刊行記者会見概要

記者 まずは今回の作品『ローマ亡き後の地中海世界』の大きなテーマとなっている海賊についてお尋ねします。現在、ソマリア沖に出没する海賊が大変な問題になっていますが、そういった国際情勢を意識して取り組まれたのでしょうか。
塩野 イタリアに住んでいますと、ソマリア沖やマラッカ海峡沖の海賊に関する報道に接する機会は、日本にいるよりも多いのですが、だから海賊を取り上げたというわけではないんです。まず、ローマ帝国が崩壊するとはどういうことだったのか、そこから考えはじめました。それは要するに法の精神がなくなったということなんですね。では法とは何か。考え方の異なる人々がともに生きていく世界があり、そこで最低限必要なルールをみんなで守ろうということです。「他人を傷つけてはならない」とか、「気に入らないからといって人を殺してはならない」とか、そういうことを誰かが政治意志を持って明言する。ローマ帝国が崩壊し、そういう空気が社会全体から失われて、守らなければならない法も、そして倫理もなくなったのが中世という時代です。そういう時代には何が起こるのか。地中海では海賊が動きはじめるわけです。それで今回の作品の大きなテーマが海賊となったわけです。
記者 では、平和と安全についてはどのようにお考えですか。
塩野 平和と安全くらい重要なものはありません。以前どこかにも書きましたが、平和というのはあまりに重大な問題で、平和主義者の手には任せられないと思うくらい(笑)。人間は、身の回りのことならば、だいたいは一人でできるものです。しかし安全保障、つまり共同体が平和を維持できるかどうかは、共同体のリーダーの認識や覚悟、意志にかかってくると思います。ローマ人というのは、素晴らしい美術や哲学は遺さなかったかも知れません。しかし安全は保障した。高尚ではないかも知れませんが、もっとも大切なことを人々に贈ったのだと思っています。
記者 キリスト教世界とイスラム教世界との対立についてはどのようにお考えですか。
塩野 わが日本はキリスト教国家でもイスラム教国家でもありません。しかしわたしたちが直面している多くの国では、どちらかに分かれて、何かというと衝突している。私たちにはわかりにくいけれども、彼らのあいだにはほとんど千年以上にもわたる争いの歴史があるのだから当然です。一番怖いのは知らないということ。日本人はまわりを押しのけて発言するタイプではないし、それはそれでいいと思いますが、知らないで何も言わないのと、知っていて何も言わないのとでは、まったく違います。
記者 『ローマ人の物語』の最終巻で、「何よりも私自身が、ローマ人をわかりたいという想いで書いたのである。書き終えた今は心から、わかった、と言える」と書いています。今回も、中世について同じような想いに至ったのでしょうか。
塩野 いえ、中世についてはいくつか切り口があって、私がやりたいと思うものだけでも二つあります。今回はそのひとつをやったということになります。だから「わかった」というよりも、少しずつ隙間を埋めているというような感覚です。今回は「海賊」という切り口で書いていった。次回はまた別のやり方で書く。もうひとつの切り口については秘密。営業上の秘密です(笑)。
記者 塩野さんの作品の愛読者に関してですが、『ローマ人の物語』から今回の作品に連なる大河的なものを好まれる方と、『神の代理人』のような、日本的に言うと「時代小説」を好む方もいらっしゃると思いますが、特定の時代の特定の人物を主人公にした小説を書くおつもりはありますか。
塩野 かつて司馬遼太郎さんが言って下さったことがあります。「日本には歴史研究と歴史小説しかない。君はその中間を行こうとしている」と。私は「歴史学」と「歴史エッセイ」と「歴史小説」があると思っています。ヨーロッパではカエサルやヘロドトスらが書いたものが「歴史エッセイ」なんですね。一方、それを研究するのが「歴史学」。私は自分が書こうとしているのは「歴史エッセイ」の分野であって、「歴史小説」を書こうとは思っていません。大きな時代を書こうというときには、「歴史小説」にはならない。「歴史小説」は物事を身近に引き寄せて考えるには、とても有効な方法です。しかし私は、歴史を読む人は、今の自分とは離れていることを時々は感じる必要があると思っています。そういうこともあって、「歴史小説」を書こうとはあまり思いません。それに私の場合、自分の想像力をあまり信じていない。それよりも他人の身になって考えてみようとする方が好きなんです。自分の主観はどうでもよくって、なるべく白紙の状態で眺め、その時代に生きた人々の気持ちになって考える。そんなことを長い間やってきた気がします。
記者 タイトルにもある地中海について、その魅力をお聞かせ下さい。
塩野 まずは美しいですよね。気候もいいし、食べ物もお酒も美味しい。まさに「地中海世界」というしかない、独特のものがあります。私は十六歳の時にホメロスの「イリアス」を読んで、この地中海世界に憧れました。それが今まで、ずっと続いている。私はボーイフレンドに対してはあまりしつこくないんですが、自分がやりたいと思うことについては、しつこいなと思っています(笑)。

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