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今月の編集長便り 毎月10日のメルマガで配信さている「編集長から」を「今月の編集長便り」として再録しました。こんなことを考えながら日々仕事しています。

運動会の不思議

 先日、子供の通う小学校の運動会に行ってきました。私の住んでいる市では小学校の運動会を春と秋に分けて実施していて、わが子の学校はいつも春なのです。運動会といえば金木犀の匂う頃、というのが私の中の季節感でしたので、最初はずいぶん戸惑ったものですが、5月の空の下で行なわれる運動会というのも爽快で気持ちがいい。もうすっかり慣れて、今年もピクニック気分で参加したのでした。
 けれども、この運動会のやり方にはちょっと奇妙なところがあって、毎年毎年、違和感を感じ続けています。例えば、いちばん気になるのはお昼ご飯の食べ方。子供たちも弁当を食べる、というところは私の子供の頃と同じなのですが、驚いたことに親子が一緒に食べてはいけないのです。母親は子供にはそれぞれ別に弁当を持たせる。子供たちはお昼の時間にはいっせいに教室に入り、校庭で食べているのは両親や祖父母だけ。「今日は何の集まりだっけ?」と思うような不思議な光景です。

 学校側の説明では、「親が仕事で参加できないケースや、親のいない子供もいるから」という理由のようですが、どうもポイントがずれている気がしてなりません。
 親が忙しい、親がいない、などというのはいつの時代もあって、私の子供の頃は、そういう子には誰かの親が声をかけて、一緒にわいわいと食べたものでした。それが地域社会の良さであり、そうした日常の積み重ねを通じて、大人たちも「よその子の面倒もみる」という共通認識を持っていったはずなのです。地域に根ざすべき公立小学校が最初からコミュニティに背を向けてしまっては元も子もない。
 それ以上におかしいと思うのは、「それぞれの家庭の事情」にフタをして、子供の目から隠そうとする学校側の姿勢ですね。当たり前の話ですが、子供が生まれ育つ家庭環境というのは一様ではない。父親がいなかったり、母親がいなかったり、金持ちだったり、貧乏だったり、いろいろな家庭があって、子供はそれを選べずに生まれてくる。人間は生まれながらにして等し並みではない、という現実があるわけです。どの子供も、それぞれの事情を背負って大人になっていかなければならない。どうしてそこから目をそむけさせようとするのでしょうか。
 この学校では、さすがに「お手々つないでゴールイン」はありませんが、徒競走で男女を一緒に走らせたりもしています。これでは「勝負」とはいえません。足の速い子供がヒーローになる機会も奪ってしまっている。ここにも過剰な平等主義といいますか、「人間はそれぞれ能力も持ち味も違う」という現実にフタをしようとする姿勢が見え隠れします。教育の現場でこんなことを続けていると、子供たちがどんどん「生身の人間」から遠ざけられていくような気がしてなりません。
 そんなことを考えながら、曽野綾子さんの『アラブの格言』(5月刊)を読み返すと、一つ一つの言葉が、ずしりと胸に響きました。
「人生はいかがわしい見世物だ」
「すべての人間の狂気は、一人一人違っている」
「人生の不運は植物より数が多い」
「自分で考えろ。誰も脳味噌を貸してはくれない」
 ページをめくる手をつい止めてしまう言葉の力。過酷な歴史の中で培われた、地に足のついた「智恵」がここにあります。
 5月31日に池袋の旭屋書店で行われた曽野綾子さんのサイン会は、おかげさまで盛況でしたが、私は学校の先生たちにも、是非この本を読んで欲しいを思っています。運動会でつまらないことに気を遣うよりも、生きた言葉を子供たちに語って欲しい。小学生の子を持つ身として、心からそう思います。

2003/06