新潮新書

今月の編集長便り 毎月10日のメルマガで配信さている「編集長から」を「今月の編集長便り」として再録しました。こんなことを考えながら日々仕事しています。

無い物ねだり

 今の体型からは誰も信じてくれませんが、これでも若い頃はスポーツは得意な方でした。中学時代は短距離の選手でしたし、運動神経もよかったと思います。おかげで仕事に就いてからも、体力にだけは自信がありました。少々荷が重い仕事でも、「徹夜すればなんとかなる」と思ってやってきました。
 ところが最近、その自信がガラガラと崩れつつあります。40代半ばにさしかかり、目に見えて身体にガタが来始めたのです。
 ちょっとした捻挫がなかなか治らない。無理な姿勢をするとすぐに筋肉がつってしまう。徹夜などとてもできないし、無茶な飲み方もできなくなってきた。健康診断では「要観察」「要精検」が5項目以上。身体のあちこちが変調を来し、きしみ始めている感じ……。
 日頃の運動不足と不摂生のせいだろうと言われればそれまでですが、なまじ体力には自信(過信?)があっただけに、とまどいとショックはけっこう大きいものがあります。
 もちろん冷静に考えれば、個体としての寿命は折り返し地点を過ぎた訳ですから、あちこちにガタが来るのも当たり前です。自分の肉体のピーク時を基準に考えるのは、そもそも無い物ねだりというもの。これからは、だましだまし使いながら、「持続可能な身体」を少しでも維持していくしかないのです。
 しかし、そんな当たり前のことになかなか向き合えない自分がいるのも事実。「自分の身体はずっと変わらない(はず)」という無意識の思い込みから、まだ逃れることができない。その死生観の未熟さ、覚悟の無さは、我ながら恥ずかしい限りです。

 我が身の恥をついさらけ出してしまったのは、今月刊の『医療の限界』(小松秀樹著)に触発されたからです。著者の小松氏は虎の門病院の泌尿器科部長として医療現場の最前線に立つ一方、昨年『医療崩壊―「立ち去り型サボタージュ」とは何か―』(朝日新聞社刊)を世に問い、日本の医療を取り巻く危機的状況についていち早く問題提起した方です。『医療崩壊』は医師の立場から法制度の問題点などを鋭く指摘し、話題を呼びましたが、本書はそこからさらに深く掘り下げ、「医療と司法の思想の違い」「市場原理と医療」「死生観と医療の不確実性」など、より本質的なところから医療を考える内容になっています。
 日本の医療をめぐる最大の問題点は何か。それは「医療とは本来、不確実なものである」という当たり前のことについて、患者と医師の認識に大きなズレが生じていることだと小松氏は指摘します。患者は「現代医学は万能であり、医療は100%の安全が保障されなければならないし、過誤はあってはならない」と考える。これに対して医師は「人間の身体は複雑で個人差もあるから、医学は常に発展途上のものであり、限界がある。医療行為は基本的に危険なものである」と考える。医師は「人はいつか必ず死ぬ。どんな優秀な医師でも人間本来の寿命を延ばすことはできない」と思っているが、今の日本人のほとんどは「死」を意識のかなたに追いやっているのではないか。死生観を忘れた「安心・安全神話」が社会を覆っているのではないか――というのです。
 ある意味では「耳に痛い」本です。反発を覚える向きもあるかもしれません。しかし私は、身に覚えのある指摘も多く、深く頷きながら読みました。現代文明が抱え込んでしまった「病」を炙り出した文明論としても読める一冊だと思います。

 医療や教育など、いま「危機」が叫ばれる問題は、どこか原因に共通点があるような気がしてなりません。病院ではいつの頃からか「患者様」という表記が多数派になりました。学校ではさすがに「生徒様」とは言いませんが、教師たちは生徒や保護者に対してどこか腰が引けています。患者も生徒も保護者も、いつの間にか「消費者」になってしまったのです。医療や教育がただの「サービス」になってしまった。そして、とどまることを知らないサービスへの要求、無い物ねだりが続いているのが現状ではないでしょうか。
 学校における「いじめ」の問題も、状況がなかなか改善しないのは、「いじめは根絶できる」という現実離れした無い物ねだりの幻想があるからです。今月刊の『いじめの構造』(森口朗著)では、そんな「妄言」を一蹴し、「いじめは根絶できない」という現実を前提に、今の「いじめ」の構造を丁寧に解き明かしながら、解決策を提示します。世の「いじめ論議」の何が間違っているのか。教室を蝕んでいる「スクールカースト」とは何か。根絶しなくても、子供たちをいじめから守る方法とは――。『授業の復権』『戦後教育で失われたもの』で注目を集めた著者が、いじめ問題に正面から切り込みます。これまでにまったくなかったアプローチであり、おそらくこの問題を考える上での基本図書となるであろう、力の入った一冊です。ぜひご一読ください。

 ――とまあ、この場で「ぜひご一読を」と書いてそのまま読んでいただけるのであれば、私たちも苦労はしません。「買ってください」と言わずに、いかにものを売るか。その知恵の集積が「マーケティング」というわけですが、今月刊の『売れないのは誰のせい?―最新マーケティング入門―』(山本直人著)は、ともすれば無い物ねだりな議論になりがちなマーケティングの世界を、地に足を着けながら道案内します。前著『話せぬ若手と聞けない上司』で見せた実例豊富な柔らかい筆さばきも健在。第4章の広告論は特に勉強になります。すべてのビジネスマン必読です(また言ってしまった)。
 最後にもう一冊。新潮新書初の政治家の著作となった麻生太郎氏の『とてつもない日本』。発売前から話題になり、大きな反響を呼んでいますので、ここでは多くは触れませんが、麻生氏による「考えるヒント」として読んでいただければと思います。
 とかく今は「いたずらに世を憂える議論」が幅をきかすご時世。過度な悲観論の根っこには、やはり無い物ねだりの発想があるような気がしてなりません。「眉間に皺を寄せずに柔らかい頭で読んで欲しい」と語る麻生氏は、そうした悲観論とは無縁。歯に衣着せぬ物言いやマンガオタクといった側面ばかりが伝えられますが、その考えを貫いているのは「大人のおおらかさ」だと思います。
 麻生氏の後書きから。
「あまり目の前のことに一喜一憂して落ち込んだりくさったりぜずに、一緒に『元気な日本』を作って行こうじゃありませんか」

2007/06