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今月の1冊


 漢詩? 中高生の時にやった、あの、ちょっと難解で、すこし退屈だったもの。
 そう思う方にこそ読んでほしい文庫が完成しました。

 著者は南フランス、ニース在住。俳句でいくつかの賞を受けている俳人ですが、その素性はよくわかりません。けれども、『いつかたこぶねになる日』をひとたび開けば、とてつもなく美しい文章の使い手であることはただちにわかります。

「世界を愛することと、世界から解放されること――詩はこのふたつの矛盾した願いを叶えてくれる」。そう語る著者が、大好きな漢詩を翻訳しながら、日々考えたことを綴った31編のエッセイが詰め込まれているのが、本作。
 地中海を眺めながら過ごす日々の暮らしに、杜甫や白居易、夏目漱石らの詩が混ざりあうとき、これまで見ていた景色が新たに彩られて心がはずむのを感じます。

 漢詩ってこんな面白さがあるんだ。
 日常生活の隣に置いて、愉しむことができるものなんだ。
 そんな新しい発見に満ちた、まったく新しいエッセイ集です。

 その俳句の才能を谷川俊太郎さんが認め、今回江國香織さんが帯文を寄せ、池澤夏樹さんが書評で応援してくださいました。また文庫化にあたり、哲学者の永井怜衣さんによる鮮やかな解説文も収録しています。
 ただ美しい文章に触れるよろこびが、ここにある。ぜひ、極上の読書体験を!

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2023年11月15日   今月の1冊


 沢木耕太郎さんの『旅のつばくろ』を文庫化しました。本書の底本となった単行本は2020年4月に刊行されましたが、新型コロナウイルスが猛威をふるいはじめ、緊急事態宣言が発出された直後でした。政府から外出の自粛が要請され、書店が次々と閉鎖。せっかく準備した『旅のつばくろ』を誰が読んでくれるのだろうと不安になりました。ところが本書は刊行直後から多くの読者が手に取って下さいました。保育園が閉鎖されて行き場のなくなった子どもを公園で遊ばせていたところ、営業部の者から重版の連絡があり、その旨をお知らせする電話を公園からかけたことが思い出されます。旅に出られない日々にあって、多くの読者が旅する代わりに読んで下さったと思うと、感謝に堪えませんでした。
 本書はJR東日本の車内誌「トランヴェール」に連載されたエッセイをまとめた作品です。世界中を歩いてきた沢木さんの作品としては意外ですが、はじめての日本国内の旅を綴ったエッセイ集となりました。また旅に出ることができるようになった今、噛み締めるように読み、味わいの溢れ出す本作をお楽しみいただけますように。

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2023年11月15日   今月の1冊


 アメリカの作家カーソン・マッカラーズ(1917年生まれ、1967年没)が23歳の時に発表した鮮烈なデビュー作を、新訳として刊行しました。新潮文庫では1972年に河野一郎さんによる翻訳で刊行して以来、51年ぶりの新訳となります。

 マッカラーズは1917年、アメリカ南部のジョージア州に生まれ、本作『心は孤独な狩人』により23歳の若さでデビューを果たします。批評家たちから絶賛されたデビュー作は、瞬く間にベストセラーに。翌年には『黄金の眼に映るもの』、1946年には『結婚式のメンバー』、1951年には『悲しきカフェのバラード』を発表。旺盛な創作意欲を見せます。『結婚式のメンバー』は1950年に舞台となり、1952年には映画化。本作も1968年に映画化され(邦題「愛すれど心さびしく」)、主演のアラン・アーキンとソンドラ・ロックはともにアカデミー賞の候補となりました。

 私生活においてはデビュー前の1937年に作家志望のリーヴス・マッカラーズと結婚しますが、二人とも同性愛的傾向を持っており、やがて結婚生活は破綻。1945年に再婚しますが、リーヴスは妻に心中を持ちかけ、断られて自ら命を絶ちます。加えてマッカラーズはアルコール依存症などさまざまな病に苦しみ、1967年に波乱に満ちた短い生涯を閉じます。

 村上春樹さんがマッカラーズ作品を翻訳するのは二作目。『結婚式のメンバー』を2016年に文庫オリジナルで刊行し、反響を呼びました。村上さんは『結婚式のメンバー』の訳者あとがきで、〈僕は個人的にはこの『結婚式のメンバー』と、『心は孤独な狩人』と、『悲しきカフェのバラード』がマッカラーズの最高傑作だと考えている。この三冊の小説とは大学時代に巡り会って、それ以来何度も読み返した。(中略)今回この『結婚式のメンバー』を自らの翻訳で、手に入りやすい新刊文庫本として出版できたことは、僕にとって大きな喜びであり、またささやかな誇りである〉と述べています。

 また、本作『心は孤独な狩人』の訳者あとがきでは以下のように記しています。
〈僕が翻訳を始めたのはもう四十年くらい前のことだが(小説家になるのとほとんど同時に翻訳の仕事をするようになった)、今はまだ始めたばかりだから実力的に無理だけど、もっと経験を積んで翻訳者としての腕が上がったら、いつか自分で訳してみたいという作品がいくつか頭にあった。言うなれば「将来のために大事に金庫に保管しておきたい」作品だ。
 たとえばそれはスコット・フィッツジェラルドの『グレート・ギャツビー』であり、レイモンド・チャンドラーの『ロング・グッドバイ』であり、J・D・サリンジャーの『キャッチャー・イン・ザ・ライ』や『フラニーとズーイ』であり、トルーマン・カポーティの『ティファニーで朝食を』だった。どれも僕が青春期に読んで、そのあとも何度か読み返し、影響を受けた作品たちだ。そこから豊かな滋養を与えられ、その結果自分でも(及ばずながら)小説を書くようになった、僕にとってはいわば水源地にあたるような存在だ。(中略)けっこう長い年月を要しはしたが、幸運にも恵まれ、また良き協力者も得て、それらの「取り置き」作品のほとんどすべてをひとつひとつ順番に訳して、世に問うことができた。そしてあとに残されているのは、このカーソン・マッカラーズの『心は孤独な狩人』だけとなった〉

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2023年10月15日   今月の1冊


 才能あふれる現役医師作家が数多く登場し、医学エンターテインメントはさながら戦国時代。なかでも食の描写に秀でた書き手の発掘を目指して設立された新人賞「日本おいしい小説大賞」への応募をきっかけに2021年にデビューした藤ノ木優さんは異色の存在といえるでしょう。

 本作の主人公は、入局5年目の医師、北条衛。東京の大学病院で腹腔鏡のプロフェッショナルを目指し日々努力していたのですが、急遽異動を告げられ、緊張に身を震わせながら、伊豆長岡に降り立ちます。総合周産期母子医療センターにはその厳しさが東京まで轟く、三枝善次郎教授がいるのです。激務で知られる病院と鬼教授。衛の運命は一体どうなってしまうのか。前任者からは「でも、飯だけは美味いぞ」という言葉だけは聞いているのですが――。

 地域医療を取り巻くシビアな現実、若き医師の苦悩と成長、主人公を取り巻く個性的な医師群像――に加えて、とびきり美味い食! ありそうでなかった小説が、ここに誕生しました。書評家・杉江松恋さんも「今年いちばんの医療小説」と評価する『あしたの名医―伊豆中周産期センター―』。2023年イチオシのオリジナル文庫です。

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2023年10月15日   今月の1冊

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 1995年3月20日、月曜日。

 50歳以上の人ならば、東京の地下鉄が阿鼻叫喚に包まれ、路上で苦悶する人々を捉えたニュース映像を思い出すだろう。地下鉄サリン事件。この前年、オウム真理教は、長野県松本市でサリンを使った事件を起こし、ついに通勤時間帯の東京で未曽有の無差別テロを実行した。この朝、サリンの治療法を熟知していたのは、九州大学医学部のみ。九大チームは松本サリン事件でいち早く毒物を特定し、凶悪なオウム真理教と戦い始めていたのだった。

 オウムが引き起こした事件については、多くの本が書かれてきた。しかし帚木蓬生さんの『沙林 偽りの王国』(上下巻)は、医療従事者たちがいかにオウムと闘い、いかにカルトの闇に対峙したのか、その観点から、オウム事件の全貌を描き出していく。医師で作家の著者にしか描けない本書は、いままで例のない新たな視点でオウムの闇を問う大作である。

 当時、警察庁長官の立場にあり、銃撃事件の被害者でもある國松孝次さんは、巻末解説でこう記している。「本書は第一級の質をもっている」と。

 カルトの危険性を考える絶好の物語でもある本書は、刊行直後に早くも増刷した。「オウム」を名前しか知らない読者にも、ぜひご一読を賜りたい。

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2023年09月15日   今月の1冊