新潮新書

今月の編集長便り 毎月10日のメルマガで配信さている「編集長から」を「今月の編集長便り」として再録しました。こんなことを考えながら日々仕事しています。

本と時代

 児玉隆也というルポライターの名をご記憶の方が、どのくらいいらっしゃるでしょうか。1974年、「文藝春秋」11月号に掲載された「淋しき越山会の女王」の筆者といえば、ピンとくる方もあるかもしれません。“田中角栄の金庫番”と言われた女性秘書を描いたこのノンフィクションは、同じ号に掲載された立花隆氏の「田中角栄研究」とともに、田中首相を退陣に追い込むきっかけになりました。立花氏の作品が膨大なデータを駆使した「調査報道」だとすれば、児玉氏の作品はまさに「足で書いた人物ルポ」。一般には「田中角栄研究」の方が知られていますが、政界に与えたインパクトでは「淋しき越山会の女王」も相当大きかったと言われています。

 この作品で児玉氏は一躍注目を集め、さらなる活躍が期待されたのですが、残念なことに翌年、ガンのために亡くなります。まだ38歳という若さでした。
 あれからおよそ30年――。出版界でも児玉氏を直に知る人は少なくなり、入手できる本も減り、私たちの世代にとっては半ば伝説的存在になっていました。そんな時代だからこそ、と言うべきでしょうか。児玉氏の生涯に初めて光を当てた本が、このほど出版されました。『無念は力―伝説のルポライター児玉隆也の38年―』(坂上遼著、情報センター出版局)がそれです。
 残された取材メモや日記を掘り起こし、関係者百数十人にインタビューして児玉氏の足跡を丹念にたどった本書は、それ自体が優れたノンフィクション作品ですし、「淋しき越山会の女王」執筆に至るまでの知られざるエピソードも描かれていて、力作評伝として堪能できます。リアルタイムで児玉氏を知らない私にとってはすべてが新鮮で、非常に興味深く読んだのですが、出版界に身を置く者として特に圧倒されたのは、児玉氏の仕事ぶりでした。
 児玉氏は大学を卒業後、光文社に入社し、「女性自身」で12年間の編集者生活を送っています。その間に手がけた企画がまず凄いのです。サリドマイド児の家族への密着ルポ、皇太子(現天皇)の談話掲載、さらに、様々な人物の実像に迫った「シリーズ人間」……。皇太子の談話というスクープは28歳の時の仕事ですし、一方で三島由紀夫氏や五木寛之氏らの信頼も得るなど、幅広い人間関係を築いていました。
 35歳で独立し、ライターとしての活動は実質3年しかありませんでしたが、書き残した原稿はなんと7000枚。編集者として、ライターとして、15年という歳月を濃密に生き、走り抜けた――まさにそんな人生でした。その詳細はぜひ本書を読んでいただければと思いますが、30年という時間を超えて、その仕事に対するひたむきさには頭が下がります。おそらく、児玉氏を突き動かしたのは、「人間」に対するあくなき関心と愛情、そして「時代」と格闘したいというやむにやまれぬ衝動だったのではないでしょうか。

 児玉氏はその死後に出版されたものを含め9冊の著作を残していますが、現在入手できるのは『淋しき越山会の女王』『一銭五厘たちの横丁』(ともに岩波現代文庫に収録)の2作のみ。児玉氏ほどの書き手ですら、30年を経れば半ば忘れられてしまうというこの現実。「出版社は何をやってるんだ」というお叱りの声が聞こえてきそうですが、一方で私はそれが本というものの宿命なのかな、とも思います。
 どんな本であれ、思想であれ、それはある時代のなかで生まれ、同時代の人々の胸に刻まれ、糧となり、やがて消えてゆきます。戦前の輝くような流行作家ですら、今ではほとんど忘れられてしまっているのですから。
 けれども、それだからこそ、本は愛しいのです。
 古本屋や図書館で幸せな気分になれるのは、幾重にも積み重なった時代、そして、それぞれの時代の中で格闘してきた先人たちの歴史を感じることができるからではないでしょうか。
 100年後に、新潮新書が出版史のなかでどのように位置づけられているのか、それはわかりません。私たちにできることは、ただ、自分たちが生きているこの時代と全力で格闘し、同時代に生きている方々に読んでいただけるような、いい作品を贈り続けることだけです。
 過ぎゆく時間と歴史に対して謙虚でありたい。私はいつもそう思っています。

 新潮新書は今月刊行分を入れて44冊、累計で300万部に達しました。同時代を生きる素晴らしい書き手の方々にご執筆いただき、それを読んでくださる読者あってのことだと感謝しております。
 今月刊の5点も、時代と正面から切り結んだ、この時代ならではの作品が揃いました。人物に迫ったルポということでいえば、『サービスの天才たち』(野地秩嘉著)がお薦めです。「平凡なれど非凡」というべき、今を生きる名もなき達人たちを描いたノンフィクションの佳品です。ぜひご一読ください。

2003/11