くらべて、けみして 校閲部の九重さん
1,265円(税込)
発売日:2023/12/20
- 書籍
- 電子書籍あり
文芸界震撼! 至宝の校閲秘話から生まれた変態的情熱溢れるお仕事コミック!
普段ほめられることはなく、陽の当たることのない縁の下の力持ち――それが校閲。ひとつの言葉、ひとつの表現にこだわる日本語のプロとして本作りに欠かせない校閲者たちは、個性豊かな文芸作品とどう向き合っているのか? 文芸版元だからこそ知り得た作家とのエピソードや秘蔵の校閲あるあるを楽しめる校閲者の日常物語!
第2話 こんな字ある?
第3話 直筆原稿
第4話 受け継がれる魂(前編)
第5話 受け継がれる魂(後編)
第6話 優先順位
第7話 誤植
第8話 「事実」という深い海
第9話 机は人
第10話 パタパタ
書誌情報
読み仮名 | クラベテケミシテコウエツブノクジュウサン |
---|---|
装幀 | アルコインク/装幀 |
雑誌から生まれた本 | 小説新潮から生まれた本 |
発行形態 | 書籍、電子書籍 |
判型 | A5判 |
頁数 | 144ページ |
ISBN | 978-4-10-355391-5 |
C-CODE | 0079 |
ジャンル | ノンフィクション、コミック |
定価 | 1,265円 |
電子書籍 価格 | 1,265円 |
電子書籍 配信開始日 | 2023/12/20 |
書評
新潮社校閲部をモデルにした漫画『くらべて、けみして 校閲部の九重さん』の単行本化を記念して、7名の著者たちが綴る校閲者との秘蔵エピソード集。
「校閲」という名の20年の呪い
石井光太 ノンフィクション作家
長らく僕の中には新潮社の校閲という生霊が取り憑いている。
その生霊との邂逅は、僕がデビュー二作目となる海外ノンフィクション『神の棄てた裸体―イスラームの夜を歩く―』を初めて新潮社で出した頃のことだ。初校ゲラの受け渡しの日、編集のAさんが封筒を出し、恐ろしいものを目にしたかのような表情で言った。
「校閲から戻ってきたのですが、信じられないくらいのエンピツ(校閲の指摘)です。こんなの初めてです」
ゲラはほぼ全ページ、校閲からの指摘で余白がないほど真っ黒になっていた。こんなに誤字脱字が多いわけがない。よく見ると、エンピツは文体やリズムに関することにまで及んでいた。例えば次だ。
・石井〈所々かさぶたがまだ乾き切らず、じゅくじゅくと黒光りしていた。〉
・校閲〈かさぶたにはなっていたが、まだ乾き切っておらず、じゅくじゅくとところどころ黒光りしている。〉
打ちのめされた。やっと二作目を出せると思ったら、校閲から「誤字脱字以前に、文章がなってない!」と一蹴されたのだ。僕は悔しく、二週間がむしゃらにゲラと格闘した。
後日、Aさんが、飲み会にあのゲラを担当した校閲者Kさんを呼んでくれた。五十代の少し癖のある男性だった。彼は話した。
「文章に硬さを感じたんです。デビューして間もない今、自分の文章を疑って意識的に緩めたり、テンポを速めたりする経験をしておかないと、十年、二十年とつづけるのが難しくなる。だからここまでやったんです」
今だからわかるが、あのままでは僕の文章は書くごとにカチカチになって広がりがなくなっていっただろう。Kさんがやってくれたのは、新人の二十年先を見据えた校閲だったのだ。
以来、僕はKさんの生霊にずっと怯えながら本を書いてきた。おかげで二十年弱で七十冊くらい出版できたことを考えれば、彼は今、僕の守護天使(ちょっとおじさん臭のする)になっているのかもしれない。
(いしい・こうた)
守りの要
今村翔吾 歴史・時代小説作家
げっ。校閲が入ったあとのゲラを見た時の私の第一声は、概してそのような牛蛙の呻きのようなものだ。よくぞ見つけてくると感心する。指摘がかなり多い。が、私にとってはそれがいい。
校閲が筆を入れたもの全てが残されたまま、作家のもとに来ることは、実は珍しいらしい。作家に渡す前に、編集者がこれは残す、これは伝えなくてよいと、取捨選択する場合の方が多いのだ。しかし、私はこれを断っている。校閲の指摘全てを残すように指示しているのだ。その上で編集者の思うところがあれば、横に書き添えるようにして欲しいと。
こうすることで校閲の意見A、編集者の意見Bがゲラ上に残ることになる。私はAを採用することもあれば、Bを取り入れることもある。しかし、私が新たにC案を書き入れることもまたある。これはAとBがあるからこそ、生まれることが多いと感じている。つまり、私は様々な意見に耳を傾けたい。紙の上で議論がしたい作家なのだ。
私がC案を捻り出したのに、再校でやはりA案が良いのではと提案してくる校閲もいる。「小癪な」と呟きながらも、私の口元は綻んでいる。校閲もまた、作品に対して真摯に臨んでくれている証だから怒りはない。その結果、Aにすることも間々ある。こうして磨かれて、一つの作品に完成していくのだ。
作家ばかりが注目されがちだが、出版というものはチーム戦だと思う。校閲はその中で守備の要であろう。作家や編集者が見落としていそうな齟齬を見つけて失点を防ぎ、時には反撃の機を作り出す。非常に重要な役目であるから、私はここぞという時には校閲者を指名することもある。今では随分と認知された校閲という仕事だが、さらに注目されても良いと思う。良き作品の陰には、良き校閲者がいるものだ。
(いまむら・しょうご)
私ほど校閲さんに助けられている作家もいないと思う
芦花公園 作家
作家にとって校閲さんはありがたい存在だ。特に私のような行き当たりばったりに作品を書く文章の下手な作家は、祈るような気持ちで原稿を送り出している。
今回の新刊『食べると死ぬ花』においては興味深いご指摘を戴いた。作中で主婦が豚肉とレンコンの炒め物を朝食に出している描写をしたら、『朝食なのにOK?』と指摘が入ったのだ。横には代替案のメニューも挙げて下さっていた。私は自他ともに認める大食漢であり、どんな時間でも食べたいときに食べたいものを食べたいだけ食べる。どうやら、普通の人は朝からこのようなものは召し上がらないらしい。朝食に適した常識的な食事内容の指摘は大変ありがたかった。些細な部分かもしれないが、この主婦は姑にイビられている活力のない女性という設定なので、そのままだと、違和感を覚える人も多くなってしまったかもしれない(余談だがこの話はXでバズった)。
ほぼ全ての指摘はこのように的を射ているのだが、たまに納得がいかないものもある。
とある作品のゲラにおいて、作中の異常な人物が持論を展開しているシーンに、余白部分が見えなくなるくらいびっしりと、いかにこの考え方が差別的で間違っているのかが熱弁されていた。「作中人物のセリフ≠作者の思想」であることを読み手は全員分かっているものだと思っていたし、勝手に私がこんな異常思想の人間だと思われ説教されたことにもかなりムッとしてしまった。私は「異常者の異常思想です。ママで」と書いて送り返し、その後はその部分に指摘はなかったが、一体何があの時の校閲さんを勘違いさせる要因になったのかなど、今も何度も思い出す。
しかし心のどこかでまたこういうちょっと的外れな指摘を貰えないものかと思っている自分もいる。ネタになるので。
(ろかこうえん)
著者を信用しないでください
飯間浩明 国語辞典編纂者
すべての引用部分について、原文のコピーを送ってください、と言われて仰天したことがあります。著書の最終稿を送った後で、編集部から要請されたのです。転記ミスがないかどうか確認するため、とのことでした。
私の書く文章は、おおむね「ことばとは」「日本語とは」を主題とし、多くの実例を引用しながら進めます。その著書でも、多くの参考文献からいろんな箇所を引用していました。引用の際は正確を期し、慎重に転記します。でも、それがすんだら、本は書棚に戻すじゃないですか。それをまた全部集めて、コピーして送るわけですか。
お手数ですがお願いします、というのが編集部の返事でした。今までそういうことを求められた経験はないんだけど、と不満に思いつつ、すべてコピーして送りました。結局、訂正すべき箇所はありませんでした。
尊敬するベテラン校正者の方に、「この話どう思いますか」と愚痴半分で尋ねてみました。その方は、私の著書の校正を担当してくださった時、私が文中でちょろっと触れた新聞広告まで、わざわざ国会図書館に足を運んで確認してくださったのです。
「私は、申し訳ないけれど、著者が引用の原文を示してくださっても信用しないんです。元の文章が版によって異なっていることもありますし」
だから、校正している文章に引用部分があれば、必ず原典を探し出し、自分の目で確認するそうです。そうじゃないと満足できないんです、とにこやかに笑っていらっしゃった。
すごい。鬼気迫るものがある。でも、そこまでやってくれるからこそ、著者は安心して本が出せるんだなあ、と感謝の念を新たにしました。
そう、著者って信用ならないんです。引用箇所のコピーを用意しても、その文章自体、他の本の引用かもしれない。校正・校閲の方には、あらゆる点を疑ってくださるようお願いします。
(いいま・ひろあき)
姫君
北村薫 作家
『出版人の萬葉集』(日本エディタースクール出版部)中、「校正・出張校正」の章は二十ページにもおよびます。
校正者の提言すべてしりぞけし著者校もどる風吹ける午後 相原法則
校正に惑ひしからに品名を来て確かむる化粧品売場 筑波冬樹
責了と記して惑ひ断たむとす遠白く照る夜の二条城 三国玲子
本のあるべき形をめざす編集者たちの戦いが、胸をうちます。
しかし、どれほど頑張ったところで、やるのは人間。完璧ということは難しい。
中村正常といえば、新興芸術派の作家であり、独特の個性を持った人です。
数ある文学全集中でもすぐれたもののひとつが、講談社の『日本現代文学全集』。その『現代名作選(一)』には中村の「アミコ・テミコ・チミコ」が収められています。念入りな校正がなされたことでしょう。ところが、この一節が「今日もまた僕の でのみ勝手に(以下略)」となっている。一字欠字なのです。出典は昭和五年刊行の『ボア吉の求婚』。何かのはずみに活字をはずし、そのままになってしまったのですね。当然、わたしは『ボア吉の求婚』を探し、この欠字が「方」であることを確認しました。「僕の方でのみ」だったのですね。
誰もがそうするわけではない。労を惜しみ、元々欠字だったと思い、すましてしまう人もいるでしょう。見逃すはずのない単純ミスですが、それが後世に残ってしまう。これが出版のおそろしいところです。
一方、見事だ――といいたくなる誤植もあります。自分にかかわる例をあげれば、わたしの著者紹介中、作品名が『六飲み屋の姫君』になっていたことがあります。正解は『六の宮の姫君』。微笑んでしまいました。会ってみたいなあ、飲み屋の姫君!
(きたむら・かおる)
正しく間違える
尾崎世界観 ミュージシャン・作家
校閲からの指摘。こう書くと「江戸からの刺客」みたいでちょっと怖いけれど、初めて小説を書いて以来、校閲者から何か指摘されるのが好きになった。書きながらズレていった自分を正しく整えてくれる。校閲者は、さしずめ書き手にとっての整体師だ。
「あー、ここずいぶん悪いですね」
直に体に触れてもらいながらそう言われると、自分は頑張って生きてきたんだとどこか誇らしくなる。それと同じく、校閲者から指摘があると、自分は何かを間違えるほど書いたんだな、としみじみ思う(ただただ恥ずかしいミスも多々あるけれど)。
だからいつもまとまった原稿を書き上げると、校閲者から次にどんな指摘があるか楽しみでしょうがない。提出した原稿が返ってくる。ドキドキしながらまずざっとゲラに目を通す。すると、ページのあちこちに手書きの文字が書き込まれている。そんな中、別の筆跡が……。担当編集者だ。何だよ、「校正」しかしてくれない癖に。いいからあなたは黙ってて。執筆中はあんなに頼り切りだった担当編集者に対して、なぜかこんなことを思ってしまう。さながらゲラの三角関係だ。
「今回はやや鉛筆多めですが、この校閲さんはかなり丁寧な方なのであまり気にしないでくださいね」
まずは先入観なくその指摘を受け止めたいのに、またこんなことを言う。気にする。気になっちゃうよ。だってずっとこれを待っていたんだから。
ゲラのやり取りを重ね、作品が完成に近づくにつれて、校閲からの指摘は減っていく。完成してから数年後、文庫化に際してのゲラにいくつか指摘があったりすると、昔の恋人と久しぶりに連絡を取り合ったような気分になる。何かが完成するというのはこんなにも寂しい。だからこそ、これからも正しく間違っていきたい。
(おざき・せかいかん)
「べき」と「べし」
酒井順子 エッセイスト
私は校閲の方々を、母親のように捉えているところがあります。高校生の頃までは、「行ってきます」と家を出る時、
「そのセーターとそのスカートは合わない」
「髪がボサボサ」
などと様々な駄目出しを母からされたのですが、文章を世に出す時、同じように事実誤認や誤字脱字といった「駄目」を指摘して下さるのが、校閲の方々だから。
そんな私は一度、校閲者に激しく反発したことがあるのでした。それは、『枕草子REMIX』の連載をしていた時。清少納言の心情を表すにあたり、「……すべき。」という表現を私は多用しておりました。それは「……すべき(だと彼女は思っていた)。」との意だったのですが、校閲の方は、「べき」は「べし」にすべき(もしやここも「べし」が文法的には正しいのかも?)と、何度も指摘。しかし清少納言の語尾が「べし」というのもなぁ、と思った私は「べき」で押し通したのです。
「べし」論争は、単行本化まで続きました。そのうち私は会ったこともない校閲の方を「べし氏」とお呼びし、「べし氏、まだ『べき』に赤字を入れるか……」と、最後まで赤字をうけ入れませんでした。
べし氏の赤字は、今思えば「『べき』ではあなたが恥をかきますよ」という親心。対して私は「だって『べし』じゃダサいし」と、思春期の娘のように親に反抗したのです。
今、その本を見る度に思い出すのは、べし氏のこと。一度謝りたいような、お礼を言いたいような、複雑な娘心なのでした。
(さかい・じゅんこ)
波 2023年12月号より
単行本刊行時掲載
インタビュー/対談/エッセイ
校閲者を漫画にしたら
作家と校閲者、普段交わることのない二者――。生ける伝説の門外不出の逸話が今明らかに!
矢彦 すみません、これ(ペットボトルのお茶)ちょっと開けてもらえませんか? いや~握力が落ちまして、最近できないんだこれが。来年で77歳、喜寿になるもので。
こいし それでまだ校閲のお仕事されているのはすごいです!
矢彦 いや、もう終わり。このあいだ、塩野(七生)さんの『ギリシア人の物語』の最終巻をやって、おしまい。……って言ってたんだけど、すぐに校閲部の人から「今度出るこの作品、お願いできませんか?」って(笑)。さすがにお断りしましたけど。
こいし 前にこの漫画の取材でお会いした時、ご病気された後だったのでお酒は控えていると言いつつ割と飲んでいたのが印象的でした(笑)。
矢彦 それでも酒量はやっぱり減りましたよ。昔はひどかったですから。でも、我が校閲部は飲みに行くような人がいなかった。仕事終わるとささっと帰るんだよ。いつも飲んでるオレみたいなやつがいなくてね。でね、部長の時に雑誌とかのインタビューで「どうすれば良い校正者になれますか?」とよく聞かれるから、「毎晩酒を飲みに行くんだよ」って言ったらウケちゃって。良い校正の秘訣は酒場に行くことだって新潮社の校閲部長が言ってるって広まっちゃってね、ははは。
こいし キャッチーで良いです! 実際、私もそのお話をお聞きした時に面白いと思い、ストーリーの中に組み込みました。ただ飲みに行くだけじゃなくて、校閲者の信念みたいな深い理由があるのが素敵で、それを描きたかったんです。レジェンド校閲者として矢彦さんをまさに居酒屋のシーンで登場させたら、描きたいことが膨らみ前後編にまでなったのですが、ネーム(漫画を描く前のラフのことで、絵コンテのようなもの)がほぼ一発で編集者を通ったのはあの回が唯一でした。
矢彦 それはうれしいね。僕の話を聞きたいと編集者を通して最初に言われたとき、どうやって校閲者の世界を漫画にするんだろうと思って。全くイメージが湧かなかったから渋ってたんだけど(笑)。そもそも、どうしてこいしさんは新潮社校閲部をモデルにした漫画を描こうと思ったの?
こいし 編集の方から提案を受けたのがきっかけではあるんですけど、実は私自身、校閲とか校正のことをあまり理解していなかったんです。でも、私たち描く側の人間とは馴染みがない距離にいながら、本を作る上では必要な人たちということに興味がありました。出版社の知り合いからは、社内に校閲部を持つ会社は数少ないと聞きましたし、中でも新潮社さんは文芸出版社としての歴史が長く、校閲に力を入れていて他社とも全然違うと知って、その世界を物語として描いてみたいと思ったんです。
矢彦 うんうん。新潮社の歴史は創立者の佐藤義亮が印刷所で校正をしたことから始まっているからね。だからこそ校正に重きを置く伝統があるし、独自の技術とか経験、ゲラ(試し刷りのこと)を通しての作者とのエピソードには事欠かない。フィクションの形を取ってるけど、それが漫画で読めるというのは面白い。でも、これは使えるって話を聞いても、文芸だと作者との関係性もあるから描けない話も多いんじゃない?(笑)
こいし それはあります(笑)。そういう時は、似たような別の話に置き換えるとか、作者さんが特定されないような描き方をするとか工夫しています。ストーリー自体はフィクションですし。ただ、最初は校閲者の世界が本当にわからなさ過ぎて……。校閲者の方に取材を重ねるうちに、個性とか人間性はわかるようになって来るんですよ。でも、いざ漫画を描こうと思った時に、ゲラにどんな鉛筆を入れる(疑問を書き込むこと)のかとか、どういう時に葛藤するのかとか具体例が必要で、でもなかなかそこまで細かいことを覚えている方って少ないんです。それに普段、人とあまりコミュニケーションを取らなくても成立するお仕事ですよね。そういう方々からお話を聞き出すのって難しいんだなって思いました。
矢彦 これは漫画になんかできないって思わなかった?
こいし 思いました。未知数だし、無理だなって(笑)。
矢彦 そうすると、どの段階でやれそうだと腑に落ちたんです?
こいし いや~いまだにちゃんとわかってないような……(笑)。「小説新潮」での連載は続いていますが、毎回毎回、試行錯誤していますね。
矢彦 それはそうでしょう。誰かに説明するのも難しい世界。それに、動きがあるような仕事じゃない。それなのによくここまでのものをお描きになっているなと、拝読して感心しました。おかしいと感じるところも全くありませんし。
書き手への想像力
こいし 矢彦さんはご自分のことを異端児だったとおっしゃいますが、そういう変わった校閲者の方って他にもいましたか?
矢彦 酒ばっかり飲んでるやつってこと?(笑) いないんだよな~。記憶にないよね。例えば、僕が入社した時にいた上の人たちはなんにもしゃべらなかった。黙って来て、黙ってやって、黙って帰る。怖い人はいなかったけど、面白くはないよね。僕が何かしゃべったら、「しーっ!」って怒られるんだもん。それはおかしいと思って、部長になった時にしゃべれしゃべれってみんなに言ってた。人間だからしゃべってこそ通じるんだと。自分が読んで鉛筆を入れたゲラをただ編集者に渡して終わるんじゃなくて、気になったところは「ここちょっとどうだろう?」って話をした方が面白いと思うんだよね。作家さんとはそれはできないけど、編集者とはできるんだから。
こいし 矢彦さん流の校閲の仕方についてもお聞きしたいんですけど、例えば先ほどの塩野七生さんの作品はかなり細かく見ていらっしゃるんですか?
矢彦 年表と登場人物の表はしっかり作りますが、それぐらいですよ。「聞こえる」が何回出てきて、「聞える」は何回だから統一した方が良いとか言う校正者も中にはいたけど、そんなのいいんだよ。当時、僕に話を持ってきた塩野さんの担当編集者もそれは全く望んでいなかった。
こいし そうなんですね。編集の方は以前から矢彦さんの腕を知っていたのでしょうか?
矢彦 一度印象深い仕事をしたことがあってね。僕が若い頃の話だけど、その人が担当する有名作家の作品のゲラで矛盾があることに気づいた。だけど、作家が編集者に「あとは任せる」って海外に行っちゃってたんだよ。「書下ろし新潮劇場」って戯曲のシリーズなんだけど、これはまずいと。そこで編集と僕でここを変えよう、あっちを直そうって膝突き合わせてやって、何とか辻褄合うようにできた。あとで作家さんからは助かったって感謝されたと編集者から聞いてね。
こいし さすが矢彦さん! それでその後、塩野さんの校閲を任されることにつながるのですね。
矢彦 そうだね。『ローマ人の物語』のように長編シリーズになると、途中で代わるのも簡単じゃない。引き継いだ校閲者がいきなり不要な疑問を出して、作者に不愉快な思いをさせたらまずいでしょう? 辞書に載っていないからといってその言葉に線を引っ張って「ヨロシイでしょうか」なんて安易に書く人もいるけど、作者はその言葉にこだわっているかもしれない。その作者にまたウチで作品を書いてもらうために、疑問の出し方一つにも注意が必要なんです。校閲者はゲラの上でしか言葉を伝えられないからこそ、顔も知らない作者に対して最大限想像力を働かせなければいけない。そんな僕の姿勢を、当時担当だった編集者は知ってたということだね。
こいし そっか、作者に思いを馳せることが良い校閲につながるんですね。ところでさっきのお話にあった、作品の中での矛盾に気づくというのは結構あることなんでしょうか?
矢彦 そうだなぁ、例えばさる人気作家みたいに矛盾してたっていいっていう方もいてね。ちゃんと校正したら、「そんなのやめてちょうだい!」って言われて全部そのままにしたって話を聞いたな。書いた本人が気にしないなら、直さなくても良いんじゃないかと思ったけど。だって、読者はその作家さんの作品を喜んで読んでいるんだから。ちゃんと校正をしたから本が売れるってわけでもないからね。
こいし 校閲者としてどこにこだわるかという話につながりそうですね。
今だから明かせる秘話
矢彦 そう言えば、僕が江藤淳さんの『漱石とその時代』を担当した時の話を漫画で描いてくれてるじゃないですか。
こいし はい、矢彦さんが古本屋を回って古地図を探した話ですね。
矢彦 そう。それで思い出した話が二つあって。一つは、ケン・フォレットの翻訳本、『大聖堂』(上・中・下巻)を担当した時のこと。『針の眼』のように緻密なミステリーを書くのが売りのケン・フォレットが、中世ヨーロッパを舞台に書いた大長編小説が『大聖堂』。その物語の最初の方で、ある人を埋葬するために森の中にお墓を作る場面が出てきた。そこからず~~っと話が進んだ後で、その墓地を探しに行く話が出てくるんだけど、場所を特定されないようにしていたので見つけるのが大変だったという記述があった。だけど、おかしいなと思ったんだ。最初の方では、目印になるようなものを作ったと書かれていたのを思い出してね。その矛盾を伝えたら、翻訳者の矢野浩三郎さんがびっくり仰天して。翻訳の間違いではなくて、原文がそうなっているのだとわかった。
こいし え、それでどうしたんです!?
矢彦 矢野さんが現地の人を通じて確かめてくれてわかったのは、元々ケン・フォレットは目印を作ったという設定で書いていた。だけど、作中の時代に、領主とか身分のある人の埋葬場所をわかるようにするのは御法度で、絶対わからないようにしていたと学者か誰かから聞いたらしい。それで、後ろの方は直したんだけど、初めの方は忘れてそのままになっちゃった。
こいし うわー! 誰も気づかなかったんですね。
矢彦 そう。それで矢野さんがわざわざ新潮社に来てね。「ケン・フォレットさんがびっくりしてたよ」っていうのを直接僕に伝えてくれた。イギリスで生まれたベストセラー小説が、遥か海を渡った極東の地・日本で、いち校正者の気づきにより改良されるのは何と不思議な話であろう……って感謝されましたね。
こいし そんなのどうして気づいたんですか? メモってたんですか?
矢彦 もちろんメモりますよ。ただ、これに関してはメモというより記憶だね。確か墓場はわかるようにしたって書いてたよなって思って、最初の方に戻って読んでみたら当たりだった。
こいし 最初にその場面を読んでから、後で出て来る場面を読むまでにどのくらいの時間が空いてたんでしょう?
矢彦 文庫3巻分あるからね。そんなすぐじゃなくて、一ヶ月とか、もっと空いてたかもしれない。同じような話がもう一つあってね。これも有名作家で、ジェフリー・アーチャーの『ロシア皇帝の密約』という作品があります。イギリスの元軍人とソ連のスパイの攻防を書いた非常に面白い内容で、細かい時の経過が重要な、これも緻密な小説。この翻訳のゲラで、途中で丸一日飛んでいるというか抜けている日があることに気づいたんです。
こいし えぇ~なくても読めてしまうけど気づいたってことですよね。それはどうやってわかったんですか?
矢彦 読みながら何月何日に何が起こって、次の日は……ってメモして行きますからね。それで翻訳者の永井淳さんに知らせたら、これは大変だってことになって。それで、こちらでうまく直して、ジェフリー・アーチャーには後で報告する形が良いということになり、僕も案を出して永井さんも一緒に考えて、何とか一日誤魔化せた。
こいし それってもう校閲の仕事超えてますよね!? 日にちをいじって何とかなったのがすごいですね。つまり、『ロシア皇帝の密約』は日本語版が完全版ってこと!?
矢彦 そういうことでしょうね(笑)。まぁ、そのままだったとしても、普通に読めてしまうので誰にも気づかれなかったかもしれないですけどね。ただ、もし時系列に従って内容をメモして読むような人がいたら、おかしいじゃないかと思うわけで、そこはやっぱり正すべきだと思いましたね。この二つは僕も楽しかったし、校正者をやってて良かったとつくづく思いましたね。
「校べて、閲する」とは
こいし やっぱりレジェンドのお話はすごい! 改めてお聞きしたいんですけど、私が矢彦さんをそのまま描いたのを見てどうでしたか? 怖くて感想を聞いていなかったのですが……。
矢彦 すごいジジィに見えるなって……(笑)。
こいし デフォルメしてますので!
矢彦 真面目に言うと読んでいて楽しかったですね。有名作家さんにゲラを赤字だらけにされた話とか、「ゲラで戦う」って言葉が出てくる場面とかね。
こいし 矢彦さんは、校閲とはこうだ! とはっきり言葉にされるので、すごく衝撃的だったんです。矢彦さんにお会いするまでは正直、校閲者ってなんだろうと迷いながら描いているところもあったのですが、矢彦さんの言葉を聞いて道が見えたという感覚がありました。描いていて一番楽しかったのもこの回ですし。
矢彦 うんうん。ね、言葉って大事でしょ?
こいし 確かに!
矢彦 その回の最後が、また時々こうやって飲みましょうよって終わるじゃない。それがいいよね(笑)。それだけじゃなく、この作品にはメッセージがあるよ。
こいし 本とか文字を読むのが苦手な人でも、漫画なら読むっていう人がいます。一冊の本にどれだけの人たちが関わっていて、どんな思いが込められているのかをこの漫画で知ってもらい、本に興味を持って読んでくれる人が少しでも増えたらうれしいなって思うんです。そこから、校閲者にも興味を持ってくれたらもっといいなと思って描いています。
矢彦 いいねぇぇぇ!
こいし あと私自身、言葉について考えるのが楽しくなっています。この漫画を描いていると、昔あったのに今は消えた言葉を知ることができたり、逆に新しく生まれた言葉について考えたり、言葉の移り変わりって面白いなと気づきました。
矢彦 言葉の変遷というのは面白いし、難しい。校閲とか校正が生まれたのも、ある意味そこからですからね。昔の古い書物を新しく書き写した時に、まさに「くらべて、けみして」ということをやったわけで。
こいし おおぉ……タイトルが……!
矢彦 昔は紙に書かれた書物を筆写して複製していた。それをまた別の人が筆写していくと、間違った字を書いてしまう可能性が出てくる。だから元になった本と、新しく筆写されたものをくらべて、けみする(確かめる)。それが校閲という言葉の元々の意味ですよ。
こいし 印刷より前の時代からの話だったとは! ちゃんと伝えるというのが原点だったんだ!
矢彦 例えば書き写す人が下手で、場合によっては1枚飛ばして書いちゃうこともあるって本居宣長が随筆で嘆いてるんですよ。
こいし へぇ~~~~~。
矢彦 だから、くらべてけみする人がちゃんとしないと、古い文献が正しく残っていかない。本居宣長のような国学者たちは、ちゃんと後世に伝わることを念願していた。そのために校正が大事なんです。
こいし “直す人”ではなく、“伝える人”ってことですよね。今、お話を聞きながら感動しています。
矢彦 それがこの漫画のタイトルが持つ歴史的な意味ですから。昔の書物には、最後に「校」とか「挍」と記されて、そこに名前が書かれてあるんですよ。誰が校正したかというのが書かれてあった。校正者が一番大事だったわけです、その頃は。そんなお話を描いてみても面白いかもしれませんね。
こいし この漫画の中で物語として描きたいです。その時は、矢彦さんがくらべて、けみしてください!
(やひこ・たかひこ 元新潮社校閲部長)
(こいし・ゆうか 漫画家)
波 2024年1月号より
単行本刊行時掲載
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担当編集者のひとこと
「日本一の校閲集団」とも言われる新潮社校閲部をモデルに描いたこちらの漫画は、昨年末の刊行時から読売新聞、朝日新聞、NHK等で取り上げられて反響があり、重版の運びとなりました。
実在の作家さんとの秘話、伝説の校閲者が説く校閲という仕事の核心、小説のゲラに書きこまれた文芸校閲者ならではの指摘と、それに対する著者の反応。どれも新潮社の長い歴史の中で蓄積された企業秘密みたいな内容ばかりで、「事実をもとにしたフィクション」という形を取っているとはいえ、表に出して良いものだろうかと逡巡することもあります。
ですが、新潮社はそんな度量の狭い会社ではないはず……と開き直り、著者のこいしさんにはとにかく面白いと感じたエピソードをどんどん作中に取り入れてもらっています(実在の方には最大限配慮をした上で、というのは言うまでもないですが)。
一方で、この作品のために取材を重ねたこいしさんは、校閲者たちが人知れず流してきた汗と涙を知っています。だからこそ主人公の九重さんをはじめとするキャラクターたちには、静かに熱い校閲者たちの魂が確かに宿っているのです。
出版社の片隅で普段ほめられることもなく“ゲラで戦う”校閲者たちの物語が、一人でも多くの読者に届くとうれしいです。(出版部・YS)
2024/02/27
著者プロフィール
こいしゆうか
コイシ・ユウカ
イラストレーター、漫画家、キャンプコーディネーター。代表作に『カメラはじめます!』、『私でもスパイスカレー作れました!』等。「女子キャンプ」の提唱者、パイオニアでもあり、『ゆるっと始める キャンプ読本』を始め、キャンプ本の著書も多数。