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1995年3月20日、月曜日。
50歳以上の人ならば、東京の地下鉄が阿鼻叫喚に包まれ、路上で苦悶する人々を捉えたニュース映像を思い出すだろう。地下鉄サリン事件。この前年、オウム真理教は、長野県松本市でサリンを使った事件を起こし、ついに通勤時間帯の東京で未曽有の無差別テロを実行した。この朝、サリンの治療法を熟知していたのは、九州大学医学部のみ。九大チームは松本サリン事件でいち早く毒物を特定し、凶悪なオウム真理教と戦い始めていたのだった。
オウムが引き起こした事件については、多くの本が書かれてきた。しかし帚木蓬生さんの『沙林 偽りの王国』(上下巻)は、医療従事者たちがいかにオウムと闘い、いかにカルトの闇に対峙したのか、その観点から、オウム事件の全貌を描き出していく。医師で作家の著者にしか描けない本書は、いままで例のない新たな視点でオウムの闇を問う大作である。
当時、警察庁長官の立場にあり、銃撃事件の被害者でもある國松孝次さんは、巻末解説でこう記している。「本書は第一級の質をもっている」と。
カルトの危険性を考える絶好の物語でもある本書は、刊行直後に早くも増刷した。「オウム」を名前しか知らない読者にも、ぜひご一読を賜りたい。
「ギリシア人の物語」シリーズ(単行本では全3巻)の文庫化が始まります。単行本の第3巻『新しき力』を二分冊し、全4巻で文庫化します。
古代ギリシア人は哲学や科学、文学や演劇、そして現代文明の基礎といってもいい民主政など、さまざまな分野でイノヴェーションを起こした民族です。彼らなくして、塩野七生さんが「ローマ人の物語」(文庫で全43巻)で描いた古代ローマ文明もなかったといっても過言ではありません。
本作品の文庫版には文庫としては異例の美しさといっていい口絵が収録されます。第1巻の口絵では、古代ギリシア人の生活を垣間見ることのできるさまざまな陶器が一望のもとになっています。美しい絵で彩られた陶器は、古代ギリシア人にとっては重要な輸出品であり、「戦略物資」といってもいいものでした。
塩野さんはご自身で本シリーズを「最後の作品」と語っています。名著「ローマ人の物語」シリーズ以前の世界を描いた本作にぜひご注目ください。
吉田修一さんが週刊新潮に連載した小説『湖の女たち』が文庫化されました。本作品は琵琶湖畔の静かな介護施設で暮らす100歳の男性が、何者かによって人工呼吸器が外されて死亡し、滋賀県警の刑事が捜査するという、一見ミステリータッチの小説です。しかし、死亡した男性が若き日に731部隊に属していたことや、その後に薬害事件に関与していたことが徐々に明らかになり、現代的なテーマを孕むスケールの大きな作品になっています。介護施設で勤務する女性と刑事が陥るインモラルな関係やその激しい描写も大きな話題になりました。
本作は福士蒼汰さん、松本まりかさん主演で映画化されることが決まっており、来年初夏公開の予定です。メガホンをとったのは大森立嗣監督。吉田さんと大森監督、二人のコンビはモスクワ国際映画祭で審査員特別賞を受賞した『さよなら渓谷』の映画化以来二度目。映画特設サイトでは衝撃的な特報動画が公開されていますので、ぜひご覧ください。
昭和50年、ベトナム戦争が終結し沖縄国際海洋博覧会が開かれたこの年に、小学6年生だった少年が「将来のゆめ」という作文を書きました。「教師」か「作家」を目ざしてがんばりたいと書いていた少年の名前は、重松清。
そして16年後の平成3年、重松さんは「作家」としてデビューします。直木賞など数々の賞を受賞した重松さんは、30年以上もベストセラー作家として執筆を続ける一方で、7年前からは早稲田大学で教鞭を執っています。かつての少年は、二つの夢をともに叶えたのです。
このたび出版された文庫新刊『おくることば』には、そんな「作家」であり「教師」である重松さんが書いた6つの作品が収められています。作家として本書のために書き下ろした小説「反抗期」は、2023年3月に小学校を卒業した少年・ユウの物語。コロナ禍での学校生活で、ユウは思いがけない出来事に巻き込まれていきます。そして、卒業式でユウを待ち受けていたのは――。新型コロナ感染者がふたたび増え始め、感染状況は「第九波」に入ったのではともいわれていますが、そんな今だからこそ読みたい1編です。
教師としての側面が強いのが「夜明けまえに目がさめて」。これは、早稲田大学の「重松ゼミ」での日々や、学生たちへの思いやメッセージをまとめたものです。ネットなどで膨大な、そして不確かな情報が飛び交う現代。平和が「当たり前」でなくなってしまった現代。そんな"今"を生きていくための「考えるきっかけ」に満ちており、大学生はもちろん、子どもからおとなまで、令和を生きるすべての人に読んでほしい作品です。また、重松さんが語りかけるかたちで書かれているのでたいへん読みやすく、夏休みの読書感想文に困っている......というお子さんにもおすすめです!
本屋大賞を受賞し、ベストセラーとなった『52ヘルツのクジラたち』(中公文庫刊)で話題の町田そのこさんの文庫最新刊『ぎょらん』が新潮文庫の100冊の1冊として登場しています。
デビュー作『夜空に泳ぐチョコレートグラミー』に次ぐ2作目の本作。
2018年に刊行された単行本から、文庫化にあたり書き下ろしの新作「赤はこれからも」が追加されています。
死んでしまった人が遺すと言われているイクラのような赤い珠「ぎょらん」。それを噛みつぶせば、死者の最期の願いを知ることができる――。
そんな都市伝説めいた珠の真相を調べ続ける元・引きこもりの青年・朱鷺を主人公とするこの7つの連作集は、乗り越えることのできない死別を抱えた人たちのまさに魂の再生が丁寧な筆致で描かれています。
「涙なしには読めない」「絶対に泣いてしまう」などと手垢の付いた言葉で表現するのがもうしわけないほどに、後悔を抱えた人たちの未来に向かう一歩に寄り添う物語運びが優しく、どんな人にも是非読んでほしい傑作に仕上がっています。
書き下ろしの「赤はこれからも」はコロナ禍での死別を描いた物語で、今だからこそ読まれるにふさわしい傑作となっています。