丕緒の鳥 十二国記
781円(税込)
発売日:2013/06/26
- 文庫
12年ぶりのオリジナル短編集! ファン待望! 書下ろし2編を含む4編収録。
「希望」を信じて、男は覚悟する。慶国に新王が登極した。即位の礼で行われる「大射(たいしゃ)」とは、鳥に見立てた陶製の的を射る儀式。陶工である丕緒(ひしょ)は、国の理想を表す任の重さに苦慮していた。希望を託した「鳥」は、果たして大空に羽ばたくのだろうか──表題作「丕緒の鳥」ほか、己の役割を全うすべく煩悶し、一途に走る名も無き男たちの清廉なる生き様を描く全4編収録。
目次
丕緒の鳥
落照の獄
青条の蘭
風信
落照の獄
青条の蘭
風信
解説 辻真先
書誌情報
読み仮名 | ヒショノトリジュウニコクキ |
---|---|
シリーズ名 | 新潮文庫 |
発行形態 | 文庫 |
判型 | 新潮文庫 |
頁数 | 368ページ |
ISBN | 978-4-10-124058-9 |
C-CODE | 0193 |
整理番号 | お-37-58 |
ジャンル | 歴史・時代小説 |
定価 | 781円 |
書評
波 2013年7月号より “自分にだってできることがある”と思い知る
本書は完全版と銘打たれた『十二国記』シリーズの、オリジナル短編集である。壮大にして精緻なファンタジーの一郭に嵌め込まれた珠玉四編。(中略)
冒頭に掲げられた十二国の地図。なんと人工的に仕組まれた国々だろう。人間を含めたイノチは里木の卵果から得る。麒麟は天意を帯して王を選び忠誠を尽くす。王が治世に倦めば妖魔が跋扈する。下級官吏でも仙籍をもてば不老不死となる。およそ読者をとりまく現実と違った、徹底したフィクションの世界がこの十二国だ。
読み進んで驚くのは、すべてが想像力の産物だというのに、細部にわたって彫琢されたリアリティである。巨大な嘘を現実化するために、作者はどれほどの注意をはらって異世界を創造したのだろう。造化の神のなした業というべきか。一切読者との狎れ合いがない。流布される小説の嘘臭さは、この物語ではあり得ないのだ。(中略)
繊細なディティルの積み重ねは、短編集だからいっそう特性を発揮している。巻頭の『丕緒の鳥』では、射儀を司る羅氏の丕緒を中心に物語は回転する。政治や軍事から距離を置く射儀とは、祭祀にあたって催される儀典であって、「鳥に見立てた陶製の的を投げ上げ、これを射る儀式」だそうな。ぼくが無知なのか寡聞にしてそんな式典が、中国や日本にあったことを知らない。まして標的になる陶鵲は「それ自体が鑑賞に堪え、さらには美しく複雑に飛び、射抜かれれば美しい音を立てて華やかに砕け」「果ては砕ける音を使って楽を奏でる」というのだから、幻想の限りを尽くした架空の催事かと推察する。この一節を読んだだけで、ぼくは作者の想像の翼のひろがりに陶然とした。(中略)
異世界ファンタジーの多くは、疾走する英雄たちの威風に焦点を合わせ、その言行を歌い上げる。読者の胸はスカッとする。決して自分にできないことを、絵空事のヒーローたちがやってのけるからだ。
ところが『十二国記』は、断固として民の視点にこだわり抜く。『丕緒の鳥』では裏に回っているが、『月の影 影の海』このかた、蓬莱(日本)から漂着した慶国の王、女子高校生陽子は、上からの目線で国政を執行することを拒否、民衆にまじって自分の立ち位置を確認する。
このシリーズが読者にもたらす興奮は、一過性のものではない。“決して自分にできないこと”ではなく、必ず“自分にだってできること”があると思い知る――自分を発見する喜びと表裏一体だから、読む者の心をいつまでも揺さぶりつづけるのだ。(中略)
『十二国記』は国と国が争う物語ではない。拙い紹介から酌んでいただきたいのは、これは民の物語であること。国あっての民ではなく、民を生かすために存在するのが国なのだ。国だの王だの政府だのという代物は、断じて民を管理し圧制する装置ではない。とかく逸脱しやすい権力をつなぎ止めるために憲法はあるのだが、『十二国記』の世界にいわゆる民主主義は存立していない。唐突に王となった陽子は、権力のあまりの大きさと重さに耐えかねて、悩み、迷い、苦しむのだが、そんな少女の真摯な成長物語はこの四作では背後に伏せられているから、ぼくが解説にあたるのは僭越だ。未読の方にはぜひ目を通してほしいと、おすすめするに止める。
(中略)ここには、強烈な現実世界へのアッピールがある。『十二国記』という架空世界に投影される古代中国のイメージにまして、細部にわたる創作が加えられ、中核をなす神仙思想も既成のそれとは異なって、読者を独自の世界観に陶酔させてくれるのだ。
冒頭に掲げられた十二国の地図。なんと人工的に仕組まれた国々だろう。人間を含めたイノチは里木の卵果から得る。麒麟は天意を帯して王を選び忠誠を尽くす。王が治世に倦めば妖魔が跋扈する。下級官吏でも仙籍をもてば不老不死となる。およそ読者をとりまく現実と違った、徹底したフィクションの世界がこの十二国だ。
読み進んで驚くのは、すべてが想像力の産物だというのに、細部にわたって彫琢されたリアリティである。巨大な嘘を現実化するために、作者はどれほどの注意をはらって異世界を創造したのだろう。造化の神のなした業というべきか。一切読者との狎れ合いがない。流布される小説の嘘臭さは、この物語ではあり得ないのだ。(中略)
繊細なディティルの積み重ねは、短編集だからいっそう特性を発揮している。巻頭の『丕緒の鳥』では、射儀を司る羅氏の丕緒を中心に物語は回転する。政治や軍事から距離を置く射儀とは、祭祀にあたって催される儀典であって、「鳥に見立てた陶製の的を投げ上げ、これを射る儀式」だそうな。ぼくが無知なのか寡聞にしてそんな式典が、中国や日本にあったことを知らない。まして標的になる陶鵲は「それ自体が鑑賞に堪え、さらには美しく複雑に飛び、射抜かれれば美しい音を立てて華やかに砕け」「果ては砕ける音を使って楽を奏でる」というのだから、幻想の限りを尽くした架空の催事かと推察する。この一節を読んだだけで、ぼくは作者の想像の翼のひろがりに陶然とした。(中略)
異世界ファンタジーの多くは、疾走する英雄たちの威風に焦点を合わせ、その言行を歌い上げる。読者の胸はスカッとする。決して自分にできないことを、絵空事のヒーローたちがやってのけるからだ。
ところが『十二国記』は、断固として民の視点にこだわり抜く。『丕緒の鳥』では裏に回っているが、『月の影 影の海』このかた、蓬莱(日本)から漂着した慶国の王、女子高校生陽子は、上からの目線で国政を執行することを拒否、民衆にまじって自分の立ち位置を確認する。
このシリーズが読者にもたらす興奮は、一過性のものではない。“決して自分にできないこと”ではなく、必ず“自分にだってできること”があると思い知る――自分を発見する喜びと表裏一体だから、読む者の心をいつまでも揺さぶりつづけるのだ。(中略)
『十二国記』は国と国が争う物語ではない。拙い紹介から酌んでいただきたいのは、これは民の物語であること。国あっての民ではなく、民を生かすために存在するのが国なのだ。国だの王だの政府だのという代物は、断じて民を管理し圧制する装置ではない。とかく逸脱しやすい権力をつなぎ止めるために憲法はあるのだが、『十二国記』の世界にいわゆる民主主義は存立していない。唐突に王となった陽子は、権力のあまりの大きさと重さに耐えかねて、悩み、迷い、苦しむのだが、そんな少女の真摯な成長物語はこの四作では背後に伏せられているから、ぼくが解説にあたるのは僭越だ。未読の方にはぜひ目を通してほしいと、おすすめするに止める。
(中略)ここには、強烈な現実世界へのアッピールがある。『十二国記』という架空世界に投影される古代中国のイメージにまして、細部にわたる創作が加えられ、中核をなす神仙思想も既成のそれとは異なって、読者を独自の世界観に陶酔させてくれるのだ。
(つじ・まさき 作家/解説より抜粋)
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著者プロフィール
小野不由美
オノ・フユミ
大分県中津市生れ。大谷大学在学中に京都大学推理小説研究会に在籍。「東亰異聞」が1993(平成5)年、日本ファンタジーノベル大賞の最終候補作となり、話題を呼ぶ。2013年、『残穢』で山本周五郎賞受賞。著書に『魔性の子』『月の影 影の海』などの〈十二国記〉シリーズ、〈ゴーストハント〉シリーズ、『屍鬼』『黒祠の島』『鬼談百景』『営繕かるかや怪異譚』などがある。
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