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今月の編集長便り 毎月10日のメルマガで配信さている「編集長から」を「今月の編集長便り」として再録しました。こんなことを考えながら日々仕事しています。

ニュースにならない話

 「犬が人に噛みついてもニュースにはならないが、人が犬に噛みつけばそれはニュースである」とはジャーナリズムの世界でよく言われる言葉ですが、私はどうもこの言葉があまり好きではありません。ニュースはしょせん突出した現象にすぎない。むしろニュースにならない話の中に本質が見えたり、もっと面白いものがある。テレビや新聞ではニュースにならないようなことを掬い取ることが我々の仕事じゃないのか――。新書に来る前の雑誌時代、特に月刊誌の頃は、そんなことを考えながら仕事をしていたように思います。

 そもそも月刊誌はテレビ、新聞、週刊誌が報じた後を追うわけですから、ニュースという点ではハンディがあります。大きな事件の時にもそう機動的に動けるわけではないし、だからアングル重視の企画が多くなる。ただ、私も一度だけ、時代のうねりを間近に感じられるようなストレートな取材を経験したことがあります。ソ連が崩壊を控えて大揺れに揺れていた1991年のことです。

 8月にゴルバチョフ大統領が保守派に軟禁されるというクーデター事件が起こり、私が当時携わっていた国際情報誌「フォーサイト」でも、何か独自の企画ができないかということになりました。その頃、私はたまたまソ連共産党の若手リーダーたちと接触があって、彼らを介すれば何人かのキーパーソンにインタビューが取れそうでした。そこで2週間ほど取材に行かせてもらったのです。
 結果から言えば、当時アメリカが「エリツィンに次ぐキーパーソン」と見ていたナザルバーエフ・カザフスタン大統領をはじめ数人に会うことができて、それなりの“ニュースな誌面”は作ることができました。でも、個人的には、初めて訪れたソ連の日常風景の方が、よほど面白かったのです。
 アエロフロート機内やモスクワに降り立ったときの独特の臭い(文字通りの意味で)に始まって、窓口となった人物のオフィスを訪ねると、ドアは壊れているし、パソコンも故障している。「修理しないのか」ときくと、「部品がないし、何日待ってもやってくれない」という返事。それを聞いたときに、ソ連は大国どころか経済が根っこから立ち行かなくなっていることを実感しました。
 何よりも驚きだったのは、若手共産党員たちの考え方でした。約束は守らない、スケジュールはいいかげん(おかげであちこち見物できましたが)。そのくせ切符やホテルの手配で妙な特権だけは持っていて、目端はきく。そのときすでに「市場経済の時代が来たら、我々のネットワークを活かして一儲けしたい」などと語っていました。私は「こういう特権階級がうまいことやって生き延びていくんだろうな」と思ったものです。
 カザフスタンやウズベキスタン取材に同行してくれた人物は、ロシア人とキルギス人のハーフでした。彼はなかなかの好人物で、その後日本でも会ったりしましたが、ソ連解体の流れが趨勢になっていた中で彼が言ったクールな科白は忘れられません。「中央アジアの小国は独立してもやっていけない。ソ連の方がよほどましだ。民族独立とか言っているが、あれはむしろ中央に対する地方の反発なんだ」。要するにモスクワ中心の“帝国”やその役人たちに対する反発という側面もあったのか、ソ連ってやっぱりロシア帝国と大差なかったんだな――私はそんなふうに勝手に合点がいったのでした。
 単なる「素人の異文化体験」と言われればそうかもしれません。けれども私にとっては、要人たちへのインタビューよりも、二週間で見聞きしたことの方がはるかに大きな価値がありました。もちろん、そんな話は当然ながら誌面には載せられませんでしたが……。

 そして、あれから13年。紆余曲折を経て、今ではもうロシアも他の旧ソ連諸国も、ほとんどニュースになることはありません。たまにテロが起きた時に騒ぎになるだけです。
 しかし、ニュースにはならなくても、日々の営みは必ずあるわけです。事件はなくても、緩やかな変化は必ず起きている。むしろ大きな事件に右往左往せずに、ニュースにならない日常の風景や変化の流れを知ることの方が、一つの国を知る上では大切なのではないでしょうか。もっといえば、変化しない部分、その国の“生地”というべき部分を見定めることこそ必要なのではと思います。
 特に日本にとって、ロシアはアメリカ、中国、朝鮮半島と並んで、地政学的な意味では重要な地域です。その動向は常に把握しておくべきでしょう。
 今月刊の『プーチン』(池田元博著)は、そんな思いから企画した本です。エリツィンの時代には政治も経済も混乱していたのに、なぜプーチンに変わってからひとまず安定したのか。地味な内務官僚を思わせる外見からは想像のつかない、その力の源泉とは何なのか。プーチン政権下で、ロシア社会はいったいどのような変化を遂げているのか――。2002年まで足掛け10年にわたってモスクワ特派員を務めた著者が、そんな素朴な疑問に答えながら、ペレストロイカ以降のこの国の現代史もコンパクトに整理してくれています。その意味では、現在もっとも最適なロシア入門書ともいえるでしょう。
 報道が少ないから気になっていたという人も、ロシアを一から知りたいという人も、ぜひ手にとってください。3月14日には、ロシアで大統領選も行われます。おそらくプーチンが再選され、少しはニュースになるでしょう。もう一度ロシアを知るのに、ちょうどいい機会ではないでしょうか。

2004/02