新潮文庫メールマガジン アーカイブス
今月の1冊


 被害者も、家族も、友人も、作者も、編集者ですら、信じてはいけない――。
〈マンチェスター市警 エイダン・ウェイツ〉シリーズで海外ミステリー・ファンにもおなじみの英国作家ジョセフ・ノックスの最新作は、これでもかというくらいに、たくらみに満ちた作品。一昨年の年末ミステリー・ベスト・アンケートでも話題をさらった『スリープウォーカー―マンチェスター市警 エイダン・ウェイツ―』も、複雑な謎をからめたノワール小説の異色作でしたが、今回は、ノンフィクションの体裁をとった、かつてないほどに斬新なメタノワール・ミステリーに挑んでいます。
 なにしろ、著者であるノックス自身が登場し、しかもいくつかの事件については容疑者として扱われているのです。さらに、本作の作者であるからには、ここに記されている事柄はノックスの思うままに偽ることもできるということ。
 さらに、この作品を発表後、作者ノックスの情報はいっさい入ってきておらず、SNSもずっと更新されていないままなのです。

 事件の発端は2011年末。マンチェスター大学の学生寮から、一人の女子学生が姿を消します。彼女の名はゾーイ。7年が経過するも行方はわからず、世間の記憶も薄れてきた頃、作家イヴリンはこの事件に関心を抱いて、関係者への取材と原稿執筆を開始。作家仲間であるジョセフ・ノックスにアドバイスを仰ぐことになります。2018年、ゾーイの双子の姉キムが初めてマスコミ取材に応じ、事件は再度注目を集めることに。ところが、取材と執筆を続行するようノックスから助言されていたイヴリンは、翌年、拉致犯人と思われる人物を特定する証拠を入手した直後に死亡してしまいます。故人の遺志を継いだノックスが原稿の整理と追加取材を行って、『トゥルー・クライム・ストーリー(犯罪実話)』として彼女の遺稿を完成させるのですが――。
 関係者へのインタビューを中心に、イヴリンとノックスとのメールでの対話、新聞記事の抜粋、Facebookの書き込みなどから浮かび上がる失踪事件の謎にくわえて、新たに殺人までが絡み、その複雑な人間関係には著者ノックス自らも加わっているという、特異な形式で描かれる野心作です。
〈マンチェスター市警 エイダン・ウェイツ〉シリーズの著者がはじめて挑む単発物で、被害者も関係者も作者すら誰ひとり信頼できる者のいない、かつてないほど斬新なサスペンス・ノワールを、ぜひともお楽しみください。

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2023年09月15日   今月の1冊


「ギリシア人の物語」シリーズ(単行本では全3巻)の文庫化が始まります。単行本の第3巻『新しき力』を二分冊し、全4巻で文庫化します。
 古代ギリシア人は哲学や科学、文学や演劇、そして現代文明の基礎といってもいい民主政など、さまざまな分野でイノヴェーションを起こした民族です。彼らなくして、塩野七生さんが「ローマ人の物語」(文庫で全43巻)で描いた古代ローマ文明もなかったといっても過言ではありません。
 本作品の文庫版には文庫としては異例の美しさといっていい口絵が収録されます。第1巻の口絵では、古代ギリシア人の生活を垣間見ることのできるさまざまな陶器が一望のもとになっています。美しい絵で彩られた陶器は、古代ギリシア人にとっては重要な輸出品であり、「戦略物資」といってもいいものでした。
 塩野さんはご自身で本シリーズを「最後の作品」と語っています。名著「ローマ人の物語」シリーズ以前の世界を描いた本作にぜひご注目ください。

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2023年08月15日   今月の1冊


 吉田修一さんが週刊新潮に連載した小説『湖の女たち』が文庫化されました。本作品は琵琶湖畔の静かな介護施設で暮らす100歳の男性が、何者かによって人工呼吸器が外されて死亡し、滋賀県警の刑事が捜査するという、一見ミステリータッチの小説です。しかし、死亡した男性が若き日に731部隊に属していたことや、その後に薬害事件に関与していたことが徐々に明らかになり、現代的なテーマを孕むスケールの大きな作品になっています。介護施設で勤務する女性と刑事が陥るインモラルな関係やその激しい描写も大きな話題になりました。
 本作は福士蒼汰さん、松本まりかさん主演で映画化されることが決まっており、来年初夏公開の予定です。メガホンをとったのは大森立嗣監督。吉田さんと大森監督、二人のコンビはモスクワ国際映画祭で審査員特別賞を受賞した『さよなら渓谷』の映画化以来二度目。映画特設サイトでは衝撃的な特報動画が公開されていますので、ぜひご覧ください。

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2023年08月15日   今月の1冊


 昭和50年、ベトナム戦争が終結し沖縄国際海洋博覧会が開かれたこの年に、小学6年生だった少年が「将来のゆめ」という作文を書きました。「教師」か「作家」を目ざしてがんばりたいと書いていた少年の名前は、重松清
 そして16年後の平成3年、重松さんは「作家」としてデビューします。直木賞など数々の賞を受賞した重松さんは、30年以上もベストセラー作家として執筆を続ける一方で、7年前からは早稲田大学で教鞭を執っています。かつての少年は、二つの夢をともに叶えたのです。
 このたび出版された文庫新刊『おくることば』には、そんな「作家」であり「教師」である重松さんが書いた6つの作品が収められています。作家として本書のために書き下ろした小説「反抗期」は、2023年3月に小学校を卒業した少年・ユウの物語。コロナ禍での学校生活で、ユウは思いがけない出来事に巻き込まれていきます。そして、卒業式でユウを待ち受けていたのは――。新型コロナ感染者がふたたび増え始め、感染状況は「第九波」に入ったのではともいわれていますが、そんな今だからこそ読みたい1編です。
 教師としての側面が強いのが「夜明けまえに目がさめて」。これは、早稲田大学の「重松ゼミ」での日々や、学生たちへの思いやメッセージをまとめたものです。ネットなどで膨大な、そして不確かな情報が飛び交う現代。平和が「当たり前」でなくなってしまった現代。そんな"今"を生きていくための「考えるきっかけ」に満ちており、大学生はもちろん、子どもからおとなまで、令和を生きるすべての人に読んでほしい作品です。また、重松さんが語りかけるかたちで書かれているのでたいへん読みやすく、夏休みの読書感想文に困っている......というお子さんにもおすすめです!

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2023年07月18日   今月の1冊


 本屋大賞を受賞し、ベストセラーとなった『52ヘルツのクジラたち』(中公文庫刊)で話題の町田そのこさんの文庫最新刊『ぎょらん』が新潮文庫の100冊の1冊として登場しています。
 デビュー作『夜空に泳ぐチョコレートグラミー』に次ぐ2作目の本作。
 2018年に刊行された単行本から、文庫化にあたり書き下ろしの新作「赤はこれからも」が追加されています。
 死んでしまった人が遺すと言われているイクラのような赤い珠「ぎょらん」。それを噛みつぶせば、死者の最期の願いを知ることができる――。
 そんな都市伝説めいた珠の真相を調べ続ける元・引きこもりの青年・朱鷺を主人公とするこの7つの連作集は、乗り越えることのできない死別を抱えた人たちのまさに魂の再生が丁寧な筆致で描かれています。
「涙なしには読めない」「絶対に泣いてしまう」などと手垢の付いた言葉で表現するのがもうしわけないほどに、後悔を抱えた人たちの未来に向かう一歩に寄り添う物語運びが優しく、どんな人にも是非読んでほしい傑作に仕上がっています。
 書き下ろしの「赤はこれからも」はコロナ禍での死別を描いた物語で、今だからこそ読まれるにふさわしい傑作となっています。

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2023年07月18日   今月の1冊