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吉高由里子主演でTBS火曜ドラマ化!
働き方に悩む全ての人に捧げる痛快お仕事小説誕生!

わたし、定時で帰ります。

朱野帰子/著

637円(税込)

本の仕様

発売日:2019/02/01

読み仮名 ワタシテイジデカエリマス
装幀 マキヒロチ/カバー装画、新潮社装幀室/デザイン
雑誌から生まれた本 yom yomから生まれた本
発行形態 文庫、電子書籍
判型 新潮文庫
ISBN 978-4-10-100461-7
C-CODE 0193
整理番号 あ-96-1
ジャンル 文芸作品
定価 637円
電子書籍 価格 637円
電子書籍 配信開始日 2019/02/15

絶対に定時で帰ると心に決めている会社員の東山結衣。非難されることもあるが、彼女にはどうしても残業したくない理由があった。仕事中毒の元婚約者、風邪をひいても休まない同僚、すぐに辞めると言い出す新人……。様々な社員と格闘しながら自分を貫く彼女だが、無茶な仕事を振って部下を潰すと噂のブラック上司が現れて!? 働き方に悩むすべての会社員必読必涙の、全く新しいお仕事小説!

著者プロフィール

朱野帰子 アケノ・カエルコ

東京都生まれ。2009(平成21)年、『マタタビ潔子の猫魂』で第4回ダ・ヴィンチ文学賞大賞を受賞。2013年、『駅物語』がヒット。2015年、『海に降る』が連続ドラマ化される。シリーズの第一弾となる『わたし、定時で帰ります。』は労働問題が社会的な関心を集める世相を巧みに反映し、そのエンターテインメント性も相まって大きな話題となる。2019年4月、続編である『わたし、定時で帰ります。ハイパー』と合わせてドラマ化。近刊に『対岸の家事』『会社を綴る人』『くらやみガールズトーク』がある。

目次

第一章 皆勤賞の女
第二章 スーパーワーキングマザー
第三章 会社に住む男
第四章 期待の新人
第五章 仕事が大好きな人
解説 吉田伸子

インタビュー/対談/エッセイ

働き方の正解はどこにある?

朱野帰子はあちゅう

絶対に残業しない会社員を主人公に据えた、新しいタイプのお仕事小説の誕生。刊行にあたり、悩み多き会社員生活を経験した2人が語り合う、仕事の裏側、赤裸々な本音。

朱野 今回はある会社を舞台にしたお仕事小説を書いたのですが、はあちゅうさんもお勤めだった時代があるんですよね?
はあちゅう 私は新卒で広告代理店の電通に入って、中部支社に勤務して、その後東京の本社でコピーライターの仕事をしてました。
朱野 私は最初の会社で、マーケティングリサーチャーとプランナーのような業務についていたので、電通さんとも間接的に仕事したことありますよ。
はあちゅう そうなんですね。私のいたクリエーティブ局は広告の制作現場のど真ん中なので、深夜までの残業があったり、効率とは正反対の世界でした。コピーを1本考えるのに100本、200本出したり、粘れば粘るほどいいものができるという考え方の人がまだまだ多いですし。生産性は度外視されていましたね。
朱野 クリエイティブな世界は効率的に仕事をするという概念がそもそもあるのかどうか分からないですよね。
はあちゅう 今は変わってきているんですけれど、深夜まで働く人がかっこいいみたいな風潮が残っていました。時には早朝の4時まで作業が続いたり。人の気持ちを動かす仕事なので、関係者同士の絆を深めるという意味で、クライアントさんや上の人との飲み会が朝まであったりもしました。
朱野 時代は違いますが、うちの父の働き方を思い出します。明け方帰って来て、10時に起きて会社に行ってました。ほぼ家にいない。
はあちゅう うちの父もそういえば同じような働き方でした。商社に勤めていたんですけれど、深夜まで家に帰ってこなくて。それがあったので私、小学生の頃から、社会人になったら会社にいじめられるような働き方をするんだなあって。働くこととか、仕事に対しての拒否感を強く持っていた気がします。
朱野 私も父の背中を見て、私も将来ああいう風に働かなきゃいけないんだ、と強迫観念のようなものを感じていました。うちの父の世代は一つの会社に一生を捧げる人が多かったですが、はあちゅうさんは、電通の後に他の会社に移られたんですよね。
はあちゅう 転職して、ベンチャー企業のメディアの編集長をやった後、新規事業の立ち上げをやりました。
朱野 どんなきっかけで転職されたんですか。
はあちゅう たまたま次に行くことになる会社の社長が、「うちに入らない?」とオファーしてくれたんです。それを聞いて、私の人生にこんな選択肢があるんだって、すごく視界が開けた気がして。それまではあまりにも小さい枠の中で自分の将来を見ていたんですよね。他の会社に行く以前に、そもそも会社を辞めるという選択肢があるんだと気づいて、未来がパーンと開けた感じがしたんです。
朱野 きっと次の会社でもお忙しかったのではないでしょうか。
はあちゅう 24時間仕事に捧げてました。ただ、ベンチャーでは全て自分の責任で挑戦させてもらえたので、その分、やったことが全部自分に返って来る感じでした。会社に所属している限りは100%自分の思い通りになるということはないですが、それでも、自分と仕事の距離が近くなった気がしましたね。
朱野 自分でコントロールして仕事をしているような感じですか。
はあちゅう そうですね。やらされている感も薄くなったし、その作業をしたら何につながるか分かりやすかったです。お客さんからの反応がダイレクトに自分の評価になるというか。「ありがとう」と言って下さる声が聞きやすい位置にいられたので、それがすごくよかったんだと思います。大企業にいた時は自分の仕事が何になっているのかがよく分からなかったんです。
朱野 会社という組織にいると、自分が出した案が色んな所に回されて、色んな人の意見が付いて返ってきて、全ての人を立てないと次に進めなかったりしますよね。自分がコントロールできる範囲以外のことが多かったのを覚えています。
はあちゅう 上のOKが出ないと何もさせてもらえない状況になったりしますよね。どんな組織でも同じですが、会社にいる限りは働き方の感覚が違う人とも一緒に働かなければいけないのも難しいと感じていました。
朱野 私のいた会社はそこまで激務ではなかったんですが、朝いつ来るか分からない、夜いつ帰るか分からない社長を中心に回っていました。残業代が出ないのでいつまで会社にいればいいか分からない。私自身もダラダラ仕事をするようになってしまって、社長が帰ってくるまではネットを見ていたり、どうせ夜まで会社にいるんだったら、この仕事は外に行って遊んでから戻ってきてやろうと思ったり。この小説で言うと、吾妻くんみたいな働き方をしてました。
はあちゅう 会社には、すごく早く終わらせて帰る人や、遅くまでダラダラ仕事をする人など、色々なタイプの人がいますよね。一緒に仕事をしていると、自分が全く引っ張られないというのは無理で。何であの人はこんなに早く帰っちゃうんだろうと思ったり、逆に自分が早く帰りたい時は、何であんなに遅くまでやるんだろう、先に帰ってくれなきゃ帰れないと思ったり。どうしても影響を受けてしまいますよね。
朱野 ただ、じゃあ、どの働き方が善なのかっていうと、すごく難しいですよね。仕事が大好きな晃太郎というキャラクターが出て来るんですが、彼みたいに仕事=自己実現なタイプって実際にいるじゃないですか。そういう人が会社にいる場合、どこまでその仕事の仕方に付き合うかは難しいなと思っています。その人は自分が好きな働き方をしているだけなんだけど、会社はチームワークですからね。
はあちゅう そうなんですよね。猛烈に働く人がいると、別にその人は何も言わないのに、緩やかにやっている自分が責められているような気持ちになるというか。自分の働き方をこの人は見下しているんじゃないかと疑心暗鬼になっちゃうから、チームで働くのは本当に難しいなと思います。
朱野 晃太郎のような人は心のどこかに空白というか、満たされないものがあるんじゃないかと想像して書いていました。例えば、小さい頃から全然褒められなかったのに、初めて褒められたのが仕事だったとか。だとしたら、会社の制度を整えて定時で帰りやすくしたとしても、働く人の心が変わらないとなかなか難しいのかもしれません。
はあちゅう 会社の仕組みに人の気持ちが追いつかないことはありますよね。上司がいくら「帰っていいよ」と言ってくれていても、先輩がみんな残っている中で何となく自分だけ帰りづらかったり、他の人が忙しいのに何で私は時間が空いているんだろうと不安になったりするのは身に覚えがあります。新人時代は定時に帰るのにすごく罪悪感があったので、何にもやることがなくても意味もなく『広告年鑑』を写経したりとか、ネットサーフィンをしたりとか、仕事がある風に振る舞っていました。
朱野 私も会社員時代の社畜体質がいまだに染みついていて、フリーになってからも抜けていないです。会社を離れて自由になったはずが、どうしたら多くの人に読んでもらえるか考え過ぎて、昔よりも自分を追い込んでいたり……。
はあちゅう フリーだと、あまりオンとオフという感覚がなくなって、ずっと自分の人生が続いている感じですもんね。
朱野 会社員でもそうですが、特にフリーの仕事をしていて人間関係が狭くなったりすると、心も悪くなっていきがちですよね。自分に厳しくなる余り、周りの人がちょっとずるしているように見えて、気になってしまったり。
はあちゅう うまくやっている人がずるしているように見えて気になっちゃうのは分かります。
朱野 周りのせいで私は苦しいんだと世界が全部敵みたいに思えてきた時もありました。ある日、これはまずいと思って、4時間ぐらい休みをもらって子どもを預け、科学館に行ったんです。深海の映像を15分間何も考えずにぼーっと見て、やっと我に返ったというか。
はあちゅう そういう時間は大事ですね。
朱野 はあちゅうさんが最近出された『サク旅』で提案しているみたいに、1泊2日で旅行に行くのも良いですよね。気持ちに余裕がない時こそ、1泊2日でどこかへ行って帰ってくるだけでも全然違うと思うんです。
はあちゅう あと、私は出来る限り本を読んだり、映画やテレビを見たりするようにしてます。インプットの時間はすごく気晴らしになりますね。アウトプットだけしていると自分の中がスカスカになっちゃった感じがするんですが、インプットしていると満たされる感じがして気持ちが和らいで来ます。新しい知識を得た時とか、初めてのコンテンツに触れることが楽しいので、そこでチャージしてアウトプットすることを繰り返してます。
朱野 はあちゅうさんはエネルギーの総量が多いですよね。ご自分で意識的にエネルギーを生み出しているように見えます。お忙しいのに小説も書かれていたりして、すごい。『通りすがりのあなた』を読ませていただきましたが、とても面白かったです。
はあちゅう ありがとうございます。嬉しいです。でも、朱野さんが仰ったように小説を書くのって苦しいですね。小説を書いていると、別に締め切りがなくてもずっと気持ちが忙しいモードになってしまいます。
朱野 私が煮詰まっていた時は、小説家としてやっていかなければと思うあまり、休んではいけないと考えてしまっていました。でも、24時間体制で書いてもいいものができるとは限らない。もしかしたら休まないのは自分への言い訳なのかなと思ったりもします。これだけ働いてダメだったんだからダメでも仕方ないと言えるじゃないですか。
はあちゅう 私も、本当は休んだ方がいいものが出てくるかもしれないと思ったり、休んでいると本当はこの時間を使って書かなきゃいけないんじゃないかと思ったりして、ずっと気持ちが行ったり来たり。まだ揺れながら働いています。
朱野 結構悩まれているんですね。
はあちゅう 自分の人生とか、やらなきゃいけないことから逃げているんじゃないかという後ろめたさがあるんです。これは、いつ消えるんだろう、一生消えないんじゃないかという気持ちと戦っています。まだまだ正解が分からないです。
朱野 私も何が正解なのか分からないからこそ、この小説を書いたのかもしれません。お互い、ずっと探し続けることで理想に近づいていけたらいいですね。

(あけの・かえるこ 作家)
(はあちゅう ブロガー・作家)
波 2018年4月号より
単行本刊行時掲載

 特設ページ公開中! #ホワイト退社デー 『わたし、定時で帰ります。』

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新潮文庫メールアーカイブス

定時で帰る? とんでもない! とお怒りの人にこそ読んで欲しい!!

 とある理由から“絶対に定時で帰る”ことをモットーにウェブ会社で働く会社員・東山結衣。彼女の前に立ちはだかるのは、無茶な仕事を振って部下を潰すブラック上司。チームとなった同僚達もくせ者揃いで「子どもの頃から学校を休んだことがなかった」というのが自慢の皆勤賞女、双子を出産後一ヶ月半で職場復帰した勝ち気なスーパーワーキングマザー、すぐに仕事を辞めたがる新人、会社に住み着いている非効率男、そして超ワーカホリックで、案件が燃えれば燃えるほどやる気が出てしまう元婚約者という顔ぶれだ。
 定時に帰る=仕事をしない人間と決めつけられるこの状況で、結衣は今まで通り定時退社を貫けるのか?

 仕事が忙しくない時は定時に帰れるかもしれないけれど、忙しい時は帰れない。というのが全ての社会人にとっての「あるある」だろう。けれど、そこで「仕方ない」と諦めないのがこの物語の主人公の良さだ。
 確かに、仕事が忙しすぎる時はある。けれど、人は忙しさに身を晒しすぎると、ある瞬間から「忙しくしていない自分は仕事をしていないのではないか」「もっと働かなくては」という恐ろしいスパイラルに嵌まっていき、やがて、体を壊すほど自分で自分を追い込んでしまう。
 そのヤバい一線を超えてしまう瞬間は、誰にとっても起こりうるのだ。
 そんな「過重労働」の怖さと逃げ方のヒントを本書は描いている。どうやって主人公が仕事の修羅場をくぐり抜けるかは、ぜひ本書を読んで確かめて欲しい。

「上司にこんなタイトルの本読んでるのバレたら、左遷されるよ」と、半ば諦めたように言った女性、「やりがいのことを考えたら、定時とか言ってられない」とタイトルを見ただけで怒った真面目な人、「定時に帰りたいとかいうヤツが嫌いだ」と反射的に口にした男性。 
 朱野帰子『わたし、定時で帰ります。』は、そういう人たちにこそ読んでもらいたい小説だ。

 本書は4月からはTBS系で吉高由里子主演の火曜ドラマとして放送される。ぜひ、こちらも「定時で帰」って、楽しんで観ていただきたい。

新潮文庫メールアーカイブスより
掲載:2019年2月15日

ドラマ「わたし、定時で帰ります。」試写会&舞台挨拶プレゼントキャンペーン

Twitterで参加! 本の感想ツイートで、ドラマの試写会&舞台挨拶にご招待

『わたし、定時で帰ります。』の本(単行本でも文庫でも可)の写真と感想をツイートしてくださった方の中から抽選で10名様にTBS火曜ドラマ「わたし、定時で帰ります。」試写会&舞台挨拶にご招待。

参加方法

  1. 新潮文庫のTwitterアカウント(@shinchobunko)をフォロー
  2. 『わたし、定時で帰ります。』の本(単行本でも文庫でも可)の写真と感想を、#わた定 #わたし定時で帰ります感想 ハッシュタグを付けてツイート
    ※対象書籍は、『わたし、定時で帰ります。』単行本・文庫本、『わたし、定時で帰ります。ハイパー』です。

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賞品

TBS火曜ドラマ「わたし、定時で帰ります。」プレミアム試写会&舞台挨拶

日時 2019年4月8日(月)
15:30受付 15:40入場
※開演後の入場、途中退出はお断りします。
場所 都内某所
登壇者 吉高由里子 向井理 中丸雄一 内田有紀 ユースケ・サンタマリア

募集期間

2019年3月30日(土)9:00~4月3日(水)11:59

抽選・当選者発表

厳正なる抽選の上、当選者のTwitterアカウントへ新潮文庫TwitterよりDM(ダイレクトメッセージ)を送付させていただきます。

個人情報の取り扱いについて

  • 当選者よりお預かりした個人情報は株式会社新潮社が厳重に管理し、当選者の当選連絡および賞品の発送以外の目的で利用することはありません。
  • 法令により適用を除外されている場合を除き、原則として事前に同意を得ずに第三者に提供することはありません。

ご注意事項

本条件に予めご同意いただいた上でご参加ください。
・応募条件を満たしていない場合は抽選対象にはなりません。
・日本国内にお住まいのTwitterアカウントをお持ちの方で、かつ賞品のお届け先が日本国内の方に限らせていただきます。
・本プレゼント応募後、当選発表以前にアカウントのフォローを解除された場合は抽選対象となりません。
・抽選および当選結果については、個別にお問い合わせいただいてもお答えいたしかねます。
・プレゼントを受け取る権利は、第三者に譲渡することはできません。
・当選賞品の換金、返品はできませんので予めご了承ください。また、転売もご遠慮ください。
・お客様の住所・転居先が不明などで賞品をお届けできない場合は、当選を無効とさせていただきます。
・Twitterでの投稿によって発生したトラブルにつきましては、当社は責任を負いません。
・個人・団体を誹謗中傷する内容、経済的/精神的損害を与える内容、名誉毀損および侮辱にあたる内容等、第三者の迷惑になりうる可能性のあるツイート投稿は当選を無効とさせていただきます。
・都合により商品の発送が遅れる場合があります。
・Twitterにて鍵をかけたり非公開アカウントにしている場合には抽選対象となりません。
(投稿の非公開をONにされている方は、参加対象外になりますのでご注意ください。)
・当選の際、DM(ダイレクトメッセージ)にてご連絡をいたしますので、お使いの端末の通知設定(プッシュ通知)をONにしてください。
・当選通知受信後、指定の期限までに、ご連絡先、住所、必要事項をご指定の方法でご連絡ください。期限までにご連絡がない場合は当選を無効とさせていただきます。
・当選はお一人様1回とさせていただきます。

【番外編 期間限定公開!】もし、明日死ぬとしたら何を食べたい?

本作の続編『わたし、定時で帰ります。ハイパー』発売中! 合わせて、こちらの番外編もお楽しみください。物語は『わたし、定時で帰ります。』と、続編の間のお話です。(公開期間:2019年7月31日迄)

もし、明日死ぬとしたら何を食べたい?

 ここは、風が強く吹く東京の湾岸地区である。都心にアクセスがいいわりにオフィスの賃料はそれほど高騰しておらず、新興企業が詰まったビルが多い。
 その一角にある雑居ビルの地下へと、薄暗い階段を降りていくと、逆さまの「福」という文字がベタベタと貼ってある扉が現れる。そこが上海飯店である。
 私はこの店の招き猫である。
 壁際に置かれた漆塗りの飾り棚の上、サムスン製の液晶テレビの横に座っている。
 一般的な招き猫が上げているのは右手だが、私が上げているのは左手。つまり、私が招こうとしているのはお金ではなく人のほうで――いや、ちょっとお待ちを。
 今ちょうど、珍客を招き入れてしまったようだ。
「お前、全然死ぬ気ないだろ」
 そう言いながら、扉を押し開けて、入ってきたのは種田たねだ晃太郎こうたろうである。たしかもう三十五歳になるはずだ。スーツをスポーツウェアのように着ている体育会系の男だ。
(これは、どういうことだ)
 私は視線を厨房の前にいる王丹おうたんへと向ける。髪を一つにまとめ、化粧っけのない、この店の女性オーナーも驚いている。「なぜ」と口を動かしている。
 その目は、晃太郎の後から、親しげに連れ立って現れた女性を見つめている。
 その女性とは、東山ひがしやま結衣ゆい。晃太郎より三歳ほど若く、いつも通り、ゆるいオフィスカジュアルに身を包んでいる。
 彼女はこの店ができて間もない頃から通っている常連である。王丹とも親しい。何を隠そう、この店に沢山の人が来るようにと、私を王丹に贈ったのは、他でもない彼女である。
「晃太郎こそ、死ぬ気満々って感じで、嫌だなあ、そういうの」
 そう言いながら、私のすぐ前のテーブル席を選び、荷物を椅子に置いている。
 びっくりして口がきけずにいる王丹と私(私はもとからきけないが)の代わりに、
「あれ、お二人さん、あんたら、とっくに別れたんじゃなかったっけ?」
 と訊いてくれたのは、別の常連であるおじさんだ。
 その通り、彼らは二年も前に別れたのだ。原因は二人の働き方があまりにも違うことだった。結衣は何があっても定時に帰る女。一方の晃太郎は二十四時間働く男。
 つきあっていた頃、二人はよくこの中華料理屋に来ていた。最初はお互いしか目に入っていないのではないか、と思われるほど仲が良かった二人だが、結婚という現実を前にして、少しずつ、その仲は怪しくなっていった。
 常にスマートフォンを傍らから離さず、業務メールが来ればすぐ対応する晃太郎に待たされながら、結衣が黙ってジョッキを傾けているシーンを、私は何度も見た。
 結局二人は別れ、結衣は今年、同じ業界で働く別の男性と婚約した。今度はプライベートを大事にする人らしい。結衣を一人で待たせない男だそうだ。
 そんないい人がいるのに、なぜ、この男と二人っきりでご飯など食べに来るのか。
 実は、二ヶ月ほど前、閉店間際にも二人で来たことはある。部下の面倒を見ているうちに仕事が終わらなくなった結衣を、晃太郎が手伝い、一緒に残業するはめになったと言っていた。その流れで夕飯を食べに来たらしい。どちらも疲れた顔をしていて、湯麺タンメンを食べて帰っていった。
 しかし、その時と違って、今、二人の間には仕事の空気が挟まっていない。
 怪しいぞ、と思っている私の代わりに、
「元彼と、思い出の店に、そんなに楽しそうに来ちゃっていいのかなあ」
 と、おじさんが訊いている。さすが酔っぱらいだ。若者のプライバシーに踏みこむ下世話っぷりが今は頼もしい。
「婚約者に怒られない? またまた、結婚ダメになっちゃったりして!」
 それを聞くと、さっきまで笑っていた結衣の目が死んだようになった。
「いいんです、もうダメになったので」
 そう言って、倒れこむように、椅子に座りこんでいる。
「ダメになったってどういうこと」
「浮気。浮気です。今さっき、その現場に遭遇してきて」
「えっ、現場って?」
「私と借りた新居です。その寝室で、若い女の子と」その先は、辛すぎて言えないらしい。「今夜は飲みます。……ビール!」
 王丹も驚いたのだろう。「すぐ持ってくる」とだけ言って厨房へ入っていく。
「えっと、それで晃太郎くんは? 何で一緒にいるわけ?」
 おじさんはまだ頑張って、ワイドショーの記者よろしく、二人の仲を詮索している。
「俺は、たまたまその居合わせて……というか、結衣の代わりに、その、寝室の中を確認しまして……。あの、王丹、俺はとりあえずハイボールで。紹興酒入ってるやつ」
 テーブルに立っているメニューを手に取りながら、晃太郎が言う。
「何で晃太郎くんがそんなとこに、たまたま居合わせるのよ」
「それは」晃太郎は気まずそうに言う。「うちのチームは、この週末、燃えた案件の納期が迫っていて、俺も結衣も会社から帰らずに仕事して、今朝ようやく終わったんです」
 この二人は近くのオフィスビルにあるウェブ関連の会社で同僚として働いているのだ。
「でも、彼女は過労で倒れて、その時、ひたいも切って、病院に搬送されまして」
「えっ、搬送? 救急車で?」
 ぎょっとした顔のおじさんに、
「これ、ここです。ここを縫いました。ブラックな上司のせいで」
 結衣が前髪を上げて額に貼られたガーゼを怒ったように見せている。
 ブラックな上司、というのは、たしか福永という男だ。この間、ここで二人が湯麺を食べていた時に、会話に登場していた。
 なんでも慈善事業のような予算で仕事を受けてしまう男らしい。そのせいで職場環境はどんどん悪化している、という話を結衣がしていた。
「みんなを家に帰すため、福永さんを案件から外そうと戦った結果が、これですよ。プライベートをないがしろにして、東山結衣、またもや幸せを逃しました」
 それを聞いて、晃太郎がうしろめたそうな顔になる。
 結衣がそこまでしなければならなくなった経緯に、この男も関与しているのだろう。
 何しろ長時間労働が好きな男なのだ。好きすぎて、二年前、この男も過労で倒れた。よりにもよって、両家の顔合わせの日に。
 ――仕事と、私との結婚と、どっちが大事?
 結衣にそう尋ねられ、
 ――仕事だよ。
 と晃太郎は答えた。それで二人は別れたのだ。
 その後の結衣の荒れっぷりといったらなかった。ビール腹にだけはなりたくないと、普段は三杯くらいで止めているビールも、五杯、七杯と空けていき、記憶を失くした。いや、失くしたかったのだろう。
 その結衣を慰め、寄り添い、立ち直らせてくれたのが今の婚約者だったと、彼女自身がこの店で話していた。いい人が見つかってよかった、と常連のおじさんたちはみな言っていたのだ。
「今日はウェスティンホテルで両家の顔合わせがあって」
 結衣もメニューを広げたが、その目はどこか遠くを見ている。
「無理して退院して、晃太郎に付き添ってもらって、婚約指輪を取りに新居に帰ったら」
 そこで婚約者が若い女としけこんでいたというわけか。
「私が仕事にかかりきりになったから、だから……」
 両家の顔合わせの日に、またもや結婚がダメになるとは、結衣も運がない。
「結衣はショックでぼんやりしてるし、俺は俺で人のセックスなんか見ちゃって消化不良になるしで、それで現場から直接、こちらに来たというわけです」
 と、晃太郎が話を締めくくる。
 おじさんは黙っている。面倒なことになったぞと思ったらしい。さりげなく体の向きを替え、この話からの離脱を図っている。
 結衣は失恋すると荒れる。うっかり捕まれば、別れた原因の解明につきあわされ、「私が悪かったんでしょうか」という問いに「そんなことないよ」とエンドレスで答えなければならない。晃太郎と別れた時がまさにそうだった。この店の常連はもう懲りているのだ。
 王丹が荒っぽい足取りで出てきた。結衣の前にはビールのジョッキを置き、
「結衣さんの幸せをまた壊したな」
 と晃太郎の前に氷をどんと置いてアイスピックを深々と刺す。
「王丹、誤解だ。案件が燃えたことには、たしかに、俺にも責任があるけど、浮気したのは諏訪すわさんだし」
 晃太郎は弁解しているが、私も王丹と同意見だった。
 結衣は別れてからもずっと晃太郎に未練があったのだ。諏訪たくみ、という新しい婚約者のことを、結衣は本当に好きなのだろうか、と私はずっと疑問であった。
 結衣は巧を一度もこの店に連れてこなかった。
 何があっても定時には退社し、この店のハッピーアワーに駆けつけて、半額のビールを飲む。常連のおじさんたちと世間話をしながら、蟹玉定食や炒飯を食べる。
 そんな他愛もない、平凡な日常に、結衣は巧を招き入れようとしなかった。結衣を連れていくのは予約の取りづらい話題の店ばかり、という婚約者には、素の姿を見せられなかったのかもしれない。そんな相手と、果たして結婚生活を――果てしのない日常の繰り返しを、営むことができるものだろうかと、密かに案じていた。
 それでも、晃太郎さえいなければ、この男と同じチームにさえならなければ、結衣は自分を大事にしてくれる巧と結婚したはずだ。今頃は互いの両親を引き合わせて、結婚式の段取りの相談でもしていたはずだ。
「あの、一応、客として来たので、注文していいですか」
 そう言う晃太郎を、王丹は「ふん」と睨みつけて、注文票を取りにいく。
「結衣、とりあえず乾杯しよう。納期、お疲れさま!」
 たいして嬉しくなさそうな顔で、結衣はジョッキを掲げ、「かんぱーい」とつぶやくと、一気に飲み干している。それを見て、「ちょっとペース早い」と晃太郎が言う。
「いや、私は飲みます。今夜だけは飲ませて」
「でも、さっきまで点滴してたんだぜ。しかも昨日から何も食ってない。そんな飲み方したら、また倒れるって。先に何か食べよう。何食いたい?」
 晃太郎の声はどことなく高揚している。
「自分で頼みます」結衣はメニューを奪い取って言う。「仕事じゃないんだから、いちいち指図しないで」
 そうだそうだ、と私も心の中で野次る。結衣がフリーになったからといって、彼氏面するな。
「指図なんかしてない。俺はただ、お前の体を心配して――」
「誰のせいで、こうなったと思ってるの」
 語気強く言ってから、結衣はメニューから顔を上げ、気まずそうに「言い過ぎた」と付け加えている。
 晃太郎は「悪いと思ってる」と叱られた子供のような目で、結衣の額の傷を見ている。
「俺が、結衣をちゃんと定時に帰らせてやってたら、今ごろは諏訪さんと……」
 結衣はそれを聞いて、メニューに目を落とした。
「そういうこと言ってるんじゃないです」
「じゃ、どういう意味だよ」
 あなたが同じチームになんか来るから。結衣はそう言いたいのだろう。この男と同じ職場になった時点で、新しい婚約者とはうまくいかなくなることは必然だったのだろう。
 でも、結衣は何も言わなかった。そのまま二人は黙りこむ。他に客がいない店内は静まり返った。皿にレンゲがぶつかる音一つしない。緊張に耐えられなくなったのか、
「あのさ、さっきさ、二人が入ってきた時、何話してたの?」
 おじさんがこちらを向き、話の穂を継ぐ。
「全然死ぬ気ないとか、死ぬ気満々とか、言ってたじゃない?」
「……ああ」
 結衣がホッとしたように口元を綻ばせて、晃太郎を見る。
「ここへ来るタクシーの中で、この人が言い出したんです。もし、明日死ぬとしたら、何を食べたいかって」
「そんな、晃太郎くん、結衣ちゃんが死ぬなんて縁起でもない」
 おじさんは顔をしかめた。私も落ち着かない気分になる。
 無理をしない主義だったはずの結衣が、過労で入院した。それだけで、彼女を取り巻く環境が悪いほうへ向かっているように思われて心配なのに。
 職場を戦場だと言い、上司に命令されればどんな理不尽にも耐えて二十四時間働く。この男は周りの人間をも巻きこんで死に向かっていきそうな空気をまとっている。
 結衣がこの男と別れたのは誰よりもそれをわかっていたからだろう。晃太郎が目の前で死ぬのを見たくなかった、だから私は逃げたのだ、と別れた直後にそう言っていた。
「仮定の話です。だいたい、話を振ってきたのは結衣のほうですよ」
 晃太郎は弁解している。
「空腹のまま死ななくてよかった、もしそうなってたら死んでも死にきれない、ってタクシーでしきりに言うから」
 それで、明日死ぬとしたら、という話になったのか。結衣がその後を続ける。
「で、晃太郎が先に何食べたいか言ったんですけど……何て言ったと思います?」
 おじさんはろくに考えず、「何にしたの?」と晃太郎に尋ねている。
「白い飯です。それに味噌汁と、あじの干物くらいかな」
「そんな粗食でいいのかって思いません? 死ぬ前ですよ」
「死ぬ前だからこそ、日本人らしく、潔く、澄み切った心になれるようなものをだな……」
 あまり面白い回答でなかったためか、おじさんは晃太郎の言葉を遮り、
「で、結衣ちゃんは」
 と尋ねている。「それですよ」と結衣は腕を組んだ。
「ここに到着するまで、ずっと考えたんですけど、まず叙々苑の焼き肉でしょう」
「まず、ってなんだよ、まずって」晃太郎が言う。
「あと海鮮。岩手産の生牡蠣を、辛口の吟醸と一緒に」
「死ぬ前によくそこまでこだわれるよな」
「でも、やっぱりビールかなって。なら焼き鳥かな。その後はラーメンで締める。二郎系か家系。いや、ラーメンやめて、カツ丼にしようかな」
「全然死ぬ気ないだろ、お前」
 なるほど、ちょうどそのツッコミが出たところで、二人はこの店の扉を開けたのか。
「ほんと、そういうとこ昔から理解できない」
「晃太郎こそ、あきらめるのが早すぎるんだよ」
 結衣は何が気に障ったのか、不機嫌な顔になり、メニューをパラパラめくっている。
「死ぬってわかってる時に、カツ丼なんか食えないって、普通は」
「じゃあ、もしかしたら助かるかもしれない、って希望を胸に食べれば? そしたら美味しいよ」
「いや、助からない、絶対に」
 そうかな、と結衣はむきになったように言う。
「予想もつかないことが起きるのが人生でしょう。バブルが弾けたのだって、リーマン・ショックだって、誰も予想できなかったんだから」
「俺はバブルが弾ける前にマンション買っちゃったんだよな……」おじさんが顔を曇らせた。「まさか金利がこんなに低くなるとは」
「ほらね」とがっくりと頭を垂れたおじさんを指して結衣は晃太郎に言う。
「それは、悪いほうに転んだ例だろ? なまじ希望を抱いてやっぱり助からないってわかったらどうする」
 晃太郎はあくまで死ぬ方向に持っていく。
「それでもいい。ギリギリまで、めいっぱい、楽しく生きられれば。晃太郎だって、いよいよ死ぬとなったら思うよ。ああ、やっぱりカツ丼にしとけばよかったって」
「思わない」
「思います、絶対」
 結衣は言った。なぜかはわからないが、その声はまじめな調子を帯びている。
「あきらめなきゃよかったって、絶対に後悔するに決まってる」
「俺は思わない。っていうか、早く注文しよう」
 晃太郎が結衣からメニューをひったくり、代わりにめくりはじめたが、
「後悔してるって言ってたじゃない」
 と、結衣がつぶやくのを聞いて、その手が止まった。
「おととい、そう福永さんに言ってたじゃない。私と別れたこと、後悔してるって」
「それは」晃太郎の目がメニューの上を滑っている。「別の話だ」
「同じだよ」結衣は頑固に言い張る。「同じ話だって私は思う」
 晃太郎は黙りこんだ。これ以上は聞かないほうがいいと思ったのだろう、おじさんも体を動かしてむこうを向く。さっきとは別の緊張に満ちている空気の中で私は、
(食べることと、恋をすることは、同じ話なのか)
 と考えていた。

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 こういう店に置かれていると、自然と客の会話が聞こえてきて耳年増になり、世故に長けていく。でも、私自身はものも食べないし、誰かに恋したりもしない。
 だから、同じ話だ、と言う結衣の言葉は、肌感覚としてよくわからない。
 ただ、どちらもやたらに熱を発しそうだとは思う。そのエネルギーで人は動く。がむしゃらに働いたり、子孫を残したりする。理性を越えた生の営みがそこにはある。
 そこが冷たい陶器の体を持つ招き猫と違うところだ。
 結衣は少し黙っていたが、声をひそめて、晃太郎に言った。
「二年前、別れた日の朝に、私にしたこと、覚えてる?」
「え?」
 晃太郎は眉をひそめている。結衣はさらに音量を落として言う。
「うちの両親に婚約解消のこと謝りに行くってそっちが言って、じゃあその前に置きっぱなしの荷物取りに行くってこっちが言って、晃太郎の部屋に行ったでしょ。その時に」
「……ああ」
 晃太郎は意味がわかったらしい。目を泳がせている。
「お泊まり用のパジャマを畳んで紙袋に入れてたら、晃太郎が横からギュッてしてきて。覚えてない?」
「いや、覚えてる。覚えてるから、そんな、詳細言わなくても」
「終わりにするって、あんなに話し合ったのに、何でこんなことするのって思ったけど」
 いや、と晃太郎もむきになったように言う。
「あの時は、俺だけじゃなくて、結衣だって自分から」
 その先はさすがにマナーに反すると思ったのだろう。晃太郎は口を噤む。
「晃太郎はまだあきらめてないんだって思った。……なのに、それっきり黙って、パジャマの入った紙袋持って、さっさと移動が始まって」
「それは、結衣が言ったからだろ。そろそろ実家行く時間じゃないのって」
「だって、晃太郎がどういうつもりかわからないから」
「ああいうことしたわけだから、どういうつもりかくらい、わかるだろ」
「そんなの、口に出して言わなきゃわかんない」
「言おうと思ったけど、言えなかったんだよ。結衣のほうは、とっくに割り切ってるのかもって思ったら」
「ああいうことされて拒否しなかったのに?」
「単なる思い出作りかもしれないだろ。だから、どうしても言えなかった。でも」
 晃太郎はそこで言葉を切り、言いづらそうに言った。
「後悔してた。二年間、ずっと」
 結衣の目が揺れた。「ほんとかなあ」と、その唇が動く。「今もそう思ってる?」
 その後ろで、おじさんがぴくりと動く。聞かないフリをして、耳をそばだてていたのだろう。
「思ってる」晃太郎が言った。「諏訪さんがいたから遠慮してただけで」
 おやおや、と私は成り行きを見守る。
 この二人の生き方が今後、一致することは、きっとないだろう。この男は変わらない。結衣も変わらない。お互い頑固なのだ。またダメになって結衣はボロボロになる。
 よりなんか戻さないほうがいい。
 私はずっとそう思ってきた。なのに、
「結衣さえよければ」
 と、晃太郎がずっと持っていたメニューを閉じ、
「虫のいい話だけど」
 と、極度に緊張した面持ちで、言葉を継いでいるのを見ると、つい、
(早く言えよ)
 と、じれったくてたまらない。おじさんも、私も、息を殺して、その時を待つ。
 しかし、晃太郎は言った。
「いや……今日はやめとく」
 おい、とおじさんが声を出さずにつぶやいているのが見えた。
「納期が終わったばっかだし、トラブルなくサイト公開が終わるまでは、お互いそっちに集中したほうがいい」
 せっかく諏訪さんが浮気して、うまいこと彼女がフリーになったんじゃないか。
(ほんとに、自分の気持ちを言えない奴だな、この男は)
 日本男児らしい、と言えば聞こえはいい。でも、そうやって自分の欲望を抑制しすぎるから、上司の命令に従って働きすぎるはめになるのではないか。
 結衣もそう思ったらしい。
「晃太郎はやっぱ変わってないね」
 そうつぶやいて、壁を見ている。そこには半年前に亡くなった常連の写真が貼ってあった。この店の忘年会で撮ったもので、箸をマイクにして歌っている姿が映っている。回鍋肉ホイコーロー定食ばかり食べるおじさんで、食べ終わると職場に戻るのが常だった。
「そうやって、あきらめてばっかいると、気づいた時には死んでるんだよ」
 結衣がまたつぶやく。回鍋肉のおじさんは、残業のために戻った職場で、おそらく過労で、誰にも看取られずに死んだ。
 彼が最後に食べたのは、たぶん回鍋肉だ。早くかきこめて、胃にもたれないので、残業前にちょうどいいんだ、と話しているのを私は聞いたことがある。
 でも、それが、彼が本当に欲した人生だったのだろうか。
 もうすぐ死ぬとわかっていたら、別のメニューを頼んだかもしれない。いや、その前に家族のもとに帰ったかもしれない。妻と二人の息子のもとに。
 でも、回鍋肉のおじさんは仕事を選んだ。そして人生の終わりは突然訪れた。
「まあ、いっか」
 結衣がやけっぱちになったような明るい声で言った。
「もう終わった話だしね。お互い、次に進みますか」
 晃太郎は迷子のような顔になった。「次って?」と結衣に尋ねている。「……え、もしかして、他に気になる奴でもいるとか?」
 そこへ、タイミングを見計らったように現れたのは王丹である。
「注文を言え」
 と、注文票とボールペンを持って、晃太郎を見下ろすその目には勝ち誇った笑みが浮かんでいる。私以上に、この二人をくっつけたくないのがこの女店主である。
「今言う」
 結衣は晃太郎からメニューを奪い、すばやくめくると、
「これ、どんな料理なのか、ずっと気になってたんだけど」
 麻辣馋嘴蛙マーラーチャンズイワー、という品名を指さしている。
「蛙のスープよ」王丹が言った。「天にも昇るほど美味しい」
「じゃあ、これにする」
「結衣ちゃん、それはほんとに辛いよ」
 おじさんもふりかえって言う。この常連は辛いものが好きで、いつも火鍋やら、担々麺やらを頼んでいるのだが、その人が、まじめな顔で止めている。
「暴力的なレベルの辛さだ。辛さを通りこして痛い」
 しかし、結衣は首を横に振った。
「だったら、なおさら食べてみたい。嫌なこと全部忘れられそうだし。ビールも追加で」
 王丹は「わかった」と注文票に書き入れ、ふっと笑って晃太郎を見ると、厨房へ戻っていく。お前も忘れられてしまえ。そう言いたげな笑みだった。
「そんな胃に悪そうなもの食って、知らないぞ、俺は」
 晃太郎が言い、それきり、気まずい時間が流れる。しかし、料理にはどんな場の空気をも変える力がある。麻辣馋嘴蛙が運ばれてくると、二人の会話はまた始まった。
「うわー、すごい。晃太郎、見て。唐辛子がどっさり入ってる」
「スープが見えないほど入ってんな。それ蛙? 俺、初めて食うわ」
 結衣が赤いスープからすくいだした真っ白な肉を、晃太郎は臆した表情で見つめている。透明な脂がからみついて輝いているその肉を、結衣は躊躇ためらうことなく口に入れる。
「脂が、甘い……」その顔が陶酔したようになる。「あ、でも辛い。いや、痛い」
「やっぱやめといたら」と、晃太郎が心配そうに言った。「すっげえ胃に悪そう」
「でも美味しいよ。痛いけど、やめられない」
 晃太郎もおそるおそる、という感じで手を出している。そして「旨い」とつぶやいている。「あ、でも、痛い」
 旨い、と、痛い、が何度も続き、結局二人はそれをたいらげた。
「王丹、ビールください」
「俺もビール」晃太郎は額に汗が滲んでいる。体育会系なので代謝がいいのだろう。
「食べてる間、私、なんか頭が吹っ飛んでる感じだった」
「俺も。頭真っ白になりながら食ってた」
「こんなに食べるのに夢中になったのって久しぶりだなあ」
 同じ料理を一緒に食べたことで、さっきまでの気まずさは吹っ飛んだらしい。
 結衣は王丹が運んできた新しいビールを飲むと、「あ、そういえばグロがね」と晃太郎のほうへ身を乗り出した。
 グロというのは、二人の会社にいる上役のことだ。直属の上司ではないが、年齢が近いので結衣とは仲がいい。ここにも一度か二度、来たことがある。
「最近、奥さんと夜の生活がうまくいっていないらしいよ」
 というゴシップ話を結衣は始め、「え、あの石黒いしぐろさんが?」と晃太郎がおかしそうに聞いている。
「グロって、私が入社した頃はまだ痩せてて、わりとかっこ良かったんだよ。でも最近は太ったし、不摂生ばかりしてるし、運動不足なんじゃないかって私は思うんだよね。だから言ったの。晃太郎と走ればいいじゃないって」
 そのまま二人は、会社の同僚たちのことを話しはじめた。「やっぱ、あの人のこと、そう思ってたんだ」とか、「結衣ってあいつのこと苦手だろ」とか言い合って、くつろいで笑っていた。つきあっていた頃のようだ、と私は思った。
 話はなかなか止まらず、そのうち、店内は夕飯時を迎えて混み出した。
 年度末が近いということもあり、少人数の送迎会の予約もいくつか入っている。店内は食器のぶつかる音や、笑い声で満ち満ちた。客の一人が飾り棚の上に荷物を置きたいと言い、王丹は私を厨房の脇に移動させた。
 それきり、結衣と晃太郎の会話は聞こえなくなった。私は少し離れた距離から、何度もビールを頼んでいる結衣を見つめていた。
 生き方も働き方も、死ぬ前に食べたいものも違うのに、よく話が続くものだ。
 いや、違うからこそ、話が尽きないのか。
 でも、違うからこそ、近づけば対立し、傷つけ合うことになる。
 再び聞き取れるようになったのは、九時を回った頃だった。客が少なくなり、荷物もなくなって、王丹が私を液晶テレビの脇に戻したのだ。
「帰りたくないなあ」
 結衣はぼやいていた。
「またもや結婚がダメになって、怒ってるだろうな、うちの両親」
「でもそろそろ横になって休んだほうがいい。送ってく」
 晃太郎は王丹に手を振り、会計してくれ、というジェスチャーをしたが、
「帰りたくない」結衣は酔いでとろんとした目で、空になったジョッキの縁を見ている。「父に会いたくない。絶対怒られる。ネットカフェでも行こうかな」
「馬鹿言うなって。今朝まで入院してたんだぞ。……あ、ここは俺が払います」
「でも」
「払わせて。福永さんの件では色々迷惑かけたし」
 会計が済んでも、結衣は座ったままだった。料理がなくなった皿をぼんやりと見つめている。「実家の近くまで送ってく」と晃太郎が立ち上がろうとすると、結衣は言った。
「面白い話して」
「は? 何、いきなり」
「さっき、晃太郎と馬鹿な話してる時は、嫌なこと全部忘れられてた」
 結衣は白い皿に入ったレンゲを突つきながら言う。
「面白い話してくれたら、その話を思い出しながら頑張って実家に帰るから」
「……そんなこと急に言われても」
 晃太郎は困ったように頭を掻いたが、息をついてまた結衣のむかいに座った。
井森いもりさんって覚えてる? 俺んちの隣に住んでる独身のサラリーマン」
「ああ、うん」結衣はうなずく。「四十代くらいのね」
「あの人に、一ヶ月前くらいに廊下で会って言われた。最近、壁を蹴る音しないですねって。前はよく、小さくドンドンって音したけど、あれなんだったんですかって」
「壁蹴ってたの、晃太郎」結衣が眉をひそめる。「何で? 近所迷惑な」
「いや、俺じゃなくて、お前がやってたんだろ」
「え?」
「自覚ないの?」まだ残って飲んでいるおじさんのほうをちらりと見て、晃太郎は小声になる。「ほら、その、なんだ、あれの時、……蹴ってたじゃん。ベッドの脇の壁を」
「あれの時」結衣の目が宙をさまよう。
「クライマックス的な時に」
「……ああ」ようやく意味がわかったのか、結衣は目を伏せている。
「井森さんには俺の寝相が悪いからだって誤摩化したけど」
「そんなに蹴ってた、かなあ。ごくたまに、でしょ」
「井森さんによれば、週末は必ず聞こえたって――」
「その話のどこが面白いわけ」結衣の頬は赤くなっている。
「え、面白くない? 俺はめちゃくちゃ面白かったけど」
「面白くない」
 そう言いつつ、結衣は怒った顔のまま考えこんでいる。少しして、彼女は「巧との時は」とつぶやいた。「蹴ったことなかったな」
 それを聞くと、晃太郎は「ふうん」と面白くなさそうに横を向いた。
「広いですものね、お宅の新居の寝室は」
「そうじゃなくて、その、クライマックス? ない、というか」
 晃太郎の目が見開かれる。「……一回も?」
「巧は淡白だから」
「ふっ」と晃太郎が吹きだしそうになり、笑いを噛み殺しながら言う。「下手なだけだろ」
「私に魅力がなかったのかも」
「それはない」
「だって浮気した相手とは盛り上がってたんでしょ?」
「そこまで見てない。とにかく結衣のせいってことは絶対ない」
 それを聞くと、結衣は少しだけ笑った。そして、うっすら滲んできた涙を拭った。
 晃太郎に未練を残しつつも、結衣は結衣なりに、巧との関係を築いてきたのだろう。強がってはいたけれど、浮気されたことがショックだったのだろう。
「ありがと」テーブルのおしぼりで涙を拭いて、結衣は言った。「少し、さっぱりした」
 聞き耳を立てていたらしい、おじさんが小さく息をつくのが見えた。
 なんだかんだ言って、結衣の心を動かすことができるのは、この男だけなのだ。それに晃太郎自身が気づいていないのが、もどかしい。しかし、
「でも、やっぱり、帰りたくない」
 駄々をこねるように言う結衣を見て、さすがのこの男も、今しかない、ということに気づいたらしい。勇気を振り絞った顔になって言った。
「じゃあ、俺のうちに来るか」
 その言葉を、結衣も待っていたのだろう。うなずきかけて、「いや、どうしよう、行ってもいいのかな」と、まだ躊躇っている。
「そんな警戒しなくても。ベッド貸すだけだから。とにかく今夜は早く休んだほうがいい」
「だとしても、泊まったって事実ができたら、ほんとのほんとに、巧と終わりになっちゃう」
「まだあんな浮気野郎のこと、引きずってんのか」
 晃太郎もさすがに痺れをきらしたらしい。強めの口調で言う。
「もし明日死ぬとしたら、それでも諏訪さんのとこに戻るのか。壁蹴らないまま死ぬのか。生きることをあきらめてるのはどっちだよ」
 それを聞くと、結衣は目を潤ませて黙りこんだ。しばらく誰も何も言わなかった。
 厨房のほうから、皿を洗う音が響いてくる。勢いよく流れる水道の音もする。そろそろ閉店の時間だ。そう思った時、
「行く」
 結衣が立ち上がった。
「晃太郎んちに行って、壁を蹴る」
「えっ?」驚いているのは、他でもない晃太郎だ。「いや、いやいやいや、そういう話では……。それに、今夜はさすがに、俺も三徹してるし」
 などと、しどろもどろになっているこの男に、結衣は強引に言った。
「行くの、行かないの?」
 晃太郎は気圧されたような顔になり、慌てたように「行きます」と自分の鞄を摑み、先に歩きはじめた。結衣がその後を追う。
 二人の姿が扉の向こうへ消え、バタン、と閉まると、
「行っちゃったよ」
 と、一部始終を聞いていたらしいおじさんが厨房の前にいる王丹のほうを見た。
「行かせちゃってよかったのかなあ」
 私も同じ気持ちだった。途中、あまりにじれったいので、うっかり晃太郎を応援してしまったが、よくよく考えれば、一度はひどい別れ方をした二人なのだ。
「結衣ちゃん、理性ふっとんでたね。ありゃ今夜中には、より戻るね」
「それはどうかな」
 王丹がつぶやいた。その口元は不敵に笑っている。彼女の指は厨房の入り口にいくつも置かれたビールのジョッキを指している。七つある。
「これ、全部、結衣さんが飲んだ」
 おじさんが、「ああ」と溜め息をついた。私も心の中で溜め息をつく。
(これはダメだな)
 確実に理性がふっとんでいるであろう。……悪いほうに。
「私は止めたよ」
 と言いつつ、王丹は愉快そうだ。
 結衣は失恋すると荒れる。いつもは三杯で止めているビールを、五杯、七杯、と空けていったあたりで、別れた原因の解明がはじまる。私が悪かったのか、という問いが何度も繰り返され、エンドレスでつきあわされることになる。
 たどりつく答えはいつも同じだ。
 ――あの男は、絶対に、変わらないんです。
 そして、その前後の記憶は失くしてしまう。
「いやいや、でも、今夜はそうはならないかもしれないよ」
 おじさんが言うと、王丹は「賭けるか」と言い、レジまで行って一万円を抜いて戻ってきた。
「うわ、王丹、自信あるな。俺は千円でいい?」
 その千円を受け取り、王丹は私のほうへ近寄ってきた。背中の穴から、一万円札と千円札がねじこまれる。何を隠そう、私は貯金箱の機能も備えた招き猫なのだ。
「どうなったのか、結衣さんから言ってくるまで訊いたらダメ。約束よ」
 王丹がおじさんに釘を差している。
 果たして、あの二人はどうなったのか。
 その答えを私が知ったのはそれから三日後、晃太郎と結衣が所属するチームの打ち上げがこの店で行われた時だった。
 二人の間の空気はやけによそよそしかった。
 晃太郎が「お前とはもう仕事の話しかしない」と結衣に怒ったように言っている声も聞こえた。
 やっぱりダメだったらしい。
(まったく、なんだよ)
 そんな気分でいっぱいである。
 おそらく当分の間、この二人は同僚の関係のままなのであろう。
 その先のことは私にも予想がつかない。ただ、本当の終わりが来るその時まで、後悔することがないように熱を発して生きてほしいと、そう願うばかりである。
 せっかく温かい人間の体を持っているのだから。

(了)

小説新潮 2019年3月号より

※このつづきが気になる方は続編の『わたし、定時で帰ります。ハイパー』へ!

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