「戦時下の神戸に、幻のように出現する『千一夜物語』の世界」。解説者の森見登美彦氏は、『神戸・続神戸』をこのように評しました。著者・西東三鬼は「水枕ガバリと寒い海がある」という鮮烈な句でも知られる新興俳句の旗手で、若き日にシンガポールで歯科医院を営んだこともある、国際派。彼は昭和17(1942)年の冬、"東京の何もかも"から脱走し、さまざまな外国人が滞在する神戸のホテルに居を定めました。三鬼は当時軍需会社と取引する商人だったのですが、「センセイ」と呼ばれ、さまざまな相談を持ちかけられることに。
夜な夜な貴重なレコードを共に聞く、エジプト人の親友マジット・エルバ。20歳の台湾人"基隆(キールン)"は国民服に身を固める、模範的な「日本人」でした。ロシヤ女性ナターシャとはある女性をめぐって口論となります。そして、米潜水艦の跳梁のために神戸に足止めされていたドイツの水兵たちもが、缶詰や黒パンを抱えてこのホテルを訪れていました。戦争が重く覆い被さる中、男と女、多国籍の人々の人生が交じりあい、うたかたのドラマがネオンのように明滅します。
自由を希求する魂の持ち主・西東三鬼が残した奇跡のような2編――あなたも虜になること、間違いありません。
訓練空襲しかし月夜の指を愛す 三鬼
ハワード・フィリップス・ラヴクラフト──1890年、米国ロードアイランド州プロヴィデンスに生を受けた小説家です。ホラー好きで彼の名を知らぬ者はいないでしょう。しかし、生前、彼の作品を読んだ人は僅かでした。「ウィアード・テールズ」「アメイジング・ストーリーズ」などのパルプ・マガジンに寄稿。唯一上梓した『インスマスの影』は200部しか出まわらなかったそうです。評価を得ることなく、46歳の若さで逝去。彼の存在が歴史の波に呑みこまれなかったのは、ひとえにその物語の魔力ゆえ。ラヴクラフトの創造した壮大な宇宙観に基づく小説群は"クトゥルー神話"と名付けられ、世界中のクリエイターが継承。さまざまな貌をした"子孫"が今日も誕生しています。
H・P・ラヴクラフト、南條竹則編訳『インスマスの影―クトゥルー神話傑作選―』。怪談・ホラーにも造詣が深い英文学者にして小説家の南條竹則氏が、新潮文庫のために中短篇を選び抜き、時間をかけて、新訳を行いました。クトゥルー神話を愛する方々にも、ラヴクラフト未経験の方にも、自信を持ってお勧めできる1冊です。
「あの古いバスに乗ったらいいかもしれないよ」彼は幾分ためらいながら言った。「もっとも、ここいらじゃあんまり評判が良くないがね。インスマスを通って行くんだ――あの町のことは聞いただろう――」(「インスマスの影」より)
この夏、『羊たちの沈黙』『ハンニバル』の
トマス・ハリス待望の新刊、『カリ・モーラ』が新潮文庫から刊行されました!
ハリスといえば、寡作で知られたお人。1975年に作家デビューしてから40年以上のキャリアのなかで、新作を除くと著作はわずか5作。1940年生れという年齢も考えると、ファンの間では「ハリスはもう新作を書かないのでは」という諦めのムードも漂っていたところに、今回の新作の報が喜びとともに迎えられました。
期待の新作『カリ・モーラ』は、あのモンスター、ハンニバル・レクター博士の登場しない、まったく新しい物語です。
舞台は陽光眩しいマイアミ、故国を逃れアメリカで生き抜こうとする健気なヒロイン、カリ・モーラをはじめ、登場人物のほとんどは南米からの移民たち。麻薬王が別荘に隠した金塊をめぐる悪党たちの悪巧みと抗争、それに巻き込まれたヒロインのサバイバルを描くスピーディーな展開に、思わず引き込まれること請け合いです。2019年、トランプ大統領時代の「いま」のアメリカを活写しつつ、小説を読む楽しみに溢れた、極上のエンタテインメント作品に仕上がっています。
もちろん、ハリスのファンにはたまらない、猟奇的な悪役も登場。
その名もハンス・ペーター・シュナイダー。全身無毛の臓器密売商人にして殺人鬼。捉えた女の死体を人体溶解装置で溶かし、それを眺めて至福を感じる正真正銘のサイコキラーです。シュナイダーは美貌のカリを狙いますが、彼女は悪党顔負けの華麗なガン捌きと高いサバイバル能力で対抗します。なぜ、25歳の移民女性がそのようなスキルを持っているのか。理由は、彼女が故国で経験した壮絶な過去にありました――。
聡明で美しく、強さと優しさを兼ね備えた新たなヒロイン、カリ・モーラの魅力にあなたもノックアウトされ、彼女の今後を描く続編をぜひ読みたいと思ってしまうはず。ハリスさん、次は13年も待たせないでくださいね!
湊かなえさんの文庫最新刊、『絶唱』が刊行されました!
2019年「新潮文庫の100冊」のラインナップでも注目され、早速大評判となっている本作は史上最高の号泣ミステリーです!
五歳のとき双子の妹・毬絵は死んだ。生き残ったのは姉の雪絵――。奪われた人生を取り戻すため、わたしは今、あの場所に向かう(「楽園」)。思い出すのはいつも、最後に見たあの人の顔、取り消せない自分の言葉、守れなかった小さな命。あの日に今も、囚われている(「約束」)。誰にも言えない秘密を抱え、四人が辿り着いた南洋の島。ここからまた、物語は動き始める。
誰しもが、過去に自分がしてしまった取り返しがつかないことへの後悔を、大なり小なり胸に抱え、日々を生きているのではないでしょうか。本作で描かれる四人の女性たちもまさにそうです。湊さん自身が青年海外協力隊で赴任した南洋の島トンガを舞台に、喪失と再生を描く物語『絶唱』。心揺さぶる「号泣ミステリー」を、ぜひこの機会に。
朝井リョウさんの直木賞受賞作『何者』は、2016年に映画化もされ、大きな注目を集めました。就職活動を目前に控えた拓人は、ルームメイトの光太郎や、偶然にも同じアパートに住んでいた理香と隆良、そして留学帰りの瑞月と、就活対策のため頻繁に集まるようになります。最初は共同戦線だったはずの5人ですが、SNSや選考で交わす言葉の奥の本音や自意識が、彼らの関係性を次第に変えてゆきます。ラスト30頁は衝撃の連続! まだお読みでない方はぜひご一読下さい。
そして、『何者』の登場人物たちの知られざる過去や未来を描く6編を収めた『何様』が、このたび新潮文庫より発売されました。
光太郎の初恋の相手は? 理香と隆良が知り合ったきっかけとは。社会人になったサワ先輩。烏丸ギンジのその後。瑞月の父親に起こったある出来事とは――。
そして表題作の「何様」にネット通販の会社の面接を受けた男子学生の入社後の姿が描かれます。『何者』では選考される側だった克弘は人事部に配属され、選考する側の立場に。
他人を選考するなんて、何様のつもりなんだろう。
どうしてもその思いが拭えない克弘は、戸惑いながら、葛藤しながら、仕事を進めていきます。そしてもう一つ、克弘には自分に問い続けていることがあり......。
年齢も立場も、「大人」と呼ばれるような存在に近づいていくのに、自覚や態度が追いつかないジレンマや焦りが丁寧に細やかに描かれています。「大人」に反発する人に、「大人」になれないと感じている人に、そして「大人」である自分を受け入れた人に、ぜひとも読んでいただきたい作品です。
文庫化にあたって、オードリーの若林正恭さんに解説をお寄せいただきました。「中年」になった自分を受けとめる覚悟に胸打たれる、素晴らしい解説です。