MISSING 失われているもの
1,650円(税込)
発売日:2020/03/18
- 書籍
何かが失われている。世界から? お前自身から? 5年ぶり待望の長篇小説!
この女優に付いていってはいけない――制御しがたい抑うつや不眠に悩んでいた小説家は、混乱と不安しかない世界に迷い込み、母の声に導かれて迷宮を彷徨い続ける。『限りなく透明に近いブルー』から44年。ひと筋に続く創造の軌跡の集大成にして重要な新境地作。「こんな小説を書いたのは初めてで、もう二度と書けないだろう」。
第2章「東京物語」
第3章「しとやかな獣」
第4章「乱れる」
第5章「娘・妻・母」
第6章「女の中にいる他人」
第7章「放浪記」
第8章「浮雲」II
第9章「ブルー」
終章「復活」
書誌情報
読み仮名 | ミッシングウシナワレテイルモノ |
---|---|
装幀 | 村上龍/装画CG作成、新潮社装幀室/装幀 |
雑誌から生まれた本 | 新潮から生まれた本 |
発行形態 | 書籍 |
判型 | 四六判変型 |
頁数 | 264ページ |
ISBN | 978-4-10-393402-8 |
C-CODE | 0093 |
ジャンル | 文学賞受賞作家 |
定価 | 1,650円 |
書評
媒介としての「母なる幻想」
村上龍の五年ぶりの長編には驚かされた。本作は過去のどの村上作品にも似ていない。従来の村上龍の作風は、基本的にきわめて技巧的かつ構成的であり、対象物に鮮明にフォーカスした視覚的な描写が特徴的だった。しかし本作の手触りはまるで異なる。作家自身のリアルな追想が、半ば独白めいた一人称で断片的に記述されていく。
みかけは一種の幻想小説で、私はまず内田百閒を連想した。ただ、内田の幻想小説(『冥途』『旅順入城式』など)は、かなりあからさまに夢の論理(≒錯論理)で成立しているのに対して、本作は幻想的でありながらも並行して自己分析のドライブが作動しており、言わば明晰夢のような趣がある。自身の無意識を掘り下げていくという点では村上春樹的な手法のようにも思われたが、本作はメタレベルが何重にも入り組んでいて、眩暈のような感覚にしばしば襲われる。基本的にメタ的手法を用いない春樹とはきわめて対照的だ。
どうやら作者自身とおぼしい作家の「わたし」が、謎めいた女優「真理子」に導かれ、現実と幻想、現在と過去が複雑に入り乱れる世界を彷徨する。「わたし」が乗る電車では乗客が「みな後ろ姿」だったり、「清楚な食虫植物という感じの巨大なツツジの花弁」を通過したりなど、村上龍らしい鮮烈なイメージが繰り返し出てくる。本書の章タイトルの多くが、「浮雲」「乱れる」「放浪記」など、村上が敬愛してやまない成瀬巳喜男監督作品から採られているのも興味深い。
本作にはまた、作者の分身とおぼしい存在が繰り返し登場する。例えば、飼い猫の「タラ」。“彼女”は作家の思考に容赦なくツッコミを入れ、時にはなすべきことを示唆しさえする。しかし作家は、それが自身の分身であることを知っている。例えばこんなふうに。
「もちろん、タラの言葉ではなく、わたしの意識をリフレクトしているだけだ。何がわかりきっているというのか。おそらくタラは、わたしの意識や感情だけではなく、無意識の領域の記憶や思いを拾い上げているのかも知れない」と。しかしそんな洞察にも、タラはにべもない。「お前の無意識なんか、覗き見できないし、興味ないよ」と。
あるいは作家に助言する若い心療内科医。医師は、作家の体験を聞いた上で「病気ではない」と断ずる。あるいは作家という職業柄、強い想像が現実を包み込んでしまうことがありうる、と解釈する。しかし医師ならば、異常な体験を聞いたらまず、可能性の高い診断名をいくつか挙げた上で、「でも軽いから大丈夫」などと説明するものだ。想像が現実を覆ってしまったら、まず幻覚を疑うのが通常である。要するにこの心療内科医もまた、作家の分身である可能性が高いのだ。
してみると本作は、謎の女「真理子」を導きの糸として、作家が自身の無意識へとダイブしようとする試みなのかもしれない。ただし作家は賢明にも、無防備のまま自身の無意識と向き合う危険を予期していた。「タラ」や「心療内科医」をはじめとする分身は、作家を自己分析という形式で“現実”につなぎ止めるための命綱ではなかったか。
真理子の導きで辿りついた「アジサイが咲き乱れる場所」で、作家は聞き覚えのある声を聞く。それは母の声だった。母は作家の幼児期の記憶を語る。「いやなことは絶対にしない子」だった彼を、母は「好きだった」と繰り返し言う。また母は、作家が「この世の中でもっとも好きな映画」(おそらく成瀬巳喜男の「浮雲」)のあるシーンを例に出して「そういった瞬間には想像力の暴走と逆襲がないから」不安も恐怖もないと指摘し、小説は作家にとって最大の救済であると同時に抑うつを植えつける、とも指摘する。この時点で母は、ある種の万能性に近づいている。
本作の大部分を占める母の幻想がなぜ登場したのか。「自分でもわからない」と村上は述べている。評者の推測はこうだ。自身の無意識と分析的に向き合い続けることは、人をしばしば「退行」に導く。退行の最深部で人は、原初に抱いていた「万能の母(ファリック・マザー)」の幻想に行き当たる。ただし村上は、その幻想と安易に一体化することを潔しとしなかった。彼はあたかも母の幻想を媒介に、さらに自身の無意識へ探査を進めようとしたのではなかったか。その意味で本作は、私小説などよりはるかに村上自身をさらけ出す試みとも言えるだろう。
こんな作品は二度と書けないだろう、と村上は記している。しかし評者は、ある種の「危険」を承知した上で、「この先」の物語を読んでみたい、という思いを禁じえない。
(さいとう・たまき 精神科医)
波 2020年5月号より
単行本刊行時掲載
再生する村上龍 表現の源を見つめる
油断していた。いや、油断ともちょっと違うか。先鋭的な問題意識で時代に切り込み、さまざまな手法で思い切った強度の物語性の中に現代の在り処を突きつけてくる、そんな村上龍作品の新たな誕生をワクワクしながら待っていたのだ。ところが、五年ぶりの長編となる『MISSING 失われているもの』は、そんな期待を木っ端みじんにし、見たこともない地平を現出させた。
ご本人に重なるような小説家の「わたし」を主人公に、無意識をたどる、これまた先鋭的な異色作なのである。浮かび上がるのは作家とは何者か、小説とは何かというテーマだ。自身の実体験を彷彿とさせるような1976年のデビュー作『限りなく透明に近いブルー』や青春小説『69 sixty nine』(1987年)もあるが、もっとずっと根源の混沌に潜っていく。そこは生と死のあわい、記憶も曖昧な領域だ。この作家にとって珍しいことに私小説的でもあるが、いわゆる私小説とは別物だ。
すべての始まりは、飼い猫の声が聞こえてきたことだった。自分の考えていることが猫に反射されて返ってきているだけだと分析する「わたし」に対し、猫は「無意識の領域から、他の人間や、動物が発する信号として、お前自身に届く。(中略)お前は、(中略)それを文章に書いたりしてきたんじゃないのか。表現者の宿命だ」と核心的なことを口にする。無意識とは何か。そして「お前が、探そうとしているのは、ミッシングそのものなんだ」と言う猫に促され、無意識への旅の幕が上がる。
「わたし」は不安や抑うつを抱えてカウンセリングを受けてもいたから、無意識への旅をするのは必然性もあったわけだが、心療内科医が「過剰な想像が、現実を包み込んでしまったり」すると説明する事態である。
まず導き手となるのは若い女優だ。定宿としているホテル近くの公園や部屋、廊下をめぐっているうちに記憶が揺らぎ出す。昔からだというある性癖が頻繁に顔を出す。刺激的なイメージにとらわれて記憶が曖昧になるとき、三本の光の束がスクリーンとなって死んだ子犬、写真、桜などさまざまな映像が見えてくるのだ。この経験を最初にした幼い日を鮮明に思い出す。過去と現在が交錯していく。そう、この旅は過去に向かう旅であった。そうなると、導き手にふさわしいのは母親だ。やがて母親の声が聞こえてきて、自分の旧朝鮮からの引き揚げ体験を語り、「わたし」の幼いころを語る。その母によって、今に続く「表現者」としての立ち位置が浮き彫りになってくる。
「ミッシング」として存在しているものが大きなファクターだ。すべてを記憶しているという“作家の目”について明かし、不安や抑うつを生じさせているものも絡み合って提示された物語は、表現の源を見つめる試みと言える。書くことでしか生きられない作家という存在が臨んでいる淵の深さは恐ろしいものがある。
そして本作には、もう一つ重要な点がある。母は言う。「あなたは立ち止まりたかっただけ」と。そして書いてきた作品は「あなたにとって、自分の死に向かっていく道標」だと。長い道程の先には「老い」があった。五年前の前作は老人たちが登場する『オールド・テロリスト』であったことを挙げるのはうがちすぎか。今回初めて自身の「老い」に向き合った結果、この異色作として結実した。表現の源に迫る必要のある、特別な作品になったのである。
ともあれ、それらが「わたし」を生かしている。第9章「ブルー」では、母の声と「わたし」の声が折り重なってデビュー作『限りなく透明に近いブルー』の成立過程が語りあげられていく。そのさまはぞくぞくするほど感動的である。そればかりではない。『限りなく透明に近いブルー』で小説世界のことを「宮殿」と表現したが、本書で作り上げた宮殿のあちこちに出てくる言葉のかけら、映画、小道具、情景に、これまでの作品のモチーフの数々が見つかって、ここに確かに村上龍がいる。本書は、以後、村上論を語るのに欠かせない一冊になるだろう。
幻想がどんどんヒートアップする。終章「復活」の幕引きは秀逸だ。パタンと物語は閉じる。閉じる言葉は力強く、笑ってしまうほど身もふたもない。しかし、それこそが小説家というものだと思う。これは、小説家の再生の物語であった。今、村上龍に必要な物語だったのではあるまいか。最初から村上龍ありて、これからも村上龍あり、という感慨が押し寄せてきた。
(ないとう・まりこ 文芸ジャーナリスト)
波 2020年4月号より
単行本刊行時掲載
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著者プロフィール
村上龍
ムラカミ・リュウ
1952(昭和27)年、長崎県佐世保市生れ。武蔵野美術大学中退。大学在学中の1976年『限りなく透明に近いブルー』で群像新人文学賞、芥川賞を受賞。1981年『コインロッカー・ベイビーズ』で野間文芸新人賞、1998(平成10)年『イン ザ・ミソスープ』で読売文学賞、2000年『共生虫』で谷崎潤一郎賞、2005年『半島を出よ』で毎日出版文化賞、野間文芸賞、2011年『歌うクジラ』で毎日芸術賞を受賞。『愛と幻想のファシズム』『五分後の世界』『13歳のハローワーク』など著書多数。