
善人たち
737円(税込)
発売日:2026/08/28
- 文庫
- 電子書籍あり
悪人は一人もいない。誰もが、何も考えずに、自分の理想や善意に陶酔しているだけ──。
本当の愛は、残酷もいやらしさも含まれているの──。開戦直前、牧師になるために米国に留学した日本人を主人公に、差別や偽善、憎悪を鮮やかに描き出す表題作他、転び者と蔑まれ、信仰と俗世の栄達との間で苦しむ「切支丹大名・小西行長」。男を愛して男を信じて、それなのにその男に紙屑のように棄てられた女性を描く「わたしが・棄てた・女」。没後発見された三作の未発表戯曲を収録。
善人たち
切支丹大名・小西行長 『鉄の首枷』戯曲版
戯曲 わたしが・棄てた・女
到達点としての最後の戯曲 加藤宗哉
書誌情報
| 読み仮名 | ゼンニンタチ |
|---|---|
| シリーズ名 | 新潮文庫 |
| 装幀 | 舟越保武 「聖クララ」 岩手県立美術館蔵/カバー彫刻、大谷一郎/撮影、求龍堂/協力、新潮社装幀室/デザイン |
| 雑誌から生まれた本 | 新潮から生まれた本 |
| 発行形態 | 文庫、電子書籍 |
| 判型 | 新潮文庫 |
| 頁数 | 352ページ |
| ISBN | 978-4-10-112341-7 |
| C-CODE | 0193 |
| 整理番号 | え-1-41 |
| 定価 | 737円 |
| 電子書籍 価格 | 737円 |
| 電子書籍 配信開始日 | 2026/08/28 |
書評
さらに拡がる遠藤文学の世界
遠藤周作の全戯曲は、全集(新潮社版)収録の六篇と、没後に公開された一篇の計七篇とされてきた。しかし没後二十五年目となる昨年暮、長崎市遠藤周作文学館であらたに三篇の未発表戯曲が見つかった。
生前、なぜ作者がこれらを公表しなかったのかは分からない。いずれも四百字詰原稿用紙で百枚を越えており、丹念な推敲の跡はもちろん、末尾には「幕」の文字も記される。それらがこんど一冊にまとめられた。「善人たち」(初出「新潮」2022年3月号)、「切支丹大名・小西行長 『鉄の首枷』戯曲版」(同「波」2・3月号)、「戯曲 わたしが・棄てた・女」(同「小説新潮」2月号)の三作である。著者の代表的戯曲とされてきた「黄金の国」「薔薇の館」と比べても遜色はなく、余分な言葉を徹底して削ぎ落した点、ストーリーの凝縮という点で、遠藤戯曲の到達点を感じさせる。
執筆時期は、著者自身の日記やエッセイなどから、五十代の半ばと考えられる。つまり小西行長の評伝を書きおえた昭和五十一年(著者五十三歳)から、純文学書下ろし長篇『侍』に取りかかる五十六歳まで──。かねてより温めていた戯曲稿を一気に三本書き上げたものの、多忙な作家の常、本業の『侍』執筆に取りかかって、仕舞いこんだ戯曲稿のことはすっかり忘れてしまったのか……そうだとすれば、やはり作家とは畏敬すべき存在である。
「小説より詩や劇のほうが上だという気持が心の底にある」(「『喜びの琴』を見て」1964年)という著者は自らの戯曲作法について、小説では十枚になることを一枚で書くように努めたと言う。すなわち登場人物の外貌、年齢、性癖は書かない。ト書きも最小限にとどめる。舞台の設定や状況、人物の年齢等は演出家の領分であり、肝要なのはあくまで台詞。第一、聖書には基督や十二使徒の外貌などどこにも書いていないではないか、と著者は書く。「私にとって劇とは人間と人間をこえたもの──つまり人間と超絶的なものとの闘い、もしくは関係にほかならない」(「劇と私」)。かといって話が決して難解にならないところが遠藤流の技法といえる。
「善人たち」の舞台は、日米開戦が間近いアメリカ・ニューヨーク州のオールバニイ。かつて高等教育の象徴と言われたこの町に暮す牧師補一家と、そこへ寄宿する日本人留学生の劇だが、遠藤文学がアメリカのプロテスタント一家を扱うのはめずらしい。しかし何より注目すべきは、登場する人物たちが示す多彩な価値観と人生の様相だろう。牧師になるべく留学した日本人・阿曽の信仰と迷い、牧師補・トムの示す愛、信仰、正義、そして黒人の使用人・コトンが見せる忍耐と欲望、とりわけプエルトリコ人の恋人とニューヨークへ出奔し、愛にやぶれて帰郷した長女ジェニーの述懐には哀切が滲み、その個性と台詞は読む者を惹きつける。
著者は聖書の“ペテロの否認”──「イエスなど知らぬ」と師を見棄てた弟子の挿話を取りいれ、その弟子に向けられた哀しげだが優しいイエスの眼差を、阿曽やジェニーにも注ぐ。戦争・人種・信仰というテーマのなかに、遠藤用語でもある「善魔」(人間の哀しみを理解せず、自分こそ正しいと他人を裁くもの)が垣間みえる。
このペテロの挿話は本書収録の他の二篇にも見られ、イエスは「永遠の同伴者」として常に主人公の背後に置かれている。著者はかつて『わたしが・棄てた・女』というタイトルは「わたしが・棄てた・イエス」という意味を隠していると言ったが、今回の戯曲でははっきりと「ミッちゃん(主人公の女性)とイエスとが何と似通っているのだろうか」と一人の修道女に言わせる。さらに「切支丹大名・小西行長」では、削りこんだ台詞が行長の“内なる声”を浮きあがらせ、死にゆく行長に「同伴者イエス」が二重写しとなる。
おそらく言葉にすれば二つになるようなもの──愛と憎しみ、誇りと汚辱、喜びと哀しみ、信ずることと否むこと──が台詞の行先で重なりあい、観客に主人公の魂の声を届ける、というのが遠藤戯曲の定石だろう。一昨年に話題をよんだ未発表小説『影に対して』(新潮社刊)に続いて上梓された本書で、遠藤周作の文学世界がさらなる拡がりを見せることは疑いもない。
(かとう・むねや 作家/元「三田文学」編集長)
波 2022年4月号より
単行本刊行時掲載

遠藤周作 新発見戯曲「切支丹大名・小西行長」解説
なぜ“面従腹背”の劇を書いたか
「伝記というものは勿論、その人物と自分とのつながりがなければ書けない」と、遠藤周作は「小西行長伝」の連載開始にあたって記した(「歴史と人物」昭和50年12月号)。
伝記に限らず小説でも戯曲でもそうだろう。この場合は、戦国の切支丹大名・小西行長の生き方と信仰に、作家は自分の人生の断面を見たのである。幸か不幸か、小西行長という人物に関する資料はきわめて少ない。心の動き、信仰のありようを、当時の宣教師たちも報告していない。その限られた戦国の史実に、作家は自分と同種の人間の辛さと苦しさを重ねた。
たとえば彼ら二人は、神を信じたから基督教の洗礼を受けたわけではなかった。『鉄の首枷―小西行長伝』には、「行長が父と共に受けた便宜的な洗礼の水はこの日から彼の人生の土壌に少しずつしみこんでいく」とある。遠藤周作の場合は父ではなく母だったが、「便宜的な洗礼」であったことに変りはない。受けなさいと言われたから少年は洗礼を受け、それが母との約束だったから生涯棄てなかった。
行長は太閤秀吉に仕えながら、“表と裏の顔”を使いわけて生きた。朝鮮への侵略戦争では、「戦う意志がない」ことを知らせるために敵と交戦した。それでいて味方の大本営へは勝利の報告をしている。戦場以外の場でも、たとえば彼は基督教を棄て去ったかのように振る舞いつつ、宣教師や高山右近を密かにかくまっていた。
面従腹背──作家が行長にその生き方を背負わせたのは、それが自身の苦境やウシロめたさに通じていたからである。かつて、父から棄てられた母に、息子は神戸、西宮で育てられ、言われるとおりに教会へ通い、「勉強は駄目だが、おまえは大器晩成」と守られ、それでも何度かの旧制高校受験に失敗すると、自分から母の家を出て東京の父を頼った。経済的な問題があったとはいえ、その東京の家には父の若い再婚相手もいるのである。……たとえば夕食の膳を囲むとき、西宮でひとり食卓にむかう母を思わぬはずもない。
だが、息子はやがてこの父親をも裏切る。引き取られた時から、父が示した大学進学の条件は一つ、「医学部を受験すること。でなければ学資は出さぬ」。その言葉に頷くふりをし、だが結局は背いた。「医学部を受験した」と言いながら実際に受けたのは、文学部──それは母が願う“信仰と学業”の並立する世界である。文学部合格が明らかになって父は息子を勘当する。彼は追いだされ、母の伝手で都内のカトリック寮へと移っていく。実業という父の世界ではなく、文学という母の求める領域世界へ
〇
作家になった遠藤周作の二冊目の書下ろし長篇は、『死海のほとり』である。この小説はのちに本人が認めたように、読者からは「キリスト教の臭いが強すぎるので、ウンザリ」(『人生の同伴者』)されたが、作品には書き手の敢然たる意志、他の作家が示したことのないテーマが示されていた。すなわち、(1)苦しむ人間の傍らにイエスはいる(遠藤的表現を借りれば「永遠の同伴者」)、(2)そのイエスの愛を受けついで生きることが“復活”、というその後の遠藤文学を形作っていく二つの核である。ちなみに、「永遠の同伴者」には、たとえば四国でのお遍路の、弘法大師と二人で寺をまわる「同行二人」のイメージが重なっていたし、“復活”には「肉体的な蘇りではなく、誰かが愛を行うときイエスはそこに復活している」という独自の解釈が含まれていた。
にもかかわらず、『死海のほとり』は読者・文壇の関心を得られず、本人としては「クサった時期がちょっとありました。それで次のウォーミングアップをするまでに」(同前)というわけで、「小西行長伝」に取りかかったのである。
行長はたしかに、高山右近のように清冽には生きられなかった。だが、弱い人間だからこそ、そして中途半端な生き方しかできない男だからこそ、作者は自らの劇の主人公に彼を選びだす。
行長の行動を一つ一つ見ると、我々にもこの幼少に洗礼を受けて右近ほどの烈しい信仰を持てなかった男の性格やこの時の怯えや苦しみが読みとれるのだ。(略)行長には神をほとんど問題にしなかった長い時期があったが、神はいつも彼を問題にしていた。神はこの右近追放を踏み台にして行長にもおのれの内面を見るよう仕向けたのである。(『鉄の首枷』)
この間の行長の動向について、「波」3月号掲載の戯曲は、台詞以外の要素(ト書き・装置など)をできる限り消し去ることによって、逆に評伝作品では表せない迫力と華やかさを浮きあがらせる。そして、たとえば言葉にすれば二つに分かれてしまうもの──希望と絶望、生と死、誇りと汚辱、悦びと哀しみが台詞の先で二重写しとなり、行長の内なる叫び声を観客に届けてくる。
この戯曲は、当然ながら著者が小西行長の調査・取材を終えた1977年(54歳)から、おそらくは1981年(58歳)までの間に書かれている。1981年と区切るのは、「波」2月号にも記した61歳で逝った芥川比呂志についてのこんな文章が遺されているからである。
(彼の誘いによって)私の心には戯曲を書くことの情熱が燃えあがったが、やがて芥川さんがふたたび病床に臥され、亡くなられると、まるで風船のちぢむようにこの情熱はちぢみ、消えていった。その後芥川さんのように手をとって教えてくれる演出家と仕事をする機会がなかったからである。泥を金にしてくれる演出家と協力する悦びを持てないのは何といっても残念でならない。(カッコ内は筆者、「芥川比呂志さんとの思い出」、「家庭画報」昭和62年10月号)
恩人の死は、1981年のことであった。遠藤周作はすでに戯曲から離れている。だがそれから四年後、作家はふたたび小西行長を自らの主人公に選びとる。ただし、今度は小説『宿敵』として──。このときすでに作家は62歳。
歴史小説はこれ以後かつてないペースで書き続けられ、戦国三部作『反逆』『決戦の時』『男の一生』、切支丹大名・大友宗麟を主人公にした『王の挽歌』、そして72歳での『女』まで、あたかも時代小説作家のごとく書き継いだ。そのほとんどが上下二巻であり、この間の総執筆量(歴史小説のみ)は三千数百枚にのぼっている。
そして何より、これらが(1)同伴者イエス(あるいは人間を超えた大いなるもの)、(2)人間の弱さ、(3)哀しみへの共感──という三角形の構図を作りあげるところが、他にはない遠藤文学独自の世界なのだが、今回そこへこの戯曲が加えられたことの意味はきわめて大きい。
(かとう・むねや 作家/元「三田文学」編集長)
波 2022年3月号より
単行本刊行時掲載
遠藤周作 新発見戯曲「切支丹大名・小西行長」解説
小説・評伝とは一味違う行長劇──その“内なる声”と、舞台の華やかさ
評伝『鉄の首枷―小西行長伝』が書かれた昭和51年、遠藤周作は五十三歳、おそらく作家として気力・体力の漲る時期にいた。二十代と三十代の終りで結核による長期療養を強いられたものの、それを乗りこえてからのおよそ二十年はこの作家が最も精彩を放った時代といえる。代表作『沈黙』『侍』を世に送り、狐狸庵山人としての“ぐうたら”シリーズはそれぞれ何十万部という売行を示した。一方で、深酒や不眠をものともせず、テレビ・コマーシャルに、トーク番組に、ときには松田聖子と腕を組んでスタジオに登場もした。
ところがそんな時期、小説家は密かに四百字詰原稿用紙で計三百枚近くになる戯曲、結局は発表することのなかった戯曲を、たてつづけに三篇も完成させていたのである。三篇とは「波」2月号掲載の「切支丹大名・小西行長」、「戯曲 わたしが・棄てた・女」(「小説新潮」2月号掲載)、「善人たち」(「新潮」3月号掲載)で、いずれも昨年、長崎市遠藤周作文学館で発見された。なにより、遠藤文学の最大テーマ“人間の魂に寄りそう基督”というイメージが、小説とはまったく異なる言葉=台詞によって浮き上がるのがその価値である。
そういえば、もともと戯曲への想いは強かった。
私のような小説家には演劇というものに抜きがたいコンプレックスがある。小説より詩や劇のほうが上だという気持が心の底にある。(「朝日新聞」昭和39年5月15日付朝刊)
そう打ちあけて、『沈黙』刊行(昭41)の直後、劇団「雲」の演出家であり俳優の芥川比呂志(慶應仏文の先輩)に勧められ、指導も受けながら「黄金の国」を書く。書き直しを重ねた第三稿での完成までには、芥川からのこんな強い叱責もあった。──登場人物の名を「A」とか「B」とするのは、あまりに役者への愛情がない。
こうして小説家は、芥川を師とし戯曲を書くことに熱中する。遠藤戯曲にト書きは少ないが、その作品はときに登場人物の年齢さえ曖昧にしたまま、彼らの〈観念の葛藤〉を描く。……第一、聖書のなかに基督や十二使徒の外形、容貌、性格など何も書かれていない。だから遠藤周作は作中人物の肉体や声は俳優にまかせ、ただ内なる声だけを言葉にした。結果、発表された「薔薇の館」(昭44)、「メナム河の日本人」(昭48)も芥川の演出によって上演されたが、その芥川が昭和56年秋、肺結核のため六十一歳で世を去る。
青山の斎場で私は花に飾られた彼の写真とむき合った。(略)私が思いつづけたことは、もう一度、彼の芝居を見たかった、もう一度、彼に演出してもらいたかった(「新潮」昭和57年1月号)
酒癖がお世辞にも良いとは言えなかった芥川と、遠藤周作はよく一緒に飲んだ。バーでアメリカ人プロレスラーに喧嘩を売り、「カモン・ベイビー」と拳を構える痩躯の老優に困り果てながらも、内心はつねにその体調が案じられてならなかった。筆者は当時、「芥川さんを本当に好きなのだな、遠藤先生は」と思った。だから、あるいは──と発見された原稿を前に考えてみる。この稿が書かれたのは、おそらく昭和52、53年かと推測するが、その頃ふたたび病状を悪化させていた芥川さんに、先生は最後となる上演作品を預けたかったのではないか。しかし……それは叶わず、原稿を抽斗の底へと仕舞いこんだ。いや……仮にそうだとしたら、やはり作家とは凄いものだとつくづく思う。思いも深い、推敲をかさねた作品を、いとも簡単に諦め忘れ去ることもできるのだから。
「波」掲載の未発表戯曲の幕開けは、秀吉による九州征伐の小西陣屋である。評伝『鉄の首枷』でいえば第四章になるが、戯曲は行長の出自や少年時代を辿らない。さらにフロイスら宣教師による資料も出さない。ただ登場人物たちの台詞が行長の内なる声と対立し、あるいは包み込み、作品のテーマを明らかにしてゆく。……それにしても、舞台の上はなんと華やかに賑わうのだろう。関白秀吉はむろん、高山右近、加藤清正、細川ガラシャ、石田三成──彼らが登場する場面は、まるで歌舞伎の連続する“見得”のごとくに観客を揺する。
もう一つの見どころは、行長の侍女・あかねだろう。かつて遠藤周作は「女が書けない」と自嘲してみせたが、この侍女のなんと人目を惹くことか。歴史のなかに架空の人物を持ちこむのは先生得意の戦法で、かつて加藤清正と行長のライバル関係を描いた小説『宿敵』でも、実在しない行長の妻・糸を登場させて秀吉を暗殺させたりしたが、第二幕の終りは、あかねと司祭の会話である。行長の〈面従腹背〉と〈信仰〉を傍で見つめ続ける侍女には心の同伴者という役割があるが、同時にそこからは静かな色香も匂いたつ。結局は行長の魂の声に呼応するこの傍役が、三幕以降(「波」3月号)でさらに印象を強めていくのが堪らない。
(かとう・むねや 作家/元「三田文学」編集長)
波 2022年2月号より
単行本刊行時掲載
インタビュー/対談/エッセイ

いたずら好きの「絶対君主」
「ああいう方の息子さんだと大変ですね」。そう言われ続けてきたけれど──
父は亡くなる一年ほど前から、意識がはっきりしない状態でした。私にとっては絶対君主であり、同時に世の中で最も尊敬しており、なおかつおしゃれな人だったので、言葉を発せず、医療機器につながれてベッドに横たわったままの父の姿を目のあたりにするのは精神的にこたえました。当時、私の勤務先(フジテレビ)は新宿区河田町に社屋があり、父が入院していた慶応病院とは目と鼻の先。にもかかわらずお見舞いに行っても一時間足らずで帰る。とても耐えられなかったのです。我ながらエゴイストでした。
心が重い日々を送っていたときに、テレビ長崎が制作したドキュメンタリー番組を目にしました。禅僧の息子さんがクリスチャンのお母様を看取るお話で、番組の最後に彼が言ったのは〈うらを見せおもてを見せてちるもみじ〉。良寛の辞世の句です。紅葉が散り際には綺麗な表だけでなく裏も見せるように、人間は良い面も悪い面も、喜びも悲しみもすべて見せて旅立っていく──。この言葉を聞いて初めて「自分は間違っていたかもしれない」と感じ、機会を見つけては病室に足を運ぶようになりました。
父が亡くなる二、三週間前、母が足を押さえて病室に入ってきました。駅の階段で転んだらしい。ここは病院だから早く見てもらった方がいいね、と家族で話していると、意識が混濁した父が突然目を開けて、
「心配だな」
とはっきり言ったのです。それが私の聞いた最後の言葉となりました。
平成8(1996)年9月29日、午後六時三十六分に息を引き取りました。直後に速報が流れ、病院に記者が続々と集まり大変な騒ぎとなりました。このままではご迷惑をかけてしまうので、取り急ぎ病院の中庭で取材を受けたのですが、私は大変動転していました。父が亡くなるはずがない、と思い込んでいましたから。人工透析に加えて腹膜透析も行っていましたので、多少の知識があれば余命を推測することは可能だったのに、なぜか父は死なないと信じ切っていました。普通ではない精神状態での会見だったため、ある記者から直接の死因を問われた際に、
「司法解剖の結果を待たなければわかりません」
とお答えしてしまい、騒然となりました。変死なのか、となってしまって。病理解剖の間違いです。
父は七十三、私はまだ四十でした。早すぎる死です。もっと話しておきたいことはたくさんあったのですが、叶いませんでした。
思い返せば、仕事とか人生とか、それから愛、死、そして神について父と真面目に語り合ったことはありません。
『深い河』のサイン本
私と父は一風変わった親子関係であったと思います。普通のサラリーマンのご家庭は、会社がオンタイムで家はオフタイム。家ではリラックスしたり家族と遊んだりと切り替えがありますが、作家は家で仕事をするので双方渾然としてまだら模様。相当熟練しないと今がオンなのかオフなのか判断できないのです。原稿用紙に向かっている時だけがオンではないからいよいよ接触は慎重にならざるを得ない。トランプで非常に楽しく遊んでいたのに、三十分後には「うるさい!」と怒鳴られる。学習の結果、安全策として言葉使いが非常に丁寧になり、敬語を使っていました。
父が芥川賞を受賞した翌年に私が生まれましたので、芥川龍之介にちなんで龍之介と命名されました。当時は受賞したからといって裕福な暮らしが送れたわけではありません。八畳、六畳、四畳の日本間が三つある目黒区駒場の借家に住んでおり、私が四歳頃だったか、米櫃を母が濡れた布巾で一生懸命拭っていました。何をしているのと聞くと、
「こうして拭くとお茶碗二膳分くらいはお米が付くのよ」
と言われ、子供心に生まれる家を間違えたと思いました。
おそらくですが、原稿料だけで安心して暮らせるようになったのは私が小学校に入ってから、玉川学園のいわゆる「狐狸庵」に越した頃ではないでしょうか。『沈黙』を出版する少し前くらいです。文芸の世界は分かりませんが、タイトルからして『おバカさん』とか『ヘチマくん』ではやはり心許ない。
玉川学園の家は三階のワンフロアが父の仕事部屋で、寝室も書斎も応接もあり、丹沢連峰が一望できるので父は大変気に入っていました。二階はリビングで一階は私と母の部屋。基本的には三階には足を踏み入れません。
私が小学生の頃、父は夜型で、二十二時くらいから朝まで執筆していました。私が朝食を食べていると憔悴しきった顔で父が三階から下りてくるのです。お友達のお父様は朝七時三十分にはワイシャツを着て、ネクタイを締めているのに。この頃から、どうも我が家はおかしいと感じ始めました。
ちなみに五十を過ぎた頃から父は昼型に変わりました。仕事が終わってからの夕食だったので非常に平和。作家が何型かで家族は大きな影響を受けます。
目下、父が純文学を執筆しているのか、あるいはユーモア小説なのか、視覚的情報では一切判断できません。後に原稿用紙を見ると、純文学──例えば没後発見された「影に対して」──は名前入り原稿用紙をわざわざ裏返して、2Bや3Bの柔らかい鉛筆で、ミミズが這ったような字で真っ白な面に書いています。対してユーモア小説は原稿用紙のマス目を使っていましたから、父の中で使い分けはしていたのでしょうけれども、我々家族は気配を察するしかない。
父親が物書きだとはっきり分かったのは小学校三年生の私の誕生日でした。
「今日はいい誕生日プレゼントをやろう」
と町田駅前の書店に連れて行かれました。父は私の手を引いて店主の前にツカツカと歩み寄ると、
「私は作家の遠藤周作です。今日からこの子が買う本は全て私にツケで回してください」
と言うのです。私は母に「漫画ばかり読むんじゃありません」と怒られていましたので、父のお墨付きで漫画が読み放題になるのが嬉しくて。ところが今ほど漫画が豊富ではなかったので、すぐに読み尽くしてしまった。おそらく父の作戦だったと思うのですが、次第に一般書籍を手に取るようになったのです。あ、これは北のおじちゃま(註・北杜夫)の本だから読もう、とか。もちろん父の著作もありましたが、購入はしません。
明確な理由はありませんが、父の前で父の著作を読むのはタブーでした。ましてや感想を言うなんてありえない。『沈黙』を出版した際、家に届いた見本の一冊に、サインペンで署名をして母に贈っていて、子供ながらに格好いいことをするなと思いましたが、父のサイン姿を見たのはこの一度だけです。
私がサイン本をもらったのも一度だけ。結婚をして別所帯を構えていた私の元に、突然『深い河』のサイン本が送られてきました。珍しいことがあるものだと本を開くと、父のこれまでの小説の登場人物が名前を変えて全て登場していて、これは作家遠藤周作の総集編ではないかと思いました。これを書いたら死んでしまうのではないかと不吉な予感にとらわれ、事実、遺作となりました。
父が私の絶対的な君主であったことは間違いないので、王に対して「恐れながら」と感想は言えません。もちろん私が著作をほぼ読破していることは把握していたでしょうけれど、一度も意見交換をしたことがありません。なぜなら作品の良し悪しにかかわらず、物語ひいては遠藤周作の核心に触れざるを得なくなる。小説だけでなく、父も私も、真面目な話になるとお互い照れてしまうところがあり、さりげなく話題を転換し、突き詰めて話し合うことを避けていました。今となっては後悔ばかりです。
「影に対して」にあるように、父は祖父と大変不仲でした。しかし祖父が老人病院に入院したと聞いた父は、何を思ったか大学生の私を伴ってお見舞いに行ったのです。三十分ほどの対面の後、二人で蕎麦屋で食事をしていると、
「もう、いいかな」
とポツリと呟いたのです。今消えようとしている祖父の命が「もう、いいかな」なのか、自分が抱えている祖父へのわだかまりは「もう、いいかな」なのか、私ははっきりと聞かなかった。本当は聞かなければならなかった。向き合わなければならなかった。でも、聞いたところできっとはぐらかされたでしょうし、何より父が目の前からいなくなる日が来るなんて考えもしなかったものですから……。
下北沢で刺された
父は私をからかい、困らせることを喜びにしていたように思います。小学校四年生のときに裏磐梯で三泊四日の高原学校がありました。行程の二日目、山登りを終えて夕食をいただき、就寝というときに教頭先生が、
「遠藤くん、ちょっと」
とおっしゃる。何かしてしまったかと不安に思いながら先生のお部屋に伺うと、先生が葉書を一枚持っていました。どこで知ったか父が教頭先生に葉書を送っており、
〈大変お世話になっております。うちの豚児は時々寝糞をする癖があります。ご迷惑をおかけするのではないかと憂慮しております〉
発想が突飛です。考えつかない。
思い返せば未就学児の時、父が講演旅行で海外に行った折に、当時は機内から葉書が送れましたので、便りをよこしたのです。普通の親は子供の不安を消すような優しい言葉を並べると思うのですが、父は違う。
〈お父さんは今、飛行機に乗って、ガムもお煎餅もチョコレートも食べ放題だ。どうだ羨ましいか〉
なぜ子供相手にこのような事を書くのか、動機が分からないです。突飛としか言いようがない。
発想が突飛といえば、玉川学園に若かりし頃の吉永小百合さんが対談にこられました。三時間ほどお話をしたのち、三階のお手洗いを貸したのです。吉永さんがお帰りになったあと、トイレにはしばらく「主人専用」という貼り紙がありました。凡人にはない発想です。
思春期の折には、父の隣を歩くのを避けるとか、口数が減るなどはありましたが、決定的な反抗期はありませんでした。父のおかしな行動によって反抗する力を削がれた、というのが正確かもしれません。
2月14日、バレンタインデーの朝のことです。食堂へ行くとファンの方から頂いたチョコレートが壁中に飾られているのです。百個はありました。そして自慢気に、
「で、お前はいくつもらったんだ」
と、こうですよ。笑わされるだけなんです。
大学生の時には銀座に連れて行ってもらいました。ホステスさんが「龍之介さん、踊りましょう」と誘ってくださったのは良いのですが、熱烈なキスをしてくるのです。父の目の前で。どう考えてもおかしい。後に判明したのですが、父が事前にお店の方に、
「龍之介を誘惑してやってほしい」
とお願いしていたそうです。当時の私にとって、キスは大イベントでしたから動転しました。
大変な人気作家だったゆえに、なかには狂信的なファンの方もいらっしゃいました。私、小学校三年か四年のときに刺されました。〈遠藤周作は自分を愛しているのに、順子(註・遠藤氏の妻)が無理矢理押しかけ、やむなく一緒に暮らしている。しかも順子には龍之介という連れ子までいる〉と思い込んでいる方に。電車通学の帰路、下北沢で井の頭線から小田急線に乗り換えている時に、鋏で脇腹をいきなりグサリ。幸い大した傷ではありませんでしたが、かなり出血したので私も呆然としてしまって。女性は駅員さんに取り押さえられていました。慌てて迎えにきた母が「あなたのせいで子供がこんな目に遭うんです」と父を大変なじっていたことを覚えています。
ああいう方の息子さんだと大変ですね、と言われることもありますし、実際刺されもしましたけれど、プラスマイナスで考えれば圧倒的にプラスが大きい人生でした。初対面の方にもなんとなく信用していただけましたし、「お父様の作品を読みました」と言っていただけることも多く、父には感謝しかありません。
三島さんを悪く言う人は偽者
賑やかな人でしたから作家同士の付き合いも多く、とりわけ阿川弘之先生、三浦朱門先生、北杜夫先生とは親しかったように思います。
阿川先生は車の運転が好きで、父を乗せて箱根に行ったことがあります。箱根ターンパイクという曲がりくねった山道を阿川先生が凄まじいスピードで走行し、命の危険を感じた父が速度を緩めるよう頼むと、阿川先生は、
「マキシムでご馳走すると約束するか」
恐怖のあまり了承した父に重ねて、
「ボルドーの高いワインを飲んでもいいか」
阿川は本当にひどいやつだ、と怒っていました。
三浦朱門先生のお宅には私も一緒に伺ったことがあります。ご自宅には当時まだ珍しいファクシミリやワードプロセッサが完備されており、三浦先生は父に自慢したのです。「これからは、こういうことだ」と。相当口惜しかったのでしょう。帰り道、
「あんな物を使っているから、ロクな小説が書けない」
と憎まれ口を叩いていました。
後日、父もファクシミリを自宅に導入しました。ある日、庭で父が長時間、空を仰いでいるので事情を聞くと、
「ファックスが来ないんや」
「お父さん、ファックスは空から飛んできません」
生活能力が無いというか、機械関係は苦手な人でした。
北先生については私自身困らされたことがあります。編成局に所属していた時なので、三十歳過ぎだったと記憶していますが、打ち合わせをしていたら会社に北先生からお電話がありました。
「龍之介君、頼まれていた台本が出来上がりましたので、取りに来てください」
一切頼んでいません。躁の時期と耳にはしておりましたので、そうかと。とにかく世田谷区松原のご自宅に急行すると喜美子夫人が申し訳なさそうな表情をしていらして、応接間には本当に原稿が積んでありました。一瞬にして大ピンチです。
「先生、お願いした私が伺うのも変な話ではございますが、今回はどういったお話でしょうか」
「火星人の男と地球人の女の恋愛です」
火星人……頭が真っ白になりました。どうやってお断りしようか。咄嗟に、
「あー先生、申し訳ございません。弊社は去年から火星人はやめちゃったんです」
と口から出任せを言いました。我ながら天才的な切り返しだったと自負しています。ところが北先生は、
「だったら地底人にしてもいいです」
本当に頭が痛くなってきました。更に悪いことに、地球人役は加賀まりこさんにオファー済みで、三ヶ月もスケジュールを空けてあるという。加えて、
「火星人は私がやりますから」
とおっしゃり、状況は悪化の一途を辿ります。なんとか白紙にしようと、
「先生、主演俳優は朝から晩まで一週間、いや三週間くらいでしょうか、寝る時間もございません。体力的に非常に厳しゅうございます。大丈夫ですか」
と申し上げると、それは無理かもしれない、と。なんとか良い方向に行きかけたと安堵していたら、
「では私はADをやります」
「先生、そちらのほうが大変です」
決して原稿には触らず帰らなければならないと考え、
「弊社は今年の春から“世にも奇妙な物語”を立ち上げましたので、そちらのプロデューサーを寄越します」
と告げて辞去しました。後日、後輩に北先生の火消しをしてもらい、加賀まりこさんの事務所には私が事情をお話しして、なんとか難局を乗り切りました。
三島由紀夫先生については印象深い出来事があります。
私が十四歳のときに三島先生が自決なさり、大変な騒ぎになりました。朝日新聞の一面に写真が掲載され、テレビでは国粋主義者だなんだと報じられている。つまり、あまり良く捉えられてはいなかった。なぜそのような論調になっているのか全く理解できずにいる私に向かって父は、
「今、三島さんのことを悪く言っている人間は偽者だから、よく覚えておくように」
と言いました。核心に触れるような話は避けるのに、つい本質的なことを「言ってしまう」ことがありました。
父に言われて心に残っている言葉はいくつかありますが、その中で最も印象に残っているのは「人生に完全な善や悪はない」というものです。ほとんどの事象は善悪の中間即ちグラデーションの中にあると。だから「人が何かを行ったときに、善だとか悪だとか二分法で判断をするのはやめろ」と言われました。どんな良い人でも悪いことはするし、どんな悪い人でも良いことはする。罪を憎んで人を憎まずと言うつもりはないけれども、事象や人物を批評したり判断したりする時には複合的に判断したほうが良いと教えられました。現代は物事を善悪に分けがちですから、父の考えは背反しているかもしれませんが、私にとっては非常に腑に落ちる考え方です。
(次号へ続く)
(えんどう・りゅうのすけ 遠藤周作長男)
著者プロフィール
遠藤周作
エンドウ・シュウサク
(1923-1996)東京生れ。幼年期を旧満州大連で過ごし、神戸に帰国後、12歳でカトリックの洗礼を受ける。慶応大学仏文科卒。フランス留学を経て、1955(昭和30)年「白い人」で芥川賞を受賞。一貫して日本の精神風土とキリスト教の問題を追究する一方、ユーモア作品、歴史小説も多数ある。主な作品は『海と毒薬』『沈黙』『イエスの生涯』『侍』『スキャンダル』等。1995(平成7)年、文化勲章受章。


































