新潮新書

今月の編集長便り 毎月10日のメルマガで配信さている「編集長から」を「今月の編集長便り」として再録しました。こんなことを考えながら日々仕事しています。

親の責任

 長崎の幼児殺害事件、東京の小学生監禁事件と、このところ少年少女が当事者となるような事件が続いています。小学生の息子2人を持つ身としては、とても他人事ではありません。切実な思いで日々の報道に接しています。
 特に長崎の事件は衝撃でした。被害者、加害者、両方の親の立場が想像できるだけに、複雑な思いでいろいろと考えさせられました。

 少年犯罪の理不尽さは、被害者側がどれだけ拳を振り上げても、その怒りの持って行きどころがないことです。駿君のご両親の気持ちが、痛いほどわかります。対象年齢を引き下げようが、手続きを多少変えようが、今の少年法が孕む根本的な問題点は何も解決されていない。異論を承知であえて書きますが、ポイントは二つあると思います。まず最大の問題は、「罪を犯した者には罰を与える」という原則が守られていないこと。被害者側からすれば、犯人が少年だろうが精神異常者だろうが、そんなことは関係ない。「罪を憎んで人を憎まず」というなら、どんな人間がやったかにかかわらず、罪の重さで同じように罰を与えるべきだと私は思います。それがフェアというものです。もちろん「更生」という考え方を否定するものではありませんが、自分の犯した罪の重さを背負ってこそ、初めて真の更生につながるのではないでしょうか。
 少年法のもう一つの欠陥は、「事実認定」がないがしろにされるということです。その顕著な例は、結局は殺人事件があったことまでうやむやにされた「山形マット死事件」のケースでしょう。こうした少年法の本質的な問題点を掘り下げた新書として、『少年法を問い直す』(黒沼克史著、講談社現代新書)を挙げておきたいと思います。少年法が改正される前に書かれたものですが、少年事件、少年法を考えるにあたって必読すべき労作です。少年犯罪報道の有りように迫った『少年犯罪実名報道』(高山文彦著、文春新書)と併せて、この機会に是非お読みいただければと思います。

 けれども、今回の長崎の事件は、少年法云々といった法的な問題とは別に、もっと普遍的なテーマを突きつけているような気がしてなりません。それは、「子供を育てる」ということの重さです。鴻池祥肇大臣の発言が批判されましたが、確かに言い方には問題があるとしても、その意図としては「親の責任」というごく当たり前のことを指摘した発言であると私は思います。加害者の少年の両親が社会的に追いつめられてしまうのは行き過ぎだと思いますが、しかしやはり事件の責任は親にある。特に少年法が存在する以上、責任はその親しか負えないのです。
 だからどうすべきだ、などと言いたいのではありません。そんなことよりも、私は一人の親として、我が身を振り返らずにはいられませんでした。少年の家庭、日常の暮らしが明かされるに従い、浮かんだのはただ一つ、「ならば俺はきちんと父親の役割を果たしているか」ということでした。
「父親の不在」と言われれば、私もとても人様のことを言う資格などありません。毎日帰りは遅い。平日は子供と食事をすることはない。休みの日には、ゴロゴロ寝ているか、野球を見ているだけ。そういえば、社会のこと、仕事のこと、生き方のことを、きちんと話したことがあっただろうか……。
 最近読んだ藤原正彦さんの『祖国とは国語』(講談社)という本の中で、藤原さんがお父さん(作家の新田次郎氏)から受けた教育の話が出てきます。その中で感銘を受けたのは、新田氏がいつも「卑怯なことはするな」と言い続けていた、というくだりでした。「大きい者が小さい者をなぐるのは卑怯だ」「大勢で一人をやっつけるのはこの上ない卑怯だ」「見て見ぬふりをするのは卑怯だ」。押しつけといわれようが、父親が子供に大事な価値観を教える。その姿勢を藤原さん自身も貫いているそうで、「父親とは、死んでから感謝されるべきもの」と結んでいます。
 そんな立派なことはできないにしても、親として最低限やらなければならないことはあるはずです。ひとたび親となった以上は果たすべき役割と責任がある。いろいろな事件が起こるたびに、「社会が病んでいる」「テレビやゲームがよくない」と犯人探しが始まりますが、そんなことを言ったところで、ほとんど意味がない。社会の基本的な構成単位は「親子」です。それぞれの親が、親としての責任を自覚することしか、解決方法はないのではないでしょうか。もちろん、子供は別人格であり、親の思うようにいかないのは世の常です。子供の人生も山あり谷ありでしょう。しかし、その全てを引き受ける覚悟が親には必要なのだと思います。
 私たちは子供の頃、「人から後ろ指をさされるようなことはするな」「そんなことをすれば、世間様に申し訳が立たない」と親から言われて育ったはずです。それがまっとうな庶民の感覚であり、常識というものです。今こそ、その「常識」に立ち返っていくべきだという気がしてなりません。

 こんなご時世だからこそ、6月に刊行した『山本周五郎のことば』(清原康正著)を是非読んでいただきたいと思います。「どんなに賢くっても、にんげん自分の背中を見ることはできないんだからね」「生きているものは、一日だって同じじゃあない、いつも新しく伸びるし、育っているんだ」「人間はみな同じような状態にいるんだ、まぬがれることのできない、生と死のあいだで、そのぎりぎりのところで生きているんだ」――人間という存在の本質を突く言葉の数々に、胸を突かれます。そして7月の新刊の中では、『安楽死のできる国』(三井美奈著)もお薦めです。世界で唯一合法化されたオランダの「安楽死法」を通して、人間の生と死の問題に迫ります。

2003/07