新潮新書

「侍ハードラー」の心意気

今年もまたスポーツを楽しむ季節がやってきました。この連休は天気にも恵まれ、久しぶりに身体を動かしたという方も多かったのではないでしょうか。私はもっぱらテレビ観戦だけでしたが、連休初日のヤンキースVS.レッドソックス戦(松井・松坂初対決)をはじめ、日米の野球を大いに堪能いたしました。『不動心』を刊行した編集部としては、松井選手の2000本安打達成も嬉しいニュースでした。
そしてもう一つ、私たちが固唾をのんで注目していたのが、5月5日に行われた陸上の国際グランプリ大阪大会。この大会では、400mハードルの為末大選手が、1年9カ月ぶりにハードル競技に出場することになっていたからです。結果は日本人最高のタイムで、アメリカの2選手に続く第3位。今夏、同じ長居陸上競技場で開かれる世界選手権(世界陸上)での活躍を予感させてくれる、堂々たる走りでした。
応援に力が入ったのは言うまでもありません。為末選手も間もなく新潮新書の著者としてご登場いただくからです。今月刊の『日本人の足を速くする』がそれです。
これまでにもスポーツに関する新書は少なくありませんが、現役の陸上選手が陸上競技について書いた本となると、おそらく新書初ではないでしょうか。
為末選手は1978年生まれで今年29歳。中学時代は短距離で中学記録を塗り替え、高校時代は400mと400mハードルでジュニア記録を更新し、二冠を達成。法政大学に進んでから400mハードルに専念し、シドニー五輪とアテネ五輪にも出場しています。
彼の走りが脚光を浴びたのは、何と言っても2001年のエドモントン(カナダ)世界選手権でしょう。この大会で見事に銅メダルを獲得し、陸上トラック競技で初の日本人メダリストとなりました。2005年のヘルシンキ世界選手権でも二度目の銅メダルを獲得し、現在、世界レベルで戦える数少ない日本人選手の一人です。スタートから思い切りよく飛ばすレースぶりから、「侍ハードラー」の異名もあります。
身長170センチ、体重66キロというのは、日本人としても決して大きな方ではありませんし、足が長く全身がバネのような黒人選手と比べれば、体格的には圧倒的なハンデがあるように思えます。しかし、それでもなぜ世界の強豪と伍していけるのか――。
本書をひと言で言えば、その秘密が明かされた本ということになるでしょうか。詳細はぜひ読んでいただくとして、ご注目いただきたいのは、彼の陸上競技に対する姿勢、異色とも言うべき選手生活のスタイルです。
まず、為末選手には専属のコーチがいません。学生時代から、自分でトレーニングを考え、試行錯誤しながらやってきました。為末選手は「その試行錯誤こそが楽しい」と言います。日々変化している自分の肉体と向き合い、その時点での自分に最も適した走法やトレーニングを考え、「昨日より速い自分」を目指す。「自分をプログラミングしていくという、こんなに“おいしい部分”を人任せにするなんて考えられない」と言い切る姿は、さながら「自分の肉体」を対象に実験・研究を続ける科学者のようです。
また、「あらゆるリスクを自ら引き受ける覚悟」を持つ彼からすれば当然の帰結かもしれませんが、為末選手は日本の陸上選手では珍しい「プロ選手」でもあります。大学卒業後、いったんは大阪ガスに就職し、いわゆる「実業団選手」になりますが、欧州グランプリを転戦し、レースの賞金だけで稼ぐトップ・アスリートたちを目の当たりにし、「勝っても負けても生活が保障されているようでは、彼らには永遠に勝てない。同じ土俵に上がらなければ」と痛感。入社2年目に辞めてしまったのです。今はレース賞金と、APF(アジアパートナーシップファンド)のスポンサードを受けながら、勝ち負けによって報酬が変わる「プロ」生活を送っています。
いわば「科学者」にして「勝負師」でもある陸上選手――。その彼が考え出した“奇策”が、1年以上にわたる「ハードルの封印」だったわけです。狙いはスピードの強化にあったようですが、いくら自分なりに到達した理論とはいえ、相当なバクチですから不安もあったことでしょう。しかし、まずは結果は吉と出ました。5日の大会の感触は自らのHP(http://tamesue.jp)にもアップされていますので、覗いてみてください。
為末選手の魅力は、「限界を可能性に変える」その独特の思考法にあるように思います。黒人選手の肉体を前にすれば、誰しも圧倒されます。「自分にもあんな身体があれば」と思ってしまう。しかし、為末選手はそんな無い物ねだりは考えません。日本人は確かに体格でも筋肉でも劣る。けれども、日本人には日本人に合ったトレーニング法や身体の使い方があるはず。日本人としての肉体、自分に与えられた身体を最大限生かすには、どうしたらいいか――。そう考えて、工夫を重ねながら、技を高めていくのです。
現実を見据えた楽観主義とでも言うのでしょうか。その心意気には大いに勇気づけられますし、「限られた資源」で世界と渡り合うべく試行錯誤を続ける姿は、日本の職人気質や日本人そのものを見るような思いがします。そして、「日本人は練習方法次第で誰でもまだ速くなる。速く走ればスポーツが変わるし、日本が変わる」という言葉を信じてみたくなるのです。
陸上競技という「一発勝負」ならではのテンションの上げ方や、400m10台のハードルを163歩で走り抜ける緻密なレース運びなど、現役選手ならではの秘話も満載。陸上競技を見る目が大きく変わること請け合いです。「日本人の足を速くする男」の熱のこもった一冊を、ぜひご一読ください。