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黒澤明の羅生門―フィルムに籠めた告白と鎮魂―

ポール・アンドラ/著 、北村匡平/訳

2,750円(税込)

発売日:2019/05/29

書誌情報

読み仮名 クロサワアキラノラショウモンフィルムニコメタコクハクトチンコン
装幀 新潮社装幀室/デザイン
発行形態 書籍
判型 四六判変型
頁数 302ページ
ISBN 978-4-10-507111-0
C-CODE 0074
ジャンル 文学・評論
定価 2,750円

映画史上最大のミステリ! 監督の実体験を不朽の名作に昇華させた過程を読み解く世界初の試み。

ヴェネツィアとアカデミー賞を制し、「世界のクロサワ」を決定付けた屈指の名作『羅生門』。事件の真相が闇に葬られ、人のエゴが浮き彫りにされるといった普遍的なテーマを描きながら、ストーリーと細部には監督が目のあたりにした震災と兄の死など個人史と鎮魂のメッセージが刻まれていた。「日本でなく、外国で書かれたことに嫉妬を覚える」と研究者に言わしめた決定版映画論。

目次
序文 闇の中の光 チャン・イーモウ
1.プロローグ Prologue
2.門 The Gate
3.原光景 Primal Scenes
4.はじまり(野良犬の物語) Beginnings(A Stray Dog Story)
5.告白 Confessions
6.弁士 The Benshi
7.迷路 Labyrinth
8.証言者と沈黙 The Witnesses, and the Silence
9.黒澤兄弟を語る A Tale of the Brothers Kurosawa
10.もう一人の芥川龍之介 The Other Akutagawa
11.スローモーション Slow Motion
12.裁判 The Trial
13.レクイエム/再生 Requiem/Rebirth
参考文献
フィルモグラフィ
訳者あとがき

書評

黒澤映画に真実は存在するか

四方田犬彦

 ポール・アンドラは日本文学研究者であると同時に、すでに現代日本文学という物語のなかの重要な登場人物の一人でもある。彼は江藤淳のもとで学び、中上健次や柄谷行人と深い親交を結んだ。帰国してコロンビア大学で教鞭を執ると、同僚であるサイードと語らい、小林秀雄を英訳した。80年代の中ごろ、わたしは大学院でのアンドラ・ゼミを覗いたことがあった。両大戦間の私小説が取り上げられていて、大学院生たちが葛西善蔵や武田麟太郎を熱心に論じていた。
『黒澤明の羅生門―フィルムに籠めた告白と鎮魂―』は、そのアンドラが満を持して刊行した黒澤明論である。といっても、巷にいくらでもある黒澤映画の研究書ではない。20世紀前半の東京を舞台に、彼とその兄、丙午、さらに彼らを他界から静かに見つめている芥川龍之介の三人を描いた、スリリングな物語である。

 黒澤丙午(1906〜33)は時代のモダニズムとニヒリズムを一気に駆け抜けたような人生を送った。映画への熱狂が昂じて、映画雑誌やプログラムに寄稿。父親と対立して家出。やがて活動弁士として頭角を現し、東京でもっとも豪華な洋画専門館、シネマパレスの主任説明者にまで登り詰めた。もっともトーキー革命が日本に到来すると、弁士たちは次々と失職。丙午は彼らに呼びかけ、ストライキの先頭に立った。放蕩な浪費生活のはてに、カフェの女給を伴って、伊豆の温泉宿で自殺。享年27であった。
 4歳年下の弟、明は、丙午から決定的な影響を受けた。弱虫でいつも泣いていた幼い弟を、兄はつねに庇い、映画館へと連れて行った。弟は少年時代から劇場の暗闇で兄の声を聴き、映画に目覚めた。ヴァレンティノ、チャップリン、そして吸血鬼ノスフェラトゥ。兄は弟にロシア文学の偉大さを教え、弟が共産党の地下活動に従事していると、いずれは醒めるよという態度を見せた。弟は兄の突然の自殺に強い衝撃を受け、これからは映画の道に進もうと決意した。すでにトーキーの時代だった。彼はPCL(後の東宝)に入社した。「姿三四郎」で監督デビューし、戦後には「羅生門」(1950)でヴェネツィア国際映画祭グランプリに輝き、国際的映画監督としての道を進んだ。
 今日、黒澤丙午を知る者はいない。あまたのクロサワ研究家でも、彼に言及する者は皆無だ。だがこの夭折者の痕跡は、黒澤フィルムのいたるところに残されている。たとえば「わが青春に悔なし」は冒頭、丙午の没年である昭和8年を告げる字幕から語り起こされている。ゴーリキーからドストエフスキーにいたるロシア文学の翻案映画は、丙午から明へと継承された文学的情熱の結実である。そして「影武者」。「人の影はその人を離れて、独り歩きは出来ん。兄の影法師のこのわしは、兄を亡くして、いま、どうしてよいやら分からん。」「影武者」の主人公がふと口にするこの科白は、実は監督である黒澤明その人の内面を深く映し出している。アンドラは黒澤映画を細部まで読込み、こうした二人の分身的な関係を、次々と明かし出してみせる。

 Rashomonという言葉は、前世紀の後半から現在にいたるまで、時代を映し出す鍵言葉となった。ある異常な事態が勃発する。人は真相を究めようと現地を訪れるが、生存者たちは口々に勝手な物語を語るばかりで、真実が結論づけられることがない。複数の声が交錯するなかにあって、誰が語っているのが真実なのか。いやそもそも、真実なるものが本当に存在しているのか。探究のさなかにある者は戸惑い、懐疑のなかで挫折を余儀なくされる。この問題は突き詰めていけば、ニーチェの説く「力=意志」としての声という考えに到達するだろう。それはテロと天災で破壊された風景の背後に、亡霊のように彷徨っている言葉である。われわれは今や、一元的真実のもとに世界が了解可能であると信じていた世界の終焉に、立ち会っているのだ。
「羅生門的」という形容詞は、いうまでもなく黒澤の「羅生門」に由来している。一本のフィルムが世界の認識論の原理的選択に影響を与えたのだ。だが、落ち着いて考えてみよう。黒澤フィルムは芥川の同名の短編にではなく、むしろ彼の別の作品、『藪の中』に直接のプロットを仰いでいるのだ。それでは原作者の短編『羅生門』は、フィルムとどう関係があるのか。本書の著者はここで、黒澤の生まれ故郷である東京が、1923年の大震災と1945年の大空襲で、二度にわたり瓦礫と化したという事実に着目する。これは廃墟と化した世界での物語なのだ。ここでも自殺した芥川のかたわらに、同じく自殺した丙午の影が見え隠れする。芥川の作品の中でも論じられることの少ない長編『偸盗』における兄と弟の、憎悪スレスレの愛が言及されることになる。
 日本文学とは単なる美の対象でもなければ、美を表象する主体であるだけでもない。それは優れて批評的な存在なのだ。ポール・アンドラを日本文学研究へと駆り立てたのは、こうした直観的確信であった。本書はそのアンドラが江湖に問うた黒澤明論である。それが20世紀の東京を舞台とした複数の声、複数の情熱の交差する物語であることは、もはや言を俟たない。

(よもた・いぬひこ 比較文学・映画研究)
波 2019年6月号より
単行本刊行時掲載

インタビュー/対談/エッセイ

京マチ子と『羅生門』の亡霊へのレクイエム

北村匡平

 人間の心の闇やエゴイズムを克明に描いた黒澤明の「羅生門」。1950年に公開されるや西洋から称賛され、歴史を超えて愛されてきたフィルムである。この名高い映画でヒロインを演じた京マチ子が、本年五月に享年九十五で逝去した。
 この女優の凄いところは、日本の四大巨匠(小津・溝口・黒澤・成瀬)の揺るぎないスタイルに亀裂を入れた点だ。たとえば小津安二郎の「浮草」で豪雨のなか中村鴈治郎と罵倒しあう芝居は、格調高い小津的調和に破綻をもたらし、「あにいもうと」の森雅之との乱闘でも、相手に体ごと飛びかかっていく凄絶な喧嘩は成瀬巳喜男の厳密な空間を破壊する。彼女の過剰なアクションは、物語以上に脳裏に焼きついて離れない。溝口健二の「赤線地帯」のミッキーは赤線の娼婦だが、「うちヴィーナスや」「八頭身や」と言い放つあの役を、あるいは「雨月物語」の能面顔が豹変しておぞましさを覗かせるあの幽霊を、京マチ子以外に誰が演じられただろうか。
 私は自著『美と破壊の女優 京マチ子』(筑摩選書、二月刊)で彼女に「千変万化」という言葉を与えた。デビュー直後、日本女性の規範をぶち壊す「肉体派女優」と、伝統的な古典女性を演じた「グランプリ女優」の相反するイメージに引き裂かれたが、その〈分裂〉こそが彼女の資質であり、変幻自在なペルソナによって彼女は「カメレオン女優」として開花していったのだ。
 その契機となったのが「羅生門」である。複数の人物の主観で回想される京マチ子は、弱々しい大和撫子から妖艶なヴァンプ、気丈で力強い女性を見事に演じ分けた。彼女はキャリアを通じて人間の喜怒哀楽、あらゆる感情を全身で表現した比類ない映画女優だった。当初、黒澤はヒロインに原節子を考えていたというが、果たして原に侍の妻、真砂が演じられたかどうか――あの肉感的なエロティシズムは京マチ子にしか醸し出せなかったに違いない。歴史に忘却されたこの偉大な女優を救い出し、その功績を映画史に位置づけること。訃報を知ったとき、どうにか生前ご本人に書籍を届けることができた私は、深い喪失感とともに安堵のため息をついた。
「羅生門」で歴史に忘却された人物は京マチ子だけではない。出演者ではないが、その存在を色濃くフィルムに焼きつけている人物――活動弁士のスターだった黒澤の実の兄・丙午である。享年二十七という若さで彼はみずから命を絶った。
 黒澤映画のいたるところで顔を見せる兄の亡霊――。ポール・アンドラ『黒澤明の羅生門―フィルムに籠めた告白と鎮魂―』は、絶対的な存在であった兄が、いかに黒澤映画に影を落としているかを解き明かす。幾度となく解釈ゲームにさらされた「羅生門」だが、実のところ個人的に、何度観ても、どんな分析を読んでも、どこか到達できない「距離」のようなものを感じていた。だが、本書を読んだ今、「羅生門」や黒澤明にようやく接近できたという確かな実感がある。
 寓意に満ちた平安朝の時代劇を、筆者は徹底して個人的な映画として読み直す。ホームドラマとは無縁の黒澤映画を、家族の痕跡が色濃く残った記録映画ドキュメンタリーとして捉え返すのだ。スクリーンの細部から手繰り寄せられるのは、兄・丙午とともに弟・明が生きた証であり、超自我としての兄がいかに決定的な影響を及ぼしているかを筆者は巧みに浮かび上がらせる。この兄なくして黒澤明は誕生しなかったと断言してよい。
 筆者は、黒澤の自伝『蝦蟇の油』を告白的「映画」と見立て、構成から文体まで高解像度で分析する。そして黒澤の幼少期の恐るべき体験が、複数の登場人物の視点からフラッシュバックされる。すなわち、幼少時代を一緒に過ごした植草圭之助や兄を知る弁士、当時の新聞記事など、兄の死を物語る(黒澤を含めた)証言者たちを召喚し、映画と同じく複数の視点から兄の自死を繰り返し振り返るのだ。いうまでもなく、この書物はもう一つの『羅生門』なのである。
 黒澤の過去に遡り、筆者はドストエフスキー芥川龍之介の影響、侍の声を代弁する巫女の意義など、映画を形づくる要素を彼の個人史から次々に検証してゆく。このフィルムには、これまで気づかれなかった死者たちの「声」が沈潜している。だから私達は見過ごされてきた京マチ子と黒澤丙午に鎮魂の祈りを捧げ、黒澤の真の「告白」に耳を傾けよう。

(きたむら・きょうへい 東京工業大学准教授・映画研究)
波 2019年7月号より
単行本刊行時掲載

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著者プロフィール

1949年、フィラデルフィア生まれ。専攻は日本文学、映画、批評、アジアの人文科学。ミシガン大学で学士号、シカゴ大学で修士号、エール大学で博士号をそれぞれ取得した。2019年5月現在、コロンビア大学教授。他の著書に『異質の世界――有島武郎論』(冬樹社)、 Literature of the Lost Home:Kobayashi Hideo-Literary Criticism, 1924-1939(Stanford University Press)、Other Worlds : Arishima Takeo and the Bounds of Modern Japanese Fiction(Columbia University Press)がある。

北村匡平

キタムラ・キョウヘイ

1982年、山口県生まれ。東京工業大学リベラルアーツ研究教育院准教授。専攻は映画研究、表象文化論、歴史社会学、メディア論。著書に『スター女優の文化社会学――戦後日本が欲望した聖女と魔女』(作品社)、『美と破壊の女優 京マチ子』(筑摩書房)、共編著に『川島雄三は二度生まれる』(水声社)などがある。

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