江戸のメディア王蔦屋重三郎と近代日本の先駆者と評されるも毀誉褒貶の激しい老中田沼意次。NHK大河ドラマ「べらぼう」で話題の二人に、日本のダ・ヴィンチ平賀源内も登場。『放浪大名 水野勝成―信長、秀吉、家康に仕えた男―』『ふたりの本多―家康を支えた忠勝と正信―』『高虎と天海』などの歴史小説で高い評価を受ける歴史作家早見俊が、田沼意次が権力の絶頂にあった天明4年(1784)から6年までの二年間を中心に、その権力基盤がもろくも崩れ去る姿と蔦屋重三郎が情報ネットワークを駆使して情報収集に奔走する姿を描きます。
幼くして両親と別れ遊郭の街新吉原の茶屋蔦屋に養子に入った蔦屋重三郎は、新吉原五十間道に書店を開業。出版した吉原遊郭の案内書「吉原細見」はベストセラーになり、一躍出版界の寵児となった蔦重は、江戸の神保町ともいえる日本橋通油町に進出します。
そんな蔦重の躍進を支えたのは、時の老中田沼意次の革新的ともいえる政治でした。
わずか600石の旗本の家に生まれながら5万7000石の大名、老中となるという異例の昇進を遂げた田沼意次。食料の備蓄も少なく天変地異が多発し財政難に苦しむ幕府のため、様々な政策を実施した意次は、その一環として、蝦夷地(北海道)に眠る鉱山に着目し、平賀源内を北の大地に派遣します。
博物学者、地質学者、医者、画家、戯作者、エレキテルの紹介者といった万能の天才・平賀源内は、口論からの殺人事件で入牢し、獄死したと世間で噂されていましたが、その才を惜しんだ意次の屋敷に匿われていたのです。
一方、御三卿田安家に生まれ将軍候補と目されながら白河松平家に養子に出された八代将軍吉宗の孫松平定信は、田安家を相続できず将軍になれなかったのは意次の策謀のためと考えて、御三卿の一橋治済と手を組み、意次失脚を狙い暗躍します。
様々な思惑が渦巻く中、田沼意次を江戸の庶民文化を理解する稀有な政治家と高く評価する蔦重は、文人たちや貸本業を通じて作り上げた大名屋敷の武士たちとの情報ネットワークを駆使して田沼のための情報収集に奔走することに。