立ち読み:新潮 2020年12月号

『豊饒の海』論(一)/平野啓一郎

    1 三十代後半の三島由紀夫

 三島由紀夫の最後の長編小説『豊饒の海』は、一九六五年(昭和四〇年)六月に起筆し、『新潮』九月号から連載が開始されて、一九七〇年一一月二五日という、彼の自決の日付が入った最終稿の掲載(一九七一年一月号)を以て完結している。
 彼の政治思想運動の端緒を、『英霊の声』(一九六六年)に見るとするならば、以後、死に至るまでの「行動」は、すべてこの『豊饒の海』の執筆と並行している。つまり彼の最後まで拘った「文武両道」の「文」の実践は、具体的には、この小説だったと見るべきである。
 当初は、全巻揃っての単行本化が予定されていたが、途中で変更され、第一巻『春の雪』を死の前年一九六九年一月五日に、第二巻『奔馬』を同年二月二五日に刊行し、次いで、第三巻『暁の寺』は一九七〇年七月一〇日に、第四巻『天人五衰』は、死の翌年二月二五日に出版された。
 五年間に亘る大きな仕事だが、漠然とした構想は、更にその五年前(一九六〇年)に遡るようで、「昭和三十五年ごろから、私は、長い長い長い小説を、いよいよ書きはじめなければならぬと思っていた。」とあり、また、一九六八年一一月には、翌年初頭の『春の雪』と『奔馬』の刊行を控え、「四、五年前から私は、そろそろライフ・ワークともいうべき大長篇に取り組みたいと思っていた。」とも記している。その頃から、「世界解釈の小説」としてのこの長篇のために、仏教の唯識に関心を持ち始め、六四年に岩波書店から刊行された『浜松中納言物語』を読むに及んで、輪廻転生に基づく物語を具体化させたようである。
鏡子の家』の刊行が一九五九年であり、その“失敗”の打撃がいかに大きかったかは、拙稿「『金閣寺』論」で述べた通りだが、翌年からこの「ライフ・ワークともいうべき大長篇」について考え始めたところを見ると、やはり、小説家として期するところがあったのだろう。「書きはじめなければならぬ」というのは、いかにも三島的な当為表現である。
 しかし、改めて三十代後半の三島を振り返ると、この意欲に相応しい華やかな活躍と、次第に、戦後社会への適応に倦んでゆく陰りとが、両ながらに看て取れる。
 一九六〇年に映画『からっ風野郎』へ出演したのに続いて、六三年にはモデルを務めた細江英公の写真集『薔薇刑』が刊行されるなど、三島はメディアの寵児として、その存在を広く一般にも知られてゆくこととなる。後の話だが、四十代になってからは、六七年に『平凡パンチ』の読者アンケート「オール日本ミスター・ダンディはだれか?」で一位に、翌年の「ミスター・インターナショナル」では、ドゴールに続いて二位に選出されるなど、椎根和によれば、一種の「スーパースター」であった。
 三島の“戦後”という時代への適応は、小説執筆という本業を除いて――或いはそれと関連して――、大衆消費社会での成功に多大の労力が払われており、それをまったく楽しんでいなかったと言えば嘘になろうが、過剰適応気味の嫌気が感じられる。自由主義、民主主義には懐疑的で、少なくとも三十代の間は、ほとんど“ノンポリ”に近かった。
『私の遍歴時代』では、戦後ほどなく、小田切秀雄に共産党に誘われた逸話を紹介して、次のように語っている。
「人間の政治的な立場が形づくられるには、確乎たる思想や深刻な人生経験ばかりでなく、ふとした偶然や行きがかりが、かなり作用しているようにも感じられる。私の現在の政治的立場なども、思えば好加減なものであるが、それは自分で選んだ立場というよりも、いろんな偶然が働らいて、何かの力で自然にこうなってきたのかもしれない。だから一方、どうせ政治なんてその程度のものだ、という考えも私から抜けないのである。」
 この政治的立場の偶然性という考え方は、急進的な天皇主義者として決起を控えていた死の二週間前のインタヴュー『最後の言葉』でも、感慨深げに、再び強調されている。

『私の遍歴時代』は、一九六三年(昭和三八年)一月一〇日から五月二三日にかけて『東京新聞』に連載され、翌年、単行本化された回想録である。
 戦時中の日本浪曼派との関わりから筆を起こし、一九五一年から五二年にかけての世界旅行にまで及ぶこの十七歳から二十七歳にかけての追憶は、後年、「軽く書いたもの」と振り返られる通り、新聞読者向けの寛いだ口調ながら、陰影豊かなユーモアがあり、当時の本音が、衒いなく率直に語られている印象を受ける。この回想録を読んだ読者は、三島にとっての戦争体験は、既に懐かしい過去であり、だからこそ同時代人と穏やかに共有されていると信じたであろうし、その後の急激な反動化は、まったく予想外だっただろう。
 しかし、同じ六三年の「週刊サンケイ」(三月四日)への寄稿で、「わが愛する作中人物」として、欺瞞を欺瞞と知りつつ耐えて生き続ける『鏡子の家』の杉本清一郎を挙げている通り――作中で、唯一、芸術家として生きる希望を託されていた夏雄ではなく――、三島がこの時期、何となく虚しさと疲労感を覚えていた様子は、様々な文章、事実から窺われる。
 前年に発表された長篇『美しい星』では、地球人の一人として、その連帯に加わりながら、他者としての異星人と敵対的に向き合う、という定石的な設定とは逆に、主人公の一家こそが異星人として、それぞれ別の星から地球に飛来し、人類からの疎外感を抱きつつ、その滅亡と救済について議論を重ねる、という孤独な設定となっている。
 実際、年譜を眺めると、この三十代後半には、三島を疲弊させるトラブルが立て続けに起きている。
 六〇年には、中央公論に連載した『宴のあと』により、モデルとなった有田八郎から告訴され、長く参加していた「鉢の木会」からも離れている。六一年には深沢七郎の『風流夢譚』の推薦者と目されて右翼の脅迫を受け、警察の警護下に身を置いた。また、六三年末には、『喜びの琴』の上演中止を巡る文学座との対立を経験している。
 三島は少しずつ、“居場所”を失っていったように見える。自分に対する文壇・世間双方の評価に、自信を持てなくなっていたのではないか。『宴のあと』裁判に関しては、法廷で原告から、「人をモデルにすると言っても、鴎外漱石ほどの作家ならともかく、そこらの三文文士が……」と言われたことを、自嘲的に何度か書いているが、繰り返しているところを見ると、意外と気にしていた風でもある。
 小説執筆に関しては、『宴のあと』(六〇年)、『獣の戯れ』(六一年)、『美しい星』(六二年)、『午後の曳航』(六三年)、『絹と明察』(六四年)と、毎年、着実に長篇を執筆しているが、ベストセラーを連発した三十代前半のような大きな商業的成功には至らず、若い読者に支持される大江健三郎を始めとする新進小説家たちの活躍に三島が焦燥を感じていたことは、具体的な販売部数の数字と共に指摘されている。
 作品の評価自体は、国外では必ずしも悪くはなく、六四年には『宴のあと』がフォルメントール国際文学賞第二位を、『金閣寺』が第四回国際文学賞で第二位を受賞するなど、国際的に名声を博するようになり、今日、三島文学の可能性を考える上でも、多様性に富んだ充実した時期と目し得るであろう。しかし、戯曲やエッセイ、評論なども含め、執筆のペースは明らかに過剰で、全体的に、あと二、三度、じっくり推敲していたならば、と感じさせるような集中力の欠落があり、的確な助言が出来る編集者不在の難点が如実に散見される。『仮面の告白』や『金閣寺』のような、これだけは書かなければならなかった、という迫力を欠くように見えるのは、必ずしも“内的必然性”に乏しかったからではなく、却って苦悩の渦中にあり、書くべきことを明瞭に対象化しきれなかったせいでもあろう。
 評価は論者によって様々であろうが、少なくとも三島自身が、三十代の終わりにかけて、一種の停滞感を自覚していたのは事実であり、短編集『三熊野詣』跋文中の「この集は、私の今までの全作品のうちで、もっとも頽廃的なものであろう。」という件に触れて、「『春の雪』を書く前の私が、いかに精神的な沈滞期にあったかがわかる。」と記している。同様のことは、秋山駿との対談『私の文学を語る』でも述べられている。
「『英霊の声』という小説は、作品のできは知りませんけれどもね、僕はあれで救われたのですよ。昭和四十年に『三熊野詣』とか一連の短篇を書いたことがある。あの時は、自分がどうなるかと思いました。文学がほんとうにいやでした。無力感に責められていやでした。なにをしても無駄みたいで。なにか『英霊の声』を書いた時から、生々してきちゃったのですよ。人がなんと言おうと、自分が生々していればいいのですからね。あれはおそらく一つの小さな自己革命だったのでしょう。とてもよかった。自分に調合した薬だったと思ったのです。もっとも副作用が非常にひどい薬で飲み続けていると非常に気分がいいから、いまにドカンと副作用で。(笑)」
 この小説を絶賛した瀬戸内寂聴宛の手紙(六六年五月九日)も引用しておきたい。
「半年ほど心に煮詰っていた作品ですが、どうも「こんなこと書いていいのかな」というドキドキがなければ、やはり作品を書く甲斐はないと思いました。とにかく「やったれ!」という気で書いたのです。」
 後に見るように、三島はバタイユを通じて、禁止と侵犯の理論に強い関心を示すようになるが、『英霊の声』自体が、彼にとっては戦後の言説空間に於ける後戻りの出来ないタブーを犯すことであった様が窺える。逆に言うと、「やはり」と言うくらいであるから、『仮面の告白』や『禁色』を書いた時には、その「ドキドキ」があったのだろう。
 秋山との対談では、「政治的な季節の時代ですから、危険な言説かもしれません。」と水を向けられて、更にこう返答している。
「もちろん承知の上ですね。危険な言説を吐いたら、これから責任をとらなければならないでしょう。(略)『英霊の声』を書いた時に、僕は、そんなことを言うと――まだ先のことですからわかりませんが――なにか自分にも責任がとれるような気がしたのです。だからあんなこと書いたのです。そういう見極めがつかなければあんなもの書けないですね。」
 この小説発表後の反響は異例で、父平岡梓によると、「数日の間、毎日のように無数の熱烈な感謝や共鳴や激励の手紙が山ほど舞い込んで来るやら、来訪者があるやら」だったという。「責任」という言葉の背景として、見るべき事実の一つである。
 三島がいつから、自らの死について具体的に考えるようになったかは定かでないが、『午後の曳航』の最後の場面からは、死の想像と、死にたくないという生々しい恐怖心とが、不安に乱れた緊迫した筆からひしひしと伝わってくる。
 父親として、非日常の海を捨て、日常性に順応しようとする竜二と、その異様な否定者であり、殺害者となる少年の一団は、三十代後半の三島と、少年時代の彼自身との内的葛藤のように見える。
 或いは、その少年時代の彼を刺激したのは、同時代の若い世代であったかもしれない。

(続きは本誌でお楽しみください。)