では犬たちの様子が何とも魅力的に描写されていて、たとえ猫派の読者であろうともたまらなく愛おしくなってしまうはずだ。仔犬のころの、「乳くさいような甘い匂い」をたてて「パラソルチョコのよう」な尻尾をふる可憐さといったらない。成犬となってからは、ヒグマを相手にして一歩も引かないほどの頼もしい風格を示す。人間たちの忠実なしもべでありながら、犬たちは人間を超えた力を秘めてもいる。音や匂いへの驚くべき敏感な反応はそのことの表れだ。
そんな彼らにだれよりも懐かれ、慕われているのが「よね」の孫にあたる添島歩である。歩は『沈むフランシス』の桂子を引きついで、松家作品にとって理想の女性像を示す存在といっていい。桂子は雪が降りそうな気配を敏感に察知する女だった。歩もまた「雪が降りだすまえに匂いをかぎつけ、『雪のにおい』と誰にともなく言う」。そこには雪の象徴する純粋さや静謐、そして北海道犬の無垢に通じるような資質が表れている。北海道犬たちと彼女を結ぶ絆はあまりに親密で切なくなるくらいだ。
そもそも、添島家の面々の命運をたどること自体が切ないことなのである。「添島始は消失点を背負っていた」。これまた印象的な、謎めいた書出しの一行だが、「消失」の定めを負うのは歩の弟である始ばかりではない。人間だれしも、時のもたらす破壊的な力にさらされながら生きている。そのことを長編はさまざまな形であぶり出していく。
しかし、悲痛な事態に際して明晰な感覚が張りつめるところに、松家仁之の文章の曇りない抒情性を感じる。そうした印象には、北の地ならではの澄んだ冷気も大いに寄与している。さらに、キリスト教伝道の地としての北海道の歴史が物語のなりゆきに深く関わっている点もこの作品の特徴だ。「神が『光りあれ』と言ったのはなぜかしら」女子学生のころに歩が発するそんなせりふが違和感を与えないのは、日本の小説としてじつに珍しい。そう彼女が訊く相手は、教会の牧師の息子・一惟である。幼馴染の二人の間柄は、彼らがそれぞれの人生を歩み出したのち、どうなっていくのか。その展開は最後まで読者を引きつけてやまない。
著者の新作として、『天使も踏むを畏れるところ』の刊行が予告されている。『火山のふもとで』の「先生」こと「村井俊輔」の若かりし頃を描く内容で、これまででも最も分厚い一巻となるらしい。松家仁之のロマネスクな世界は着実に拡大と深化を続けてきた。文庫版でその軌跡を辿りながら、雄編の登場を待ちたい。
(のざき・かん 翻訳家)
精巧なロマンチシズム
この小説の大きな魅力の一つは、北海道の四季の美しさである。
「牧場を覆う星は、見たことのないほどの数でひしめいていた。世界全体を圧するような耳を聾するおおきな音が天から舞い降りてくる光景を、黙ってひとりで見ているような錯覚に桂子はとらわれた」
簡潔で油断のない文章で描かれる春も夏も秋も、とりわけ冬の世界はすばらしい。
桂子は三十五歳である。東京での会社勤めと男との暮しを片付けて北海道へやって来た。中学のころ父親の仕事の都合で三年間北海道にいたことがある。
「アイヌ語の響きを残す地名が、桂子には泣きたくなるほどなつかしかった。(略)幌加内、音威子府、苫小牧、占冠、馬主来、阿寒、佐呂間、真狩」
とはいえ中学時代の友人知人に会いたいというのではない、地名は異郷の表象で、いまの生活を捨てたい、脱出したいという「泣きたくなるほど」の衝動が求めたドアのハンドルである。しかし、桂子はそのドアをすぐあけたりはしない。かつていた町から四十キロほど離れた町に非正規雇用の郵便局員の職を見つけ、東京で十三年勤めた会社に礼を失することなく辞し、それから漸く新しい土地に踏み出すのである。荒々しいところは少しもない。しかし、今までの給料に比べれば何分の一しかない配達業務である。
「東京で出会うのはほとんどがゆきずりの視線だ。ところがここではすべての視線に名札がついている。昨日の視線には、明日も明後日も出会う可能性がある。二度と出会わない、などということはまずありえない」
それにわずらわしさではなく、生きている手応えを感じるのは、それまでの都会の生活がどのようなものであったかを語っている。配達先の老人から目が悪くなって手紙を貰っても読めない、読んでくれないかと頼まれる。読んでやる。「あんたは読むのがうまい」といわれる。家々の前で停車してはエンジンをとめ、川の音や木々の葉ずれの音を聞き、郵便物が箱に落ちる音に喜びを感じる。
これはもう都会で生きる人の多くの頭をよぎる夢想の実現で、決して見せびらかすようにではないが、ほとんど官能的と呼びたくなるような魅力をたたえて自然や人々が語られる。
「安地内村は早くもすでに秋だった。赤や黄色に変った葉の匂い、早朝に見る吐く息の白さは、生きることよりも死ぬことを近しく感じさせる。冬に向かう秋が、桂子は好きだった」
その桂子は「いい女」である。たぶん作者がこのような知性、感性、脅えと強さを持っている人を好きなのだと思う。それを体現している都会の女が北国の小さな村で一人暮しをはじめる。となれば、ここに「いい男」が現われなければならない。それも作者がこれが一番と思う男でなければならない。腕力の強い流れ者などというのではぶちこわしである。
和彦が現われる。はじめは得体が知れない。無論そうでなければならない。
それから彼の熱中していることの一つがさらりと開示される。招き入れられた和彦の室内には高度なオーディオ機器が納まり「女の趣味はひとつも見当たらない」。そこで和彦が傾注しているのは、趣味の一つの極北というようなものなのである。といっても性愛に類することではない。いや、軽く横すべり出来るものともいえるが――というぐらいにしておこう。
そして、恋がはじまる。その恋のあれこれも無論この小説の楽しみである。行きずりの目ではない目があちこちにある。それを避けながらの逢う時を捜す味も都会からは失われたものの一つかもしれない。
沈むフランシス? この話でどうフランシスが出てくるのだ、と思う人がいるだろう。
そう。それがこの作品をただの恋物語にさせない大きな柱である。しかし、これも具体的にここであかさない方がいいだろう。決して幻想とか異物というようなものではない。むしろとても具体的で、だがそのまま詩でもあるというようなフランシス――。
村に似合わない洗練された男女の恋は、いわばロマンチシズムに流れて個人的閉鎖的に流れがちだが、ここでは外にひらかれている。公共にひらかれているのである。桂子は郵便局で、和彦はフランシスで。
ある深夜、村の灯りが一斉に消えてしまう。その時二人はどうしていたか。美しいラストである。とても先回りして私が書く気になれない。
(やまだ・たいち 脚本家・作家)
波 2013年10月号より
単行本刊行時掲載
インタビュー/対談/エッセイ
感覚をことばで表現すること
――読売文学賞を受賞なさったデビュー作『火山のふもとで』は長野県の浅間山麓が舞台でした。『沈むフランシス』では北海道東部の湧別川のほとりを描かれていますね。
小学生のときから北海道が好きで、北海道の輪郭を一筆書きで描くのが得意でした。原野があって、乾いた雪が降って、ヒグマもいて、エゾシカもいて、サケもいて……こう並べるとあまりにイメージが貧困ですね(笑)。空気感も景色も、ちょっと日本離れしているし、北海道にもいろんな人がいると思いますけれど、どこか大陸的というか、鷹揚というか、沖縄の人に似たやわらかさを感じます。
――主人公は、東京での仕事を辞めて、中学時代に父の転勤で暮らしていたこの地方にもどってきた三十代半ばの女性です。
今回は女性を主人公にしたかったんです。総合職として働いていた女性がなんらかのなりゆきでドロップアウトする。そのあとをついていくようにして書いていきました。働く男のストレスは、待遇や肩書きであっけなく解消することがありそうですが、女性はあきらかにもっと複雑です。男の悩みはあまり文学的ではない(笑)。
――非正規雇用の郵便局員になったこの桂子という女性は、村のすみずみを郵便配達車でまわるうち、川のほとりの木造家屋に暮らす和彦という男に出会います。この男がなぜこんなところに住んでいるのか、最初はわからない。この世にあるさまざまな音がここで描かれ、和彦の複雑さを暗示します。
生の音ではない録音された音、というものを初めて意識したのは、1960年代の家具調ステレオの付録の試聴用レコードでした。お祭りの音とか機関車の音が左から右へ動く。スピーカーの向こうに世界があるようで、子ども心に驚いた。人間が世界とつながる方法はいろいろある――と言葉で思ったわけではありませんが、いま思えばそういうことでしょうか。
――『火山のふもとで』では、建築物の描写が本当に見事でしたが、今回は、音をことばでどう伝えるかが試みられているように感じます。蒸気機関車がやってきて走り去る音、アラスカの氷河、シカゴの老舗ホテルのレセプション……ありありとその場所と空間が立ち上がってくるのに驚きました。
空調のあるビルのなかにいると、下界の音はもちろん、匂いも湿度も温度の変化も気づかないまま一日が過ぎてしまう。人間の五官は、必要があって備わっているものです。あまり使わないでいると、忘れてしまう。なまなましい感覚を言葉で表現できないか、最初から最後までずっと考えていました。
――出会った当初、正体不明だった和彦は、むろん高等遊民などではなく、川べりのある施設の管理人をしています。
グライダーとか、凧とか、犬ぞりとか、チャイニーズ・ランタンとか、自然の力を利用して動かすものに興味があります。夜間警備とか、マンションの管理人とか、ひとりで淡々とこなす仕事も好きなんです。和彦はあまり他人と接することなく暮らしていたいと思うようになった男ですから、人家から離れた場所でのこういう仕事が向いていると思いました。
――この二人が出会って恋愛が始まるのですが、始まり方がやや唐突で、そのぎくしゃくした感じがとても面白いですね。
恋愛はつねにぎくしゃくするものじゃないですか? だから恋愛には言葉が邪魔だというピエール・ド・マンディアルグの『海の百合』みたいな小説もある。ふたりとも三十代だし、人を深いところで動かす感覚をこそ描きたかったので、恋愛のかけひきを思い切ってショートカットしてみました。
――自然描写がすばらしいです。とくに初雪が降り、根雪になって、すべてが白く覆われ、やがて永遠と思われた冬が終わるまで。北海道のむきだしの自然が肌に迫る感じがします。もうひとつ印象的なのは桂子と和彦のセックスシーンでした。
五官を総動員する行為の、最たるものですから。
――桂子に示唆を与える老人たちも魅力的ですね。
それは、書き手自身の志向ですね。長年生きてきた人の話はどうしたっておもしろい。言葉も、長年をかけて、五官によって鍛えられてゆく部分があるはずです。
――装幀の犬の写真、意外に思う読者がいるかもしれません。
小畑雄嗣さんの写真集『二月』からお借りしたのですが、小説のなかで描いた犬がここにいるようでした。鼻のうえにのっている小さなものを、ぜひ見ていただきたいです。
(まついえ・まさし 小説家)
波 2013年10月号より
単行本刊行時掲載
著者プロフィール
松家仁之
マツイエ・マサシ
1958(昭和33)年、東京生れ。編集者を経て、2012(平成24)年、長篇小説『火山のふもとで』を発表。同作で読売文学賞小説賞受賞。2013年『沈むフランシス』、2014年『優雅なのかどうか、わからない』、2017年『光の犬』(河合隼雄物語賞、芸術選奨文部科学大臣賞受賞)、2021(令和3)年『泡』、2025年『天使も踏むを畏れるところ』を刊行。編著・共著に『新しい須賀敦子』『須賀敦子の手紙』、新潮クレスト・ブックス・アンソロジー『美しい子ども』ほか。