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今月の編集長便り 毎月10日のメルマガで配信さている「編集長から」を「今月の編集長便り」として再録しました。こんなことを考えながら日々仕事しています。

「雑誌化」って何?

 相次ぐ新創刊で新書に注目が集まるのはありがたいのですが、時々不思議な質問を受けて戸惑うことがあります。このところよく登場するのが、「雑誌化」「雑誌的」というフレーズ。先日も複数のメディアの方から同じようなことを訊かれました。
「最近の新書は雑誌化しているようですが、なぜでしょうか」「新潮新書は雑誌的な作りだと言われていますが、それは意識されているのですか」……。
 おそらくどこかの評論家の受け売りだろうなあ、とは思いながらも、この手の質問には素朴にこう聞き返します。
「その『雑誌化』っていうのは、どういう意味ですか。何を指しているんですか?」
 するとたいていの場合、相手も「うーん」と返答に窮してしまうのです。

 まあ、こちらも別に意地悪がしたいわけではないので、「雑誌化」の意味を自分なりに解釈しながら話を続けるのですが、この言葉には新書に対するイメージが投影されているようで、なかなか興味深いものがあります。
 どの辞書を引いても、「雑誌」についてはだいたいこんな具合に説明されています。「(1)号を追って定期的に刊行する出版物、(2)いろいろなことを記した書物」。それぞれ新書に当てはまるのかどうか検討してみましょう。
 まず、(1)「定期刊行物」かどうか。確かにどの新書も毎月数点ずつ出していますし、発売日も一定です。岩波新書の発売日には書店でその月の新刊をまとめて買う、という熱心な読者もおられるようです。その意味では雑誌に近い発売形態かもしれません。しかし、それをいうなら文庫も同じなのです。文庫も毎月各社一定の発売日に新刊が書店に並びます。実は発売日を揃えるのは、新聞広告や流通上の事情からに過ぎません。本当はバラバラに出してもかまわないし、増刷した後は各書目ごとに動きがまったく変わってきます。そう考えると、やはり新書はあくまで「書籍」であり、「雑誌」とは違うのです。
 あるいは、「タイムリーな企画」という点で、雑誌と新書を同列に見る向きもあるかもしれません。しかし、それは全く違います。私は13年間月刊誌を経験していますから、これは自信をもって言えます。月刊誌の企画は1カ月が勝負。状況が変われば、次の号でまた違う切り口を考える。けれども本の場合は、書店の棚に何年も置かれて、読者の選別の目にさらされるわけです。それに耐えるだけの骨の太さ、丈夫さが必要です。どんな出版物であっても、同時代の読者に向けて刊行される以上、なにがしかの「タイムリーさ」「いま刊行する必然性」は不可欠ですが、週刊誌と月刊誌と書籍では時間的な射程距離が全く違います。そして、それぞれに別の難しさがあるのです。

 では、(2)「いろいろなことを記した書物」はどうでしょうか。これを「シリーズとして、いろいろな事柄を扱う」と解釈すれば、確かに新書は雑誌に近いかもしれません。私たちは創刊当初から、「新書の可能性をめいっぱい広げたい」と考えてやってきましたので、その「可能性の幅」や「テーマや企画の豊穣さ」、「手法の多彩さ」を「雑誌的」と呼んでくださるのであれば、それは大歓迎です。「何でも入っているチャレンジングな器」という意味では、まさに「雑誌的」でありたいと思っています。
 しかしこれは、新潮新書の専売特許でも何でもない。昔から新書は「何でも入る器」でした。例えば、試しに古本屋で岩波新書の青版を眺めてみてください。林健太郎『世界の歩み』の近くに『エスペラントの父 ザメンホフ』という評伝が並んでいる。『私は中國の地主だった』という傑作ルポルタージュがあるかと思えば、その前後の番号には『結婚』『生活』『癌』『国鉄』などという凄いタイトルが続く。岩手県の暮らしを描いた『ものいわぬ農民』と西堀栄三郎『南極越冬記』が出たのは同じ1958年、東京タワーの建った年です。丸山真男『日本の思想』、貝塚茂樹『諸子百家』、木田元『現象学』の前後には、『中学生』『高校生』なんて本も並んでいます。
 岩波新書だけではありません。1950年代~1960年代に登場し、そして消えていった数多の新書には、ありとあらゆるテーマが並んでいました。もちろん、今から見れば古くさい内容のものが多いし、岩波や中公でも絶版あるいは重版未定になったものがたくさんあります。しかし、いずれもその時代の読者にとっては新鮮な企画だったはずですし、その目配りのよさや柔軟さは、今と同じくらい「雑誌的」だったと思うのです。
 1988年に刊行された『岩波新書の50年』の中で、作家の堀田善衛氏が岩波新書を評した言葉が紹介されています。いわく、「岩波新書は私にとって雑学の問屋のようなものである」。これほど的確に新書の性格を表現した言葉はないでしょう。

 もともと「雑学の問屋」なのに、それがなぜ「最近の新書は雑誌化した」と言われてしまうのか。しかも「新書が揺らいでいる」といった文脈の記事で使われる。ここには「最近の新書は昔よりダメ」「ダメなのは雑誌的になったから」というロジックがあるような気がします。けれども、これが見当違いであるのは多言を要さないでしょう。
 一つには、雑誌を一段低く見る無意識の蔑視が見え隠れします。言うまでもありませんが、新聞も雑誌も書籍も「形態」の種類に過ぎません。それぞれに素晴らしいものもあれば読むに値しないものもある。少なくとも新聞よりは雑誌の方がずっと面白いと思うのですが、なぜ「雑誌」という言葉にマイナスイメージが付くのか、不思議でなりません。
 今よりも昔の新書を過大に評価するのは、これはもう「巨人はV9時代以外は認めない」「いや西鉄と競った時代が一番よかった」「本当の黄金時代は江川、西本、定岡の頃だ」という議論と一緒。要は「自分が読んでいた時代がよかった」と言っているだけのことです。「最近の若い奴はダメだ」というたぐいの話に近いような気がします。
 昔の新書も今の新書も作り手は必死ですし、どの時代でも、良い本は良い、つまらない本はつまらない。そして扱うテーマは時代に応じて変わってゆく。ただそれだけのことなのです。
「雑誌化」についての私なりの答えはこうです。「新書は器としてはもともと雑誌的なもの。それが今また思い出されてきた。雑誌化、大いに結構じゃないですか」。

 3月刊もまた「雑誌的」なラインアップになったと言えるかもしれません。
 特に『新聞社―破綻したビジネスモデル―』(河内孝著)にはご注目を。全国紙の営業担当常務まで務めた著者が、「新聞が決して報じない新聞危機の実態」を明らかにし、ビジネスとしての新聞事業の限界と未来を分析します。おそらく新聞の書評に出ることはないと思われますので、書店で現物を見ていただければ幸いです。

2007/03