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今月の編集長便り 毎月10日のメルマガで配信さている「編集長から」を「今月の編集長便り」として再録しました。こんなことを考えながら日々仕事しています。

忘れてはいけない

 これでは「木を見て森を見ず」どころか、「木も見ず森も見ず」ではないか――。7月20日未明に熊本県水俣市で起きた土石流災害。その報道を見ながら、私はもどかしい思いにかられていました。最も被害の大きかった宝川内地区の映像が繰り返し流れ、「なぜ避難勧告が遅れたのか」などといろんな解説がなされる。しかし、どうして誰もあの映像に映っている「木」について触れないのか……。
 崩れ落ちた山の映像を見たときに、私が最初に思ったのは「ここもやっぱりスギ、ヒノキ林か」ということでした。目に焼きつくほどの鮮やかな緑は、一見、豊かな森を連想させます。しかし、あの整然と並んだ針葉樹の姿は、明らかに戦後つくられた人工林であることを物語っています。スギ、ヒノキの人工林は、間伐などの手入れをしないと保水力が落ちてしまう。崩れた山が民有林なのか国有林なのか判らないけれども、きちんと手入れがなされていたのだろうか。それがまず気になりました。
 実は私が生まれ育った町は鹿児島県北部にある菱刈町というところで、水俣市とはほとんど隣町といってもいい距離にあります(今回の豪雨では菱刈町でも2名が亡くなっています)。だから実感としてわかるのですが、あのあたりの山は戦後の林業行政によって、スギ、ヒノキの人工林への転換がなされました。ご存知のように、スギ、ヒノキなどの針葉樹林は、ただでさえ保水力が弱い。それが手入れもされず放置されたままだと、保水力はさらに下がります。今の木材価格では林業が成り立つはずもなく、担い手もおらず、山は放置されたまま、というのが現実ではないでしょうか。そしておそらく、人工林に関しては日本全国、同じような状況だと思います。

 これは戦後日本の林業政策、森林政策の失敗と言ってもいい。戦後の復興期、木材需要が増えるからと、国策としてスギ、ヒノキの植林をさせた。ところが、その舌の根も乾かぬうちに、1964年には木材輸入の完全解禁に踏み切ります。産業界の要請に答えたのでしょうが、当時は朝日新聞まで社説で「外材の輸入を急げ」などと煽っていたほどです。「国土の保全」をまったく考慮に入れないままの、森林政策の迷走。そのツケが今まわってきているのだという気がしてなりません。
 ならばどうすべきだったかと問われれば、実のところ私も判りません。外材輸入に踏み切らなければ、高度成長もなかったかもしれないし、家の値段ももっと高いままだったかもしれないのですから。
 ただ、ひとつだけ言えるのは、こうした「自分たちの歴史」を忘れてはいけない、ということです。歴史を知らなければ「現在」も見えてきません。いまや林業行政の戦後史に関心のある方は少ないでしょうが、今の日本の山の惨状も、過去の失政の結果、歴史の集積なのです。
 人間は忘れる生き物であり、かくいう私も昨日のことさえよく忘れます。しかし出版という仕事に携わる以上、「歴史を振り返る」という姿勢だけは持ち続けていきたいと思っています。

 7月刊の4点は、その意味ではいずれも「歴史」からのアプローチと言っていいかもしれません。『政党崩壊―永田町の失われた十年─』は日本政治の十年を振り返り、『昭和史発掘 幻の特務機関「ヤマ」』は正史からは消されてしまった謎の組織に迫ります。『安楽死のできる国』は安楽死法が実現するまでのオランダの模索を追い、『知らざあ言って聞かせやしょう─心に響く歌舞伎の名せりふ─』は、400年にわたって培われた歌舞伎のことばを活き活きと甦らせます。
 特に細川首相を教科書でしか知らないような若い方々には『政党崩壊─永田町の失われた十年─』を読んでいただきたいと思います。日本の政治家にとってのこの十年は「忘れて欲しいこと」だらけでしょうが、我々は忘れてはいけない。彼らが何をして、何をしなかったのか。それがくっきりと見えてくるはずです。
 8月20日発売の4点にも力作が揃いましたが、歴史ということでいえば、『高島易断を創った男』にご注目を。明治の大実業家にして、「高島易断」の開祖、そして伊藤博文の政策判断にまで影響を与えていた高島嘉右衛門。今では忘れられてしまったこの快男児の生涯をたどった傑作評伝です。ご期待ください。

2003/08