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今月の編集長便り 毎月10日のメルマガで配信さている「編集長から」を「今月の編集長便り」として再録しました。こんなことを考えながら日々仕事しています。

松井選手の思考法

 最近でこそ人気にかげりが出てきたとはいえ、日本人にとって野球というスポーツはやはり特別のものがあります。いつの時代にもスター選手がいて、「時代のヒーロー」として憧れの対象になり、後々まで人々の胸に刻まれる。その筆頭が長嶋茂雄、王貞治の両選手でしょう。
 では現役選手の中で、そうした存在は誰か。文句なしに名前が挙がるのは、イチロー選手と松井秀喜選手ではないでしょうか。イチロー選手が「職人」的な印象であるのに対して、松井選手はどことなく「古武士」を思わせる。プレイ・スタイルも漂う雰囲気も対照的な二人ですが、ともに圧倒的な存在感があります。特に松井選手はメジャー4シーズン目の昨年5月に左手首骨折という大怪我を負い、にもかかわらず秋には見事な復活を遂げました。あの骨折のシーンと復帰戦のスタンディング・オベーションはご記憶の方も多いと思います。

 新潮新書の今月刊には、その松井選手が登場します。松井選手にはこれまでも自らの野球観やメジャーでの日々を綴った著作がありますが、新書は初めて。今回は野球そのものというより、選手生活を支える独自の思考法、第一線で活躍を続けるための「松井流メンタル・コントロール術」がテーマです。題して、『不動心』。
 昨年の骨折は松井選手にとっても選手生命に関わるような大怪我でした。負傷の瞬間に何を考えたか、連続試合出場への思い、野球ができなくなることへの不安……。そして、その怪我をどう乗り越えていったのか。本書の冒頭ではまずそのプロセスが詳細に明かされます。
 驚くのは、立ち直りの早さです。骨折は当然ショックなわけですが、手術を終え、リハビリに入るや、松井選手は「手首の骨折のおかげで、シーズン中に打撃改造するチャンスを得た」と考えるのです。骨折した事実は変えられないから、それをどう活かすか。骨折する前の状態に戻そうとするのではなく、骨折をふまえて、さらに進化しよう――松井選手はそう考え、実際にややガニ股気味の新フォームを引っさげて、復帰戦で4安打を放ちます。
 超プラス思考とでもいうのでしょうか、松井選手の「心の構え」は独特です。例えば、「自分でコントロールできることと、できないことを分ける」という考え方。コントロールできることは最大限の努力をするが、できないことはくよくよ心配してもしょうがない。ある意味で合理的というか、強さと柔らかさが同居しているのです。
 松井選手の座右の銘は「人間万事塞翁が馬」。この言葉はお父様から教えられたそうですが、泰然自若とした構えの裏にはこんなしなやかな東洋的智慧があったのです。

 星稜高校時代から強打者として知られ、長嶋監督の強運で引き当てられて巨人へ入団。1993年から2002年までの10年間で本塁打王3回、打点王3回、首位打者1回、通算本塁打数は332本。そして長年の夢であったニューヨーク・ヤンキースへ移籍し、メジャーを代表する球団で主軸として活躍中――。こう書けば、順風満帆で恵まれた選手生活ではないかと思われるかもしれません。
 しかし少年時代から注目を浴び、期待とプレッシャーの中で、どんな時にも動じずに自分の仕事をこなし続けるというのは並大抵のことではありません。その陰でどれだけの努力があったか、どれだけの葛藤があったか。巨人時代には、膝を故障したり、スランプに陥ったこともたびたびあったそうです。けれども松井選手は弱音を吐かない。逆境をまた糧にして、前に進む。その心のプロセスが丁寧に綴られています。
「チョイ悪」好きの野球ファンの中には、報道陣へも紳士的でそつのない受け答えをする松井選手を、「優等生的で面白みがない」という人もいるかもしれません。本書では試合後の記者対応の舞台裏も明かしてくれています。
 当然ながら、松井選手だって悔しい思いをしたり、腹が立つことはあるわけです。でもそうした感情を言葉にして口に出すと、その言葉に自分が引きずられてしまい、余計に調子が悪くなる。だから悔しさは絶対に表に出さない――松井選手はそう言います。努力して感情をコントロールしているのです。

 これらはほんの序の口。現代を代表するトップ・アスリートは、技術や運動能力だけでなはなく、その思考法も一流なのだとよくわかります。
 もちろんこの「松井流思考法」は、普通のビジネスの現場に生きる私たちにとっても、大いに参考になるはずです。失敗との付き合い方、スランプへの対処法、勝負強さの身に付け方……私はとても勉強になりましたし、本書を作る過程で実際にその人柄に触れたこともあって、ますますファンになりました。松井選手は、本書から感じられるとおりの、誠実で自分の言葉を持った方です。身体は大きいし、まさに「大人(たいじん)の風格」があります。
 今年は松坂選手との対決もあり、シーズンが楽しみです。本書をお読みになればテレビ観戦もまた興趣が増すでしょう。私もその時々の松井選手の内面を想像しながら、応援したいと思います。

2007/02