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決定版 三島由紀夫全集 補巻 補遺・索引 他

三島由紀夫/著

6,380円(税込)

発売日:2005/12/28

  • 書籍

新発見、未発表作品を完全収録する決定版全集!

全集刊行中に多数の新原稿が発見された。多くは初期のものだが、それだけに三島文学の根幹に深く関わっている。十代の小説「冬山」「神官」、変名小説「愛の処刑」、細密な生活記録「会計日記」等。

書誌情報

読み仮名 ケッテイバンミシマユキオゼンシュウホカンホイサクインホカ
シリーズ名 全集・著作集
全集双書名 決定版 三島由紀夫全集
発行形態 書籍
判型 四六判
頁数 906ページ
ISBN 978-4-10-642583-7
C-CODE 0391
ジャンル 全集・選書
定価 6,380円

書評

波 2006年5月号より 『全集』の完結によせて 『決定版 三島由紀夫全集』

平野啓一郎

 世紀の変わり目を目前に控えた二千年十一月、作者の没後三十周年という重要な節目を第一回配本月とし、文壇のみならず、広く世間の耳目を集めて刊行が開始された『決定版 三島由紀夫全集』は、五年半という歳月を経て、この二千六年四月末にいよいよ完結するに至った。当初は全四十二巻が予定されていたが、未発表原稿、新資料等の発見が相次ぎ――その都度、新聞紙面を賑わせたが――、最終的には、補巻・別巻をそれぞれ一巻ずつ加えた計四十四巻という体裁となった。
この充実した成果は、一種特権的な光彩を放っているように見える。その規模において、これは、新潮社の近年の全集刊行事業の中でも抜きん出ている。そして、規模を可能とする現実とは、その質であるに外ならない。参考までに、次いで巻の多いのが、『安部公房全集』の全二十九巻・別巻一で、他は『小林秀雄全集』が全十四巻・別巻二、『瀬戸内寂聴全集』が全二十巻、『辻邦生全集』がやはり全二十巻となっている。
この量的達成に立ち籠める熱気は、われわれが、悲願というものについて知っている類のそれである。三島の全集が、今この時に、改めて編集されるということ。それは絶対に、最後の、まさしく決定的な出来事でなければならない。そうした強い思いを、読者、版権者、出版社という三者が一致して抱き得たという幸福が、この慶賀すべき達成の意味である。同時にこれが、僅か四十五年という短い生涯の間に、かくも多くの作品を残し得た作者自身の創作の熱気であることは言うまでもあるまい。
多くの注目が集まり、商業的にも成功したプロジェクトだったが、これと響き合うかのように、その間、三島を巡っては様々な動きが見られた。
近いところでは、行定勲監督による『春の雪』、田中千世子監督による『みやび〜三島由紀夫』という、まったくアプローチの異なる二本の映画作品がほぼ同時に公開され、三島文学、あるいは三島本人に対して、改めて巷間の関心が高まった。
ライブドア事件に際しては、俄かに『青の時代』が脚光を浴び、拝金主義のニヒリストという作者の造型した一つのタイプが、時代の表徴として復活し、議論を呼んだ。
大江健三郎氏は、『さようなら、私の本よ!』において、あの時、死なずに延命した「ミシマ」が、出獄後、もう一度、クーデターを起こしたならばという、これまで不思議と誰も考えてみなかった特異な仮定で人々を驚かせ、「ミシマ」的なるものの再来の可能性について、鋭利な批評的観点から問題を提起した。これは、三島という存在が、三十年という不在の後に、ある種の強度とともに蘇生し、社会へと再浸透してゆきつつある状況に対する、最も早く、最も深い洞察として強い印象を残した。
こうした一連の出来事の中で、その嚆矢とすべきが、冒頭に記した三島没後三十周年の反響の大きさであった。
三十年という時間の長さは独特である。それは、故人を知る者の何割かが死に、何割かが残り、彼をまったく知らぬ者が生まれ、その最初の者たちが彼について何事かを語り得る年齢に達するという時間である。
三島の場合、他の作家とは違い、その「没後」という時間の数え方に、決して曖昧ではない、はっきりとした意味があった。
人は、三島の生について語る時、必ずその生誕の偶然に触れる。彼の生きた年数は、正確に昭和という時代の経過と一致している。彼という一個の人間の内部で、絶え間ない心拍によって刻まれ、活発な血の巡りと共に流れた時間は、常に昭和という元号によって計られていた。彼は、成長と老化という生物学的な現実を通じて、昭和と有機的に結び合い、分かち難く融け合っていた。生命が即ち時計であり、時計が即ち生命であった。そうした存在としてこそ、彼は天皇との間に一つの紐帯を認め、それを信じていたのではなかったか。
三島が終生拘り続けた肉体とは、この事実の実体化に外ならなかった。
多くの者が、敗戦を機に転向を表明した時、彼は決してそれを肯んぜなかった。彼に断絶がなかったのは、彼の肉体が、昭和という時間とともに、加算的に連続していたからである。良い歴史があり、悪い歴史があるのだと人は言う。そうして人は、選択的に良い歴史とだけ、つきあい得るものだと極穏当に考える。しかし、三島には、そうしたことがどうしても信じられなかった。いかにしばしば、彼は戦前の自分との連続性を強調したことであろう! 彼が肉体を鍛えた時、同時に鍛えられるべきは、昭和という時代のはずであった。精神とは、肉体の秘密めいた入口であり、晴れやかな出口である。少なくとも、彼はそれを疑わなかった。彼の精神というようなものはない。それは何時でも、時代の精神である。そして、その肉体の鍛錬が、ついに時代の鍛錬とはなり得ないと知った時、彼に残された道は、時代に変わるようにと詰め寄るか、自らを裁して、その失敗を刻するかのいずれかに一つであった。
三島の死は、端的に言えば時代の歩みとの同調の放棄であり、関係の清算である。彼は自らの肉体を破壊し、その血の循環を止めて、彼に流れる昭和という時間を止めた。見ようによっては、確かにそれは失敗した時代との無理心中だった。
彼の死後、昭和という時間は継続し、やがて平成を迎えて今に至る。それは、彼が共に在ることを止めた時間として、われわれに差し出されている。その峻拒され、遺棄された時の始まりから数えて、丁度三十年だった。その節目の時に、三島はふたたび、全集という形式を通じて語り出したのである。
なるほど三島は、肉体の不可分の一個性、一回性を信じ、それが主体の一貫性を確約すると信じていた。彼は、内面と外面との乖離を否定し、認識が行動と直結することを目論み、思想が人生と過不足なく一致することを断じて主張した。意識と無意識とは区別されてはならず、思考は体験に根差すべきで、現在は過去と決して切り離すことの出来ない重々しい事実だった。
三島における究極の自己否定は、その生涯を貫いたこうした全的な自己肯定と表裏をなしている。人はそれをナルシシズムと呼んだが、ナルシスとは、死に至るまで自己と向かい合い、その循環を死により断ち切るより他はなかった若い命ではなかったか。
今ここに、具体的な物として、四十四巻という圧倒的な質量と共に顕現した全集は、一巻につき一キロ強ほどの重さを積み重ね、図らずも、恐らくは三島本人の肉体と同程度であろう、六十キロほどの重さを備えるに至った。
この生々しい偶然は、暗示的である。
われわれが、この全集を掲げる時、それが書架を圧する重みは、そのまま、三島の肉体の重みである。三島のあらゆる言葉は、この時正確に三島の肉体と釣り合い、作家は作品と一致し、作品そのものとなり、物的に、ふたたびこの世界に回帰する。新たな生は、耐久し、持続する。世界はそのために、かつて彼に与えた、ただ一つの儚い肉体という場所に代え、無数の場所を至るところに許すに至った。
もしこの全集が、彼の言葉の肉体であるのならば、われわれは、その中から、完成された言葉と、未完の言葉とを選り分けることはすまい。
人は三島の完璧主義を知っている。そして、彼としては、ただその十全に仕上げられた傑作の数々を以てのみ、評価せられることを期したであろうと考える。しかし、本当にそうだろうか? 三島が自決前に行った、入念過ぎるほどの準備は、翻って手つかずのままに遺された領域に一つの意味を与える。もし彼が、本気で創作ノートや未完成稿を処分したいと望んでいたのであれば、それが可能であったことは疑いを容れない。事実は恐らくこうである。彼は、発表作を芸術家としての自らの仕事として遺しながら、潔くも人目から遠ざけていたはずの創作ノートや未完成稿の類が、後世の人の好奇心によって、いわばひとりの人間の記録として白日の下に曝されることを期待していた。それらの孤独で地道な思索のあとは、ただそうした永遠に隠されたままであるはずだったという資格においてのみ、発表され得る言葉の群である。丁度カフカが、恐らくは、親友の裏切りを信じて、自らの作品が、処刑宣告をされたまま、何時までも遅延され続けるその執行のために、亡霊のようにして存在することを密かに願っていたであろうように。そして、その分け隔てのない全体こそが、われわれに今知られるべき三島である。
この新しい全集によって、三島は現在を得、未来を得た。開示された情報は、不完全な三島像を補完したと言うより、その全体を明らかに刷新した。あるいはこうも言えるかもしれない。この全集は、中世の神学議論が神の背後に神性を発見したように、三島という表徴の彼方に、更に広い裾野を開いた。それは今、ようやくわれわれの目に触れたばかりである。
刊行開始当初、表記に関して、これが所謂新字体を採用していることに批判的な意見もあったが、恐らくこの全集が読まれるべきは、そうした読者ではあるまい。彼らの欲求は、旧版の全集が、十分に満たしてくれる。三島は今、過去において確定されるべく再来したのではない。その言葉は、ただ今この瞬間より後に聴かれるためにだけ、改めて発せられたのである。
われわれは、全集を通じて、三島由紀夫と再会した。その肉声は、彼が離別し、われわれが依然として住み続けているこの時間の内側から、傾けられた耳に対して、意外に親しげに語りかけようとしているのかもしれない。

(ひらの・けいいちろう 作家)

著者プロフィール

三島由紀夫

ミシマ・ユキオ

(1925-1970)東京生れ。本名、平岡公威(きみたけ)。1947(昭和22)年東大法学部を卒業後、大蔵省に勤務するも9ヶ月で退職、執筆生活に入る。1949年、最初の書き下ろし長編『仮面の告白』を刊行、作家としての地位を確立。主な著書に、1954年『潮騒』(新潮社文学賞)、1956年『金閣寺』(読売文学賞)、1965年『サド侯爵夫人』(芸術祭賞)等。1970年11月25日、『豊饒の海』第四巻「天人五衰」の最終回原稿を書き上げた後、自衛隊市ヶ谷駐屯地で自決。ミシマ文学は諸外国語に翻訳され、全世界で愛読される。

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