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今月の編集長便り 毎月10日のメルマガで配信さている「編集長から」を「今月の編集長便り」として再録しました。こんなことを考えながら日々仕事しています。

ほんとうの教育改革

 中学生の頃に受けた授業で、おぼろげな記憶ながら印象に残っているものがあります。
 あれは通常の時間割とは別に設けられた授業でした。なにやら面白い理科の教え方を研究している先生たちがいて、その日は特別に授業を行なうというのです。理科室に入ると、教壇の机に1メートルくらいの透明な筒が二つ置いてある。この二つの筒にパチンコ玉とそれよりも明らかに軽い紙製のもの(このへんの記憶は曖昧)を同時に落として、どちらが先に落ちるかを調べるという実験の授業でした。

 もちろん、実験そのものは一瞬で終わります。でもこの授業が面白かったのは、その実験がどういう結果になるか、生徒それぞれに予測させたことです。それぞれが自分なりの理屈を考えて「仮説」を立てて、意見を言い合う。私は「パチンコ玉の方が重いから早く落ちると思うけど、そんな結果なら実験するわけないしなあ」とぼんやり考えていました。でも友達の中には、「パチンコ玉を何個落としても同時に落ちる。バラバラでもくっつけても一緒。だから重さと落ち方は関係ないんじゃないか」と言う者もいる。みんな「そういえば、そうかもしれない」「いや、やっぱり重い方が先だろう」と言い合い、「いったいどっちだ?」と興味津々で実験を待ったのです。
 結果は、同時に落ちる、が正解でした。むろん、高校生になって物理で重力の原理を学べば当たり前にわかることなのですが、中学生にとっては驚きでしたし、何よりもふだんの退屈な授業と違って、実験前に予測することが実に面白かった。
 授業が終わった後、これを企画した理科の先生から、「今日の授業は、板倉聖宣という人が考えた仮説実験授業と呼ばれるものなんだよ」と聞かされました。曖昧な記憶なので、この日の授業が何のために行なわれたのかは定かではないのですが、ともかくこの授業に魅了されて、図書館にあった『ぼくらはガリレオ』という板倉氏の著作を読んだことを憶えています。これをきっかけに私は「仮説実験授業」というものの存在を知り、「自分で考えて仮説を立てる」ことの面白さを知ったのでした。

 高校生になってからの授業で忘れられないのは、ある英語の先生の授業です。私はどうも英語が苦手(というより嫌い)で、勉強のやり方もよくわからなかった。そういうときに、その先生は英語への取り組み方そのものを教えてくれたのです。
 例えば、長文読解のコツは、「すぐに辞書に頼るな」というものでした。
「みんな日本語の文章を読むときに、全部の単語の意味がわからなくても文意は取れるだろう? 英語もそれと同じで、わからない単語があっても前後の文脈から推理して読めるような力をつけるのが目標だ。だから闇雲に辞書を引いてはいけない。まず自分の頭で推理した上で辞書を引く。そうすれば推理する力もつくし、記憶にも残る」
 要は漫然と読んだり辞書を引いたりするのではなく、頭を使えということです。ここでも、「推理して仮説を立てる」ということが大事なんだな、と私は理解しました。
 文法やら法則に例外が多くて辟易していると、先生はこんなアドバイスもくれました。
「日本語で鉛筆の本数を数えるときに、いっぽん、にほん、さんぼん、よんほんと数える。どうして、ぽん、ほん、ぼん、ほんと変化するのか、君は外国人に説明できるか? 言葉というものは長い時間をかけて今の形に定着してきたわけで、『そういうふうになっている』としか言いようがないものなんだ。それを受け入れて憶えるしかない。文法は憶える際の手助け程度のものだと思った方がいい」
 恥ずかしながら、私はこれを聞いて初めて、語学というものに接する心構えができたような気がしました(苦手なのは相変わらずでしたが)。どうにかこうにか大学に進めたのも、この先生のおかげだと今でも感謝しています。

 中学で仮説実験授業を企画した先生と、高校の英語の先生はまったく接点はありません。それどころか、政治的なスタンスはまったく正反対でした。中学の理科の先生は組合活動に熱心なグループの一人で、ほとんどの先生が日教組に加入していたその中学の中でも、かなり突出した存在でした。一方、高校の英語の先生は組合活動からは距離を置いている方で、おそらく組合には加入していなかったはずです。けれども私から見れば、この二人はとにかく「いい授業」をしたいと努力していたという一点では共通していたのです。
 あれからおよそ四半世紀。この間、教育をめぐる論争が繰り返されてきました。最近では、「ゆとり教育」や「授業時間削減」の導入による「学力低下」が主なテーマです。私自身も二人の子を持つ身ですので、学力低下を招くような今の学校教育の在り方には疑問を持っています。しかし、では授業時間数を元に戻して、教える内容を増やせば子供の学力が向上するかといえば、とてもそうは思えない。
 ここには大事な視点が一つ抜け落ちています。それは、授業を行なう「教師の技術」という問題です。子供の授業参観に行って、「もうちょっとマシな教え方はできないのか」と思った経験があるのは私だけじゃないはず。制度やカリキュラムをどれだけいじろうが、そんなものは「仏つくって魂入れず」、結局は個々の教師の教え方次第なのです。そこを見直さないかぎり、どんな教育改革もしょせんは絵に描いた餅にすぎません。
 いうまでもなく、子供たちが学校で過ごす時間の大半は授業が占めます。どんな子供であっても、自分が少しずつでも、できるようになる、わかるようになる、向上するというのは嬉しいものです(大人だってそうですから)。教師が授業を通じて、それを体験させることができれば、教育現場を取り巻くたいていの問題は解消されると思うのですが……。学校はあくまで勉強するところであり、教師はそのためのプロフェッショナルであるという原点に、今こそ立ち返るべきではないでしょうか。

 そんな思いからご執筆いただいたのが、今月刊の『授業の復権』です。著者の森口朗さんと私は同世代であり、同じ年頃の子供を抱え、同じようなもどかしさを感じていました。本書は、板倉氏をはじめ戦後教育史を彩った「授業のプロフェッショナルたち」に光を当てながら、森口さんの独自の主張が展開されており、今の教育改革論争に一石を投じる作品になったと思っています。ぜひご一読をお薦めします。
 いい先生であることと思想信条とは本来関係ありません(右だろうが左だろうが、ダメ教師はダメ教師です)。工夫と努力とプロ意識にあふれる先生たちがどんどん登場し、そういう先生こそが正当に評価されるようになって欲しいと切に思います。そして親の側も、学校にすべてを求めるような欲張りなことはやめて、「いい授業」の一点を求めるべきでしょう。ほかのことはもともと親が教えるべきことなのですから。

2004/03